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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

論語注疏の『子曰君子不重則不威章』の訳をリニューアル。
焚巣館 -論語注疏 学而第一 子曰君子不重則不威章-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/rongochuso/01_gakuji/08kunshiomokarazareba.html
 18日の更新。孔子の言葉である。

 注疏の内容は論語をフツーに読んでいて気になる点を解決する註がしっかりついていてなかなか興味深い。

 私の書き下しは少し独特なので、一般的なものとしてとりあえず検索して目に付いたこちらから書き下し文を引用してみる。

子曰く、君子、重からざれば則ち威あらず。学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすることなかれ。過ちてば則ち改むるに憚る(はばかる)こと勿かれ。

 「過ちて改むるに憚ることなかれ」は慣用句となっているし、それ以外の「学べば則ち固ならず」や「己に如かざる者を友とするなかれ」といったフレーズも割と有名であるから、論語を読んでいなくても知っている人はいるだろう。「己に如かざるものを友とするなかれ」は矛盾しているとよくツッコミを入れられるフレーズであるし逆に弁護する文章も世に多く、私もかこに諸々のことを漫慮したものである。ちなみに私は論語を読み始めた当初、「学べば則ち固ならず」というフレーズに感心したのをよく覚えている。つまり学とは、硬直的な思考になるためのものであってはならないのだ。

 さて、論語の本章句について、他にも疑問点としてよく挙げられるものがある。それは、ひとつひとつのフレーズは教訓となっているのはわかるとして、全体にまとまりがあると感じられない点である。上記の訳をそのまま分解してみよう。

・重々しい雰囲気がなければ威厳がありません。
・学問をすれば頭が柔軟になります。
・『忠』と『信』の心を大切にして、自分とレベルがあわない者を友としてはいけません。
・過ちがあったのなら、それを改めることをためらってはいけません。

 これらの内容は、素直に読むと複数の教訓の雑多な詰め合わせのようにしか見えない。それぞれに繋がりを感じられないからだ。なぜ孔子はこのような発言をしたのか、あるいは別々に語った孔子の教訓を孔子の言行を記録するにあたってひとつにまとめたものなのか、さまざまに考察されることも多い。

 して今回の注疏では、「一曰(一説には)」と前置きして「言人不能敦重、既無威嚴、學又不能堅固、識其義理。」と述べる。これを私は「人は親切誠実で人情に厚く、おごそかで重々しくなれなければ、威厳がないので学問についても同様に堅固にはできないが、その義理を知識とすることはできるのだと言っているとのこと。」と訳したが、つまりこれは雑多な教訓の寄せ集めに見える本文をひとつなぎの意味のある文章として解釈しているのだ。

 ……重厚な態度を取れない人は学問も堅固にできない。しかし義理、つまり言葉の意味を知識とすることだけはできる。この言葉にあるのは、知識と実態の乖離である。つまり理性と現世の乖離であり、言語と実在の乖離である。

 学術が高度化する以前の論語は実践の学としての色彩が後世のそれよりも強い。もともと孔子の時代の儒学は操馬術や弓術を教科としていた。ところが漢王朝の時代に入り、次第に儒学は六経という文書を主として尊ぶようになり、時代と共にペーパーテストの科挙が現れ、理性を尊ぶ朱子学の台頭、その先には清代考証学というテキストの読解を主とする学問に発展した。学術は高度に、難解に、実証的に発展した一方で、身体性に基づく技術は徐々に薄まっていったわけである。論語は孔子という肉体ある人間を言葉のみ復活せしめ、あるいは行為の一部を言語によってのみ説明して遺したものであるから、この乖離は必然であったのだろう。講師の意図は計り知れぬが、こうした学術の発展に伴う変化が上掲のような論語の解釈を生んだものと感じられる。

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