"朝鮮と日本"カテゴリーの記事一覧
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焚巣館 -後漢書東夷列伝 評語-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/chousenshi_chuugoku_shisho/gokanjotouiretsuden/08hyougo.htmlおしまい。ようやく開通って感じである。
前に訳したときにコメントで指摘があったけど、この評語の最初のあたりにある箕氏朝鮮の成立に関する中国中心主義的認識の記述の問題は今回訳していて前回より強く感じた。とはいえ、善悪を直ちに断ずる気はまったくしない。
三国史記では、箕子ではなく朴赫居世に朝鮮王朝の聖性を求めているけど、新羅本紀の最後に中国由来の神であるとして、それを正当性の根拠にしている。これに対して儒者の李奎報が三国史記を批判して作った詩『東明王篇』には、朝鮮が中国とは別に聖人の都だと証明しようと押し出して朱蒙を顕彰しているし、あるいは仏僧の一然は檀君の神話を描いて朝鮮の独立した神話を顕彰していた。
思うに、朝鮮には檀君と箕子の葛藤があると感じている。ただし、これらはいずれもナショナルプライドであって、両社を単純に対立関係や善悪是非といった弁別はできない。また、この容態はベトナムも日本も大小同じであるし、日本も複雑だと感じる。
なんか料理記事とか書きたい。
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焚巣館 -後漢書東夷列伝 倭-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/chousenshi_chuugoku_shisho/gokanjotouiretsuden/07wa.html本日の更新。注が6000字近い。「倭国王の帥升」と「桓帝と霊帝の年間」の注で3000字を超えている。
「倭国王の帥升」の方の注はこれまでブログでちらほら書いてきたことのまとめみたいな内容で、「桓帝と霊帝の年間」は過去のブログで書いた文章のコピペを編集した部分も含まれている。邪馬台国は私の中で今のところ畿内説でまとまりつつあるけど、今度は倭国王帥升が私の中で九州説(伊都国説)と畿内説(奈良県磯城説)に割れている! どっちにせよ安寧天皇説を提唱しているのだけれども。
実は二つ前の後漢書東夷列伝濊の「※20虎を祠に祭って神とする。」において、既に過去のブログ記事をコピペしたものを編集して記したりしている。
これまで、ホームページ上の注は自説の開陳をひそめて諸説の陳列に尽くし、自身の考察や自説はブログの方に主に書いてきたけど、別に私は公的な何かを編纂しているわけじゃないし、詳説なら専門書に勝てるわけないのだから、好きなように自説を注で開陳してもいいかなー、と思う。というより、最初の頃はそのように注を記すことが多かったのに、変に「まともに読む」ようになってから注も硬くなっていたように思う。最初に三国史記に注を付けた際の過去の記事では、ティーツー出版のヨッシーアイランド攻略本や『超アレ国志』、更には普段は糾弾している『封建主義者かく語りき』や『電波男』まで取り出して、好き勝手書いている感じの注を賞賛している。まあこのへんはおそらく古くは『悪魔の辞典』とかのノリで、そういうのをやる気はないのだけど。
後漢書東夷伝の訳し直しと注の追記は、ペースを決めて休まず毎日やろうとしていたので、どうしても日々の仕事に忙殺される私は手抜きが必要になる場面もあった(それでも一回は間に合わなかったし……)。その手抜きのひとつとして過去のブログ記事をコピペする方法を用いたわけだけど、個人的には良かったと思っている。どんなもんだろう。漢籍についてはブログの更新記事よりも、今後は注に入れられるものは最大限いろいろ入れていきたいなー、と思っている。
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焚巣館 -後漢書東夷列伝 三韓-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/chousenshi_chuugoku_shisho/gokanjotouiretsuden/06sankan.html本日の更新。魏志韓伝を要約したような内容で、スッキリとして読みやすいのだけど、魏志のような情報量はない。この点は次回の倭伝も同じ。
最初に訳したときには鉄の産出に目を奪われたし、実際この朝鮮南部の鉄は日本列島を含む今後の朝鮮周辺の国々に多大なる影響を及ぼしたことは間違いないと思われる。それと当時は辰韓=新羅という三国史記のニュアンスをそのまま受け取った読み取りをしていたけど、今読むと印象が違う。魏志韓伝には特記されていなかった百済が、南朝宋の時代に遡って編纂された後漢書で特記されているのは感慨深い。
さて、ここには『蘇塗』なるものを立てる風習が記されている。
大木を建て、鈴や
鼓 を懸け、鬼神に仕えるのだ。とあり、以前の記事で私はこれを
長栍 だとしていたのだけど、もしかしてこれ神社の鳥居と社頭の鈴じゃないか?さてはて、またしても東夷の倭人お得意の日鮮同祖論じみたキケンな妄想話になる。私が
長栍 を知ったきっかけは、AA_republicというIDでTwitterをしていた友人が私たちの一緒にみんなでつくっていた同人誌に、そういう内容の原稿が投稿されたからである。で、そこには長栍 には鳥竿 という鳥の載った鳥居のようなものがあり、これが日本の鳥居と通じるものだという仮説が載っていた。そして、これに本文の内容を加味すれば、『蘇塗』は
鳥竿 であり、日本の神社の鳥居や神社の原型のだと考えられるのだ。
さて、ここまでは割とオーソドックスな仮説といった感じだけど、ここから私は妄想を更に進めてゆく。
ところで、皆様方は日本に超古代文字らしき記号が存在していたことはご存じだろうか?
なんていうと、反射的にすーぐ都市伝説だー捏造だーとわめきたてるニセ科学バスターズが現れるけれども、そういう連中の姿はまことに自身の嫌う陰謀論や都市伝説のビリーバーとよく似ており、言葉の単語や一節だけに反応するのは、これも一種のビリーバーでしかない。もちろん私が想定しているのは神代文字だの阿比留文字ではなく、弥生時代の遺跡から出土した土器や銅鐸に記される「記号」である。ただし、これは「記号」であって「文字」とまでは言えない。それを以下に掲載する。
もう一度言っておくけど、あくまでこれから紹介するものは文字ではない。記号である。なので、過度な期待はしないでほしい。というわけで、以下が漢字以前に日本に存在した記号である。
……とまあ、こんなものである。「あくまで文字ではなく記号だ」と言われて「記号と文字の境界ってなんてあるの?」と思った人もいるかもしれないけど、これらの大半はさすがに文字と言うには『絵』でありすぎる。「記号」と「文字」の境界はあいまいだけど、「記号」と「絵」の境界もあいまいであり、「絵」と「文字」にはさすがに区別があると直感できるだろう。
ただ、最初の鹿なんかは割といいセンいってたんじゃないかという気もするし、最後の鳥なんて文字としてそのまま通用する出来栄えであろう。とはいえ、「文字として通用する記号」は文字ではない。あくまで文字は言語としての体系が必要であり、鳥だけイイ感じに文字にそのまま使えるような記号ができただけでは、それが文字になるわけではない。
そうは言っても、漢字渡来以前の日本にも結構な文化があって、文明の萌芽もあったのだとよくわかる証拠ではある。十分に文字へ発展する余地のありそうな記号だということは見ればわかって盛られるのではないか。中国のような抜きんでた超文明が隣接していただけで、日本にもなかなかに興味深い先史古代文化が存在していたのだ。
で、ここまでが前置き。ここからが本番なのだけど、実はこれらの絵や記号を解読していくと、どうにも弥生時代の日本には『鳥』というものが重大な存在と見られていたようである。先ほど見ていった記号の中でも鳥は極めて抽象化に成功している。鳥というものを頻繁に描き、概念として重大なものと確立必要があったと見ることができないだろうか。
それだけではない。先ほど掲載したものの中にも、鳥と関連する重大な証拠となるものが存在しているのだ。それが以下である。
先に上げた画像、実は鳥のシャーマンの絵である。下側の絵も、右側で大きく手を広げる人のように見えるものは、鳥のシャーマンである。手の下に扇状に広がっている網目のある何かは、鳥の羽を模した衣装だ。
上は鳥のシャーマンの絵が発掘された奈良県磯城郡田原本町の唐古・鍵遺跡の資料館に置かれた復元シャーマンである。鳥。なんで鳥の格好をしているかといえば、もちろん鳥を信仰していたからである。
さて、この鳥への信仰であるが、古事記や日本書紀にもその形跡が見られる。たとえば、神武天皇の物語である。九州からヤマトを征服しようと出発した神武天皇であったが、先にヤマトを支配していた登美饒速日命の配下にして義理の兄である鳥見彦に阻まれる。一度は敗北する神武天皇であったが、太陽神である天照大御神に遣わされた八咫烏の導きによって南東に回り込みつつ仲間を集め、再び鳥見彦に決戦を挑む。ここで天上の神である高皇産霊神が神武天皇に金のトビを遣わせて力を貸し、ついに神武天皇は鳥見彦に勝利し、登美饒速日命からヤマトを譲られるのであった。
というのが神武天皇が畿内を支配するに至るまでの大まかな流れであるが、要所要所で八咫烏金や金のトビ等、鳥が神武天皇に味方をして勝利する。金のトビは神武天皇のトレードマークである。
しかも、それだけではない。神武天皇側だけでなく、敵対陣営も鳥見彦であったりとか、登美(トビ)饒速日命であったりとか、鳥を思わせるような名が多い。同じ信仰を持った者同士の戦いだとか、あるいは「かつて神の加護が、かつてそれを受けていた一族から離れ、次の支配者に移った」等のようなストーリーラインを妄想することもできる。神武東征の物語に、なぜここまで鳥が関わっているのか? 実は先ほど挙げた唐古・鍵遺跡の所在地は奈良県磯城郡。この磯城郡とは、磯城氏という豪族が支配したとされる地である。そして、古事記の系図上では、二代天皇から七代天皇まではすべて皇后が磯城氏の女性なのだ。
これは偶然だろうか? 神武天皇の東征の記録は創作とされることも多いが、どこかから神武天皇のような人物が磯城氏に婿入りした……みたいな物語自体はあって、物語や登場人物に「鳥」の影が見えるのは、当時の鳥の信仰が物語に反映されているからかもしれない。そして、もしやこれが後の日本の神社の鳥居に繋がっていたりはしないだろうか?
で、ここから更に妄想が展開されるのだけど、こちらの記事で私は神武天皇がスサノオなのではないかと論証(妄想)した。そして、スサノオは新羅からの渡来神だとされている。もしかすると本文の『蘇塗』こそが、日本の神社の原型ではないか? そして、漢字以前の日本の記号文化や信仰には、韓の文化によるものが基調になっているのではないか……という私の妄想である。
では、なぜ韓伝にだけ蘇塗の記事があって倭国の記事にはないのか。これについては、気になる事実がある。実は、鳥の飾りをつけた木製の鳥居、つまり韓の鳥竿と同じ「蘇塗」は、それらしきものが九州などの遺跡で発掘されている。その頃のものは、奈良県では先に挙げた鳥や鳥シャーマンの記号などの記された土器なども発掘されている。しかし、ある時期からこれらはさっぱり姿を消し、その代わりに登場したのが古墳である。現存する日本最古の古墳群といえば、代表は纏向遺跡の古墳である。そして、そこは邪馬台国の卑弥呼の墓と目されており、纏向遺跡の古墳に眠るとされる代表的な人物といえば、十代崇神天皇とともに日本書紀で登場する倭迹迹日百襲姫、卑弥呼候補の一人とされる。
もしかすれば、卑弥呼の台頭の以前に蘇塗に代表される鳥信仰は日本列島で滅び、だからこそ、それ以前の天皇である神武天皇の記録に鳥の信仰が全面的に推されているのかもしれない。蘇塗から鳥は消えて『鳥居』という名前だけが残されたのだろうか? 私自身もこのあたりはしっかりした考えがあるわけではないので、今後とも妄想してみたい。
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焚巣館 -後漢書東夷列伝 夫餘国-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/chousenshi_chuugoku_shisho/gokanjotouiretsuden/01fuyo.html本日の更新。またしても東明神話に該当する部分である。
この扶余の東明建国神話が高句麗の建国神話と概ね同様のものであることは何度も触れているので、ひとまず置いておこう。しかし、扶余と高句麗ほどではないにせよ、この建国神話に似た類型の話は数多くみられる。前に訳した後漢書東夷列伝の序文には、注にも記した通り、徐の偃王には
「徐国の君主に仕える宮人が妊娠して卵を生み、不吉だからと川に捨てた。それを鵠蒼という名前の犬が拾ってきて、飼い主の独孤母という老婆に渡した。老婆が卵を温めてみると、中から幼児が生まれた。」
という逸話が残っている。いやあ、どこかで見たことがあるなあ……というわけで、今回の更新記事から引用。
かつて、北夷の索離国の王が外出すると、その側仕えの若者がその後に妊娠した。帰ってきた王は、その者を殺そうとしたが、側仕えの若者は言った。「先ほど、天上を見ていたら、ニワトリの卵くらいの大きさの気があって、私に向かって降りてきたのです。こうして、私は身ごもってしまいました。」その者を王は収監すると、その後ついに男を生んだ。王は豚小屋に置かせたが、豚が息を彼に吹きかけたので死ななかった。今度は馬小屋に移してみたが、馬も同じくそのようにした。こうして王は神だと考えるようになり、そこで母に言いつけて保護し養育させるようにして、東明と名付けた。
宮廷の人物が妊娠し、捨てられた子供を動物が保護する……とまあ、よく似ている。徐の偃王の方が古い人物で、伝承としても一応出典は古い書籍である。なので、徐偃王の逸話に影響されて扶余の神話も形成されたのだろうか? しかし、扶余の神話は「卵くらいの大きさの気」に妊娠させられたのであって、卵そのものを生んだのではない。なので、これだけみれば、扶余と高句麗ほどの一致とは程遠い。
では、たまたま似た部分があっただけだ考えた方がよいだろうか。私はそうとは思えない。なぜか。私の漢籍や朝鮮史についての記事を読んできた人ならご存じの通り、扶余を建国した東明ではなく、高句麗を建国した方の東明、つまり朱蒙は卵から生まれているからである。以下は三国史記の始祖東明聖王紀から。
この話をいぶかしく思った金蛙が柳花を一室に幽閉すると、日の光が差し込んできた。身を引いてそれを避けても、日の光は追いかけてきて彼女を照らし、遂に妊娠して五升ばかりの卵を生んだ。
王はその卵を棄てて犬や豚に与えたが、みな食べなかった。次に卵を路地の真ん中に棄ててみたが、牛も馬もそれを避けて通った。その次は野原に棄てることにしたが、鳥は翼でそれを覆い守った。終いには王は自らそれを割ろうとしたが、割ることができず、ついにそれを母親に還した。その母が卵を物で包んで暖かい場所に置くと、一人の男児が殼を破って出てきた。骨相は抜きんでて英邁、七歳ばかりになれば、常人と異なるほど嶷然とし、自ら弓矢を作って射れば、百発百中の腕前であった。扶餘の俗語では、弓矢が上手いことを朱蒙と呼んでいたので、そのように名付けられた。こちらは卵としての王子を動物が保護するエピソードである。とまあ、扶余を挟んで中国の徐偃王と高句麗王のエピソードが新たな一致を見せている。扶余の神話にない徐偃王のエピソードの要素が高句麗の神話には取り入れられているのだ。これは一体どういうことか。
更に、もちろんこちらも長らくブログの読者をされている皆様は(漢籍の記事を読み飛ばしてなければ!)ご存じの通り、三国史記において卵から生まれる王は一人ではない。では、もう一人の卵生神話の持ち主、新羅王の脱解王紀を見てみよう。
脫解尼師今が立った。〈一説には吐解と伝わる。〉この時、年齢は六十二歳、姓は昔で、妃は阿孝夫人である。もともと脫解は多婆那国で生まれた。その国は、倭国の東北一千里にある。もともとその国の王は、女国の王女を娶って妻としていたが、妊娠すること七年で大きな卵を生んだ。「人でありながら卵を生むのは、不吉の兆しだ。それを棄てよ。」と王は言ったが、その娘は忍びなく思い、帛きぬで卵を覆って宝物と一緒に櫝(ひつぎ)の中に隠し置き、海に浮かべてその往くところに任せた。最初は金官国の海辺に辿り着いたが、金官人はこれを怪んで取らず、今度は辰韓の阿珍浦口まで辿り着いた。これは始祖の赫居世の在位三十九年のことである。
この時、海辺の老母が縄で海岸から櫝(ひつぎ)を引き繫ぎ、それを開いて中を見てみると、なんと一人の小さな乳飲み子がいるではないか。その母は、これを取って養った。王宮の女性が卵を生み、それを「不吉だ」ということで水際に捨てると、老婆が拾って生まれた子供を養う……という流れが一致している。実は、こちらの方が扶余王の神話や高句麗の神話よりも似ているかもしれない。ちなみに、この神話は「倭国の東北一千里にある」「多婆那国」の話である。つまり日本列島の話である。もちろん、これは朝鮮で言い伝えられた神話ではあろうが、舞台は日本なのだ。
このように、単純に扶余の神話が高句麗に引き継がれているだけではなく、実は扶余、高句麗、更には新羅、しかも日本を舞台にした神話にまで、徐偃王のエピソードがそれぞれ分散して伝わっている可能性が存在している。これは単純に徐偃王→扶余東明王→高句麗朱蒙→新羅脱解という神話の変遷だとは説明できないが、かといって偶然の一致とも断じ難い。仮に偶然なら、どのような偶然が起こったのか知りたいところである。
どのようにしてこれらの神話が形成されたのか、まことに想像力を掻き立てられる内容である。いやあ、ロマンがあるねえ。
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日本神話の皇祖神に列なる系譜に山幸彦と海幸彦という兄弟神がいる。これは現在の九州宮崎県の神話とされており、古事記や日本書紀では、天上世界の高天原から天照大御神の孫の瓊瓊杵尊が地上の葦原中国(日本)に降臨した後、その息子二人として物語に登場する。さて、その物語はどんなものだったのだろうか。
兄の海幸彦の本名は「ホデリ」といい、釣りの名人で海に出れば毎日大漁、ゆえに海幸彦と呼ばれるようになった。弟の山幸彦の本名は「ホデミ」といい、狩りの名人で山に行けば毎日大猟、ゆえにこれまた山幸彦と呼ばれるようになった。
ところが、ある時から山幸彦は毎日の狩りに飽きてしまい、毎日釣りをしている兄が羨ましくなってきた。そこで海幸彦に「一度、お互いの道具を交換して、仕事先も山と海とを入れ替えてみようじゃないか」と提案した。ところが、海幸彦は、「俺の釣り針は神の力を宿したものだ。たとえ弟でも貸すことはできない。」と言って提案を拒否した。
しかし、もはや山幸彦の頭の中は釣りのことでいっぱいである。やだやだ貸して貸してと駄々をこね、何度も何度もしつこく兄に頼み込んだ。こうして、とうとう海幸彦も折れてしまい、それぞれの道具を交換して、次の日には海幸彦は弟の弓矢を持って山に行き、山幸彦は兄の釣り具を持って海に行くことにした。
さて、海に行った山幸彦であったが、慣れない釣りに四苦八苦するばかり。ちっとも魚が釣れやしない。これは山に行った海幸彦も同じで、弓を撃っても獲物にまったく当たらなかった。結局、それぞれなんの成果もないまま家に帰ることになったのである。
「やあ、山幸彦。魚は釣れたかい?」
落ち込んだ様子で首を横に振る弟を見た海幸彦は、「お前にも"おのがさちさち(自分の得意なこと)"、私にも"おのがさちさち(自分の得意なこと)"がある。それぞれの得意なことを交換してもうまくいかないのは当たり前だ。明日からは元通り、私が海に、お前が山に行こうじゃないか。」と慰めた。
さて、ここで終わっていれば、ごくごく一般的な教訓話である。古代であれば、職分が固定された世襲身分制を擁護するための寓話とも読めるが、得意なことと苦手なことをしっかりと自覚すべきだという教訓自体は、現代においても通じることだろう。ところが、この兄妹の話はここで終わらなかった。
「実は……釣りの最中、兄さんの釣り針を海に落として失くしちゃったんだ。」
海幸彦の釣り針は神の力を宿したもので、これがなければ釣りの実力も半減してしまう。先ほどまでやさしかった海幸彦も、これには激怒した。
「お前、あれだけ注意したのに大事な釣り針を失くすとはどういうことだ! さっさと探して俺の釣り針を返せ! 返すまでお前とは絶交だ!」
釣りを少しでもやったことのある人はわかると思うけど、そもそも釣り針というものは上手かろうと釣りをしていれば何度かは失くすものである。失くしてはならない釣り針とは、どういうものだったのだろうか? よくわからないけど、話を続けよう。
当然、海に落とした釣り針なんて探そうにも探すことはできない。山幸彦は自分の持っていた貴重な鉄の剣を砕いて釣り針を1000個つくって差し出したが、それでも海幸彦は山幸彦を許さなかった。
家に居づらくなって失くした釣り針を求めて海岸に行った山幸彦だったが、目の前に広がるのは無限の海である。途方に暮れ、そこで座り込んだまま、どこに行くこともできなくなってしまった。そこに現れたのが塩土老翁(シオヅチノオジ)という海の神様である。彼は父親の友人だった。山幸彦は彼に事の次第を伝えた。
「そうか、それなら海の世界にお前を導いてやろう。」
こうして、山幸彦は海の世界に行くことになった。
海の中には美しい世界が広がっており、底には大きな宮殿が建っていた。その中には豊玉姫という美しい女性がおり、山幸彦は彼女に一目ぼれ、逆に豊玉姫も海幸彦に一目ぼれしてしまい、すぐに結婚することになった。
豊玉姫の父親の豊玉彦に二人が会いに行くと、彼も一目見て山幸彦を気に入り、その結婚を許した。そこで山幸彦に尋ねた。
「ところで、あなた様はどうして海の底に来たのでしょうか。」
山幸彦が事情を話すと、豊玉彦は海の魚たちに釣り針を探すように命じた。すると、最近ノドに引っかかったものがあって物が食べられないと悩んでいる赤鯛が一匹いるとわかった。果たして赤鯛のノドを見てみると、やはり海幸彦の釣り針が引っかかっていた。
こうして釣り針を兄に返すために地上へ戻りたいと山幸彦が願い出ると、豊玉彦は彼に言った。
「この釣り針には呪いをかけておいた。これを海幸彦に返すときに、『この針は、不安の針、貧困に至る針、愚者となる針』と言いながら返しなさい。そして、兄が低い土地に田畑を作れば、あなたは高いところに田畑を作りなさい。それと鹽盈珠と鹽乾珠を渡しておこう。もし兄と争うことになれば、潮を満たす力を持つ鹽盈珠を使って彼を溺れさせなさい。もし兄が許しを請うたら、今度は干潮をもたらす鹽乾珠を使って潮を引かせなさい。」
……豊玉彦は海幸彦に怨みでもあるのだろうか。もともと山幸彦が無理を言って借りたものを失くしたのが発端であり、いくら海幸彦が山幸彦をゆるさなかったからといって、そこまで海幸彦がひどい目に遭わされる理由はないと思うのだけど……。
こうして地上世界に帰った山幸彦は、海幸彦に呪いをかけ、海幸彦が低いところに田畑を作ると、それとは逆に高いところに田畑を作った。すると、海幸彦は呪いのために漁がまったくうまくいか失くなり、田畑も塩がちでまったく実らなかった。対する山幸彦は狩りもうまくいき、田畑も毎年豊作であった。
遂に腹を立てた海幸彦は、山幸彦に斬りかかった。ここでも山幸彦は豊玉彦の言うとおりに鹽盈珠を使って海幸彦を溺れさせ、彼が降参して子孫代々山幸彦の家来になると誓うと、鹽乾珠を使って彼を救った。
こうして海幸彦の一族である隼人は、山幸彦の一族である天皇家に永遠に仕えることになったのである。
……というお話である。海幸彦の扱いが理不尽すぎない? とは思うが、そういう話が古事記や日本書紀には記されているのだ。
これは海洋部族と山岳部族が対立し、山岳部族が勝利したことを示す物語だという説がある。そう考えてみれば、もしかすると日本の王朝を示す『ヤマト』という名も「山人(やまひと)」からきていると妄想することもできちゃうかもしれない。
ちなみに、この話は浦島太郎の話とよく似ている。人によっては、この話を摸倣して浦島太郎の説話が考案されたという者もいるが、これについては『月読は常世の国の王となる』シリーズの方で触れよう。
さて、この兄弟の物語と似た兄弟の話が三国史記にも掲載されている。それが百済の建国神話である。百済の始祖である温祚王には沸流という兄がおり、互いに別々の国を建てるが、兄の土地が塩がちで経営に失敗し、そのまま死んで弟の温祚王に国が吸収されたという逸話である。
焚巣館 -三国史記 第二十三巻 始祖 温祚王-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/sangokushiki/23kan/01onso.html百済の始祖は温祚王、その父は、鄒牟、あるいは朱蒙という。北扶餘から難を逃れ、卒本扶餘までたどり着いた。扶餘王には息子がおらず、三人の娘だけがいたが、朱蒙を見て、非常の人であると気づき、二人目の娘を彼の妻に取らせた。程なくして、扶餘王が薨去すると、朱蒙が王位を継いだ。二人の息子が生まれ、長男を沸流といい、次男を温祚という。〈あるいは次のようにも伝わっている。朱蒙が卒本にたどり着くと、越郡の女を娶り、二人の息子を産んだ、と。〉
朱蒙が北扶餘にいた頃に生まれた息子が来て、太子となった。太子と相容れなくなることを恐れた沸流と温祚は、そのまま烏干や馬黎等の十人の臣下を伴って南に行くと、百姓にも彼らに従う者が多かった。こうして漢山までたどり着くと、負兒嶽を登り、住居にできそうな場所を望み見ると、沸流は海の浜に住もうとした。十人の臣下は諫めた。
「いえ、この河南の地は、北には漢水を帯び、東は高い岳によって守られ、南には豊潤な水沢に望み、西は大海によって隔てられています。これは天然の要塞にして地の利もあり、なんとも得難き地勢、ここに都を作ることに勝ることがあるでしょうか。」
沸流は聴き入れず、その民を分かちて弥鄒忽まで行き、そこに住みついた。温祚が河南の慰礼城に都を立て、十人の臣下を輔翼とし、国號を十済としたのは、前漢成帝の鴻嘉三年(紀元前18年)のことである。弥鄒の土壌が湿り、水にも塩が入っていたので、沸流は安居することができず、その場を去ることになってしまい、慰礼城を見てみれば、都邑は安定し、人民は安泰、遂に慙と悔いとで死んでしまい、彼の臣下と人民は皆が慰礼城に向かった。その後、 慰礼城に来た時の百姓が音楽を鳴らしながら喜んで従っていたことから、国號を百済と改めた。
その世系は高句麗と同じく扶餘を出自としていることから、故に扶餘を氏としている。
兄と弟の対立で弟が勝利する。兄が塩がちな土地を選んで失敗する。……物語の類型として、とてもよく似ている。ちなみに、この兄弟の対立が実際には山の部族と海の部族とが対立して山の部族が勝利したことを意味するものだとする説も韓国にはあるそうで、これも山幸彦と海幸彦の物語と同じである。
三国史記と東明王篇を比較してみると、朱蒙の物語において、前者は従来に流布していたものから神秘的な部分を大幅にカットしていることが伺える。もしかすると、元来の温祚王の建国神話には、神秘的な要素が多く含まれていたかもしれない。
また、海と山とを司る兄弟の争いの神話がベトナムにも存在している。
焚巣館 -大越史記大全 外紀卷之一 雄王 https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/daietsushikizensho/G01/01K/03yuuou.html
時は末期に属す頃、王に媚娘という娘がいた。美くしく艷やかで、それを聞いた蜀王は、王を訪ねて結婚したいと願い出た。王はその通りにしようとしたが、雄侯がそれを止め、「彼は我が国を乗っ取ろうとし、婚姻はその口実に使おうとしているだけです。」と言った。このことから蜀王は怨みを心に懐いた。王は配偶者を求め、群臣に言った。「この娘は仙女の種族だ。才徳兼備の者よ、婚姻を結ぶがよい。」その時、外から庭下に来て拜見し、婚姻を求める二人の者が見えた。王は奇異に思ってその者たちに問うと、「一人は山精、一人は水精という者です。私たちは境内にいたのですが、明王に聖女がいると聞いて、請命したく思い来たのです。」と答えた。王は言った。「私には一人の娘しかいないのだ。二人の賢者を得ることなどできるはずがなかろう。うーむ……それでは、後日聘禮(おくりもの)を持って先に来たものに娘を与えると約束しようではないか。」二人の賢者は応諾し、拜謝して帰った。翌日、山精が珍らしい宝、金銀、山の禽(とり)、野獣等をもって献上しに来た。王は彼に嫁を出すと約束し、山精は傘圓の高峰に迎え入れ、そこを住居とした。水精もこれから聘財(おくりもの)を贈ろうとしていたところであったが遅れてたどり着き、恨悔したがもう遅い。激しく感情を高ぶらせ、遂に雲を興して雨を起こし、水が漲り溢れだし、水族を率いて山精と媚姫を追いかけた。王と山精は鉄の網を張って慈廉の上流から横切らせてそれに覆いかぶせた。水精は別の江に向かい、莅仁から廣威の山麓に入り、岸から江口に勢いよく立ち上り、大江に出で陀江に入り、傘圓を擊ちつけ、ところどころに穴を鑿(うが)ち、それが淵となり潭となり、水を積み上げて襲いかかろうとした。山精は神と化し、叫び声をあげると蛮人が駆けつけ、竹を編んで籬を造って水を防ぎ、弩(いしゆみ)でこれを射た。鱗介諸種は矢に当たって避走し、ついに侵犯することができる者はいなくなった(俗伝には、山精と水精これらは後世まで仇同士となり、毎年の大洪水は、いつも互いが攻め合っているから起こるものだと伝えられている)。
こちらは物語の構造こそ違うものの、やはり山と海との対立で、山が勝利する物語となっている。
ちなみに、ベトナムには他にも、山と海とで部族が別れたという神話がある。
焚巣館 -大越史記大全 外紀卷之一 貉龍君
href="https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/daietsushikizensho/G01/01K/02kakuryuukun.html" title="" >https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/daietsushikizensho/G01/01K/02kakuryuukun.html貉龍君。諱は崇纜、涇陽王の子である。君は嫗姬という帝來の娘を娶ると、百人の男(俗には、百の卵を生んだと伝わる)を生み、これが百の祖となった。ある日、姬に言った。「私は龍の種族であり、あなたは仙人の種族だ。水火は相尅し、一体化することは実に難しい。だから、お互いに別れよう。分け合った五十人の子は母に從って山に帰り、残りの五十人の子は父に従って南に住もう(「南に住もう」は「南の海に帰ろう」とも記録されている)。」その長男を封じて雄王とし、君位を継がせた。
こうした神話の近似性を見ると、これらの国々との縁を感じさせられる。
ちなみに、「釣り針を失くす」という要素を含む神話が東南アジアには広く流布しており、中国の長江上流、インドネシア、パラオ、ソロモン諸島に伝わっている。以下の論文を参照。
古代日本語における異文化の要素
おそらく、これらの神話は海を通じて大きく広がってきたものであろう。
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0103/BO01030L097.pdf