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東夷の倭人さんが一番好きな中国古典は?列子湯問編・上政下俗
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南国の人は散切り頭で裸、北国の人は毛皮の頭巾とコートを着ている。中国の人はえぼしと着物を着ている。
どこの国の人々も、それぞれ農業や商業、狩りや漁を生業とし、冬には毛皮を用い、夏には葛を用い、水上では舟を使い、陸では車を使う。
これは誰が言うこともなくそうなっており、その性がそうさせているのだ。
越の東に輒沐という國があり、そこでは長男が生まれると、それが生まれたてのうちに食べてしまい、それを弟のためだという。
祖父が死ねば、祖母を背負って捨てに行く風習もあり、彼らは「幽霊の妻とは同居できない」と言う。
楚の南にある炎人の國では、その親族が死ぬと、その遺体を朽ちさせてから棄て、その後で骨を埋め、孝子と呼ばれるようになる。
秦の西にある儀渠の國の人々は、その親族が死ぬと、柴を積み上げて遺体を焚き上げ、燻って煙を上げ、魂を遠い天に昇らせるための儀式だと言い、それを成し遂げると孝子と呼ばれる。
このように、上には政治があれば、下には習俗がある。これらは異なるものだとするに足るものではないのだ。
そう、列子ですね。
というわけで、このブログでも何度も引用している列子湯問篇の上政下俗を、改めて全文翻訳してホームページにUPしたので、こちらにも掲載する。
ここで論じられているのは、儒家の普遍主義に対する批判であろう。
儒家は一元的に同じ服装、同じ礼式、同じ倫理観、同じ産業構造を推し進める、少なくともそういった側面が古い儒教に存在していたのは間違いない。それに対して、あらゆる国に様々な服装、様々な産業、それら多元的な習俗の存在を提出することで、儒家思想に対する批判を食らわせようと試みたものだと考えられる。
しかし、これは一般に考えられる近現代的な多元文化主義と相違する点がある。
一般に多元的文化主義は、その文化を属人的なものとして捉える傾向がある。ゆえに、たとえば先進国への移民の宗教的儀礼や民族的服装の自由などは、こうした多元文化主義のコンテキストから主張される。そこに自然は介在せず、むしろ自然環境と文化は対立する概念として捉えられる。
対して、ここで列子は人間の文化的営為も自然の一部と考えている。人間たちが営む文化について、列子は「これは誰が言うこともなくそうなっており、その性がそうさせているのだ。(默而得之、性而成之)」と論じる。
最初に例示されているのは、南方の薄着、中央の礼服、北方の厚着である。こういった文化は、南方の温暖湿潤な気候や北方の寒冷気候、中央の乾燥した気候などに応じて、人の営為も自然とそう規定されているものである。ここで語られる文化は自然に応じた存在なのだ。
後半の親族との関係や遺骸の扱い方などについては、特に自然と関係させて論じているわけではないが、習俗を属人的なものとして個々人のアイデンティティと文化的多元性を擁護すべしと明示的に論じているわけでもない。
表題にもなっている最後の「上には政治があれば、下には習俗がある。(上以為政、下以為俗)」の部分は、「政」が人為性を包含し、「俗」が自然を包含しているとも捉えられる。本文を読む限り、少なくとも列子は文化を自然と対立する存在としては見ていない。列子はより広い視野で事物を捉えている。
更に、列子はこれについて、「これらは異なるものだとするに足るものではないのだ。」と述べる。これらの習俗を、列子は異なる存在だと認めていない。人食いの風習も、姥捨ても、遺骸を放置することも、焼くことも、すべて夏に薄着をして冬に厚着をするのと同様に、人間がその地に適合した姿でしかないとして、それらはすべて同一の人間の本性に基づいた行為として同様の存在であると述べているのである。PR -
東夷の倭人さんの好きな中国古典と言えば?
そう、列子ですね。
今回は古代中国のボーカロイドのお話を紹介します。
周穆王西巡狩、越崑崙、不至弇山、反還、未及中國、道有獻工人名偃師。
周の穆王は西を巡狩し、崑崙を越え、弇山に至らず、反り還りて、未だ中國に及ばざるに、道に名を偃師という工人の獻じる有り。
周の穆王が西方に狩りに行き、崑崙山を越え、弇山を前にして引き返し、中国に向かうその道中、偃師という工人が王に売り込みにやってきた。
穆王薦之問曰、若有何能。
穆王は之を薦めて問いて曰く、若は何の能有らん。
穆王は、さっそく「お前には何ができる」と尋ねた。
偃師曰、臣唯命所試。然臣已有所造、願王先觀之。
偃師曰く、臣は唯命じるに試す所なり。然るに臣は已に所造有り、願わくば王に先ず之を觀せん。
偃師は言った。
「私はただ命じられたことをするつもりです。
しかし私の手元には先ほど造った品物が御座いますので、まずはそちらをご覧いただきたく思います」
穆王曰、日以俱來、吾與若俱觀之。
穆王曰く、日を以て俱に來、吾と若の俱に之を觀ん。
穆王は、「それについては、日を改めて私とお前とで一緒に見たい」と答えた。
越日、偃師謁見王。
越日、偃師は王と謁見す。
翌日、偃師は王と謁見した。
王薦之曰、若與偕來者何人邪。
王は之を薦めて曰く、若と偕に來る者は何人か。
王は訊ねた。「お前と一緒に来たその者はいったい何者だ?」
對曰、臣之所造能倡者。
對えて曰く、臣の所造する能倡者なり。
「私の造り上げた人造人間、ボーカロイド(能倡者)でございます」
穆王驚視之、趨步俯仰、信人也。
穆王は驚きて之を視、趨步俯仰して、人と信ずるなり。
穆王は驚いてボーカロイドを凝視し、恐る恐る近づきながら、頭からつま先までを何度も見直すが、人間としか思えなかった。
巧夫、顉其頤、則歌合律、捧其手、則舞應節。
巧夫、其の頤を顉えれば、則ち律に合して歌い、其の手を捧げれば、則ち節に應じて舞う。
偃師がボーカロイドの顎を動かせば、旋律に合わせて見事に歌い、手を動かせば、リズムに乗せて見事に舞い踊る。
千變萬化、惟意所適。
千變萬化して、惟意所適す。
ボーカロイドは千変万化し、偃師の意のままに動いた。
王以為實人也。
王の以為くは實人なり。
これはもしかして本物の人間なのではないか、と王は思った。
與盛姬內御并觀之。
盛姬內御と之を并びて觀る。
そして、盛姬內御と一緒に並んで、その人形を観ていた。
技將終、倡者瞬其目而招王之左右待妾。
技の將に終わらんとして、倡者は其の目を瞬いて王の左右の待妾を招く。
しかし、その演技がまさに終わろうとしたその時、ボーカロイドは王の左右に侍る妾女にウインクをして誘惑した。
王大怒、立欲誅偃師。
王は大いに怒り、立ちて偃師を誅さんと欲す。
王は大いに怒り、立ち上がって偃師を殺そうとした。
偃師大懾、立剖散倡者以示王。
偃師は大いに懾え、立ちて倡者を剖散して以て王に示す。
偃師は怯え上がり、立ち上がってボーカロイドを解剖し、王に見せた。
皆傅會革、木、膠、漆、白、黑、丹、青之所為。
皆革、木、膠、漆、白、黑、丹、青の所を為して傅會す。
どれも革、木、膠、漆を組み合わせ、白、黑、丹、青を塗って造られていた。
王諦料之、內則肝、膽、心、肺、脾、腎、腸、胃、外則筋骨、支節、皮毛、齒發、皆假也、而無不畢具者。
王は之を諦料し、內は則ち肝、膽、心、肺、脾、腎、腸、胃、外は則ち筋骨、支節、皮毛、齒發、皆假なるに、而して具に畢わらざる無し。
王がそれらをじっと観察すると、内側には、肝、膽、心、肺、脾、腎、腸、胃が、外側には、筋骨、支節、皮毛、齒發に至るまで、どれもつくりもので、人体に備わってるもので欠けているものは何一つなかった。
合會復如初見。
合會して復た初見の如し。
それらを組み立てると、また最初に見た通りのボーカロイドが元通りにできあがった。
王試廢其心、則口不能言、廢其肝、則目不能視、廢其腎、則足不能步。
王は其の心を廢するを試みると、則ち口は言うに能わず、其の肝を廢すると、則ち目は視るに能わず、其の腎を廢すると、則ち足は步くに能わず。
王がその心臓を取り外すと、ボーカロイドは言葉がしゃべれなくなり、肝を取り外すと、目は視力を失い、腎を取り外すと、足は歩むことができなくなった。
穆王始悅而嘆曰、人之巧乃可與造化者同功乎。
穆王は始めて悅び而して嘆じて曰く、人の巧は乃ち造化者と同功と與す可きか。
こうして穆王ははじめて悦び、そして感嘆した。
「人間の技術は、ついに創造主と並ぶほどに到達したのか!」
詔貳車載之以歸。
貳車を詔して之を載せて以て歸る。
王は予備の車を出すように命じ、それに乗せてボーカロイドを持ち帰った。
夫班輸之云梯、墨翟之飛鳶、自謂能之極也。
夫れ班輸の云梯、墨翟の飛鳶、自ら能の極を謂うなり。
班輸は云梯、墨翟は飛鳶について、自ら技術の極みとして鼻にかけていた。
弟子東門賈、禽滑釐、聞偃師之巧、以告二子、二子終身不敢語藝、而時執規矩。
弟子の東門賈、禽滑釐、偃師の巧を聞きて、以て二子に告げば、二子は終身藝を敢えて語らず、而るに時に規矩を執る。
しかし、弟子の東門賈、禽滑釐が偃師の技術について聞き、それについて二人に告げると、以後、二人は死ぬまで自らの技術について語ることはなくなり、たまに定規やコンパスを手に取る程度となった。
行き過ぎた技術への批判は、工業公害問題、核開発、原発問題など、あるいは資源の枯渇、または優生思想や遺伝子技術など、近代以後のテーマのようにも思われますが、西洋に目を移せば、古来より、天に到ろうとして神の怒りに触れ、落雷によって崩れ落ちたバベルの塔、あるいはゼウスから火を盗んで人間に知を齎したプロメテウスの例があるように、古今東西、普遍的なテーマと言えるでしょう。
そもそも、聖書におけるバベルの塔の逸話は、アダムとイブが知恵の実を食べ、楽園を追放された話から一貫した、人間の知への警戒を示すエピソードのひとつです。
老子や荘子にも、知に対して警戒を示す思想はよくあらわれております。
賢を尚ぶことがなければ、民衆が互いに争うこともなくなるだろう(不尚賢、使民不爭。老子道徳経第三章)。
智慧とともに、大偽がうまれた(智慧󠄄出、有大僞。老子道徳経第十八章)
知が人に思い上がりと嘘偽り、人々に争いを生み出すことを古代人は知っていました。
班輸の云梯は攻城戦に用いられた戦車の一種であり、墨翟の飛鳶はグライダーのように空を滑空する航空兵器の一種だったといわれています。
これらは従来では考えられないほど大量の殺戮を可能にした兵器でしたが、水爆や原発のような人類絶滅の危機をもたらす現代技術には及びません。
現在、アメリカに代わって、中国がクローン技術やデザイナーズベイビー、人工知能で話題に上ることが増えてきました。
おそらく、これらの技術とそれに伴う生命倫理の問題は世界中の国々に波及するでしょう。
もはや、現代人の技術力は、偃師の技術に並びつつあります。
人間の技術は、ついに創造主と並ぶほどに到達したのか!(人之巧、乃可與造化者同功乎)
人は知と技術を得ることで、自らの愚を喪うことがあるのでしょうか。
……とかなんとか、そんなことはどうでもよくて、古代中国にアンドロイドが登場するSFが存在してることに驚いたり、面白いなー、と思えればそれでいいと思います。