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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

論語注疏の『子夏曰賢賢易色章』の訳をリニューアル。
焚巣館 -論語注疏 学而第一 子夏曰賢賢易色章-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/rongochuso/01_gakuji/07kenkenekishoku.html
 4月16日の更新……になってしまった。ミスで。まあいい。

 子夏という孔子の弟子の言葉。子夏について知らない人に説明すると、日本にて今なお慣用される「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という孔子の言葉における「及ばざる」は子夏のことである。子夏という弟子と子張という弟子のどちらが優秀かと聞かれた孔子は、子夏を「及ばず」と評し、子張は「過ぎたり」と評した。これについて、「では子張の方が優秀なのでしょうか?」と再び質問された際の孔子の答えが、「そうではない。過ぎたるは猶及ばざるが如し。」であった。真面目過ぎて融通の利かないところがあったとされる。

 そういうわけで、現代日本において子夏は一般に地味な印象を持たれている。一般に孔子の弟子で最も優秀な人物と言えば、実績の記録はないが半ば伝説的に孔子の後継者最有力候補だったとされる顔回か、あるいは実際に二国の宰相を歴任して外交力をもって五か国の命運を変えたとされる子貢か、もしくは弟子筋に孟子を有して後に儒教の正統を占めた曾参が挙げられる。しかし、私はこれらに並んで子夏も挙げられて然るべき人物であると思う。

 孔子は生前、当時の中国内にあるほとんどの封建諸国を駆けずり回り、更には周王朝に反して王を名乗った東南の呉や楚にも足を運んだ。もちろん、これは不本意な亡命の旅路であり、孔子たちにとっては大変な苦難であったが、これこそが孔子の教えを中国全土に広める契機となった。孔子から直接の教えを受けた現地の人々が新たな弟子として後に儒教が芽吹く土壌と種を用意した。

 とはいえ、孔子の旅路は教えを広めること自体が目的ではなく、むしろ不本意な亡命であるから行き先は極めて偶発性に依拠するものである。故に踏み入れられなかった地もあり、それが秦や晋などの北西の諸国であった。史記の孔子世家には、晋との国境にある西河が氾濫して孔子が渡れなかったことが特筆してあり、かの地に孔子が足を踏み入れなかった点は重要なことだと見なされていたのだと思われる。

 さて、孔子の死後に北西への布教という遺された仕事を成し遂げたのが子夏である。彼は晋から分裂して後に大国となる魏に仕え、その国侯の師となった。この国侯は後に魏文侯と呼ばれ、当時は新興国であった魏を強国のひとつに押し上げた人物として敬されることになる。

 このように有徳有能の国主の師であっただけで十分な功績であるが、魏が大国に成り上がる推進力は、もちろん文侯ひとりの力ではない。彼が優秀な人材を登用したからで、その中でも大役を担ったのが李克・呉起・西門豹といった賢臣である。

 李克は国家が穀倉を運営して飢饉に備えることを提案した人物で、これは当時の魏のみならず前近代を通して中華王朝の中心的な福利政策のひとつとなる。更に法律の整備を主張して法経という書を編纂したとされ、この内容がのちに中華統一を果たす秦の躍進の秘訣となる商鞅の法に引き継がれ、更には漢王朝の法を整備した蕭何にまで及ぶという。つまり中華王朝の伝統的な法制度は李克に原点があるともいえるわけだが、彼の師でもあったのが子夏であった。

 次に呉起は百戦百勝の将軍で、兵法家としては孫子と並び称され、併せて『孫呉の兵法』とも呼ばれる。また、生涯一度も戦争で敗北したことがなく、実践の用兵家としては孫子に勝るものであった。その彼の師もまた子夏であった。

 先に言っておくと、最後の西門豹も子夏の弟子である。彼が最初に当時の魏を視察していると、農民たちが河の氾濫を抑えて滞りなく農業を進められることを願って生贄の儀式を行っていた。まず西門豹はこれを廃止させた。次に灌漑工事に着手し、農業生産高を飛躍的に上昇させた。ちなみに魏が晋から独立できたのは、この事業の成果と言われている。

 このように、中華王朝の法と福祉の根本を構築した法律家、孫子と並び称される無敗の将軍、一国を自立させるほどの農業生産向上を行わせしめる政治家の三者を育成したのが子夏だったわけである。

 さらに、これは儒教について少し知識がないとわかりづらい成果だけど、儒教には春秋という経典があり、この中心的な解釈を施したのが子夏の弟子の公羊高と穀梁子という二人の弟子である。これは儒教の経典解釈史に極めて大きな役割を果たし、前漢後期の儒者は公羊学派と穀梁学派に別れて儒教を二つに分けるほどの存在であった。この公羊伝と穀梁伝は中華帝国の最後まで一貫して高い権威を占めた注釈書であり、特に公羊学は清末に復興して中国における近代化運動「変法運動」を推進する原動力のひとつにまで至った。

 他にも四書五経の『儀礼』の一部は子夏が編纂したものだとされているとか、偽書とされているけど子夏易伝という易経の注釈書を著したという伝説があるほど占術にも達者だったとされている等、まだまだ数多くの子夏のエピソードはあるが、有名な成果だけでも以上の通りである。

 さて、本章句を見てみると、これまでの曾参や有子に比べ、前回の孔子の言葉に近くて広がりのある言葉だと感じる。「未だ學ばざると曰ふと雖も、吾は必ず之れを學びたると謂はむ」の部分は孔子の言葉を踏まえ、より踏み込んだところまで話を及ぼしていると見てよいのではないだろうか。その一方で、「父母に事へては、能く其の力を竭くし、君に事へては、能く其の身を致す」は、これ自体ではそれほどには見えないものの、集解では「孔氏はいう。忠節を尽くことは、自らの身を愛さないことだ。」という苛烈な解釈が施されており、なんだかなあ、と思う。

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