"日本の古典"カテゴリーの記事一覧
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使おうとして訳したけど、使わなかった日本書紀における仲哀天皇の死についての書き下し文と現代語訳。古事記だの日本書紀だのはネット上に全現代語訳が大量にあるので、私がわざわざ訳す必要がない。今後も使用する予定がないので、ここに載せて供養とする。とても異常な事件なので、単体で見ても面白いと思う。
【漢文】
秋九月乙亥朔己卯、詔群臣以議討熊襲。時有神、託皇后而誨曰、天皇、何憂熊襲之不服。是膂宍之空國也、豈足舉兵伐乎。愈茲國而有寶國、譬如處女之睩、有向津國睩、此云麻用弭枳、眼炎之金・銀・彩色、多在其國、是謂栲衾新羅國焉。若能祭吾者、則曾不血刃、其國必自服矣、復熊襲爲服。其祭之、以天皇之御船、及穴門直踐立所獻之水田、名大田、是等物爲幣也。天皇聞神言、有疑之情、便登高岳、遙望之大海、曠遠而不見國。於是、天皇對神曰、朕周望之、有海無國、豈於大虛有國乎。誰神徒誘朕。復我皇祖諸天皇等、盡祭神祇、豈有遺神耶。時神亦託皇后曰、如天津水影、押伏而我所見國、何謂無國、以誹謗我言。其汝王之、如此言而遂不信者、汝不得其國。唯今皇后始之有胎、其子有獲焉。然天皇猶不信、以强擊熊襲、不得勝而還之。九年春二月癸卯朔丁未、天皇、忽有痛身而明日崩、時年五十二。卽知、不用神言而早崩。一云、天皇親伐熊襲、中賊矢而崩也。於是、皇后及大臣武內宿禰、匿天皇之喪、不令知天下。則皇后詔大臣及中臣烏賊津連、大三輪大友主君、物部膽咋連、大伴武以連曰、今天下、未知天皇之崩。若百姓知之、有懈怠者乎。則命四大夫、領百寮令守宮中。竊收天皇之屍、付武內宿禰、以從海路遷穴門、而殯于豐浦宮、爲无火殯斂。无火殯斂、此謂褒那之阿餓利。甲子、大臣武內宿禰、自穴門還之、復奏於皇后。是年、由新羅役、以不得葬天皇也。【書き下し文】秋九月乙亥(きのとい)の朔(ついたち)己卯(つちのとう)、群臣(もろをみ)に詔(みことのり)し、以て熊襲(くまそ)を討たむことを議(はか)る。時に神(かみ)有り、皇后に託(かこつ)けて誨(おし)ゆるに曰く、天皇(あめのすめら)よ、何の熊襲(くまそ)の服(したが)はざるを憂えむ。是の膂宍(そじし)の空國(むなくに)ならんや、豈に兵を舉げて伐つに足らむかな。茲(こ)の國に愈(まさ)りて寶(たから)の有る國、譬うれば處女(をとめ)の睩(まよびく)の如く、津に向かふ國有り(睩、此れ云はく麻用弭枳)眼炎(まのかがやく)の金、銀、彩色、多く其の國に在り、是れ栲衾新羅國と謂ひなむ。若し能く吾を祭る者あらば、則ち曾(すなは)ち刃を血することなくして、其の國は必ず自ら服(したが)ひ、復(ふたた)び熊襲(くまそ)も服(したが)はむと爲(せ)り。其れ之れを祭り、天皇(あめのすめら)の御船(みふね)及び穴門の直踐立、獻ずる所の水田、大田と名づく、是れ等の物を以て幣(みつぎもの)と爲すべきなり、と。天皇、神の言(ことば)を聞くも、疑(うたがひ)の情(こころ)有り、便ち高き岳を登り、遙か之の大海(わたつみ)を望むも、遠くを曠(むな)しくして國見えず。是に於いて、天皇(あめのすめら)は神に對へて曰く、朕は周(あまね)く之れを望むも、海有れども國は無かりし。豈に大虛(おほぞら)に國有らむかや。誰ぞ神の徒(いたずら)に朕を誘ふか。復た、我が皇祖の諸天皇等、盡く神祇を祭らむ。豈に神を遺すこと有らむか、と。時に神も亦た皇后に託けて曰く、天津(あまつ)の水影(みなかげ)の如く、押し伏して我の國を見る所なれば、何ぞ國無しと謂ひ、以て我の言を誹謗(そし)るか。其れ汝は之れに王(きみ)たるも、此の言(ことば)の如くして遂に信(まこと)とせざる者、汝は其の國すらも得ず。唯だ今の皇后、始めて之の胎む有るのみ、其の子の獲る有らむかな、と。然れども天皇(あめのすめら
)は猶ほ信(まこと)とせず、以て熊襲(くまそ)を强いて擊(う)つも、勝ちを得ずして之れに還りたり。九年春二月癸卯(みずのとう)の朔(つひたち)丁未(かのとひつじ)、天皇(あめのすめら)、忽ち身に痛み有りて明日に崩る。時に年(よはひ)五十二たり。卽に、神の言を用ひざりて早く崩れたるを知る。一(あるふみ)に云はく、天皇(あめのすめら)は親(みずか)ら熊襲を伐ち、賊の矢に中(あた)りて崩るるなり、と。是に於いて、皇后及び大臣の武內宿禰は天皇(あめのすめら)の喪を匿(かく)し、天下(あめのした)に知ら令(し)むることなし。則ち皇后は大臣及び中臣の烏賊津連、大三輪の大友主君、物部膽咋連、大伴武以連に詔(みことのり)して曰く、今の天下(あめのした)、未だ天皇(あめのすめら)の崩るを知らず。若し百姓(もものかばね)の之れを知れば、懈怠(なまける)者有るかな。則ち四大夫に命じ、百寮を領(おさ)めて宮中を守ら令(せ)しむ、と。竊かに天皇(あめのすめら)の屍(しかばね)を收め、武內宿禰に付(わた)し、以て海路(うみのみち)從(よ)り穴門に遷し、而りて豐浦宮に殯(かりもがり)し、无火殯斂(ほなしあがり)を爲す。无火殯斂(ほなしあがり)、此れ褒那之阿餓利(ほなしあがり)と謂ふ。甲子(きのえね)、大臣の武內宿禰、穴門より之れに還り、復たしても皇后に奏ず。是の年、新羅(しらぎ)の役に由り、以て天皇(あめのすめら)を葬ることを得ざるなり。【現代語訳】秋九月乙亥(きのとい)の朔(ついたち)己卯(つちのとう)、群臣に詔を下して熊襲を討伐したいと建議した。この時、神が皇后に憑りついて諭した。「天皇よ、なぜ熊襲が服従しないと憂うのか。あんな土地の瘦せてひなびた国、わざわざ兵を挙げて討伐するほどのことがあろうか。この国以上に宝物を有する国、譬えるならば処女が眉を動かすかのように、船着き場の向かい側に国がある。目にまぶしいほどの金、銀、彩色が数多くその国には在る。これを『栲衾新羅国』というぞよ。もし私をよく祭る者がいれば、刃を血に塗れさせることもなく、その国は必ず即座に自ら服従し、熊襲も再び服従するであろう。さて、この祭事のためには、天皇の御船と穴門直踐立から献上された大田という名の水田、これらの物を貢物として奉げるがよい。」天皇は神の言葉を耳に入れたが、疑惑の念を持ちながら、そのまま高い山岳を登って遥か広い大海を眺めたが、どこまで先にもなにもなく、国は見えなかった。そこで天皇は神に答えた。「朕は周囲をあまねく眺めましたが、海ばかりがあって国なんてありませんでした。なぜどこまでもなにもないのに国があるなんてことがありますか。……神でありながらいたずらに朕を誘惑しようとは、あんた一体何者なんだ? そもそも我が皇祖のあらゆる天皇たちは、すべて神祇としてお祭りされておるのだ。他に神が残っているはずがないだろう。」この時、神もまた皇后の口を借りて言った。「天空の船着き場の水影のように高くから静かに見下ろした私が国を見たと言っているのに、なぜ国がないなどと言って私の言葉を誹謗するのだ! ふん、お前はこの国では王らしいが、そんな言葉を吐いたまま信じないというのであれば、お前は自らの国を保つことさえできまい。ただ皇后は今、初めてこの赤子を孕んだ。その子が国を治めることになろう。」それでも天皇はまだ信じることなく熊襲を強擊したが、勝つことができずに帰還した。九年春二月癸卯(みずのとう)の朔(ついたち)丁未(かのとひつじ)、天皇が突然病気になって次の日に崩御された。この時、五十二歳である。神の言葉を用いなかったから早逝したのだとすぐにわかった。(一説には、天皇が親ら熊襲を討伐しに向かったが、賊の矢に当たって崩御したという。)そこで皇后と大臣の武內宿禰は、天皇が死去したことを隠匿し、天下に知らせようとはしなかった。すぐに皇后は大臣と中臣の烏賊津連、大三輪の大友主君、物部膽咋連、大伴武以連らに詔(みことのり)を下した。「今の天下は、まだ天皇が崩御されたことを知りません。もし百姓がそれを知ると、怠ける者が現れてしまうでしょう。すぐに四大夫を百寮の頭領に命じ、宮中を守らせます。」ひそかに天皇の屍を収め、武內宿禰に託し、海路から穴門に場所を移して豊浦宮でお通夜をした。火をつけないお通夜である。甲子(きのえね)、大臣の武內宿禰が穴門からこちらに帰還し、またしても皇后に奏上した。この年、新羅の役があったので、天皇を葬ることができなかった。
この後、征韓論を制止していた仲哀天皇が死去したことにより、歯止めを失った大日本帝国倭国は帝国主義の道を邁進することになり、神功皇后が親ら軍の指揮をとって新羅に攻め入って、属国となるように迫った。この後、倭国は白村江の戦いで新羅に大敗を喫するまで、朝鮮半島の権益を窺ってたびたび兵を興すことになる……ということになっているが、本文に戻ろう。
さて、仲哀天皇について。これはどう見ても暗殺である。ちょろっと熊襲と争って死んだという説が掲載されているが、仲哀天皇は素直に読めば暗殺としか思えない死に方である。古事記だともっとわかりやすく暗殺なので、気が向いたらそちらも適当に検索して読んでほしい。日本語のネットでは、古事記や日本書紀の全訳は非常に多くあるので、まったく探すのに苦労しないだろう。犯人の本命は武内宿禰、対抗は神功皇后か。あるいは共犯であろう。仮に熊襲との戦争中に流れ矢に当たって死んだとして、その矢はどこから飛んできたのやら。もちろん、この記録がまるっきりデタラメならどうなるかわからないけども。
それにしても、この神とは何なのか。日本書紀の記述のままでは、どう見ても悪霊か何かである。倭国の皇后にいきなり憑りついて、天皇に朝鮮を攻めるようにそそのかし、これに天皇が反対したら憑り殺す。これが悪霊じゃなかったら何なのか。しかも、これに基づけば、倭国はよくわからない邪神にそそのかされて、朝鮮半島の国を「宝があるから」という理由でいきなり侵略したことになるのだけど、これってどうなんだ。それと神が言う「処女が眉を動かすような」という表現も何がなんだわからない。なにが言いたいのか? 理解に苦しむ。どうせ下ネタであろう。
死後の仲哀天皇の扱いもすごい。死を隠すのみならず、新羅への侵略を優先して葬儀ができなかったと明記されている。天皇の葬儀そっちのけで朝鮮を侵略とか、大日本帝国おそるべし、どころの話ではない。日本書紀の編者や神功皇后は大日本帝国下に不敬罪で逮捕されなかったのだろうか。
この記事を当たり前に読めば、先鋭化したタカ派の武内宿禰と神功皇后が朝鮮半島への侵略を主張し、これに対して穏健でまっとうな仲哀天皇が反戦を唱えたために暗殺されたとしか読めないだろう。こんなの書いちゃっていいの? とか思っちゃう。
ちなみに、この後で神功皇后は(神から宣告されて謎に孕んだ)子を腹に宿しながら武内宿禰とその子の葛城襲津彦を伴って朝鮮で戦争を続ける。妊娠期間は15ヶ月。その間、産気づいて石を腹に括りつけて出産を押さえたという記述がある。どう考えても仲哀天皇の子ではない。父親の本命は葛城襲津彦、対抗は武内宿禰、大穴は新羅王である。これらはすべて日本書紀に記されたことであり、こんなの読まされたら、いろんなところが気になりすぎて「勇ましきかな、三韓征伐」とはなりづらいと思うけど……。大丈夫なのだろうか。
……とまあ、この話、おかしなところがあまりに多い。いくら神話や伝説と未可分な時代とはいえ、どう考えても話がおかしい。それに仲哀天皇と神功皇后の次の応神天皇以降は、歴史としての色彩が非常に色濃くなる。ゆえに伝説と歴史の境目に、このような話が置かれていると考えれば、なおさら「なぜここがこんなに怪しい話だらけなのか」と、その理由を求めたくなる。
さて、この話でははっきりと触れられていないが、この時の住吉三神は、実は渡来神なのである。そして、この話の前で軽く触れられる内容として、神功皇后も新羅から渡来した天之日矛(アメノヒボコ)の子孫であると記されている。また、私が以前の記事で述べた通り、孝霊天皇はアメノヒボコ本人の可能性もあり、そうでなくとも朝鮮半島からの渡来人だと推測でき、しかも皇后も渡来系一世か二世である可能性が高く、私の仮説が正しければ、その子の孝元天皇も渡来系の両親から生まれたことになる。こうなれば、その子孫である武内宿禰も渡来系だと考えられる。
それに『住吉』という名の住は古くは「モチ」と読むことから、「勿吉(モツキツ)」を指すという人もいる。そのホームページを以下に引用する。
http://www5.tok2.com/home2/okunouso/0206.htm
「勿」を辞書で調べると、「ブツ」「モチ」(butsu mochi)と読むとある。が「住」という字も古訓(角川書店発行 『大字源』より)には=スミ・スミカ・スム・タダ・タツ・トドマル・トドム・ハジム・モチ・ヲリとある。つまり全国の住吉神社や住吉町はなんのことはない『勿吉』と同義であり、「靺鞨」すなわち古代の「蒙古」から渡来してきた人の定住地ということになるのだ。
引用しておいてなんだけど、新左翼系の糾弾調のサイトなんで閲覧注意で。勿吉(モツキツ)は三国史記には靺鞨(マツカツ)の名で登場し、当初は新羅(辰韓)に幾度となく攻め込み、後に高句麗に服属する半島北方から大陸東北部にかけて存在した部族として描かれる。こうした存在がこの事件の背景にあるとすれば、半島北部から南部に侵入した靺鞨が、更に南下して倭に流入していた可能性もあるのではないか?
ここに仮説を上積みすると、神功皇后や武内宿禰のグループは、渡来人のアイデンティティの強い一族なのではないか。以前紹介したアメノヒボコおじさん等の仮説を前提とすれば、日本書紀は天皇が渡来系であることをボカし、アメノヒボコと天皇との関係も切り離しが試みられていると思われるから、このことが非常にわかりづらい。
かつては、おそらく日本列島と朝鮮半島は今よりシームレスな存在で、九州北部と朝鮮半島南部は対馬を通じて共同体意識を有するほどの共通文化圏だったのではないかと考えられる。これについて九州と新羅の言語的共通性については、過去に私のホームページ限定記事で述べている。そして神武天皇(あるいはそのモデルとなる人物)は、朝鮮南部出身で九州北部あたりに権益を有した有力者だと考えている。まあ、このあたりは通説から外れた話ではないと思うけど。
そして神功皇后や武内宿禰は朝鮮半島南部にルーツを有する王族で、それ故に加羅や新羅の支配権を主張して三韓征伐をおこなったのではないか。こうした同族意識は、北陸地方出身の継体天皇以降から徐々に薄れ始め、白村江の戦いに敗北した際に日本は朝鮮半島との関係をはっきりと決別しようとしたのではないか……というのが、今の私の仮説である。この頃の歴史は日本と朝鮮という二項対立では動いていない。しかし日本書紀は朝鮮半島と決別した『日本』が倭として暦年にわたって天皇を中心に存在していたことを示す性格を含む史書であるから、半島との関係については歯切れの悪い、ぼやけた部分が多い。
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小学館の完訳日本の古典という全集を買いました。将門記が欲しかったんだけど、入ってなかった。ちゃんと確認して買えよ……。古事記は一応子供の頃に児童版を読んだことがあるし、万葉集全六巻はさすがに骨が折れるため、今、日本霊異記の現代語訳から読んでます。私は日本の古典はどうにも知る気にさえならず、長らく遠ざけていたため、まったく知らない。児童向けの図書と学校の教科書以外で、唯一読んだといえそうな源氏物語は、中公クラシックスから出版されたアーサーウェーレ英訳の再翻訳版である。日本のものをそのまま読む気にならなくて……アーサーウェーレは論語の翻訳で知った。それくらい日本の古典を遠ざけていた。ちなみにお恥ずかしながら、私は日本霊異記なるものを今回まで知らんかった。マジで東方シリーズ第一作目のタイトルでしか知らん。
日本霊異記(にほんりょういき)とは - コトバンク
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 日本霊異記の用語解説 - 平安時代前期の仏教説話集。
これは日本最古の仏教説話集らしいです。仏教説話とは、仏教のありがたい教訓が庶民でも学べる物語のこと。愉しみ。前書きで著者の景戒は次のように述べる。善悪の報いは、影が形について離れないようなものである。苦労や快楽が人々の行いに応じて的確に現れることは、それぞれの声が谷のこだまとなっててきめんに返ってくるようなものである。これらの因果の報いを見たり聞いたりする者は、たちまち心が痛み、なんとかそこから逃れ去ろうととまどう。だから、善い種をまけば善い結果を得、悪い種をまけば悪い結果が現れる実例を示さなければ、悪心を改め、仏道へ導くことができようか。
昔、中国では、唐の時代に『冥報記』や『般若験記』が作られ、仏教の因果応報の教えが日本にも伝えられた。だが、どうして他国の伝えばかりを恐れつつしんで、身近な自国の不思議な出来事を信じ恐ろしがらないということでよかろうか。そこで、このことを思うのあまり、世間を見渡してみるに、このまま放置してはおけない。坐して思いをめぐらすにつけても、沈黙しているわけにもいかない。そういうわけで、少しばかり耳にしたことを書きつけ、「日本国現善悪霊異記」と名づけた。これを上中下の三巻にわけ、後世に伝えることにした。しかしながら、筆者であるわたし景戒は、生まれつき賢明な天分を持っているわけでもないし、濁っている心を澄ますこともできない。知識は井の中の蛙のように狭いし、長い間人としてのあるべき道に迷っている。このようなわたしの著書であるから、たとえてみれば名工の刻んだ彫刻に、さらに下手な細工人が手を加えるようなものである。
(中略)
後の世の識者たちよ、どうかあざけり笑わないでいただきたい。お願いしたいことは、この珍しい話を読む人は、まちがった行いをしないで、善行を践み行ってくれることである。どうかどんな小さな悪でも一切の悪を行うことをせずに、もろもろの善をおこなうようにしてほしいものである。
日本書紀成立から100年後のものなので、ちょうど日本が「日本」という意識を持った頃であろう、この前文にもナショナリズムの風があり、気にするほどのものではないとわかってても、なんとなく引っかかってしまう。私がこうなった原因はネトウヨだし、あいつらほんと死なないかな。日本霊異記の正式名称は「日本国現善悪霊異記」だそうで、題名からも善因善果、因果応報の仏説を説くことが本書の試みであることが読み取れる。私は日本霊異記というタイトルから妖怪話を期待してた。
で、一番最初の説話は、「雷をつかまえた話(原題:電を捉えし縁)」というものなんだけど、読み始めてみると、いきなり雄略天皇のセックスシーンから始まる。読者の興味を引く算段だろうか。エロでつかみはオッケー、みたいな。これ、ヤングマガジンじゃなくて、仏教説話集だよね? 因果応報の話をこれからちゃんと説くんだよね? 不安になってくる。これが日本初の仏教説話か。
現代語訳には「后と一緒に寝ていた」としか書かれていなかったので、もしかしてセックスではないのかな、と思って原文を確認したら、もっとはっきりとした明確な表現で雄略天皇がセックスしてたとの旨が書かれていた。「婚合=くながひ=セックス」ね。ちぃ、覚えた。史記に「野合」の語が見られ、正式な結婚ではないとの説から、青姦説まで、諸説幅広く(?)あるのだけど、結婚してからのセックスである婚合と野合とが対義語になるのだろうか。とりあえず、この話を読み進めよう。要約:
雄略天皇の家臣に栖軽という者がいた。天皇が宮殿の寝室で妃とセックスをしていると、それに気づかず栖軽が入室してしまい、天皇は恥ずかしくなって、それをやめてしまった。空に雷が鳴っていたので、天皇は照れ隠しと仕返しの気持ちで、栖軽に雷をつかまえてくるように命令する。栖軽は鎧兜を着け馬を駆りながら、「雷よ、天皇がお呼びだ!」と山々を越えて叫び散らす。すると、岡に雷が落ちているのを発見する。栖軽は神官を呼び、雷を馬車に乗せて宮殿へと帰って、天皇に雷を見せた。その瞬間、雷は光輝き、天皇はこれを恐れて、たくさんのお供え物を捧げ、元の場所に返すよう命令した。
数年後、栖軽が亡くなったため、天皇は雷の落ちていたところに墓を建て、その名誉を讃えて「雷をつかまえた男」と碑文に刻んだ。すると、碑文を見ていた雷が怒り狂い、天から落ちてきて碑を蹴り飛ばした。しかし、雷は碑に挟まって抜けられなくなり、あえなくつかまってしまう。天皇は雷をゆるし、碑を再度建てさせた。そして、「生きてる間だけでなく、死してなお雷をつかまえた男」と碑文を書いた。この地が雷の岡と名付けられたのは、このような次第である。
なんの教訓にもなりゃしないし、仏教説話なのかさえ謎である。私はこういう昔話は好きだから、面白いことは面白いんだけど、教訓はない。これもしかして、仏教説話集ではなく、地名の由来などをまとめた説話集なのだろうか。因果応報の話は?
岡に落ちて拾われたり、墓を蹴ったりする雷が、どんな形態なのかが気になる。
次は狐を妻にして子を産ませた話(原題:狐を妻として子を生ましめし縁)。子供を捨てたりする話じゃなければいいけど、と不安になりながら読む。要約:
欽明天皇の時代、美濃の国の男が妻となる女を探しに出かけると、美しい女を見つけたので、なにをしてるのか尋ねると、お婿さんを探してるとのこと。男がプロポーズをすると女は承知し、結婚して子を産んだ。しかし、男の飼い犬はその女を見ると、いつも吠えて襲いかかるので、女は犬を殺すように男に頼んだが、どうしても男は犬を殺せなかった。ある日、女が米つき部屋に入ると、ふいに犬が飛び掛かってきた。驚いた女は狐の姿を現して逃げ出した。それを見た男は、「お前を忘れないぞ。毎晩私に会いに来てくれ。そして、一緒に寝よう」と声をかけた。そういう次第で、狐は女に化けては男の元に泊まりに来るようになり、狐は「来つ寝」と名付けられた。そして、男は二人の間にできた子に「狐の直」という姓をつけた。美濃の国の狐の直という姓は、こうしてできたのである。ある日、狐女が男の家を訪れたとき、袖を桃色に染めた裳を着ておしとやかな様子で現われた。そして、そのまま裾をなびかせながら姿を消し、二度と男の前に現れなかった。男は妻を思い出しながら、次のように歌った。恋は皆 我が上に落ちぬ たまかぎる 遥かに見えて 去にし子ゆえに。
種族を越えた恋のお話で一安心。いい話だ。この話には、道徳的な教訓などない。道徳的教訓などないが、それが恋愛というものではないか。道徳を云々するばかりが物語ではないだろう。人の情動を喚起するのが文学の力ではないか。それは必ずしも、道徳的である必要などない。まして、恋愛というものが、いつも道徳的教訓に乗せられるものであろうか……と言いたいところである。これが仏教説話集という体裁でなければ。これのどこが仏教説話なのか、よくわからない。いい加減にしてほしい。
それと、「会いに来てほしい」だけじゃなく、「一緒に寝よう」というのが、恋愛情緒をダイレクトにセックスに接続してて、すごく邪魔な感じするというか、やっぱり頭に浮かんじゃうのが、お前、ヤるための通い妻が欲しかっただけなんじゃないか、みたいな気持ちで……。このくだり、必要か? とも思うんだけど、「キツネは来つ寝」って由来のための説話だから、セックス要素が話のコアなところに食い込んでるため、その部分は話の趣旨からして除けない気もする。冒頭から二連続でセックス話の仏教説話集ってどうなんだ。
と思ったんだけど、よくよく考えてみれば、毎晩来て一緒に寝よう~しばらく狐が通い妻をしてた~キツネの名前の由来、までの流れ、ない方が物語としてスッキリするんじゃないだろうか。 「お前を忘れないぞ。いつでも来い」とだけ男が呼びかける→それをおぼえてたのか、一度だけ狐娘は男の前に姿を現し、そのまま何も言わずに姿を消す→男は狐娘を思い出しながら歌を詠む、の流れの方が自然じゃん。やっぱり中盤のセックス云々いらねえ……。もしかしたら、来つ寝のくだりは後付けなんじゃないだろうか。正直、あまりにも不自然。人気取りのためにむりやりエロ要素入れてない……? 美しい着物を着て現れた狐娘がすぐに姿を消し、それに対して歌を詠む男の様が、どうやっても通い妻のエロ部分と接合することができない。
Kannonのまこぴーシナリオ(幼いころ助けたキツネが少女に化けて会いに来る話)も、えーかげんセックスが邪魔な要素だったけど、キツネが女に化けて男と恋仲になる話に邪魔なセックス要素が入るのは平安時代以来の日本の伝統なのか。なぜこんなエロゲみたいな話が仏教説話集に入っているのか。むしろ、エロゲが仏教説話の後裔なのか。Kanonも仏教説話集なのか。Kanonは観音なのか。まこぴーのシナリオの正式なタイトルは、稚児の助けし狐の長じて乙女子に化けて見ゆ縁なのか。実際、Kanonのまこぴーシナリオは、横生衆生への遍く慈悲を説いてるのだから、この話より仏教説話に相応しいのではないか。調べたら、鶴の恩返しや笠地蔵などは報恩説話という仏教説話の類型らしい。へー。
ところで、狐が人の女に化けて人の男と結婚する話は、古来から中国によく見える話なので、景戒が日本独自の説話を集めようとしたはいいけど、これも中国の影響がありそう。
いろいろゆーてますが、狐娘は好きだし、そうでなくともこの話のなかに見える空気感、えも言えぬ情緒みたいなのが好きです。「来つ寝」の通い妻のくだりがなければ、本当に美しい話になると思います。エロだからダメなんじゃなく、不自然だからダメなんだよ、あそこ。ただ、今回も地方の珍しい姓の起源や動物の名前の由来についての話だったので、もう仏教のありがたい教えを聞くのはあきらめた。仏教の説話を世に知らしめたいという著者による前文は、私が魔境に陥って見た幻かなにかだったのだろう。
最後、雷の好意を得て授けてもらった子供が強力であった話(原題:雷の憙を得て生ま令めし子の強き力在る縁)。雷がやけによく出てくるなあ。要約:
敏達天皇の時代、尾張の国の愛知に農夫がいた。ある日、雨宿りのために木の下で鉄の杖をついて立っていた。すると雷が鳴ったので、農夫が思わず杖を振り上げると、目の前に雷が落ち、それが小さな子供になった。子供は「殺さないで。恩返しをしますから」というので、「なにを報いるのだ?」と聞くと、「子供を授けます」と言い、農夫に子供を授けた。
その子供が10歳余りになると、朝廷にいるという力の強い男と力比べをしたくて御所の近くに引っ越した。その頃、力の強い王が御所の東北に住んでおり、それが巨大な石を投げていたのを見て、子供は怪力の男がその王だと気づく。そして、同じ石を王より遠くに投げるのを見せつけた。
その後、子供は元興寺の童子となった。寺では鐘つき堂で毎晩人が死ぬという事件が起こっており、童子はその解決をすると申し出て、夜中に出る鬼を退治した。鬼の頭髪は今でも元興寺に収められている。そのまま童子は成人して優婆塞(成人した信者)になっても寺に住み続けた。寺の田植えの手伝いをしていると、以前の怪力の王が田に水が引けないようにせき止めた。優婆塞は100人でやっと持ち上げられるような石で水門を塞ぎ、田に水が流れるようにした。王は、それをおそれて二度と優婆塞に近づかなかった。優婆塞は僧となり、道場法師と名付けられた。
道場法師が怪力なのは、前世で善行を積んだからであり、そのことを理解せよ。これは日本に伝わる不思議な話である。
あきらめたところに仏教説話が入ってきた。とはいえ、唐突に「前世の善行のおかげ」と言われても困る。どんな善行なのかさっぱりわからないので、いまいち教訓にならない。民間にあった仏教と全然関係ない説話を無理やり仏教にくっつけたようにしか見えないんだけど……。
最初の農夫に対して、雷が「殺さないでください」とか言ってるけど、農夫に雷を殺す理由がないと思う。でも、農夫も命乞いに対して平然と「なにを報いるのだ?」ときいてるあたり、命乞いしなかったら殺す気だったっぽいし、この世界が殺伐としすぎてて怖い。奈良時代怖い。
とはいえ、これは一応仏教説話の体裁を取っているから、雄略天皇のセックスの話より、こちらを最初に持ってきた方がいいのではないか、と思った。「これ日本国の奇しきことなり」と最後にわざわざ書いてあるあたり、著者もそういう意識だったような気もする。
ちょっと仮説を立ててみる。日本に仏教が伝来したのは欽明天皇の時代だったとされており、雄略天皇は欽明天皇以前の人物である。もしかしたら、仏教伝来以前からのそれらしい説話を集めることで、日本にそういったものが古来から存在すると示すとともに、仏教の宇宙論が万世不易の常道であることを示したかったが、やはり仏教伝来以前の日本にはそれらしい説話が残っておらず、こういう形になってしまったのではないだろうか。
狐の説話は欽明天皇の時代、道場法師の説話の敏達天皇は欽明天皇の次の天皇である。このように、説話は時系列順に並んでおり、欽明天皇の時代は、まだ仏教が伝来して間もないから、日本に仏教らしい説話はなく、敏達天皇の時代にようやく日本に一応の仏教説話とすることができそうな話が登場したとすれば、私の仮説の当否はさて置くとしても、この書は案外、それぞれの説話の発生時期について正確な記述がおこなわれているのかもしれない。3話しか読んでない上での想像ですが。