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『修羅の国』というネットスラングがある。これは暴力が野放図にされ、力のみが支配する無秩序な地域の譬喩、特に福岡県を指す。
福岡県にはヤクザの本部が5つも存在し、その中の工藤会は機関銃や手榴弾を所有する武闘派であることから、現在の日本では珍しい銃撃事件が数多く発生しており、住民生活は脅かされ、やくざの襲撃によって町長が射殺される事件なども発生している。そのため警察も対策専門部署を用意して100人以上の監視員を24時間体制で動員し、手榴弾の発見に10万円の懸賞金をかける等の他の地域では見られないような対策を取っており、更には銃の流出もよくあるためヤクザならざる中学校教員までもが拳銃所持で逮捕される事件が発生する等、このような惨状から修羅の国と呼ばれているわけである。要は武闘派のヤクザが暴れているから、それを誇張して「修羅の国」と呼んでいるわけだ。そこから発展して、現在のように「修羅の国」は無秩序な暴力を表現した呼称となった。
思わぬ糞リプに興奮 大体ツイッターは匿名有象無象の修羅の国なので、無秩序に攻撃を受ける 民度が低いこともあり、スイッチを切り替えないと生きていけない とにかく、言ったきり、草逃げが多く、仮に分別のある相手であっても相手の立場を見切って140文字で適切にリプするのは至難の業
— 泣く子も踊る病弱子育て "芳ばしい" 忍者 (@zabehabiah) November 16, 2022テロリスト
— 兎団Ⅳ No.17 mira melon (@melon_mira) June 11, 2020
テロ行為だ
許されない
日本も外国並みに・・・
陛下 悠仁親王 皇族の方々の
警護をもっと
政府は早く法整備を
日本を無秩序の修羅の国に
してはいけない下足箱からロッカーから寝床、はたまた帰りのバスまで全てが無秩序な場所取りから始まる修羅の国でした。最悪。
— カルメン (@carmen_i) September 23, 2019Twitterなんか見るんじゃなかった 此処は地獄の一丁目 無秩序な暴力に支配された修羅の国
— 毒男 (@from_DQOz) February 12, 2019ネット上では無秩序の象徴として修羅の国を持ち出す例が絶えない。日本のネット上では、なにやらヤクザが銃撃戦をやらかせば、やれこの県は修羅の国だ、暴走族や半グレが集団暴行事件を起こせば、やれこの市は修羅の国だと騒ぎ立て、修羅の国だと表現される。
確かに修羅の国は、作中では武の掟によって統治され、男子の生存率は1%と語られており、極めて危険な国家であることは間違いない。男子の生存率は1%て。
しかし、である。作中の修羅の国には半グレやヤクザのような国家とは別の独立した暴力組織などあっただろうか? ない。あるはずがない。作中のジード一派やジャッカル一派のような野盗集団が修羅の国に存在できるかと言えば、できないのである。そんなものが国内に存在していたら、あっという間に殲滅されてしまうからだ。
また、作中には赤鯱という海賊が登場し、やくざ者の武装集団を結成して近海を襲っているが、かつて100人の海賊を率いて修羅の国に赴いた際には、沿岸の警備を担当していた修羅の国の下級戦闘員であった子供ひとりにあっさりと蹴散らされている。男子の生存率1%の過酷な訓練は伊達ではない。赤鯱自身も腕と脚を一本ずつ失い、自らの息子まで置いて逃げることになってしまったため、彼らは以後に修羅の国に近寄ろうとはしなかった。このように、修羅の国には外部から暴力集団が侵入することもできない。
子供の下級戦士でさえこの実力! というのが修羅の国の触れ込みだった。……当初は。よって、国家とは別の暴力集団が5つも国内に存在する余地は修羅の国にはないし、作中にも存在していない。複数のヤクザ組織が相争い、警察にも手に負えないような地域の譬喩として、修羅の国はまったくふさわしくないだろう。
これはおそらく先行して存在した同作由来のネットスラングの「モヒカンヒャッハー」と混同されて用いられているからである。こちらは作中において、無秩序な荒野を通りかかる通行人や、秩序を形成しつつある村落を襲撃し、村人を次々と殺す無法者の野盗集団、それらが人に襲いかかる際にあげる奇声に由来した表現したものであり、これなら確かに福岡県の様態の表現としてふさわしい。
しかし、こうした野盗は第一部の、特に前半における主要な敵キャラクターであって、第二部の修羅の国には登場しない。理由は上記のとおり、修羅の国では一種の『警察』や『軍隊』に絶滅させられるからだ。
あくまで北斗の拳におけるモヒカンの野盗は、体制と秩序を失った世界における無秩序な暴力の象徴である。こうした状況の表現として、当初は「モヒカンヒャッハー」が用いられたが、これは状況の形容であって地域を形容するスラングではない。そこで地域を指して揶揄するために持ち出されたのが「修羅の国」という表現であろう。名前にインパクトがあるし、モヒカンヒャッハーと同じ作品に由来する国名(地域名)であり、確かに同じく暴力によって一般人を虐げる存在ではあるので、雑に混同されて用いられてしまっているのだろう。事実、「モヒカンヒャッハー」と「修羅の国」は、同じ状況の表現において並列して用いられる場合も多い。
いい緊張感で集中できるかと思ったらガバ祭りでしたw
— つよん@暗影 (@24nGRISSER) December 26, 2020
緊張やばい
修羅の国ですよ!トゲトゲベストきたモヒカンヒャッハーな人達だらけです!交番の掲示板で見かけたけど、クロスボウ使う奴なんて、世紀末のモヒカンヒャッハー!位しかいないだろ。
— たくろー (@b_tairyu) May 1, 2022
流石、修羅の国 福岡。 pic.twitter.com/kly7u9h9ZMしかし、作中での修羅の国は決して無秩序な社会ではない。むしろ過剰なまでに秩序立った社会である。
修羅の国のみなさんが謎の組体操をするイメージ図は、上下関係に基づく秩序ある身分社会の証左。まずこの国には、羅将という国家の首長の下に郡将という地域の首長が配置されており、制度的な統治機構を有している。つまり、修羅の国は明確な領土を有し、それを支配する紛れもない国家である。そして、国内で人々を虐げる存在は、あくまで体制に公認された『修羅』と呼ばれる特権階級なのである。修羅は国の体制内の存在なのだ。言ってしまえば、修羅は公務員であり、あるいは貴族である。
そして、なにより修羅の国の支配体制を鑑みるために重要なのは、『ボロ』という賤民の存在である。修羅になれなかった者や落ちこぼれた者は、『ボロ』に身分を落とされ、一生を賤民として過ごさねばならない。ボロとなった者は、全身をボロ布で覆い、場合によって足の腱を切られ、国内の雑務に使役されながら公然と差別される存在である。ここに修羅の国の成熟した統治システムの存在を読み取らなくてはならない。この「ボロ」のような明確に示された社会制度的かつ文化的に規定された身分としての賤民は、北斗の拳の第一部には、まったく見られない要素である。
また、漫画というメディアは、絵的から描写の意図を読み取ることが重要である。秩序のない世界から始まる北斗の拳において、登場人物は概ね動きやすいTシャツと短パンや、頑丈かつ邪魔にならないジーンズや皮かデニムのジャケットを着用し、あるいは肩パットや鎧のようなもので武装しているが、ボロはダボダボのローブのようにボロ布を纏っている。これは秩序において戦闘からかけ離れた内務の担当者であることや、反乱を起こさぬように抑圧された存在であることが示されている。また、不具者やそれに類する存在であることを示すように腰が曲がり、ひとりの人格を有さないものとして扱われていることを示すように、ガスマスクで顔が覆い隠されている。こうした描写から、彼らが異質な存在だと読者に強く印象を与えるとともに、作中の意図として、制度によって公認された賤民という、これまでなかった役割を有する存在だと示されるのだ。
そして、特権階級の修羅にも等級がある。まず、12歳以上の男子は国家が定めた修練場で特訓と死闘を繰り広げる。しかも、まだ彼らには個人の名が与えられず、仮面をつけることが義務付けられる。これはつまり、彼らが半人前、人間未満として扱われていることを社会的に位置づける文化である。こうして15歳までに100回の死闘を勝ち抜くと、ようやく修練場を抜けて正式に修羅となることができるものの、まだ彼らは仮面をつけたまま、名前を許されることなく治安維持部隊などに編入される。ここで更なる成果を挙げた者だけが、仮面を外し、名を得ることが許される。また、結婚も更なる死闘を勝ち抜いた修羅に与えられた特権であり、配偶者は国から進呈される。よって、女性は結婚と出産のための道具に過ぎない。この過程で死闘に敗れながら命は保った者等がボロになる。
このように「ボロ」「仮面」という国家が制定した服飾や「名」という社会関係上の「称号」という文化的社会的スティグマによって人の上下尊卑と栄辱は視覚的にも社会関係においても可視化され、人の尊厳を体制に公然と組み込み、国家の存在そのものをも正当化するのが修羅の国である。修羅は街で女性を取り上げ、あるいは反乱を企てたボロを惨殺し、後半では反乱の鎮圧のために村ひとつを丸ごと処刑する。これは民衆を虐げるという意味では野盗と同じであるが、これらはあくまで領域国家の公務員による国内の社会治安の維持活動や貴族の儀礼と特権なのだ。
おそらく、修羅の国のモデルのひとつとなっているのは、古代ギリシャの都市国家スパルタであろう。ギリシャには市民と賤民の別があり、スパルタにおける賤民は永遠に市民となることはない。市民から生まれた新生児は政府に公認された役人に見定められ、虚弱な者は山に遺棄される。成長して7歳になると家庭から取り上げて政府主導で共同生活を送らせ、12歳以上になると軍事調練が始まる。軍人としての勇猛さを示す行為として、彼らに対して賤民に対する暴力や盗みが、むしろ奨励された。18歳で国家の承認を得て正式に市民となるが、従軍が義務付けられ、そこで臆病な態度を見せれば、髭の半分を刈られた状態で生活することを強制され、あらゆる共同体から追放される。まさしく修羅の国であるが、スパルタもまた、古代世界においては非常に高度な文明を有しており、治安維持に長けた極めて秩序立った都市国家だった。賤民が反乱を企てているという噂があれば、それだけで処刑部隊を送り込んで虐殺し、国家が成熟すればするほど、賤民への弾圧は苛烈になっていった。暴力の支配と序列によって秩序を形成したのである。
これに近いイメージの社会を近代から探すなら、それは福岡県よりもイタリアにおいて治安警察に強権を付与し、マフィアを根絶したムッソリーニのファシズム党だろう。あるいは、優れた者だけが生き、弱き者は死ぬか隷属すべきだとする修羅の国の在り方は、ナチス政権の優生思想とも近似している。作中でもボロの間で救世主『ラオウ』の到来とともに解放されるとする信仰の存在が描かれており、これはおそらくナチスに弾圧されたユダヤのメシア信仰がモデルであろうから、修羅の国のモデルにはナチス体制が含まれているのかもしれない。また、ヤクザよりもそれを「疑わしきは罰する」という形で罪に問える暴対法の方が修羅の国に遥かに近い。
修羅の国の正体とは、体制なき無秩序や体制外の暴力集団によって危険に陥った国家ではない。苛烈な序列を形成することで、強権的な治安維持を行ないながら、無秩序な世界における暴力集団以上の抑圧と収奪を生み出した国家なのである。
北斗の拳の修羅の国編において描かれていることのひとつは、この苛烈な秩序による暴力と収奪への抵抗である。そして、第一部と比較して評判のよろしからぬ第二部自体、意図してかせずにか、このテーマが冒頭から一貫して描かれているのである。このシリーズでは、それについて論じよう。
あ、一つだけ言っておくと、テロリスト
— 兎団Ⅳ No.17 mira melon (@melon_mira) June 11, 2020
テロ行為だ
許されない
日本も外国並みに・・・
陛下 悠仁親王 皇族の方々の
警護をもっと
政府は早く法整備を
日本を無秩序の修羅の国に
してはいけない
お前の考え方がよほど修羅の国に近いぞ。PR -
質問箱で何度も勧められるため読んでみた。面白かった。最初は男のDVを延々見せられるだけで気分悪かったけど。
まんべんなく描写にホラー漫画の技法、文法が用いられており、それが非常にグロテスクで居心地の悪い心地よさあふれる不条理ギャグとしてたのしめます。楳図かずおがホラー漫画とギャグ漫画を同源のものとして捉えていたのと同じですね。
この作品は特に作家が女性なので(だよね?)、心理描写が非常に女性的で、それもホラー漫画の文法。っていうか、レディコミの心理描写ってホラーだったりサスペンスだったりしますよね。序盤からずっと演出やキャラクターの心理描写の描き方がホラー漫画のそれだったけれど、終盤で文子がチトセを幼児化して世話を見たり、チトセを着たりする展開に至っては、ホラー漫画それ自体としか言いようのない内容。逆に言えば、それがわからなかったら結構メチャクチャな漫画に見えるかもしれない。これ、すごく正統派な漫画だよ。たとえば、『まことちゃん』とか『殺し屋1』とか、そういうものに近いと捉えれば、わかりやすいかもしれない。
落下傘ナースを最初に勧められた頃って、確か邪神ちゃんドロップキックを読みながら邪神ちゃんとメデューサについて、「邪神ちゃんとメデューサはカルカチュアの更にコピーであって、暴力ヒモとDV依存みたいな関係を表層的なネタとして扱っているだけで深みがない。」みたいな話してたと思うんだけど、あっちはせいぜい男のクズにいくぶんかの生々しさがある程度の浅いもので、こっちは女側の生々しさなのでつらい(まあ、邪神ちゃんは女性キャラなのだけど)。邪神ちゃんドロップキックは所詮男の漫画でしかなく、あれは児戯。ただまあ、逆にこちらの漫画はイマイチ男側にあんまり生々しさがない。怖さはあるし、キャラクターは立っているけど、『男』かというとアレ。セックスしないし、あれはどう裏設定をいじくっても表に出ているものに説得力が欠けてしまう。
私は幼少期からエニックス出版系の漫画からはじまって女性の描いたギャグ漫画を愛好していたので、こういう漫画は好きです。私のジェンダー観に大きく影響を与えた漫画として、金田一蓮十郎の『ジャングルはいつもハレのちグゥ』があるのだけど、あんなものを小学生に読ませるのは精神的虐待に等しい。本当にどうかと思う。あんなものをテレビアニメ化するな。18禁だ、18禁。と言いたいところだけど、アレを描いた当時の作者は高校生だったわけで、お前の脳みそ18禁。脳みそなんて児童からみんな18禁だと思うけれども。
今からすれば、幼稚な認識だともそりゃ思うけれども、どのみち17歳かそこらで女はあんな性に対する観方を持っているという事実を突きつけられたことが既に純朴な田舎少年だった私にとってはトラウマだったし、それに恐怖するのがミソジニーならもう私はミソジニーでいいよ。男が呪術力で女に勝てるわけがない。
画面が見づらい、認識しづらい描写がいくつもあり、ちょっとそのへんに難があるかも。ネタの密度は高いので、スピード感と満足感は高いです。女性のギャグ漫画はこういうのが多いからよい。そういえば、『みつどもえ』なんかもネタの密度が高かったのがよかった。読みづらさと密度はトレードオフな面もあるとは思いますが、同じ密度で読みやすくすること自体はできるんじゃないかなーと思う。
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今朝、自転車で信号を待っていると、後ろから制服を着た女子高生が走ってきて落ち着かない様子で立ち止まった。そして、左右を見て自動車が来ないことを確認すると、周囲の人の様子を後ろめたさを帯びたような目で伺い、そのまま信号無視をして横断歩道を渡ってしまった。こんなに申し訳なさそうに走る人を私は初めて見たよ。たぶん、遅刻しそうだったんだろうね。なんかフフってなった。
私の中で「萌え」と言って真っ先に思い浮かぶのが「ドジっ子萌え」で、次が「メガネっ子萌え」なんだけど、これって性欲に直結したものだろうか。ちょっとそうは思えない。(注1)
私の場合、この次の第三の萌えとして「貧乳萌え」が思い浮かぶので、これに関しては性的と言えばそうなんだけど、「巨乳萌え」とはほとんど言わない。これは古語の名残である。我々は自らが意識的に用いていると思い込んでいる言葉の中にも、先人の意(こころ)を無意識に内面化しているのである。
そして、この「貧乳萌えはあっても巨乳萌えはない」とテーゼが、萌えを解き明かす鍵であり、萌えの特徴であり、萌えの限界である。
萌えオタどもに想像してほしいんだけど、ヤンキーの同級生に「こういうのが萌えなんだろw」とか言われながらおっぱいぼいんぼいんのねーちゃんの水着写真を見せつけられても「殺す」以外の感想が思い浮かぶだろうか。実際、「巨乳萌え」で検索しても、モロなエロ動画ばかりが出てくる。やつらはなにもわかっていない。
腐女子の皆さま方がドS男萌えなんて言っても、首締めて性行為に及んでる男より、たとえば「相手が好きなのに攻めることでしか関係を持つことができない心理」なんかにこそ、強く「萌え」るんじゃないの。知らんけど。
騎乗位で汁ぶち撒きながらベロチューしてる状態を「萌え」なんて言わない。そういう様が「萌え」であるなら、そういう形でもっと使われてるはず。
ここからわかることは、「萌えは性衝動(リビドー)ではない」ということである。むしろ、「巨乳萌え」がなく「貧乳萌え」があることから、リビドーのアンチテーゼとして存在しているのではないかとも思われる。もちろん、リビドーではないにせよ性的なものとまったく無縁であるかと言えばそうとは言えない。「萌え」は例外的な状況を除き、性的な感覚に根差したものとして扱われる。また「ドジっ子萌え」に象徴されるように、「萌え」は欠損と親和性が高く、そのあたりは「かわいい」とよく似ている。先程挙げたドS男子も葛藤や心理的欠損によるものだろう。
さて、このように即物的な性欲とは違っており、その上で性的なもの、一番近いのは恋愛感情であろう。また、先に挙げたように「かわいい」とも近似するものだと見ることができる。しかし、「萌え」は恋愛感情と重なることもあるが、同一ではないし、「かわいい」には近いが、少なくともそれより限定的である。それについては置いておこう。
「萌え」という語の定義は非常に難しい。その単語の定義を一度に完全に成し遂げようとは私も思っていない。今回は、外堀を埋めながら、衝動的であからさまな性欲リビドーとの違いについて論じた。ここで「貧乳萌えはあるが、巨乳萌えはない」が鍵となることを提示しておく。
萌えはリビドーではなく、むしろアンチリビドーである。しかしながら、それゆえに限界もあるのだけど、それについては次回に譲る。とりあえず私が言えるのは、私は貧乳好きだけど、貧乳萌えかと言われると違うんだよ……。ボーイッシュな女性やスレンダーなおねーさんがかなり直接的に性欲に結び付いて好きなだけなので、これはリビドー的な感情だろう。
それと、おそらくは「巨乳萌え」が成立するとしたら、「巨乳であることにコンプレックスを持ってる女性」「巨乳に無自覚な天然」などにしか当てはまらないこと。このあたりが手がかり。リビドーって癌細胞みたいにどこにでもくっついて育つしねー。そのへんが現状の混乱ともつながってる。
私自身、昔は明白な「萌えアンチ」だったし、今でも「ウェルカム萌えっ!」というわけではない。萌えと結び付きやすい欠損への庇護心が、すごく家父長的だと感じられるからである。しかし、恋愛でも性欲でもない性的な感覚というのは、少し掘り下げてよい分野だと思う。
私が最初に見た「萌え」の用法は「さくらたん萌え~」だったし、カードキャプターさくらって女児向けアニメじゃん。(女性作家で女児向けといえども)あの絵から男性的なリビドーを読み取ること自体は可能だとして、それを主体として描かれてる絵とするのは無理がある。90年代後半から00年代初頭、「萌え」という言葉が一般化し始める第一歩で、もっとも萌えの象徴となったカードキャプターさくらが萌えと無縁とするのは、無理があるを通り越して、どうかしている。萌え=性欲だの、萌え=エロというのは、ましてや萌え=エロイラストというのは間違いもいいとこ。
実際、当時から今までカードキャプターさくらに対して、私は「萌え」ていたとしても、別に恋愛感情もなければ性欲の対象としても見てない。それでも、異性として、女性のキャラクターとしては見ていたのも間違いない。
あー、書いてて恥ずかしい恥ずかしい。冒頭の遅刻女子高生の話もそうなんだけど、こういう話、なんか恥ずかしい。恋愛の話もエロ話も恥ずかしくないけど、こういう話は恥ずかしい。自分の羞恥ポイントが自分でよくわかった。言いたくもないんだけど、冒頭の女子高生に対しても、性的な欲求や恋愛感情はない。たぶん、妹や娘に対しても、同じような感情を抱いたと思う。「さくらタソとセックスしたいか」と言われると、むしろ「勘弁してくれ……」である。
こうなってくると、昔はなんか嘘臭いと思ってた「性欲も恋愛感情もなく、芸術的観点も薄いアイドルファンな人」の感覚もわかる。流行した際の萌えという語彙は、アイドルと女児アニメが中心にあった気がするし。女児向け漫画やアニメをみるに、やっぱりアイドルって少女の憧れの存在なんだよねー。
ただ、なんというかね、やっぱり「萌え」は時にリビドーに発展しかねないし、性的な概念であることを以上、むしろ絡まりやすいくらいだから、確かにビミョーな話ではあると思ってて、ロリコンとか、そういう「萌えがリビドーに変換された人」がそれなりにいると思う。
カードキャプターさくらも、萌えオタはすぐに萌えをリビドーに変換して、「さくらたんの経血をご飯にかけて食べたい」などのネタにしてましたけどね。書いてて吐き気がしてきた……。まあ、そのリビドーこそが「萌え」となると、やっぱり違うよねえ。むしろ外れてると思う。
一応ゆーとくけど、私は萌えをリビドーと切り離すことで神聖視や清浄視する気はないです。むしろ、神聖視や清浄視に結び付きやすいからこそ危ういなーとも思ってる。
(注1)「メガネっ子萌え~」と叫んでるオタクはメガネをつけた女に顔射したいと思ってるし、「ドジっ子萌え~」とか言ってる脂っこいオタクはドジっ子が滑って転んで階段から落ちた拍子に、下で階段を昇ってたオタクを巻き込んで転げ落ち、勢い余って豚チンポとドジマンコが地面でドッキングするとか、そこまで想像してるのだろうか、という一文を反語として入れようと思ったんだけど、最近のオタクの暴虐を見るに、それくらいは想像してるかもしれんから削除した。 -
かつて週刊少年ジャンプに掲載された読み切り作品に、格闘職人アウディという漫画があった。
荒廃した世紀末の世界で料理人と鉄道員が、熟練の職業者だけが纏うことができる職人氣質(カタギ)を纏い、職人戦闘術で闘う異色職業バトル漫画である。鉄道員ボルボ駅長の必殺技はヤマノテクラッシュ。対する料理人アウディは職人氣質をフライパンに込めて発する必殺技フライパン氣質返しで見事この技を打ち返して勝利する。劇画パロディの一種であり、おバカなノリの漫画であるが、そのおバカなノリだからこそ非常に面白かった。
この作品は伝説の読み切り漫画と呼ばれ、当時から現在に至るまで評価が非常に高く、この作品の掲載された「週刊少年ジャンプホップ☆ステップ賞SELECTION」の19巻の中古品はプレミア価格で取引されており、私のたまに使っている「"フトい"野郎だ」という言い回しも、この漫画からのイタダキである。(ちなみに、私がオマージュなどを"イタダキ"と称するのは、週刊少年チャンピオン新人賞での鬼頭莫宏の投稿作品への講評からの"イタダキ"である)
この作品の評価は既に固まっているので、ここで敢えて論評するつもりはない。それより、私が論じたいのはアウディ以後のジャンプの動向である。誰もが忘れていると思うのだけど、この作品が好評を得たのち、週刊少年ジャンプの新人賞には、格闘職人アウディとよく似た雑な劇画調の「異色格闘バトルモノ」が大量に投稿されるようになり、それらが次々と月例新人賞を獲得するようになったのだ。
その際、毎度毎度、画力やストーリー、構成力などと共に評価項目のひとつとして挙げられているオリジナリティの欄に、これらの漫画にはすべて◎がつき、審査員は「茶道と華道が茶柱と剣山でバトルだなんてオリジナリティがすごい!」といった講評を付けていった。アウディのまねごとにオリジナリティも何もないと思うのだけど。
格闘職人アウディの面白さとは、少年漫画の基本をしっかりと踏襲した構成、世界観やキャラクターデザインから擬音のフォントに至るまで過去の名作を想起させる要素を巧みに組み込み、パロディとしての面白みと純粋な漫画としての面白さを両立させる、その緻密さなどを含めての面白さであり、とっぴな設定だけで面白いわけではない。しっかりした地盤がなければ、「職人がオーラを纏って闘う」という設定の異化作用も機能しない。ましてや、これらの投稿作品はその突飛さでさえも完全な真似事なのだから、これらの作品にオリジナリティは皆無である。
当時私は、これらの格闘職人アウディのエピゴーネンに飽き飽きとしていた。
似たような雑な絵、奇抜に見せただけの似たような展開、そしてなにより、バカの一つ覚えみたいにそういった作品を入選させ、毎回毎回「オリジナリティ」の欄に◎をつけるジャンプ編集部に対して、子供心に強い反感を持った。その感情は、怒りと言っていい。意外性の絞りカス つまり「オークに捕まってもエッチなことされないエルフ」とか「奴隷に優しくする漫画です」みたいな「最初の一発はめちゃくちゃ受けたけど 雨後のたけのこのようにネタかぶりした後追い漫画が次々と流れてくる」の後追い漫画の方を「絞りカス」と呼んでるので絞りカスだよ
— ねおらー31♎ (@neora31) September 2, 2019
まさに、それら一群の漫画は「意外性の絞りカス」という形容が相応しい。異色格闘バトル漫画というアウディの絞りカスたちであった。
そんなある日、いつものように最新号のジャンプ新人賞の欄を漫読していると、やはり今回の入選作品も「異色格闘バトル漫画」であった。今度のテーマは床屋である。泥臭い床屋の息子がイケメン美容師とバリカンやらはさみやらでバトルするという、これまたアウディのエピゴーネン。相変わらず、オリジナリティの欄には◎がつき、編集者は「床屋をバトル漫画にするなんて、なんというオリジナリティだ!」とかなんとか、そんないつもの陳腐化したオリジナリティを評価する。まったくくだらない。そんなことだから、週刊少年マガジンに発行部数を抜かれるのだ。
しかし、ひとつだけこれまでの新人賞と違った点があった。漫画家代表として審査に参加したシャーマンキングの武井宏之だけがただひとり、「こういう異色格闘バトルはもう飽きた」と講評したのである。
私は氏に大いに同意し、非常にうれしく思った。私だけじゃなかったんだ、こんな漫画に飽き飽きしてるのは、と。それに、氏には私と違って同調圧力もあっただろうに、なんと果断なことか。私はそれ以来、武井宏之という漫画家自身に対して、特に一目置くようになった。
時は流れ、武井宏之が当時連載していたシャーマンキングは打ち切りの憂き目にあい、更に数年後、氏の新たな漫画が週刊少年ジャンプで掲載された。それが重機人間ユンボルである。大災害で荒廃した世界、ゲンバー帝国のゲンバー大王と重機を己の能力とする改造重機人間が重機の力で工事現場を舞台に戦う建設バトル漫画である。
そう、氏が最後に連載したユンボルが、まさに自身が過去に酷評した異色格闘バトル作品だったのである。一応、改造人間ヒーローや乗り物変身ヒーローものでもあるので、過去のアウディエピゴーネンとは少し違うのは確かだけれども。
あの頃の私は、既に週刊少年ジャンプの購読はしておらず、武井の新連載ということで、ちらっと読んだだけであるが、正直な感想として、重機人間ユンボルは寒かった。さすがに長年週刊少年ジャンプで中堅を張ってただけあって、そこらの新人賞作品と違い作品としては「読めるクオリティ」ではあったが、せいぜいそれだけである。アウディのような絶妙に「読ませる漫画」ではない。そもそも、ユンボルが連載されてた時期に格闘職人アウディが連載したって、どう頑張っても陳腐で時代遅れな代物にしかならないと思うし……。
奇抜に見せた出落ちのようなキャラクターを見ては、「ああ、テキストサイトが喜びそうな内容だ」と思ったが、まったくその通り、テキストサイト系漫画レビューサイトでは大好評であった。「こんなにぶっ飛んだ漫画は見たことがない!」とか、そういうの。あああああ、くだらない。こういうノリが嫌だったんだよ! アウディエピゴーネンのときも!
結局、重機人間ユンボルはあえなく10週で打ち切りと相成った。
そもそも、武井宏之の作風は、非常にオタクくさくて(そういう偏屈なオタクだからこそ、同調圧力に負けず冷静に異色格闘バトルブームを批判できたのだと思うので、善し悪しだと思うけど)劇中のノリツッコミの仕方や小ネタや独特の台詞回しなどに顕著であるが、一般受けするかどうかでいえば、かなり危ういバランスの上に成立していた。マイ・ファウスト・ラヴとか、ちびマルコちゃんとか、千手ピンチとか、ああいうノリね。あれはあれで作家の持ち味なんだけど、シャーマンキングはジャンルやギミック的に奇跡的に一般人気を得られる内容だっただけで、オタクノリだけで突っ切っちゃうと、ほんとオタクノリが合わない人は寒さに厳しい気持ちになってしまうというか……。
その後、ユンボルはオタク人気のおかげでオタク人気物処理場のウルトラジャンプで連載を再開したが、その際は別に脚本家が付き、しかも現在は連載休止中のようである。描いてる側が肩に力が入りすぎで息切れするんだよ、あの漫画。
うーん……。和月もそうだけど、このへんのジャンプ暗黒期を支えた堅実なオタク作家たち、手綱つけないとろくなことにならんなー……堅実でもないのか。武装錬金とかもテキストサイト受けばかりしてしまうタイプで、内容はビミョーだったしノリが寒かったし。テキストサイトでは大人気だったけどね。きっつ。
藤崎竜を含め、このへんのオタク漫画家って長期連載が終わった後で、自己を解放しまくった作品を描いて失敗した印象なんだけど、なんだかんだで、暗黒期とはいえジャンプの看板を背負ってただけあって、そこそこ長く連載を続けられる程度には一般受けするものを描けていた和月と、サイコプラスなんかの頃の、読みきり作家というべきか打ち切り作家というべきか、レンジは狭いがクオリティの高い小作品を描いてた時期に回帰したとも言える藤崎と比べても、武井はそれらの悪いとこ取りをしてしまった感が強い。るろうに剣心や封神演義に比べれば、シャーマンキングは人気にも質にも違いがあったといえばそうだけれども。
武井先生は今どうしているのだろう。長らく私は漫画から離れてるので、現在はよく知らないのだけど……。とにもかくにも、先生のご活躍が私の耳に入ることを期待してます。 -
本日8月29日発売のYJ39号にて『源君物語』357話がカラー扉付きで掲載中!
— 『源君物語』公式 (@minamotokun_yj) 2019年8月29日
14人目の攻略対象はなんと
香子さんだった…!?
光海の長く短い旅路は終わりを迎え、
物語の真意が明かされる…。
次号、最終回!!
今週も是非お楽しみください! pic.twitter.com/cYKcUgXe1V
唐突にポロっと終わったな……。紫の上はどうなったんだろうとか、朝日とも何にもなしかとか、まあ、いろいろと思うところはあるのだけど、ぶっちゃけエロしか求められてなかったんすかね。それ以外の要素があったかというと、なんとなく隙間に入れようとしたのはわかるけど、生きてなかったのも確かで。
昔ヤングジャンプで連載してたエロコメといえば、仙道ますみの「あい。」を思い出します。これも女性作家の作品ですね。
この漫画は写真家を目指すひょろっとした猿顔の大学生が様々な女性と恋愛関係及び性的な関係を持つことによって繰り広げられる青年向けラブコメディ。
当初は大学で同期の彼女、姉の同僚のOLおねえさん、共通の写真趣味を持つボーイッシュな年下の女子高生など、定番の属性を持つヒロインが次々と登場する王道ラブコメを展開していたのですが……。
物語が進むにつれて、段々と登場するヒロインの属性が若い男を欲する爛れたスナックのママさんなどのニッチな属性のキャラクターへと移ってゆき、終盤になると、これまでのヒロインを全部なぎ倒して主人公と付き合い始めたのがぽっと出キャラのぽっちゃりとデブで分けるならデブ寄りのデブ女だったり、そのデブ女と別れて最後に関係を持つのが大学職員の生まれた頃から脇毛を伸ばし続ける女という前代未聞すぎて誰もついていけない属性のヒロインで、そのまま主人公と添い遂げることもなく、物語全体にオチがつくこともなく、唐突に連載が終わってしまいました。
……フォローしておきますが、これって女性視点で意味のある作品だと思うんですよ。
たとえば最初のヒロインである大学の彼女と主人公が別れる際のエピソード。
きっかけは彼女が女友達の間で主人公のことを悪く言ってたのを本人に聞かれてしまったからなのですが、主人公が彼女に別れを切り出した際、ヒロインは「女同士で話してるときはああ言わないと嫌味になるから」といった内容の弁解をするんですよね。主人公とはそのまま気まずくなって別れてしまんですが、これって女性に対する幻想を壊すというか、その聖性を剥ぎ取る意味合いのある描写だなー、と思います。「女の子は天使じゃない」的な。
この漫画は作者が女性ということもあり、こういった女性作家ゆえの視点による描写にあふれた漫画です。
姉の同僚のおねえさんは風俗で働いており、それゆえに自身の肉体と精神の在り方の剥離に悩んでいたり、ボーイッシュな女子高生と別れるきっかけも、他の写真趣味つながりの男友達に(無自覚のうちに)性的な興味を強く持ってしまっている彼女の表情に気づいて嫌悪感を持ったから、というものだったり。こういった一種の生々しさって、男性の描く漫画ではほとんど見られない。キャラクターの年齢なんかも含めて、今思うとリアリティのある描写だな、と思います。
ですので、「若い男を欲する爛れたスナックのママさん」というのも口元に皺が描かれており、歳を重ねる自分の体を若い男性相手に試そうとしているキャラクターとして描かれていますし、太った女というのもそういう流れです。漫画としては一貫して通底するテーマとして、女性と男性との性的な齟齬と女性自身の精神と肉体との葛藤が存在しており、その延長線上にあるのが脇毛を剃らない女なのでしょう。
脇毛の剃毛というのは「女性になるための」営為なわけで、それが社会的要請であるがゆえに身だしなみに必要な時間は男性の比ではない。そこで当然生まれる疑問が「じゃあ女性になる前の自分は?」「女性ってなに?」という点で、「生まれた時から脇毛を伸ばし続けてる」というのはそういう表象なわけですよね。あのヒロインの存在は、こういった男性から客体化された女性の実存にかかわる部分について描かれたものだと思います。
で、やりたいことはわかるし、女性作家ならではの視点でジェンダー的な意味でも興味深い内容なのだけど、脇毛の伸びた女なんて青年誌のメイン読者であるマスカキ猿どもの需要には一切応えていないので、尻切れトンボで終わった理由も、終盤で打ち切られたのか、青年誌として落としどころが見つからなかったからなのか……。とにもかくにも前衛的過ぎたがゆえに唐突な終了を迎えてしまったのだと考えます。ポルノでフェミニズム文学やっちゃった感じ。
最近で女性作家の描いたエロコメといえば、ヤングマガジンで連載されていた咲香里の「ハチイチ」も尻切れトンボで終わりました。あれもエロコメと女性作家の葛藤みたいなのを感じて、読んでてひやひやしました。主人公がほんと魅力ねーんだもん。それに惚れる女性を10人も同時に描くとか無茶じゃん、みたいな。それを作家もわかってて描いてたっぽいんだよな……。
基本こういう青年誌でやってるエロコメはグダグダになってよくわからないまま終わってしまうというのが定番なので、源君物語についても、あまり気にし過ぎても仕方ないのかもしれません。世の中そんなもんだ、と。源君物語に関しては、単純なエロを超えた要素を作品に入れたかったのは隙間隙間にすごく感じるのですが、結局のところエロしか見られてないし、それ以外を見せられるようにもなってない……という微妙な空気がずっとありましたし。
男性青年向け漫画雑誌と女性作家によるエロコメというのは、そういった葛藤の上に成立する微妙なものになりがちなのかな、という気がします。
稲葉みのり先生の次回作に期待します。