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≪原文≫
子曰、温故而知新、可以為師矣。
≪書き下し文≫
子曰く、故きを温(たず)ねて新しきを知る、以て師と為す可し。
本章句は、『温故知新』という故事成語にて有名であり、これは「古いことを学ぶことで新たな発見ができる」という意味で解釈されてきた。しかし、古いことから新しいことを見いだすことが、なぜ師となることにつながるのだろうか。この解釈では前段が後段の『師』という概念と十全に接続されていないように思われる。
古いものを古いというだけで棄却せず、そこから新しいものを見いだす者、それは確かに有能な発明者である。しかし、師となるために有能な発明者であることは絶対的な条件ではない。孔子自身、「私は過去を祖述するだけで、自らの独創はしない。自身の信念に基づいて先人の業績を愛好しているだけである。私はひそかに、自分の役割は八百年間歴史を語り継いだ伝説の語り部彭祖に比肩するものだと自負している。(※1)」と述べている。彭祖は過去に起こった事実を述べただけで、自ら創作をしたわけではない。孔子は自ら独創的な発明をしていないと主張し、書物のない時代を生きた伝説の語り部彭祖を自らと同一視していた。発明者であることは弟子を教導するための絶対的な資格ではない。
ところで、師とは相対的な存在である。師は古義では、軍隊の指揮官であったが、ここでは教導者、教師のことである。軍隊の指揮官に指揮される兵士が必要なように、教導者には教導される弟子が必要である。
師という語から連想される者と聞いて想像を喚起されるもの、年長者、有職故実や古典などの学識が深い者、伝統的な技術に通じた者……こういったイメージに発想を引きずられ、具体的な特性を検討することに気が回らず、ついつい従来的な解釈に納得してしまうのは理解できる。しかし、本章句を正確に解釈するなら、後段に現れる『師』の特性に対して、よりスムーズに接続できる解釈を前段の『温故而知新』に施すべきであろう。師の本質は弟子との関係にある。
弟子と師が相対的な概念であるのと同様に、『新』は時間における相対的な概念である。弟子と師の概念が互いの存在を必要とするように、『新』にも過去の存在がなければ成立しえない。
『新』とは何であろうか。「古いことから新しいことを学び取る」という『温故知新』の従来的解釈は、欧州におけるルネッサンスなどの古いものから革新的な概念を発見する歴史的事象を想起させる。また詩経には『周は旧き邦であるが、その天命は新たなものである(※2)』という一節も登場し、これは古くからある周という国が新たに天命を受けて時代を築くという意味で維新の語源となったが、これも「温故知新」という古事成語と重ね合わされる。維新にせよ、ルネッサンスにせよ、その後の未来を切り開く印象が強烈であるために、ついつい『新』という語の含意に、我々は過去との対義語として未来を見出してしまう。そのために、ついつい「過去のものから新たな発明を着想する」という解釈を施してしまうのだ。
しかし、『新』という概念には『未来』という含意はない。あるいは極めて二次的な含意である。『過去』との対比において、『新』という語が直接含意する所は『現在』である。それは、最新という語が現在そのものか、あるいは過去の中で最も現在に近い時点を意味することからも明らかである。100年前の技術と対比して昨日や今日に発明された技術を最新と呼ぶことはあれども、100年後に開発されると想定される技術を現在から見て最新技術と呼ぶことない。先述の『温故而知新』という前段において対比されているのは、過去と現在である。
また、『温故而知新』における過去は『古』ではなく『故』の字が当てられている。『故』とは何か。第一義には「事の起こり」「原因」であり、第二義には「経歴」「来歴」である。『故』で示される過去とは、現在に至るまでの過程であると考えられる。また、『温』は『温習』という語があるように、確認することである。温故とは「これまでの過程を確認すること」であると解釈できる。
『これまでの過程を確認することで現在を理解することができる者に、弟子たちを教導する師となる資格がある。』
このように本章句を解釈すれば、従来の解釈とはまったく違った景色が見えてくる。
人は何も知らずに、赤子としてこの世界に生れ落ちる。赤子には現在しかない。目の開いた赤子の眼前に家が建てられていても、それを”建てられた家”とは認識しない。土台を築き、柱を立て、床を張り、梁を渡し、屋根をかけ、壁を塗って戸窓を開けた”家に至る過程”を赤子は認識できないのである。赤子には『新』しか存在しない。『新』は過去との相対的な存在であるが、赤子にとっては『新』が絶対である。ゆえに『新』が『新』であることも知ることができない。その赤子に『故』を辿らせ、その果てに『新』を位置付ける営為が教育である。
もし、この赤子が誰にも何も教わることなく野山に放り出されるとしたら、目の前の家を建てる方法を着想することができるだろうか。ただ一人で誰にも学ばず手本となるものもなければ、ほとんどの場合は一生をかけても斧をつくり木を切るところまでも、おそらく行き着かないはずである。言語も同様で、現在のような複雑な言語を構築することは一代では成し遂げられず、幾ばくかの種類の鳴き声を発明するにとどまるであろう。そのような野生の人類が何千何万集まろうと、一代でコンピュータが発明されることはない。このように、人類が一代のみ存在していても、その有様は所詮動物の一種として他との差異を見出すに足らない存在である。
しかし、生物の進化は歩みが遅いが、人間の生活は原始から古代、中世から近代にいたる過程で激変している。なぜか。人間が教育という形で過去の事業を引き継いだからである。荀子は言う。「君子と他の人々は生来によって差異があるわけではない。君子は善く物に仮(借り)るのだ(※3)」と。『学』とは、人からの『仮(借りること)』によって成立している。
我々は時間の中に生きている。現在は過去との連続性に成立している。荀子は言う。「干越夷貉――いかなる民族の子であれども、生まれたばかりの赤子は同じ声で泣くのに、成長するとまったく違った言語を話し始める。これは教育がそうさせているのだ(※4)」と。赤子という素体はあらゆる民族に関わらず似通った性質を持って誕生するが、それ以後に教わったもので性質が異なる。論語では人間について、「うまれつきの性質は似通っているが、習俗は異なっている(※5)」と述べられている。
赤子が教わった民族の言語は、この赤子が生まれる以前から存在する。そして、言語はその過去、その過去から更にその過去、変化を繰り返しながら連綿として受け継がれてきたものである。言語には、現在を成立する過程が存在している。
言語に限らず、技術、儀礼、音楽、料理……赤子が生まれたのち、大人になるまでに教育されるものは、その赤子が存在していない時から連綿と続く過程を持ち、時と共に人々により肉付けされ、あるいは削ぎ落とされ、現在に引き継がれてきたものである。赤子は自らが誕生する以前を、自らが引き継ぐことで大人になり、自らもそれを変化させながら、次世代へと引き継ぐ。赤子は成人するにあたり、他者であった過去との連続性に自己を位置付けられる。
また、これは孔子の教えにおける根本原理である仁とも、儒教における孝の概念とも連続している。孝とは肉体的に過去からの連続性がある両親との精神的な繋がりである。そこから孔子は血縁に由らぬ人から人への思いやりの心『仁』を抽出した。仁とは、他者を自己に重ね合わせること、則ち、他者を自己として受け入れる営為である。それは、自己の存在以前の過程『故』から現在『新』に至るまで学んできた他者である師を、自己として受け入れる営為、則ち『学』にも通じている。そして、孔子と顔回がそうであったように、師弟は血縁を越える関係である。人は『学』によって技術を、知識を、精神を、まるで蝋燭の灯のように、人から人へと伝えることができる。
孔子は言う。「これが民衆だ。夏、殷、周――これら三代の王朝すべての文化が連続していることは、他でもない彼らが証明している。(※6)」と。また、孔子は弟子の子張に未来を知ることができるかを質問されて、次のように答えた。「殷王朝は夏王朝の文化を引き継いでいる以上、それらを比較検討すれば、何が切り捨てられ、何が追加されたかを知ることができる。周王朝は殷王朝の文化を引き継いでいる以上、それらを比較検討すれば、何が切り捨てられ、何が追加されたかを知ることができる。これらの歴史法則を解析すれば、周の文化を引き継いだ後も、百世先であろうと知ることができる(※7)」と。孔子は、現在存在する人間の文化が過去からの連続性の上に存在することを知っており、それらを取捨選択することで現在に至る人類の発展があることを知っていた。
人は現在の成立過程を確認することで、現在に至るまでを再生する。家を建築する過程を確認することで家を建設することができるように、学芸にせよ、武芸にせよ、技術にせよ、師が弟子に自らの業(わざ)を伝えることは、現在に至るまでの過程を伝えることである。
師は過去から現在に至る道を継承し、それを他者に伝えることで、弟子を過去との連続した時間の中に位置付ける者である。ゆえに、これまでの過程を確認することで現在を知ること、それが師の条件となる。
※1 論語述而第七
※2 詩経大雅文王篇
※3 荀子勧学第一
※4 同上
※5 論語陽貨第十七
※6 論語衛霊公第十五
※7 論語為政第二PR -
子謂子夏曰、女爲君子儒、無爲小人儒。
子、子夏に謂いて曰く、女(なんじ)は君子の儒と為れ。小人の儒と為ること無かれ。
儒教における経典は詩、書、礼、楽、春秋、易であり、これを六経という。これらは古代中国の一般教養であり、詩は文学、書は太古の歴史書であり、当時の歴史学と言っていいだろう。礼は伝統慣習であるとともに、官制や社会制度なども総合されたもので、文化史や倫理学であると同時に法学や政治学に近い。楽は現在でも教養として一般的な音楽である。この中で近代的な教養との対比で最もわかりづらいのは占いであるところの易ではないだろうか。しかし、古代ローマの基礎教養である自由七科芸には占星術も含まれており、これは天文学に通じていた。易占は陰と陽の組み合わせから2、4、8、64種類の卦を得て行う。易経の繫辞伝には「数を極め来を知るは之れ占と謂う」とある通り、易には数学的要素がある。また、占いは未来を知ることであるから、時間のすべてを知るための森羅万象への洞察を含み、宇宙論、哲学的要素も含まれている。たとえば、形而上、形而下という語彙は、易経の「形而上者謂之道、形而下者謂之器」に由来する。
易の内容について例を挙げるため、試しに今から実際に占ってみよう。一覧表はこちら。まず、コインをできれば6枚用意して(無理なら3枚でもいい)一枚ずつ投げて、表か裏かを見る。一枚投げるごとに、"下から"順に6枚並べ、表は陽、裏は陰として、卦を見る(もし3枚なら、最初に前半の結果を覚えておいて、もういちど3枚投げる)。次にさいころを投げ、出た目の爻を見る。試した人はどんな結果が出ただろうか。私は今、山天大畜という卦の三爻を得た。次のような内容である。山天大畜。大畜利貞。不家食吉。利渉大川。
良馬遂。利艱貞。日閑輿衛、利有攸往。
大畜は、貞に利し。 家食せずして吉。 大川を渉るに利し。
良馬逐う。艱貞に利し。日に輿衛を閑えば往く所あるに利し。
解釈は流派などでさまざまであるが、そのまま読めば、「まっすぐにすればうまくいく。家で飯を食わなければなおよい。大河を渡れ」「良馬を追う。今の苦労は実を結ぶ。毎日ちゃんと鍛錬していればうまくゆく」というもの。「愚直に努力せよ。外で人と食事をとりながらの交流をするとなおよい。苦難を乗り越えよ」「その後の人生をスムーズに行うためのものが手に入る。今のうちに毎日努力せよ」くらいの意味だと受け取っておこうか。「〇〇して吉」「〇〇に利」などの文言を見ての通り、文体は神社のおみくじとよく似ている。日本のおみくじの文言の元祖は易なのだろう。
易経の大半はこういった占いの結果をずらずらと並べられたものなので、頭から読むと退屈しやすい。私は四書五経に目を通そうと無理やり卦を順番にひとりで読んだとき、死んだ魚のような目をして字を追うばかりで、頭に全然入らなかった。自分で、あるいは友人と占い遊びでもしながら、ネットの易占いの記事を調べ、その解説を読むのが、とっかかりとしては一番簡単な方法ではないかと思う。
ところで、易のはじめの卦、乾は天へと昇る龍を描く。乾、元亨利貞。
初九。潜龍。勿用。
九二。見龍在田。利見大人。
九三。君子終日乾乾、夕惕若厲。无咎。
九四。或躍在淵。无咎。
九五。飛龍在天。利見大人。
上九。亢龍有悔。
用九。見羣龍无首。吉。
乾は、元いに亨りて貞しきに利ろし。
初九。潜龍なり。用うるなかれ。
九二。見龍、田に在り。大人を見るに利ろし。
九三。君子終日乾乾し、夕べに惕若たり。厲うけれども咎なし。
九四。あるいは躍りて淵に在り。咎なし。
九五。飛龍天に在り。大人を見るに利ろし。
上九。亢龍悔あり。
用九。群龍首なきを見る。吉なり。
龍は水を司る存在で、地上に雨を降らせるのも龍である。震、雷、雲。いずれの部首も雨冠であり、すべて龍に関係する。震、あるいは天震は、轟轟と音を立てながら蠢く龍が天を揺るがすことを謂う。龍は目を焼くような眩い光を伴い、天空から轟音とともに大地に降り、時に山野や宮殿を焼き尽くして地に潜る。これが雷である。地中で龍が暴れまわると大地は揺れて人家の梁柱を悉く砕き、崩れ落ちる山の土石流は悉く家屋を圧し潰す。これは天震が地中で起こること、ゆえに地震と謂う。暴風雨、河の氾濫、津波もすべて水を司る龍のしわざであり、悉く人の生命を奪うものである。
龍の気まぐれひとつで、善人悪人の別なく、人は理不尽にあっけなく死ぬ。しかし、人は龍の余禄を以て生きるしかない。龍の降らせる雨が人の生命を繋ぎ、植物を実らせ、動物を養い、それを食してまた人は生命を繋ぐ。人は旱魃に遭えば干上がり、水の尽きるを怖れて川縁に集住し、それを巡って相争う。しかし、人が殺し合って占有を得た川辺の住処も、龍の気まぐれですべて流され、人も水の中に消える。まさに犀の皮膚にたかる蚤虱の如き存在である。
古代中国の人々は、龍を神と畏れた。ゆえに個人はまだなく、人ひとりの生命は軽い。しかし、それは敬虔さのあらわれである。人は自然と共にあった。
今回の章句は、孔子が子夏という若年の高弟に対し、「お前は君子儒となれ。小人儒となるな」と諭す内容である。君子は立派な人、小人はつまらない人と解され、論語ではこの二分法が頻出する。
古註では、君子儒とは道を明らかにせんとする者であり、小人儒とは名を誇るのみの者であるとする。これは註釈の書かれた当時の儒者に対する批判の色彩が強いのではないかと思われる。
朱熹の新註は、「君子儒は己の爲にす、小人儒は人の爲にす」「君子小人の分は、義と利との閒のみ」と程子、謝氏の言を引用する。そして、朱熹自身の見解として、「利とは金儲けだけの話ではなく、公を滅して私を優先し、自己に合わせて便宜を自ら図るようなことも含み、天理を害するものはすべて利である」と公と理を強調する。朱熹の見解部分に関しては、あくまで朱子学の体系に忠実なもので、その前提を抜いてしまうと違和感が残る。しかし、程子、謝氏の引用部分に関しては、憲問篇第十四の「古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす」、里仁篇第四の「君子は義に喩り、小人は利に喩る」を念頭に置いているものであろうから、違和感がない。前者は「儒」を「学者」と解釈して憲問篇の章句と関連付け、後者は「君子」と「小人」の部分に着目し、それを用いた章句を引用したと考えられる。「君子は徳を懐い、小人は土を懐う」「君子は刑を懐い、小人は恵を懐う」「君子は周して比せず、小人は比して周せず」「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」など、君子と小人の二分法を総括した内容が、ここでの君子儒と小人儒に含有されているとする解釈は、確かに無難であろう。
ところで、孔子を開祖とする宗教は儒教、学問は儒学と呼ばれ、孔子の教えに奉ずるもの、あるいは孔子自身の代名詞として儒の字が一般に用られるので、この章句もなんとなく、儒の意味を学者や政治家、そうでなくとも孔子の教えた学問や道徳を志す者だと受け入れた前提で読むことができるが、実際には、論語において儒という語は、この章句にしか登場しない。孔子の死後200年後の孟子も、儒という語は一度しか用いていない。孟子の更に100年後の荀子によって、ようやく儒という語が頻繁に用いられるようになる。対立する学派が増えたから、自らの学派を強く規定し、自覚する必要が出てきたからかもしれない。
荀子は勤學篇で「陋儒」「散儒」、儒效篇で「大儒」の語を用いて儒の中に「よい儒」と「悪い儒」があると指摘している。陋儒とは、体系的に学問を修めていない者、散儒とは知識はあっても礼を学ばず社会的な実践をもたない者である。大儒とは、周公のことで、王がいなくとも政治を代行して治世を保った人の代表であり、荀子のイデオロギーとして、王が直接政治をせずとも礼制に基づいた政治機構があれば政府は成立するという「後王思想」があり、その構成員が儒者である。かくして、その後の儒者の主流は王朝に仕える官僚となる。
では逆に、孔子生誕以前の儒とはなにか。儒は需の人と書く。需は求めること、則ち儒とは求める人である。なにを求めるのか。雨である。需は雨冠である。雨冠は龍に関連する。太古の儒は雨乞いの巫子(シャーマン)であり、ゆえにその占術たる易の冒頭には水神の龍が登場する。
孔子の母は顔徴在という巫女であったと史記は伝えており、父の遠い先祖は殷の王族である。殷の王は祭祀王であり、初代王である湯王は自ら雨乞いを行った。また、子夏の姓は卜である。卜とは卜筮師、則ち巫子を起源とする姓であると伝えられ、子夏易伝という子夏が著したとされる易の註釈も存在する。現存する子夏易伝は、現在の文献学では偽作とされているが、多くの史書などの記述から、子夏が易を用いていたのは確かなようである。
なぜ易が儒教の経典なのか。儒の元来用いた巫術だからである。なぜ易の冒頭が天空に昇る龍なのか。儒が雨乞いの巫子だからである。そう纏めることができる。そして、論語にて唯一孔子が子夏に儒と呼びかけたのは、子夏が巫子の関係者だからではないかと推測できる。
ところで、孟子は易について言及しておらず、頻繁に言及しているのは荀子であり、その学統の師祖である子弓は、孔子伝来の易を習得していたといわれる。しかし、荀子は易と関係の深い学統で学び、儒と自認するにもかかわらず、雨乞いについて次のように言う。雨乞いをして雨が降るのはどうしてだろうか。言ってしまえば、理由などない。雨乞いをしなくても雨は降る。日食や月食の際にお祓いをしたり、旱魃の際には雨乞いをし、卜筮をしたのちに事を決するのは、なんらかの効果を求めているのではない。ただの装飾である。ゆえに君子たるものは装飾をおこない、百姓はそれを見て神を信じる。これを装飾であると自覚してやるなら吉であるが、神を信じてこれをおこなうのは凶である。(荀子・天論篇)
この荀子の論は、近代的、唯物論的、理性的、科学的……そういった賞賛を一般に受ける条である。子夏の弟子である西門豹にも、洪水に対して効果のないまじないをおこなっていた巫女を処刑し、灌漑工事を行った逸話が残っている。西門豹にせよ、荀子にせよ、儒を任じ、占術である易をよく学んだであろう者が、古い雨乞いの巫術を否定した事実は興味深い。そして、子夏の弟子・李克と荀子の弟子・李斯と韓非は、後に法家に分類され、合理的な刑罰を政治の中心的議題に置いた。
雨乞いを起源とし、オカルティズムに基づく易占を学んだ儒者が、迷信の排除をおこなうことを不思議に思われるかもしれないが、そうではない。冒頭で引用したように、易は龍の行動を記録する、つまり自然を観測して法則を見出し、人類の適切な対応を探り出す試みであり、雨乞いの儀は、人類の手で自然を操作する試みである。それが近代科学的視点で合理的であるかどうかは関係ない。西門豹による巫女の処刑と灌漑工事の逸話は、西門豹が河の流れをコントロールできる、則ち、龍を巫女より巧みに操れることを示したものであり、単純に迷信と合理主義の対立としてのみ捉えてはならない。自然を克服する意志は、易や雨乞いからも間違いなく一貫している。雨乞いとしての儒や易占術の根底には、その一要素として、人類が自然を克服するという発想がある。
しかし、この荀子の思想を孔子の思想と比較して検討してみると、やはり荀子には欠落したものがあると気づくだろう。確かに、子は「鬼神を敬して之れを遠ざく。知と謂う可し」といい、あるいは「子、怪力乱神をかたらず」と論語で述べられるため、荀子の合理主義と近似した考えを有しているかと思われがちである。しかし、これらには決定的な違いがあることを、我々は見て取らなくてはならない。ここでの荀子は、そもそも鬼神など敬しておらず、にもかかわらず、祭祀儀礼としてそれらに接近しているのである。
論語にある「祭ること在すが如くし、神を祭ること神在すが如くす。子曰く、吾祭に与らざれば、祭らざるが如し」とは、自らが主体的に祭に参加する実践と実感に基づく話であり、信心なき虚礼を執り行い、民衆に神を信じさせる話ではない。これは自らの喜怒哀楽を一環として祭事を率先して行うことを旨としている。孔子は人間を中心として尊びながら、いつも超然的な存在としての天を前提とし、それに対して畏敬の念を払ってきた。これは孔子の絶妙な平衡感覚があってこそ為せるわざだったのかもしれない。こうした孔子の持つ敬虔さは荀子からは失われている。
それゆえに、荀子の論理では、君子と百姓を、決して交わらない隔絶した身分としてしか捉えられない。孔子も「善を欲すれば、民善ならん。君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草、これに風を上れば、必ず偃す」と述べており、近代以降、身分制、寡頭制擁護の論理であるとして批難される。しかし、これは為政者が先駆けて規範を見せることであり、少なくとも荀子のように自ら信仰しない神を祀り、民に信仰させることではない。荀子の挙げた儀礼の譬えでいうなら、為政者が率先して儀礼に敬意を持たなければ、民衆もまた儀礼に敬意を持たない、というのが孔子の思想である。荀子は民衆と為政者が完全に切り離されているが、孔子の場合は連続した同じ地平に存在する。
荀子の冒頭、勤學篇の「干越夷貉の子、生まれて聲を同じくし、長じて俗を異にするは、教え之れをして然らしむるなり」とは、いかなる民族の子であっても、生まれたときは同じ泣き声で泣くのだから、習俗に違いがあらわれるのは後天的な理由によるものだ、というもので、出自民族の別を越えた人類の普遍的平等を説明する名文である。これは孔子の「有教無類」「性相近し、習い相遠し」といった言葉から敷衍した思想であろう。しかし、後天的な学習のために学問の重要性を荀子は説き、民衆に学問を普く広め教育を施すことを主張しながら、もう一方で、君子は虚構の儀礼で民衆に神を信じ込ませることを推奨するのだろうか。荀子の思想は、目前の論理を見れば非常に合理的であるがゆえに、全体にどこか軋みがある。
荀子は次のようにも言う。天の動向は常に存在し、古の聖王たる堯のために存在しているわけではなく、古の暴君である桀のために亡われたわけでもない。これに対応するために治をもって応じるならば吉となり、乱をもって応じるなら凶である。政治の根本を務め、節制をおこなえば、天は人を貧しくすることなどできず、食料などを備蓄して行動を的確にすれば、天も人を苦しめることはできない。
これは天人の分の思想と呼ばれる。古の記録からも読み取れるように、天はいかなる時にも存在し、季節も天候も天体の運行も変わらず存在した。古の王が天災を克服したのは、夏の禹王が治水工事をしたように、天候に上手く対応したからである、と荀子は説明する。荀子らしい、合理的な思考による見事な論理である。しかし、そこから先、いかなる天災があろうと、対応がうまければ天災は天災たり得ない、というのは、あまりに人の能力への信奉が過ぎ、超越的なもの、自然への敬虔と畏怖を喪ってはいないか。
先ほど、易も雨乞いも、人が自然を克服する意志の側面があると述べた。しかし、もう一側面には、やはり自然への畏敬があるはずである。雨乞いの際、人が生贄に捧げられ、時には王自らが生贄に捧げられたことが呂氏春秋や春秋左氏伝に記録されている。これは人の命を犠牲にしなければ自然に対する要求は行えないという、自然への畏怖と敬意が示されている。易は偶発性から人の運命を占うものであり、これは理性では測れぬ超越的な意志や存在を見ている。雨乞いや易は、一面では確かに、人間が自然をコントロールすることを目指しているが、やはり自然への畏敬の念に基づいた手法であったのも間違いない。
論語には「子、釣して綱せず。弋して宿を射ず」という言葉がある。孔子は一本釣りはしていても、投網を使って一度に魚を取るようなことはなく、狩りをしても、鳥の巣ごと取るようなことはしなかったという。これは、自然資源搾取の抑制のためだと言われているが、その背景には、そういった合理的思考だけではなく、自然への畏敬があったのではないか。無論、「持続可能な開発」のような自然保護の考えにおいて、科学的合理性に基づいた計算も有用である。しかし、それはあくまで手段であり、自然保護の推進には、自然への畏敬や生物への尊重の精神が齎す巨視的な目的こそが遥かに重要な意味を持つのではないか。孟子は、戦国時代の開発競争によって牛山が禿山になったことを嘆き、禹の治水工事は無理やり河をせき止めたりせず、洪水対策に水を逃がすための水路を通す手法であり、過度に自然を傷つけるような灌漑工事が行われる現状を批判した。荀子には、このような考えは薄い。それゆえに、その思想は対症療法的な後手に回ることになる。
また荀子勤學篇に見られる「物類の起こるに必ず始まる所有り、栄辱の来るは必ず其の徳に象る」というような、努力する者は必ず幸福になり、徳のあるものは必ず報われる、という荀子の思想は、あまりに短絡的ではないだろうか。孔子は徳行にすぐれた弟子の顔回や冉伯牛が病に伏せて早逝したことを哀しみ、運命に憤り、天命を嘆き、それでも理不尽な天を怨まぬことを心にする。そこには天への信仰と、現実としての世界との齟齬による葛藤がある。荀子の無邪気な合理的世界認識は、人を超えたものへの畏敬の欠落と無関係ではない。荀子の世界に神としての龍はいない。ゆえに、人そのものを至上とするばかりで、それを超えた道理を見ず、人の高位と低位を自明とする荀子から革命の論理は生まれない。荀子において、龍は王の威厳を示すための飾り、つまり世俗的身分の最高位にある人のための装飾品として登場する。
イギリス市民革命は、「国王と雖も神と法の下にある」という思想と連続したものである。また、アメリカ南北戦争において、南軍は黒人を遺伝学に基づいて差別し、それを克服した北軍の論理は「人は神の下に平等である」という信仰である。それらには、人間を超えた存在への畏敬が存在する。例えば、孟子の場合、「一夫紂を誅するを聞くも、いまだ君を誅するとは聞かざるなり」則ち、易姓革命の論理が存在するが、この論理を見れば、その背景に民衆と君主を超えた道理が存在するとわかるだろう。君主といえども、天の道理に背けば、君主たる資格を喪い、民衆によって打倒される。そして、孟子は新たに民衆から立った者が天命を受けることを正当化する。孟子の場合、たとえ人間中心主義であろうと、それを超える上位の存在をその先に見ている。
前漢では王朝を支えるイデオロギーとして、孟子より荀子が尊重されたが、時代が下るにつれ、徐々に孟子が人気を博し、朱子学では四書五経に孟子が選定された。四書五経で唯一、孔子の手が加わっているとされていない書物である。朱熹は孟子と易を結合させ、孟子に登場する心の官(精神感覚)と耳目の官(身体感覚)の弁別を、易の形而上と形而下の分類に重ね合わせた。そして、精神と肉体の二元論を説き、精神的作用、普遍的法則である理の概念と繋ぎ、人の肉体を超えた存在として、理、道、義などの概念を整理した。西洋に渡った朱子学は、フランス革命に大きな影響を与え、朱熹の思想は王陽明に引き継がれ、陽明学は明治維新のイデオロギーとして日本近代化の原動力になった。
では、この章句に登場する子夏の学統は、その後どのように発展し、歴史に影響を与えたか。
中華民国の時代、辛亥革命に参加した革命家であり、儒者である馬裕藻は、次のように語った。私が生きている間に清朝が滅びるとは思わなかった。革命は一日にして成らず、自分が学問を研究していたのは、次の世代に革命を引き継ぐためだった。私が革命を成功させられたのは、歴史の流れの中の偶然である。革命に必要なのは時を待つための忍耐であり、日々の積み重ねである、と。これはちょうど、水を自然の流れに逆らわせずに水路に逃がす、禹の治水と同じかもしれない。そして、この馬裕藻の研究対象こそ、子夏から弟子の公羊高に伝えられた、春秋公羊伝である。
子夏の弟子は多様である。魏の名宰相の李克、孫子と並び称される兵法家の呉起、灌漑工事と迷信の排除で有名な西門豹などの為政者を育成するとともに、春秋の最も権威ある注釈書、春秋三伝のうち、春秋公羊伝、春秋穀梁伝を記した公羊高、穀梁赤などの思想家、歴史学者、文学者も育て上げた。
公羊伝の内容には天命論に基づく神秘主義的なものが含まれる。そこには、乱世と泰平が循環する歴史観が存在し、徳のある者が必ずしも報われぬという歴史を鑑みるものであり、そこに超越的な天が介在するとして、それを占う。自然現象がなんらかの吉兆や凶兆であると考察され、そのまま近代人が読めば非科学的、オカルトの極みだと感じられることだろう。事実、これは漢代の天人相関説に影響を与え、繊緯説と共に儒学がオカルトに傾いた時期に流行し、予言の書として扱われ、それが廃れると、以後、長らく顧みられなかった。
しかし、清末に公羊学は再評価される。公羊学者の康有為は中国近代化の鏑矢として、立憲運動、変法運動の中心的イデオローグとなり、春秋公羊伝は革命の書として中国近代化の先鋒となる。それは孔子を、本来、王になるべき存在と規定することで、革命運動の元祖と位置付け、その無念を晴らす運動として、革命運動を展開した。超越的な存在への畏敬と、あるべき様にならないことへの憤り、その二者を両輪として、思想は人を革命へと導く。子夏の学問は思想となり、公羊学は中国に近代革命の契機をもたらした。君子は義に喩り、小人は利に喩る。義とは、天の下に我を位置する。目先の功利に惑わされない、大いなるものへの畏敬が君子には求められる。
儒、弱き者。儒とは、柔軟、潤沢、求める者を意味するとともに、小ささ、臆病さ、弱さを意味する。対して、龍は強さ、大きさ、恩恵を与える者を意味する。遥か古の時代、儒者は弱き者と自覚するがゆえに、強大で理不尽な龍と交渉する者であった。 -
子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也。
子曰く、夷狄の君有るは、諸夏の亡きに如かざるなり。
論語の章句には時に、両立しないまったく逆の解釈をされるものがある。
別ではなく、逆であり、それで両立しないような説を立てられては、我々素人としてはいかんともすることができない。
この章句も、最も権威ある註釈である古註と新註で、両立しない逆の解釈をしている。
古註では、たとえ蛮族に君主がいようと、君主がいない中華に敵わないと解釈する。
対する新註は、蛮族には君主がいるが、中華には君主がいないことを嘆いた言葉だと解釈している。
「夷狄之有君、不如諸夏之亡也」の訓読は、古註の解釈だと、「夷狄の君有るは、諸夏の亡きに如かざるなり」となり、新註は、「夷狄の君有るは、諸夏の亡きに如くあらず」である。ここでは、「不如諸夏之亡也」の「不如」の意味がポイントとなる。これは「如かず」か「如くあらず」か。
素人なりに文献批判をしてみよう。
論語での不如の用例は他にもある。
例えば、「子曰、知之者、不如好是者。好之者、不如楽之者は、知好楽」として有名な言葉であるが、これは一般に、「知る者は好む者に及ばず、好む者は楽しむ者に及ばない」と解釈し、知<好<楽の序列を表現する。
古註はこの序列表現、more thanを意味するとして解釈したものである。
また、「子曰、吾嘗終日不食、 終夜不寝、以思無益、不如学也」は、「一般に日中飯も食わず、夜も寝ず、考えることがあったが利益がなかった。学ぶ方がいい」と解釈する。こちらも、考えてばかりいるより、学ぶ方がいい(学ぶに如かず)という序列表現だ。
これらふたつの章句を、新註のように逆に解釈したらどうか。
前者は、知>好>楽となる。無理に解釈すれば、楽しむことより、好むことの方が大事で、知ることが好むことより大事だというのは、他者との共有や享楽より個人の想いが重要で、個人の想いより、その中でも抽象的な知性が重要だ、と。
これはこれで、なにやら含蓄のあるようなないような、なんだか哲学的思弁のような気もしなくもないが、真面目に主張するとしても、なんらかのアンチテーゼであって、何かを逆転させたものとの印象が強いものとなるし、また、知を尊ぶといえども、それより仁を尊ぶ儒学には似つかわしくないように見える。
後者に至っては、日中は何も食べず、夜も寝ず、考え続けたことを「無益」と言ってる。
夷狄之有君、不如諸夏之亡也での新註の解釈に従って、こちらを解釈すれば、無益なものが学ぶことより優れていると解釈することになる。道家者流の無用の用のような逆接でもなければ、このような表現はするはずがない。
このように、「不如」は定型的な構文であり、語義がこれほど乱れる以上、新註の解釈は牽強付会と言わねばならないだろう。
やはり、子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也を素直に解釈すれば、中華は君主がいなくても、君主のいる周辺の蛮族どもより優れていると孔子は言っているのである。おのれ、中華思想め。
さて、近代、第二次世界大戦後においては、古註は自民族中心主義であるとして批判を受け、朱熹の新註、先ほど批判した解釈が尊ばれてきた。
植民地主義、帝国主義の反省を経た世界の国々は、新註のようにこの章句を解釈することで、孔子の思想が現代にも通じる思想であると、戦後の中国文学者たちは主張したのである。
なるほど、批判の内容も、それを受けて中国文学者が新註を尊んだことも、一次的には悪いとは思わない。
確かに、古註は自民族中心主義であり、古陋であると判断できる。対して、新註の解釈であれば、異民族の優れたるところを認める点が進歩的であるとも言えよう。それゆえに、新註を戦後の人々、特に帝国主義を批判する左派が尊んだのも理解できる。
しかし、そこで終わるのは、私には極めて表層的な判断、正誤の解答を求めるだけのお利口な判断に思える。
その"近代的"な価値観から見て孔子を弁護するなら、孔子はレヴィストロースもサイードも知らぬ古代人だから、多元文化主義を理解せず、オリエンタリズムに陥ってるのはしかたない、といったところになるだろうか。古典を読む上では、そういった擁護をすべき局面は、確かに存在する。
しかしながら、それを古代人の古代性、それを退行的としてのみ見ることは、結局、未開の地への偏見となんら変わりないことであると気付かなくてはならない。ある程度、偏見を持つこと自体は当然であったり、やむを得ないものであっても、それらがここで簡単に両立するのは理に合わぬ話である。
むしろ、その"近代的"価値観から着目すべきは、中華の君亡きが異民族の君あるより優れているという、この「君亡き」の部分ではないだろうか。
孔子より少し前の時代、周王朝には空位時代があり、その間は周公と召公が合議することで政治を取り決めてきた。
この時代を共和と謂う。republicの訳語、共和制の名はこれに由来している。
孔子の言わんとするところは、もちろん、自文化中心主義ではあるのだが、ここでの視点が、王より文化に焦点が当たっていることに着目せねばなるまい。
「君主がいないにも関わらず」というニュアンスがあることから、孔子が王制を廃した共和制を説いたとするのは違うだろう。
しかし、文化があれば君主がいなくとも、よりよき社会を保つことができると孔子は考えていたのは間違いない。
対する新註の解釈では、君主がいることが優れてることと完全にイコールで結ばれている。
見方を変えれば、王制をただ是認している新註の方が、よほど前近代的と言えるだろう。
また、孔子より少し後の時代の思想書、列子には、次のような話がある。
越之東有輒木之國、其長子生、則鮮而食之、謂之宜弟。
越の東、輒木之國では、長男が生まれると弟のためとして、新鮮なうちに食べるというのだ。
孔子の生きた時代の異民族とはそういうものである。
列子は儒家批判のために、こういった異民族の風俗を纏め、「此上以為政、下以為俗。而未足為異也」と結論付ける。
上に政策があれば、下に習俗あり。これは異なるとするに足りず、つまり、民衆の生活の容態は違ってても、それはそれで同じ人間の営みと感情がある。ゆえに、華夷秩序によって異民族の風習を蛮習と決めつける儒教は傲慢である、ということだろう。
さて、この人食いの風習をどう思うだろうか。
現在でも、例えば、アフリカの一部ではアルビノを食べる風習などが残っており、それについては様々な議論が為されている。
イスラムとフェミニズムの対立などもそうだろう。
普遍的人権の観点からすれば、人権の啓蒙は自然権である。
ゆえに、暴力を用いてでも、人権をそれらの国に強制することも正当化しうるであろう。
それは中華思想の名の元に儒教を押し付けるのと同様である。
孔子の思想と列子の思想の対立は、今も少しも変わらないまま、現代に横たわっている。
このように考えてみればわかるように、孔子の思想は、結局のところ近代の鏡でしかない。
孔子を自文化中心主義と根源的に批判するのであれば、列子が幼児食いを擁護したように、現在のアフリカでの陰核切除やアルビノを食べる風習を認める立場に立つしかない。
アルビノの子を食べることを擁護するか、それを蛮習として現地を爆撃してでも一掃するか。実際的には、折衷的な立場をとる者が多いだろう(私自身、そうである)。
しかし、それは孔子や孟子も同じである。孔子は異民族の地に足を踏み入れた際は、その地の礼を尋ねるべきだと言ってるし、孟子は戦争での他国への介入は内乱などへの対処における緊急避難であると規定し、その国を制圧した際も、祭事や文化の存廃どについては、現地住民に決定権があるとしている。
この論理はアメリカと中東の問題とまったくの相似形である。
この2500年で、人類は本質的にはまったく進歩していない。
孔子の言葉を安易に否定することで、容易に自らが自文化中心主義を脱し、孔子より優れている誇るのは、それこそ自文化中心主義的な傲慢であると考える次第である。 -
顔回が仁について質問する章句である。顔回は孔子の弟子の中でも、後継者と目された最も有名な高弟であり、仁は儒教の最高徳目とされる最重要概念である。ゆえに、この対話はいわば奥義の伝授であり、論語の中でも特に難解な章句であると考えられるもので、不敏な私に通釈できるかは不安であるが、孔子の「仁」に関する重要な章句であることは判然としているため、蛮勇を振るってこれを解釈しよう。顔淵問仁。
子曰、克己復礼為仁。一日克己復礼、天下帰仁焉。為仁由己。而由人乎哉。
顔淵曰、請問其目。
子曰、非礼勿視。非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動。
顔淵日、回雖不敏、請事斯語矣。
顔回に「仁」について問われた孔子は「克己復礼」を「仁」とし、一日「克己復礼」をすれば、天下は「仁」に帰すると述べる。そして、「仁」は「己」に由るものであって、他人に由るものではない、と顔回に伝える。そこで顔回は、それを行うために具体的な条件を聞く。孔子は、礼でなければ、視たり、聴いたり、言ったり、動いたりするな、とこたえる。顔回は、これを行う努力をすると孔子に告げ、席を離れた。
さて、ここで「仁」とされている「克己復礼」とはなにか。従来的な解釈では、克己とは「自分に打ち勝つ」ことである。ならば、「克己復礼」とは、自分に打ち勝ち、礼に立ち返ることであり、それが孔子の定義する「仁」ということになるであろう。一日で天下、つまり世界のすべてが「仁」に帰するとは、なんともスケールの大きい話である。そして、孔子は顔回に、あらゆることで、礼でないことを一切行ってはならないと命じる。これをそのまま受け取るなら、滅私して礼に外れることなく奉公することが「仁」であり、それによって、たった一日で世界のすべてが「仁」へと帰着する、と考えることができる。
自分がたった一日だけ礼儀作法に外れなければ、世界中の人々が「仁」に目覚める。確かに、孔子は古の帝王である舜が、恭しく礼に則り王座に居ただけで、それ以外になにもせずとも天下のすべてを治めることができたと述べている(衛霊公第十五 無爲而治者、其舜也與、夫何爲哉、恭己正南面而已矣)。とはいえ、礼だけで天下を治めることが可能かは置くとしても、たった一日で天下のすべてに自らの礼の効力を発揮できるものだろうか。いかに礼を強力なものと仮定しても、世界中の人々に正しい礼に則る姿を見せることはできないし、伝聞や間接的な影響を考慮しても、世界中の人々を感化するには一日では足りない。そして、完全に主体性を失った礼儀作法のために自己を犠牲にすべきだと孔子は顔回に命じているのだろうか。もうしそうであるならば、孔子の仁は実態と剥離した効用を騙るだけの迷信的な呪術、抑圧的な古代道徳との謗りは免れない。
しかし、この章句がひとつのパラドックスを含有している。そして、この解釈では、その解決がまったく為されていないのである。
ここで克己するのは誰であろうか。当たり前に考えれば、己である。だが、克己が「自分に打ち勝つ」の意であれば、「自分が自分に打ち勝つ」ことになる。しかし、己が己に打ち勝つのであれば、己が己に打ち負けるはずで、こんなことが成立しないのは明白である。この章句を解き明かすには、パラドックスの解決を図る必要がある。
あるいは、孔子の言葉が「克己復礼為仁」のみであれば、己に打ち勝つ主体を「礼」であるとも解釈できるかもしれない。礼という公共的な概念に、私を殺して奉じる、滅私奉公の精神を説いたものである、と。しかし、上述の通り孔子は「仁を為すのは己に由るもので、他人に由るものではない(為仁由己。而由人乎哉)」としている。仁を為すとは自己の主体的な遂行であり、そして仁とは克己復礼である。ならば、克己復礼とは、人間の主体性に由来する行為であるはずで、やはり克己する主体は己と解釈すべきであろう。
この克己のパラドックスを解決するにあたって、慣習的には、強い自分と弱い自分、あるいは善き自分と悪しき自分とを弁別し、前者が後者に打ち勝つことを想定する。慣用句として克己の語を用いる際であれば、それでいいかもしれない。しかし、この章句においては、強い自分や弱い自分などの二種類の対立する己が存在するとは明記されていない。このパラドックスの解決は、あまりに強引である。
ここで少し迂回しよう。克己復礼とは論語における「仁」の説明である。ならば、丹念に論語をはじめとした経典を引き、そこで説明される「仁」の説明と照らし合わせていけば、克己の意味を、より深く洞察することができるはずである。まず、仁についての論語の他の章句を参照しよう。
孔子は仁に関してはっきりと定義しておらず、相手や状況によって説明を変えている。たとえば、不出来な弟子である樊遅に仁を問われた際は、孔子は「人を愛せ(愛人。顔淵篇第十二)」だと教えた。また、別の優秀な弟子である仲弓に対しては、仁を「自分のして欲しくないことを人にするな(己所不欲、勿施於人。顔淵篇第十二)」としている。顔回との問答に比べると内容が平易であることが分かるだろう。
さて、顔回に次ぐ孔子門下きっての秀才であった子貢は、仁について次のような問答を孔子としている。
この子貢の問答は、顔回の問答と対比するに最もふさわしいものである。子貢は質問した。
「もし、民衆にひろく施しをして救済ことができれば、どうでしょうか。仁ということができるでしょうか」
孔子はこたえた。
「それは仁どころの話ではない。もはや、聖の領域ではないか。古の聖王である堯や舜でさえも、それらのことには心を悩ませたのだ。仁とは、己が立とうと欲して人を立て、己が達さんと欲して人を達し、自分の身近なことに引き寄せて人を考える。これが仁というものだ」
(子貢曰、如有博施於民、而能濟衆、何如、可謂仁乎。子曰、何事於仁。必也聖乎。堯舜其猶病諸。夫仁者、己欲立而立人、己欲達而達人、能近取譬。可謂仁之方也已)
まず、子貢は天下の民衆をひろく救済することを仁だと考えて孔子に質問した。もしかすると、子貢は顔回と孔子の対話を横で聞いており、「一日克己復礼すれば天下は仁に帰する」をそのように解釈したのかもしれない。それに対して、あまりにスケールの大きな話を始める子貢を孔子はたしなめ、仁とはなにかを伝えた。孔子は仁を決して実践の難しいものとしてはとらえておらず、他の章句でも、ただ継続することが難しいとしている。(仁は遠いものではない。私が仁を欲すれば、ここに仁はある。仁遠乎哉、我欲仁、斯仁至矣)(顔回は三ヶ月も心から仁を離さなかった。仁囘也、其心三月不違仁)ここで仁の説明として提示される「己立たんと欲して人を立て、己達するを欲して人を達す」は、要約すれば「自分のして欲しいことを人にせよ」であり、これは「己の欲せざる所を人に施すこと勿れ」の能動的な形である。そして、仁とはこのように「自分に引き比べることができること(能近取譬)」であるとする。ここから導き出せる答えは、「仁」とは自己と他者を重ね合わせ、他者を自己と同様に扱うことである。そして、この「自分のして欲しいことを人にせよ」「自分のして欲しくないことを人にしてはならない」という仁の概念は、「克己復礼」と同一の概念である。
克服、超克など、克には、ただそれに勝ることではなく、それを乗り越える、あるいは、自らの中に取り込む、といったニュアンスを帯びている。克化とは、食べ物の消化を意味するが、克は細かく刻むという意味が含まれるとともに、自らに取り入れることも意味する。また、詩経に「莫其德音、其德克明。克明克類、克長克君(大雅・皇矣)」とあるが、ここでの克は「できる」「はっきりとさせる」ことである。「克長」「克君」は「首長を務めることができる」「君主を務めることができる」ことを意味し、打ち倒すとはまったく違った意味を持ちながら、乗り越える、自らが身に着ける、というニュアンスは共通である。則ち、「克」という字そのものが対象を「はっきりさせる」と「打ち消す」というパラドックスを含有しており、それは「乗り越える」という意味として止揚される。自己超克の思想が仁であると理解しなくてはならない。
こうして、克己復礼のパラドックスはパラドックスのままで解決する。克己とはなにか。己が己であることに克つことである。換言すれば、自己が自己であることを乗り越えることである。これは決して、自己を滅すること、抹殺することではない。荘子は至人には己が無い(至人無己。荘子逍遙遊篇)と述べたが、仁人の克己はこれと違っている。克己とは自己が主体的に自己を顕在化させ、同時に自己を超克することである。
これは、時に自己犠牲を伴うことがあっても、自己犠牲そのものを尊ぶ倫理とは違う。身を殺して仁を成す(子曰、志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁)とは、あくまで己の「身」を殺すのであり、それは他者に自己を見出しているからこそ、自己の身を犠牲にすることができるのである。
それゆえに、克己復礼は欲望の否定ではない。論語において、孔子は富や名誉を欲することについても、道を外れてまで得ようとすることを戒めるのみで、決して欲そのものは否定しておらず(富與貴、是人之所欲也。不以其道得之、不處也。顔淵篇第十二)、政治における五つの美徳のひとつとして、「欲にして貪らず(欲而不貪。堯曰篇第二十)」を挙げている。また原憲が孔子に不欲を仁といえるか質問した際には、孔子は「それができれば大したものだが、仁といえるかどうかは知らない」と返事をするのみであった。(克、伐、怨、欲不行焉、可以為仁矣。子曰。可以爲難矣。仁則吾不知也。欲とともに、克も提示されている)なぜなら、人は自己の欲を知ることで他者の欲を知り、その心を推し量ることができるからである。
また、「一日克己復礼すれば、天下は仁に帰す」とは、決して子貢のいうような「能く博く民に施して能く衆を済う」といった天下すべての民衆に対し、直接的な恩恵を施すことではないし、そもそも礼を遂行する自分を天下の民衆に見られたり、知られたりすることではない。一日とは、僅かな期間のことである。天下のすべてに、自らの行為について知らせることは、堯舜のような古の権力者でも困難であり、仁がそのような大仰な行為でないことは孔子自身が既に説明している。では、「一日克己復礼」した際に「天下が仁に帰する」とは、いったいどのような状態であろうか。それは、その先の礼に関する問答にて説明される。
顔回が克己復礼の実践について方法論を問うと、孔子は、礼でなければ視ない、聴かない、言わない、動かないよう顔回に提案する。確かにこれは一見すると、禁欲と公共への服従を説いてるように見える。しかし、ここでの孔子は無欲を命じて公共に私を埋没させるだけの抑圧的な道徳を説いているわけでは決してない。孔子は「仁については師にも譲ってはならない(當仁不譲於師。衛霊公篇第十五)」と述べており、仁が答えのはっきりした硬直的な公理ではない有機的な概念であるとともに、社会的身分を遥かに超えた普遍性を持ちながら、窮めて自律的でその人の主体性に属するものであるこは明白である。同時に孔子の「人にして仁なくば、礼を如何せん(人而不仁、如礼何。八佾篇第三)」という言は、仁が礼に必要不可欠なものであることを示している。これらを整合すると、礼とは形式としての儀式ではなく、人の本然であり、内在する精神の発露であるとわかる。お辞儀の形式や、儀式の道具の決まりなどはあくまで「儀」でしかなく、「礼」は天の経、地の義、民の行であると春秋左氏伝にて述べられている(是儀也、非禮也。子產曰、夫禮、天之經也、地之義也、民之行也。春秋左伝・昭公二十五年)。孔子は仁と礼とを直列に繋いでおり、固より私と公の対立など想定していない。仁とは主体的でありながら他者との関係性の中に存立し、礼は他者との関係性の中に存立しながら主体的である。
そして、孔子の述べた視る、聴く、言う、動くの四者のうち、視聴は外界を自らに取り入れる行為であり、言動は自らの内部から外界に働きかける行為であると気づかなくてはならない。内在する自己を外在化させ、外在する他者を内在化させる循環に仁は存在する。礼は自己と天下との関係性の総体であり、克己復礼とは、内界と外界とを相互に連動させる様態であると理解できるだろう。これは、個人の絶対性を超克する論理である。
ゆえに、克己復礼は独我論でもない。仁は、自己と天下を一体化すると雖も、主観もまた自己の独占にとどめ置かないからである。人は一人ではない。自己は他者が存在することで成立する。自己と他者とを確認することから仁は出発し、人と人とを紐帯するところに仁は成立する。仁は、他者の中に自己を見出すと同時に、自己の中に他者を見出し、自己に他者を引き寄せると同時に、他者に自己を明け渡さなければならない。
仁とは、自己と他者の枠を超えた世界の包摂である。克己復礼とは、自己に世界を反映させ、世界に自己を反映させる、その循環である。ゆえに克己復礼すれば、天下は仁に帰するのである。