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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

【論語私箋】龍の棲む世界の巫子

子謂子夏曰、女爲君子儒、無爲小人儒。
子、子夏に謂いて曰く、女(なんじ)は君子の儒と為れ。小人の儒と為ること無かれ。


 儒教における経典は詩、書、礼、楽、春秋、易であり、これを六経という。これらは古代中国の一般教養であり、詩は文学、書は太古の歴史書であり、当時の歴史学と言っていいだろう。礼は伝統慣習であるとともに、官制や社会制度なども総合されたもので、文化史や倫理学であると同時に法学や政治学に近い。楽は現在でも教養として一般的な音楽である。この中で近代的な教養との対比で最もわかりづらいのは占いであるところの易ではないだろうか。しかし、古代ローマの基礎教養である自由七科芸には占星術も含まれており、これは天文学に通じていた。易占は陰と陽の組み合わせから2、4、8、64種類の卦を得て行う。易経の繫辞伝には「数を極め来を知るは之れ占と謂う」とある通り、易には数学的要素がある。また、占いは未来を知ることであるから、時間のすべてを知るための森羅万象への洞察を含み、宇宙論、哲学的要素も含まれている。たとえば、形而上、形而下という語彙は、易経の「形而上者謂之道、形而下者謂之器」に由来する。
 易の内容について例を挙げるため、試しに今から実際に占ってみよう。一覧表はこちら。まず、コインをできれば6枚用意して(無理なら3枚でもいい)一枚ずつ投げて、表か裏かを見る。一枚投げるごとに、"下から"順に6枚並べ、表は陽、裏は陰として、卦を見る(もし3枚なら、最初に前半の結果を覚えておいて、もういちど3枚投げる)。次にさいころを投げ、出た目の爻を見る。試した人はどんな結果が出ただろうか。私は今、山天大畜という卦の三爻を得た。次のような内容である。

山天大畜。大畜利貞。不家食吉。利渉大川。
良馬遂。利艱貞。日閑輿衛、利有攸往。

大畜は、貞に利し。 家食せずして吉。 大川を渉るに利し。
良馬逐う。艱貞に利し。日に輿衛を閑えば往く所あるに利し。


解釈は流派などでさまざまであるが、そのまま読めば、「まっすぐにすればうまくいく。家で飯を食わなければなおよい。大河を渡れ」「良馬を追う。今の苦労は実を結ぶ。毎日ちゃんと鍛錬していればうまくゆく」というもの。「愚直に努力せよ。外で人と食事をとりながらの交流をするとなおよい。苦難を乗り越えよ」「その後の人生をスムーズに行うためのものが手に入る。今のうちに毎日努力せよ」くらいの意味だと受け取っておこうか。「〇〇して吉」「〇〇に利」などの文言を見ての通り、文体は神社のおみくじとよく似ている。日本のおみくじの文言の元祖は易なのだろう。
 易経の大半はこういった占いの結果をずらずらと並べられたものなので、頭から読むと退屈しやすい。私は四書五経に目を通そうと無理やり卦を順番にひとりで読んだとき、死んだ魚のような目をして字を追うばかりで、頭に全然入らなかった。自分で、あるいは友人と占い遊びでもしながら、ネットの易占いの記事を調べ、その解説を読むのが、とっかかりとしては一番簡単な方法ではないかと思う。

 ところで、易のはじめの卦、乾は天へと昇る龍を描く。

乾、元亨利貞。
初九。潜龍。勿用。
九二。見龍在田。利見大人。
九三。君子終日乾乾、夕惕若厲。无咎。
九四。或躍在淵。无咎。
九五。飛龍在天。利見大人。
上九。亢龍有悔。
用九。見羣龍无首。吉。

乾は、元いに亨りて貞しきに利ろし。
初九。潜龍なり。用うるなかれ。
九二。見龍、田に在り。大人を見るに利ろし。
九三。君子終日乾乾し、夕べに惕若たり。厲うけれども咎なし。
九四。あるいは躍りて淵に在り。咎なし。
九五。飛龍天に在り。大人を見るに利ろし。
上九。亢龍悔あり。
用九。群龍首なきを見る。吉なり。


龍は水を司る存在で、地上に雨を降らせるのも龍である。震、雷、雲。いずれの部首も雨冠であり、すべて龍に関係する。震、あるいは天震は、轟轟と音を立てながら蠢く龍が天を揺るがすことを謂う。龍は目を焼くような眩い光を伴い、天空から轟音とともに大地に降り、時に山野や宮殿を焼き尽くして地に潜る。これが雷である。地中で龍が暴れまわると大地は揺れて人家の梁柱を悉く砕き、崩れ落ちる山の土石流は悉く家屋を圧し潰す。これは天震が地中で起こること、ゆえに地震と謂う。暴風雨、河の氾濫、津波もすべて水を司る龍のしわざであり、悉く人の生命を奪うものである。
 龍の気まぐれひとつで、善人悪人の別なく、人は理不尽にあっけなく死ぬ。しかし、人は龍の余禄を以て生きるしかない。龍の降らせる雨が人の生命を繋ぎ、植物を実らせ、動物を養い、それを食してまた人は生命を繋ぐ。人は旱魃に遭えば干上がり、水の尽きるを怖れて川縁に集住し、それを巡って相争う。しかし、人が殺し合って占有を得た川辺の住処も、龍の気まぐれですべて流され、人も水の中に消える。まさに犀の皮膚にたかる蚤虱の如き存在である。
 古代中国の人々は、龍を神と畏れた。ゆえに個人はまだなく、人ひとりの生命は軽い。しかし、それは敬虔さのあらわれである。人は自然と共にあった。

 今回の章句は、孔子が子夏という若年の高弟に対し、「お前は君子儒となれ。小人儒となるな」と諭す内容である。君子は立派な人、小人はつまらない人と解され、論語ではこの二分法が頻出する。
 古註では、君子儒とは道を明らかにせんとする者であり、小人儒とは名を誇るのみの者であるとする。これは註釈の書かれた当時の儒者に対する批判の色彩が強いのではないかと思われる。
 朱熹の新註は、「君子儒は己の爲にす、小人儒は人の爲にす」「君子小人の分は、義と利との閒のみ」と程子、謝氏の言を引用する。そして、朱熹自身の見解として、「利とは金儲けだけの話ではなく、公を滅して私を優先し、自己に合わせて便宜を自ら図るようなことも含み、天理を害するものはすべて利である」と公と理を強調する。朱熹の見解部分に関しては、あくまで朱子学の体系に忠実なもので、その前提を抜いてしまうと違和感が残る。しかし、程子、謝氏の引用部分に関しては、憲問篇第十四の「古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす」、里仁篇第四の「君子は義に喩り、小人は利に喩る」を念頭に置いているものであろうから、違和感がない。前者は「儒」を「学者」と解釈して憲問篇の章句と関連付け、後者は「君子」と「小人」の部分に着目し、それを用いた章句を引用したと考えられる。「君子は徳を懐い、小人は土を懐う」「君子は刑を懐い、小人は恵を懐う」「君子は周して比せず、小人は比して周せず」「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」など、君子と小人の二分法を総括した内容が、ここでの君子儒と小人儒に含有されているとする解釈は、確かに無難であろう。

 ところで、孔子を開祖とする宗教は儒教、学問は儒学と呼ばれ、孔子の教えに奉ずるもの、あるいは孔子自身の代名詞として儒の字が一般に用られるので、この章句もなんとなく、儒の意味を学者や政治家、そうでなくとも孔子の教えた学問や道徳を志す者だと受け入れた前提で読むことができるが、実際には、論語において儒という語は、この章句にしか登場しない。孔子の死後200年後の孟子も、儒という語は一度しか用いていない。孟子の更に100年後の荀子によって、ようやく儒という語が頻繁に用いられるようになる。対立する学派が増えたから、自らの学派を強く規定し、自覚する必要が出てきたからかもしれない。
 荀子は勤學篇で「陋儒」「散儒」、儒效篇で「大儒」の語を用いて儒の中に「よい儒」と「悪い儒」があると指摘している。陋儒とは、体系的に学問を修めていない者、散儒とは知識はあっても礼を学ばず社会的な実践をもたない者である。大儒とは、周公のことで、王がいなくとも政治を代行して治世を保った人の代表であり、荀子のイデオロギーとして、王が直接政治をせずとも礼制に基づいた政治機構があれば政府は成立するという「後王思想」があり、その構成員が儒者である。かくして、その後の儒者の主流は王朝に仕える官僚となる。

 では逆に、孔子生誕以前の儒とはなにか。儒は需の人と書く。需は求めること、則ち儒とは求める人である。なにを求めるのか。雨である。需は雨冠である。雨冠は龍に関連する。太古の儒は雨乞いの巫子(シャーマン)であり、ゆえにその占術たる易の冒頭には水神の龍が登場する。
 孔子の母は顔徴在という巫女であったと史記は伝えており、父の遠い先祖は殷の王族である。殷の王は祭祀王であり、初代王である湯王は自ら雨乞いを行った。また、子夏の姓は卜である。卜とは卜筮師、則ち巫子を起源とする姓であると伝えられ、子夏易伝という子夏が著したとされる易の註釈も存在する。現存する子夏易伝は、現在の文献学では偽作とされているが、多くの史書などの記述から、子夏が易を用いていたのは確かなようである。
 なぜ易が儒教の経典なのか。儒の元来用いた巫術だからである。なぜ易の冒頭が天空に昇る龍なのか。儒が雨乞いの巫子だからである。そう纏めることができる。そして、論語にて唯一孔子が子夏に儒と呼びかけたのは、子夏が巫子の関係者だからではないかと推測できる。

 ところで、孟子は易について言及しておらず、頻繁に言及しているのは荀子であり、その学統の師祖である子弓は、孔子伝来の易を習得していたといわれる。しかし、荀子は易と関係の深い学統で学び、儒と自認するにもかかわらず、雨乞いについて次のように言う。

雨乞いをして雨が降るのはどうしてだろうか。言ってしまえば、理由などない。雨乞いをしなくても雨は降る。日食や月食の際にお祓いをしたり、旱魃の際には雨乞いをし、卜筮をしたのちに事を決するのは、なんらかの効果を求めているのではない。ただの装飾である。ゆえに君子たるものは装飾をおこない、百姓はそれを見て神を信じる。これを装飾であると自覚してやるなら吉であるが、神を信じてこれをおこなうのは凶である。(荀子・天論篇)


この荀子の論は、近代的、唯物論的、理性的、科学的……そういった賞賛を一般に受ける条である。子夏の弟子である西門豹にも、洪水に対して効果のないまじないをおこなっていた巫女を処刑し、灌漑工事を行った逸話が残っている。西門豹にせよ、荀子にせよ、儒を任じ、占術である易をよく学んだであろう者が、古い雨乞いの巫術を否定した事実は興味深い。そして、子夏の弟子・李克と荀子の弟子・李斯と韓非は、後に法家に分類され、合理的な刑罰を政治の中心的議題に置いた。
 雨乞いを起源とし、オカルティズムに基づく易占を学んだ儒者が、迷信の排除をおこなうことを不思議に思われるかもしれないが、そうではない。冒頭で引用したように、易は龍の行動を記録する、つまり自然を観測して法則を見出し、人類の適切な対応を探り出す試みであり、雨乞いの儀は、人類の手で自然を操作する試みである。それが近代科学的視点で合理的であるかどうかは関係ない。西門豹による巫女の処刑と灌漑工事の逸話は、西門豹が河の流れをコントロールできる、則ち、龍を巫女より巧みに操れることを示したものであり、単純に迷信と合理主義の対立としてのみ捉えてはならない。自然を克服する意志は、易や雨乞いからも間違いなく一貫している。雨乞いとしての儒や易占術の根底には、その一要素として、人類が自然を克服するという発想がある。

 しかし、この荀子の思想を孔子の思想と比較して検討してみると、やはり荀子には欠落したものがあると気づくだろう。確かに、子は「鬼神を敬して之れを遠ざく。知と謂う可し」といい、あるいは「子、怪力乱神をかたらず」と論語で述べられるため、荀子の合理主義と近似した考えを有しているかと思われがちである。しかし、これらには決定的な違いがあることを、我々は見て取らなくてはならない。ここでの荀子は、そもそも鬼神など敬しておらず、にもかかわらず、祭祀儀礼としてそれらに接近しているのである。
 論語にある「祭ること在すが如くし、神を祭ること神在すが如くす。子曰く、吾祭に与らざれば、祭らざるが如し」とは、自らが主体的に祭に参加する実践と実感に基づく話であり、信心なき虚礼を執り行い、民衆に神を信じさせる話ではない。これは自らの喜怒哀楽を一環として祭事を率先して行うことを旨としている。孔子は人間を中心として尊びながら、いつも超然的な存在としての天を前提とし、それに対して畏敬の念を払ってきた。これは孔子の絶妙な平衡感覚があってこそ為せるわざだったのかもしれない。こうした孔子の持つ敬虔さは荀子からは失われている。
 それゆえに、荀子の論理では、君子と百姓を、決して交わらない隔絶した身分としてしか捉えられない。孔子も「善を欲すれば、民善ならん。君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草、これに風を上れば、必ず偃す」と述べており、近代以降、身分制、寡頭制擁護の論理であるとして批難される。しかし、これは為政者が先駆けて規範を見せることであり、少なくとも荀子のように自ら信仰しない神を祀り、民に信仰させることではない。荀子の挙げた儀礼の譬えでいうなら、為政者が率先して儀礼に敬意を持たなければ、民衆もまた儀礼に敬意を持たない、というのが孔子の思想である。荀子は民衆と為政者が完全に切り離されているが、孔子の場合は連続した同じ地平に存在する。
 荀子の冒頭、勤學篇の「干越夷貉の子、生まれて聲を同じくし、長じて俗を異にするは、教え之れをして然らしむるなり」とは、いかなる民族の子であっても、生まれたときは同じ泣き声で泣くのだから、習俗に違いがあらわれるのは後天的な理由によるものだ、というもので、出自民族の別を越えた人類の普遍的平等を説明する名文である。これは孔子の「有教無類」「性相近し、習い相遠し」といった言葉から敷衍した思想であろう。しかし、後天的な学習のために学問の重要性を荀子は説き、民衆に学問を普く広め教育を施すことを主張しながら、もう一方で、君子は虚構の儀礼で民衆に神を信じ込ませることを推奨するのだろうか。荀子の思想は、目前の論理を見れば非常に合理的であるがゆえに、全体にどこか軋みがある。

 荀子は次のようにも言う。

天の動向は常に存在し、古の聖王たる堯のために存在しているわけではなく、古の暴君である桀のために亡われたわけでもない。これに対応するために治をもって応じるならば吉となり、乱をもって応じるなら凶である。政治の根本を務め、節制をおこなえば、天は人を貧しくすることなどできず、食料などを備蓄して行動を的確にすれば、天も人を苦しめることはできない。


これは天人の分の思想と呼ばれる。古の記録からも読み取れるように、天はいかなる時にも存在し、季節も天候も天体の運行も変わらず存在した。古の王が天災を克服したのは、夏の禹王が治水工事をしたように、天候に上手く対応したからである、と荀子は説明する。荀子らしい、合理的な思考による見事な論理である。しかし、そこから先、いかなる天災があろうと、対応がうまければ天災は天災たり得ない、というのは、あまりに人の能力への信奉が過ぎ、超越的なもの、自然への敬虔と畏怖を喪ってはいないか。
 先ほど、易も雨乞いも、人が自然を克服する意志の側面があると述べた。しかし、もう一側面には、やはり自然への畏敬があるはずである。雨乞いの際、人が生贄に捧げられ、時には王自らが生贄に捧げられたことが呂氏春秋や春秋左氏伝に記録されている。これは人の命を犠牲にしなければ自然に対する要求は行えないという、自然への畏怖と敬意が示されている。易は偶発性から人の運命を占うものであり、これは理性では測れぬ超越的な意志や存在を見ている。雨乞いや易は、一面では確かに、人間が自然をコントロールすることを目指しているが、やはり自然への畏敬の念に基づいた手法であったのも間違いない。
 論語には「子、釣して綱せず。弋して宿を射ず」という言葉がある。孔子は一本釣りはしていても、投網を使って一度に魚を取るようなことはなく、狩りをしても、鳥の巣ごと取るようなことはしなかったという。これは、自然資源搾取の抑制のためだと言われているが、その背景には、そういった合理的思考だけではなく、自然への畏敬があったのではないか。無論、「持続可能な開発」のような自然保護の考えにおいて、科学的合理性に基づいた計算も有用である。しかし、それはあくまで手段であり、自然保護の推進には、自然への畏敬や生物への尊重の精神が齎す巨視的な目的こそが遥かに重要な意味を持つのではないか。孟子は、戦国時代の開発競争によって牛山が禿山になったことを嘆き、禹の治水工事は無理やり河をせき止めたりせず、洪水対策に水を逃がすための水路を通す手法であり、過度に自然を傷つけるような灌漑工事が行われる現状を批判した。荀子には、このような考えは薄い。それゆえに、その思想は対症療法的な後手に回ることになる。

 また荀子勤學篇に見られる「物類の起こるに必ず始まる所有り、栄辱の来るは必ず其の徳に象る」というような、努力する者は必ず幸福になり、徳のあるものは必ず報われる、という荀子の思想は、あまりに短絡的ではないだろうか。孔子は徳行にすぐれた弟子の顔回や冉伯牛が病に伏せて早逝したことを哀しみ、運命に憤り、天命を嘆き、それでも理不尽な天を怨まぬことを心にする。そこには天への信仰と、現実としての世界との齟齬による葛藤がある。荀子の無邪気な合理的世界認識は、人を超えたものへの畏敬の欠落と無関係ではない。荀子の世界に神としての龍はいない。ゆえに、人そのものを至上とするばかりで、それを超えた道理を見ず、人の高位と低位を自明とする荀子から革命の論理は生まれない。荀子において、龍は王の威厳を示すための飾り、つまり世俗的身分の最高位にある人のための装飾品として登場する。
 イギリス市民革命は、「国王と雖も神と法の下にある」という思想と連続したものである。また、アメリカ南北戦争において、南軍は黒人を遺伝学に基づいて差別し、それを克服した北軍の論理は「人は神の下に平等である」という信仰である。それらには、人間を超えた存在への畏敬が存在する。例えば、孟子の場合、「一夫紂を誅するを聞くも、いまだ君を誅するとは聞かざるなり」則ち、易姓革命の論理が存在するが、この論理を見れば、その背景に民衆と君主を超えた道理が存在するとわかるだろう。君主といえども、天の道理に背けば、君主たる資格を喪い、民衆によって打倒される。そして、孟子は新たに民衆から立った者が天命を受けることを正当化する。孟子の場合、たとえ人間中心主義であろうと、それを超える上位の存在をその先に見ている。
 前漢では王朝を支えるイデオロギーとして、孟子より荀子が尊重されたが、時代が下るにつれ、徐々に孟子が人気を博し、朱子学では四書五経に孟子が選定された。四書五経で唯一、孔子の手が加わっているとされていない書物である。朱熹は孟子と易を結合させ、孟子に登場する心の官(精神感覚)と耳目の官(身体感覚)の弁別を、易の形而上と形而下の分類に重ね合わせた。そして、精神と肉体の二元論を説き、精神的作用、普遍的法則である理の概念と繋ぎ、人の肉体を超えた存在として、理、道、義などの概念を整理した。西洋に渡った朱子学は、フランス革命に大きな影響を与え、朱熹の思想は王陽明に引き継がれ、陽明学は明治維新のイデオロギーとして日本近代化の原動力になった。

 では、この章句に登場する子夏の学統は、その後どのように発展し、歴史に影響を与えたか。
 中華民国の時代、辛亥革命に参加した革命家であり、儒者である馬裕藻は、次のように語った。私が生きている間に清朝が滅びるとは思わなかった。革命は一日にして成らず、自分が学問を研究していたのは、次の世代に革命を引き継ぐためだった。私が革命を成功させられたのは、歴史の流れの中の偶然である。革命に必要なのは時を待つための忍耐であり、日々の積み重ねである、と。これはちょうど、水を自然の流れに逆らわせずに水路に逃がす、禹の治水と同じかもしれない。そして、この馬裕藻の研究対象こそ、子夏から弟子の公羊高に伝えられた、春秋公羊伝である。
 子夏の弟子は多様である。魏の名宰相の李克、孫子と並び称される兵法家の呉起、灌漑工事と迷信の排除で有名な西門豹などの為政者を育成するとともに、春秋の最も権威ある注釈書、春秋三伝のうち、春秋公羊伝、春秋穀梁伝を記した公羊高、穀梁赤などの思想家、歴史学者、文学者も育て上げた。
 公羊伝の内容には天命論に基づく神秘主義的なものが含まれる。そこには、乱世と泰平が循環する歴史観が存在し、徳のある者が必ずしも報われぬという歴史を鑑みるものであり、そこに超越的な天が介在するとして、それを占う。自然現象がなんらかの吉兆や凶兆であると考察され、そのまま近代人が読めば非科学的、オカルトの極みだと感じられることだろう。事実、これは漢代の天人相関説に影響を与え、繊緯説と共に儒学がオカルトに傾いた時期に流行し、予言の書として扱われ、それが廃れると、以後、長らく顧みられなかった。
 しかし、清末に公羊学は再評価される。公羊学者の康有為は中国近代化の鏑矢として、立憲運動、変法運動の中心的イデオローグとなり、春秋公羊伝は革命の書として中国近代化の先鋒となる。それは孔子を、本来、王になるべき存在と規定することで、革命運動の元祖と位置付け、その無念を晴らす運動として、革命運動を展開した。超越的な存在への畏敬と、あるべき様にならないことへの憤り、その二者を両輪として、思想は人を革命へと導く。子夏の学問は思想となり、公羊学は中国に近代革命の契機をもたらした。君子は義に喩り、小人は利に喩る。義とは、天の下に我を位置する。目先の功利に惑わされない、大いなるものへの畏敬が君子には求められる。

 儒、弱き者。儒とは、柔軟、潤沢、求める者を意味するとともに、小ささ、臆病さ、弱さを意味する。対して、龍は強さ、大きさ、恩恵を与える者を意味する。遥か古の時代、儒者は弱き者と自覚するがゆえに、強大で理不尽な龍と交渉する者であった。
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