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【悲報】白人「『君の名は』を実写映画化するわ。ヒロインは黒人少女で、白人と入れ替わる話にするぞ」( ´ᯅ` )…
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1593576706/l50
1番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (スップ Sdaa-mdNI)2020/07/01(水) 13:11:46.06ID:BrFN8aRid●?PLT(14001)>>832
ハリウッド版実写「君の名は。」監督は「(500)日のサマー」マーク・ウェブに決定!
配給大手・東宝が米パラマウント・ピクチャーズ、J・J・エイブラムスの製作会社バッド・ロボットと共同で開発を進めている今作は
田舎に住むネイティブアメリカンの少女とシカゴに住む少年が、お互いの体が入れ替わる不思議な現象を体験するところから物語が始まる。
そして来るべき災害を予知したふたりは、その命を救おうと相手に会いにいく……というストーリーになる。
https://eiga.com/amp/news/20190215/6/
( ´ᯅ` )…
本文にはネイティブアメリカンの少女と書いてあるのに、タイトルが黒人少女となっているけど、それは置いておく。
ここ数年の風潮としてさすがにポリコレ一辺倒な状況にげんなりもする気持ち(反差別じゃなくポリコレな)は私もあるし、原作から離れたテーマのよくわからない作品になるのではないかという危惧も理解できることは理解できるのだけど、原作でも主人公二人の対比は男女だけでなく都市と地方の対比でもあったので、ローカライズとしてはそこまで大逸れておかしいとも思わない。インディアンの信仰がアメリカの神社みたいなものなんだろう、多分。むしろ上手く料理される可能性はあると思う。
そもそも、人種や民族の問題を描くこと=ポリコレってのもおかしな話で、ポリコレなんぞ関係なしに問題について触れたよい作品などいくらでもあるわけだし、やる前からポリコレな感じなだけの作品だと断じるのも違うように思う。ところで、パッチギって下手すりゃ今だと朝鮮学校についての偏見を植え付けるとかでポリコレ的にアウトになるんじゃないか? あれ、どうなんだろう。インディアンを神秘主義と結びつけるのも、必ずしもポリティカルコレクトネスとは言い難いし。
ここまで来たらもう逆に『君の名は。』のリメイクを世界中で好き放題つくって、高カーストの少年と低カーストの少女とか、労働者階級の少年と上流階級の少女とか、フランス人少年とイスラム移民の少女とか、朝鮮国の少年と韓国の少女とか、パレスチナの少年とイスラエルの少女とか、そういった様々なテーマを少年少女の入れ替えで描く恒例シリーズと化したらいいんじゃないだろうか。北欧でドルイドとかも流行ってるみたいだし。
そっちを主流にして、後から原作の方を見たらよくわからない作品にしか見えなくしちゃってもいいと思う。日本でも再リメイクしてアイヌとか被差別部落とかをテーマにしてもよい。PR -
私はガンダムオタクではない。ガンダムシリーズとか、ガンダムワールドとか、そういうものに関する知識を収集してデータベースの基づいた正誤判断をするだとか、そういう趣味はない。だから、『機動戦士ガンダム』という作品は、その機動戦士ガンダムという単独で完結した作品として一度評価すべきだし、これが制作された時点では機動戦士ゼータガンダム以降のシリーズは存在しないどころか、続編そのものが意識さえもされていなかったことを前提としなくてはならない。『機動戦士ガンダム』は、『無敵超人ザンボット3』などがそうであるように、それ単体として制作された作品である。
続編の存在によって歪められたキャラクターとして象徴的なのは、たとえばカツである。私が「カツはアムロ以上のニュータイプである」といった話をすれば、必ず反発を受ける。もちろん、その理由のもっとも大きいところは、続編の『機動戦士ゼータガンダム』であろう。こちらでのカツは、主人公カミーユからニュータイプ能力によって自ら感応したものについて尋ねられても、なんだか的外れな回答をしたり、ニュータイプ能力があるのかどうかさえよくわからない、少なくとも非常に劣った存在として描かれている。だから、ガンダムシリーズの設定データベースのみを前提とすれば、アムロ以上のニュータイプだなんて、まったく考えられないだろう。
以下、シリーズ物の人気アニメとして様々な「後付け」がなされた機動戦士ガンダムという作品について、いったんそれを引きはがして作品単体の内容を整理するために、それだけを視れば当たり前に得られるものだけを取り出す「読解」をしようと思う。
機動戦士ガンダムの物語で描かれるテーマは、まずひとつとして、戦争の過酷さであろう。そして、その戦争の過酷さは、もちろん暴力、殺人、そういったものの過酷さでもあるが、なによりも集団と集団の争いによって、個が圧殺されることの過酷さである。ガンダムで描かれているのは、「どちらにも正義はある」なんて話ではない。ジオンは地球に宇宙に浮かべられた人工居住用を地球に落として億万の人を虐殺したり、兵士に対して一般人の子供を殺すように指示を出したり、条約で禁止されている核兵器を用いたり、やっていることはめちゃくちゃである。もちろん、連邦軍も兵士たちを駐屯地に置き去りにしたり、その見捨てられた兵士たちが自棄になって地域住民に無法を働くシーンなどが描かれる。アムロたちホワイトベースの少年少女たちは、その連邦の官僚主義に翻弄されることになる。彼らにとって、連邦軍は内側の、ジオン軍は外側の理不尽である。
残虐非道を繰り返すジオン軍も、その中にいる兵士たちは、連邦側の避難民に自己判断で救援物資を送ったり、自分が仕掛けた爆弾に子供が巻き込まれそうになると逃げるように声を荒げたり、話してみれば意外と気のいい奴だったり、困窮する弟たちのためにやむを得ず軍に協力していたり、そういった描写は、残虐なジオン軍人も個人で見れば善良な人たちがいる、という話であって、ジオン軍が正義の軍隊という話ではない。ククルス・ドアンが子供を殺せとの軍の命令を拒絶し、自らが家族を殺した子供を引き取ってジオン軍を離れたのも、集団によって個人が圧殺されることから逃れたがゆえである。本作で描かれる連邦軍とジオン軍という陣営は、いずれも個人のパーソナリティを圧殺する装置、システムとして描かれている。
連邦もジオンも、組織としては巨大で不気味な存在としてしか描かれていない。弟の死を国威高揚に利用するギレンなど、その象徴である。あのシーンで、アムロは集団にただ恐懼している。このアニメは典型的な少年アニメの文法であるから、主人公のアムロは常に正しい。誰もが正しいのではなく、アムロが正しい。ギレンは、集団主義に一切の葛藤のない存在である。
分かり合えるはずの個人と個人が、常に殺し合いを強制され続ける、それを描いたのが本作である。そして、憎むべきは敵対した陣営の人々ではなく、戦争という状況そのものであると示したのが本作である。ゆえに、本作は一つの矛盾に直面する。その戦争という極限状態を脱するためには、戦争を続けるしかない、という矛盾である。
機動戦士ガンダムは子供向けアニメである。そんなある種の「現実」など、ただ見せられても困る。子供にそんなものを見せていいものか、メディア倫理として非常に問題がある。それに対する回答を提示しないといけない。そこで登場するのが、ニュータイプの概念である。
本作におけるニュータイプの登場は、正直唐突なもので、はっきり言ってちょっと理解が追いつきづらい、簡単には承認しがたいものであった。突然、これまでまったく登場しなかった超能力的存在に主人公が目覚められても、面食らうしかない。しかし、これこそが本作のテーマに対する答えであった。
このニュータイプとは、テレパシーのようなものとして描かれているが、これは「戦争という極限状態であっても、個人と個人が分かり合える」その象徴であり、またニュータイプという名前の通り、次世代の象徴でもある。だから本作の最終話で、ジオン軍の現指導者たちを憎みながらジオン軍に参加するエースパイロットのシャア・アズナブルと、不本意な形で連邦軍に参加した一般人の少年アムロが、互いにニュータイプであるがゆえに、殺し合いの戦闘を一応は途中でやめるに至った。そして、アムロはホワイトベースのクルーたちに、戦闘を切り上げて脱出するようにテレパシー能力で誘導を行う。
本作のラスト。連絡が途絶えたまま、いつまでも帰還しないアムロに対して、ブライトの指示でセイラがニュータイプ能力による誘導を試みる。セイラがアムロ以外で一番ニュータイプ能力が高いからである。しかし、どれだけ能力を行使しようと、アムロの存在は感じられない。アムロはもう爆発に巻き込まれて死んだのか。
「人間がそんなに便利になれるわけ……ない」
ひとりごちるセイラの横で、カツ、レツ、キッカの三人がアムロの名を呼びながら、誘導指示のようなものを出している。三人がアムロの存在をキャッチし、ニュータイプ能力によって交信しているのだ。何の変哲もない幼子たちが、モビルスーツに搭乗したこともない、当然ながら非戦闘員の幼子が、アムロ以外で最もニュータイプ能力が高いと目されていたセイラにも発見できなかったアムロの存在を探知した。さらにはアムロがしていたような誘導も容易くこなしている。先ほどはニュータイプのアムロがオールドタイプの仲間たちを誘導していたが、今度はそのアムロに対してカツ、レツ、キッカが誘導をしているのだ。
二つの陣営が躍起になって探した、そして戦争で圧倒的な力を見せたニュータイプ、最大のニュータイプであったアムロよりも強大なニュータイプが、これほど身近なところに現れた。なんの変哲もない平凡な幼子たちである。過去の人ができなかったことが、未来の人は容易くできるようになる。殺し合いに疑問を抱きながらも戦争に埋没せざる得なかったアムロがオールドタイプとなる、そんな次世代が待っているはずだ。
第二次世界大戦が終結したのちも、世界各地での戦争はまったくやむ気配はない。大日本帝国を打倒したアメリカは日本と同様に各国に侵攻を繰り返し、それに対抗するソ連も恐怖政治を敷き、ナチスに弾圧されたユダヤ人たちがつくりあげた民族国家はナチスのような民族排外主義と虐殺に明け暮れている。第二次世界大戦と何も変わらず、集団と集団で個人を圧殺し続けている。結局、人類はいつまでも変わらないのか……。
そんなはずはない。人々は時代とともに、困難を乗り越えてきた。人はいつか戦争を乗り越えることができる。私たちは、その過渡期にいるのだ。個人と個人とが、わかり合える時代がきっと来る。その未来の象徴が、カツ、レツ、キッカという何の変哲もない無邪気な幼子のニュータイプたちなのである。アニメ制作側の大人たちを含め、古いタイプの人々ではできなかったこの状況の解決を、いつかしてくれるはずだと信じている。
このカツ、レツ、キッカとは、次世代を担うテレビの前の子供たちである。
機動戦士ガンダムのラストは、本当に綺麗な終わり方だと思う。メッセージに同意するとかしないとか、そんなところはどうでもいい。私だって、こんなにあっけらかんとした進歩史観にはついていけないし、それって自分が結論を出さないことへの逃げじゃんって思うよ。でも、そういうことはひとまず置け。とりあえず、ここにゼロポイントがあるんだ。以上は、面白味のない、こうとしか読めない、当たり前の読解である。読み取ってるだけだから、私の主張なんてしてねーんだよ。マジで『機動戦士ガンダム』って作品は単体だとこうとしか読めないだろ!?
で、その期待された子供たちが今のオタクどもなのだから、ガンダムの続編がああなったのもそういうことである。 -
5日くらい前の事なんですけどね。論じるにあたって、テーマとかないので散漫な話になりますが。
一般にガンダムファンの間で、今作はコメディ的な作風が混じっていることから、重々しいイメージのZガンダムに対する冒涜だという意見が多く、それが批判の的になっておりましたが、私としてはそこは別に気にならなかったです。最後にカミーユの治療が成功したのか、ファと一緒に海岸で戯れているシーンなんかを見ても、よかったね、って感じで。ハッピーエンドの方がいいですよ、やっぱり。
もちろん、私だってZガンダムについては、最後でカミーユの気がふれたままぶん投げて放置して何のフォローもせず、二度とガンダムの続編なんかつくらないというのが一番最も素晴らしく美しい終わり方だっただろうとは思いますよ。でも、あなた方ガンダムオタクの皆さんがZZのような続編を求めない理由はそこではないし、続編そのものを拒絶するなんてのはできない注文なんでしょう?
そもそも、みなさん今作が前作の冒涜だと言いますけどね、第1作目の『機動戦士ガンダム』自体よくできたアニメだったし、特に最後がとても綺麗にまとまった作品だったので、Zガンダムみたいな前作の希望を叩き潰すような続編をつくること自体がガンダムに対する冒涜だったのだと思いますよ。そして、Zガンダムは『機動戦士ガンダム』という作品の冒涜を、この上なく上手くやった作品だったと思います。意味のある、いい冒涜でした。でも、機動戦士ガンダムをZガンダムがどれほどの冒涜をもって迎えたかを論じずにZZをやれ冒涜それ冒涜だと論じる行為は、まったくもって信用に足りない。死ね!
ヒートアップしてしまった。ちょっとクールダウン。
引き続き前評判に関して。
今作は一般に「前半のコメディ路線から後半になってシリアス路線にガラッと作風が変わった」という評判ですが、そうかな? コメディ要素は少しずつ減ったかもしれませんけど、終盤にも『タイガーバウムの夢』のような相変わらずな「宇宙コロニー紀行」が入ってたし。これも主人公たちが女装したり、ムーン・ムーン篇以上にコミカルな内容です。
それに、終盤に再登場した序盤の敵マシュマーがタキシード姿の紳士風優男から筋肉ムキムキのマッチョメンになって、ここぞとばかりにノンスリーブで筋肉を誇示しながらも、なおかつ相変わらずバラを愛でる姿は非常に滑稽で、それを見たハマーンが事あるごとに「強化しすぎたか……」ってブツブツ言うの、完全にギャグでしょう。あのビジュアルを見れば、一体なにをどう強化したのかは知らないが、とにかく何か強化しすぎだということはビンビンに伝わってくるので、「そりゃそうだろうな……」としかコメントできない。
同じく序盤の敵キャラクター、キャラ・スーンの再登場でも、以前の通りパンキッシュな髪形のまま、今度は女王様ルックに扮して鞭を振るって地下労働者を統括してたり、どう見ても完全に伝統的な子供向けアニメや特撮のセクシー女幹部だったし、あれがコメディ要素じゃなかったらなんなの……。
マシュマーやキャラ・スーンを「序盤のギャグキャラがシリアス展開に放り込まれておかしくなあった」みたいに扱ってる人ばかりだけど、ずっと一貫してコミカルなキャラだよ、あいつらは。逆にハマーンがコメディアニメに紛れ込んだシリアスキャラみたいになって、パロディキャラっぽくなってたよ。
中盤以降ハマーンが登場してストーリーに背骨が通ったので、一定シリアスに傾いたのはそうなんじゃない? と思うんだけど、前半と後半で作風がそこまでガラッと変わったとまでは感じなかった。前半も実際はそこまでふざけているわけでもなく、コメディっぽい雰囲気だっただけだし、それは後半もずっと一定以上そうだったよ。
今作の位置づけについて。
私にとって、前作Zガンダムのカミーユのセリフで一番好きなものが、「なぜそうも簡単に人を殺すんだよ! 死んでしまえ!!」なんですよ。これはネタでもなんでもなくて、羞悪の心(正義)が怒りとして表出する、その怒りを相手を憎む形でしか表出できない人間の性、擦り切れるような切実な心象が表現されていると思うわけです。人殺しという悪を憎む心の表出が、そのまま人殺しという悪を為すことにつながり、更にはそれを肯定することになる。その葛藤の狭間で戦うカミーユというキャラクターを一番よく表現しているのが、このセリフです。
劇中でカミーユは本当にすぐ「死ね」という言葉を使う。何度も、何度も使う。人殺しをしたくない、殺人という行為を嫌悪する、戦争は嫌だ、そういった発言や描写が一番多いのもカミーユなのに、「死ね」という言葉を一番使うのはカミーユである。
終盤ではヤザンに対して、「貴様のような人間はクズだ! 生きてちゃいけない人間なんだ!!」と、ついに人の生命そのものを憎む発言をする。カミーユは、戦争を当然のように遂行する連中、人殺したちに対して、強い嫌悪感を表明し、それを止めるために戦っているつもりである。
しかし、そんなカミーユに、ジェリドは突きつける。「俺はお前ほど人を殺しちゃいない」と。カミーユはこたえる。「俺は人殺しじゃない」と。どう考えても人殺しなのに。カミーユは自らを慕うロザミィを自身の手で殺したとき、「ニュータイプなんて人殺しにしか使えない」とシャア・アズナブルに吐き捨てていたのに。あれは殺人ではなかったのか? カミーユは、戦闘の末にジェリドも殺す。ジェリドはカミーユと分かり合うことはなかった。
かくして最後の敵シロッコと対峙したカミーユは叫ぶ。「分かるはずだ! こういうヤツは生かしておいちゃいけないって分かるはずだ!! みんな……みんなに分かるはずだ!!」と。他者に対してまで、その一人の人間に対する生存を否定するように煽動する。これは視聴者に向けられたものでもある。そして、カミーユと共鳴した戦争の犠牲者たちの魂が、それに応える。唯一シロッコをかばったサラの魂に対して、カツの魂は「あの人も死ねば自分たちと同じようにひとつになれる」とシロッコ殺害の正当性を説く。これはポア(処置不能な悪人に対する死による救済)の思想と同様である。
シロッコは息絶える直前、「貴様の心も一緒に連れて行く」と妖言を吐き、然して後にカミーユの精神は破壊された。なぜか。調和をしていないシロッコの魂を自らに取り入れたカミーユは、その矛盾に耐えられなかったからである。カミーユはシロッコと一切わかりあうことなく、死ねばシロッコも自分の中に入るのだから大丈夫だと、ひとつになるから問題はないと、そのようにしてシロッコを殺した。カミーユが精神を壊したのは必然である。矛盾する人々の心を、その人自身と向き合うことなく、殺人という行為によって自らの中に容れているのだから。分かり合えたサラだけでも反発があったのだ。シロッコを殺す以前から、カミーユは戦争の犠牲者たちの精神を自身の受け入れ、その息苦しさは限界に達していた。そんな中、フォウやロザミィたちとシロッコがそのまま同居したら、その心は引き裂かれるに決まっている。「なぜそうも簡単に人を殺すんだよ! 死んでしまえ!!」という言葉の限界、それはそのままカミーユの精神の限界を表している。
前置きが長くなった。では、今作の主人公であるジュドーというキャラクターはいかなる存在であったか。
少年ジュドーは初登場の第2話(実質的な第1話)冒頭からジャンク屋として、悪ガキ仲間と違法に回収したモビルスーツの機体などを売って生計を立てていることが描写される。そして、寄港したしたアーガマからガンダムを盗もうと計画し、ヤザンと共謀して市街で貨物トラックを盗み、アーガマに潜入する。このように、ジュドーは不良少年である。
しかし、ヤザンがアーガマのクルーであるサエグサを切りつけた際、ジュドーは怒りを露わにしてヤザンに敵対を表明する。これまで一緒にアーガマに潜入してガンダムを盗もうと悪だくみをしていたにもかかわらず、人を殺す行為は一線を越えた行為として許容しなかった。この描写がジュドーというキャラクター付けを決定的なものにしている。
その後、ブライトがサイド3に対して市街を含めて砲撃しようとした際、敵国にも市民がいるからとそれを止めるなど、誰よりもそういった行為を忌避する描写が目立つ。更には敵であるハマーン・カーンからは、生身の人を打つことができないこと見抜かれ、事実ジュドーは戦闘中の敵であるにもかかわらず銃撃ができなかった。ジュドーは自らの"弱点"を突かれたわけである。
こういった描写がジュドーを個性付けしている。
そして、ジュドーも最後までハマーンに対して説得を試みていた。劇中でも、ジュドーとハマーンに関しては「似ている」「惹かれあっている」と、ラサラやプルのような仲間にさえも評価されていた。この戦いで仲間のプルが死に、妹も死んだかもしれないにもかかわらず、である。このような関係は、カミーユとシロッコとの間には構築されていない。ジュドーはハマーンの在り方を否定しても、その怨念を否定しても、死ねだとか、殺すだとか、そういった言葉は吐かなかった。ジュドーは最後までハマーンに訴える。「その潔さをなんでもっと上手に使えなかったんだ! 持てる能力を、調和と協調に使えば、地球だって救えたのに!」と。そのようなジュドーが相手であったからこそ、ハマーン・カーンは死の直前、自ら納得することができた。彼女の「帰ってきて良かった……強い子に会えて」という死に際のセリフは、シロッコの呪詛と対照的である。
ジュドーというキャラクターは、本質的にカミーユと実は大差ない。人殺しを厭い、正義感が強く、人に共感する心が強い若者である。ただ、ジュドーは分かり合おうとすることができた。外に向くことができた。そこには仲間の存在があった。ハマーンは「人はしょせん一人だ」と言った。カミーユもまた、ファ以外に分かり合える関係の友人は身近にいなかったし、彼女との関係もどこかすれ違いを続けてしまった。最終決戦で死んだ人々の魂とともに闘ったカミーユと、生きた仲間に見送られて闘ったジュドーは対照的である。ジュドーの境遇は決して恵まれたものではない。しかし、持ち前の明るさで人を惹きつけたし、それは周囲の仲間によって支えられたものであった。それぞれの仲間に、それぞれ違ったジュドーの理解者としての役割が与えられていたのである。リィナの死後、ジュドーは精神的に非常に危うい状態であったし、ジュドーに対する働きかけも、プルやルーのような態度だけでは逆効果で、カミーユのように精神を壊していたかもしれない。かといって、ビーチャやモンド、エルやイーノだけでは、ジュドーはそのまま何も変わらなかったかもしれないように思う。
また、敵であったマシュマーやキャラ・スーンに対しても、ジュドーは排他的ではない。最後の最後まで説得を試みた。こうしたジュドーの態度は、批判される序盤のコメディタッチな軽い雰囲気があったからこそである。ルー・ルカとグレミー・トトの関係も、カツとサラのような拗らせた病的な関係にはならなかった。カミーユは生前にフォウやロザミィとさえ満足な関係を構築できなかったが、ジュドーはプルの仇であるプルツーとも分かり合えた。『明るいガンダム』でなければ、きっとジュドーもカミーユのときのような悲劇へと向かったかもしれない。今作で批判されるコメディタッチあるが、ニュータイプが未来に希望をつなぐ存在として終末を飾ったか『機動戦士ガンダム』から一転、それを批判的に再検討し、ニュータイプの悲劇性を語ったのが『機動戦士Zガンダム』である。それを更に批判して、明るく彩られた今作は、まさにZガンダムが行った前作への批判的展開という作風を引き継いだからこそのものではないだろうか。
……とまあ、ここまで書いてきたわけだけど、なんだろうなあ。どうしても、「それでいいの?」って思っちゃう。っていうか、結構Zガンダムについてまっすぐ語ってるね、私。
なんというかなー、ジュドーは好感を持てるキャラクターなんだけど、それまでというか……なんだか、「優良な不良少年」って感じでさあ。それって東夷の倭人が好きなタイプのキャラクターなのでは? と言われたらそうなんだけど、やっぱりステレオタイプ的な少年アニメの主人公の類型だからさあ……。そこで、「それでいいの? ニュータイプってそれが正解でいいの?」と思っちゃう。単純に私個人の価値観からすれば、「ジュドーみたいな人間性が理想でいいんだよ! 軽くても、明るく楽しく元気がいい方がいいよ。」と言いたいところなんだけど、それは個人のパーソナリティであって。なんだかね、作品としてはちょっとズレというか、消化不良な部分を感じる。なんかねー、作品がジュドーに追いついていない感じがするんだよな……。
最終決戦でジュドーはハマーンに批判を加える。「今持っている肉体にだけ囚われるから……」と。ジュドーのセリフは人々が肉体を乗り越えて精神によって結びつくニュータイプに必然的に成長する、そうなるべきであるという『機動戦士ガンダム』から発された作品テーマの表出であり、地球という"坤"から宇宙という"乾"へと人類は高次な世界に飛び立つべきだというZガンダムから引き継がれた主張に通じる。
理屈として、ジュドーの言いたいことは分かる。ジュドーの言うような「今の肉体に囚われない存在」としてはプルとプルツーが最後で一つの肉体の中で融合していることを示す描写が当てはまる。最後にジュドーを助けたのもプルの精神であり、ジュドーの存在は一人の人間の肉体に縛られない、「一人で考える」ハマーンに対するカウンターとなっている。それに、今ある肉体が地球に置き換え、それに囚われないジュドーが最後に木星探索に向かうのも、アナロジーとして成立している。そういう意味で、作品の内容とこのセリフは対応していると考えられる。
最終話の前話で、ジュドーはグレミーに対して、似たような演説をする。そこでは血筋にスポットが当てられた。グレミーとミネバ、ハマーンたちが血筋に縛られて小競り合いをしている、そしてそれで地球やほかのコロニーの人々までもを巻き込む、その愚かしさを語り、血筋のような肉体的要因を超えて精神で結びつくニュータイプと対比することは、確かになんとなく得心がいくというか、対比が機能していると感じる。これは、この時点では血筋という"遅れた考え"に固執する態度を肉体的であるとして批判し、精神による結びつきというニュータイプの思想を対置するので違和感が小さい。
でもさー、どうにも、なんとなく、このセリフってハマーン戦で微妙に上滑りしてない? というのも、カミーユの存在を考えると、むしろジュドーは肉体的な面をおざなりに"しなかった"からこそ、カミーユのような悲劇に至らなかったんじゃないの。このセリフってガンダムという作品的なセリフで、この瞬間のジュドーというキャラクターのセリフだと感じられないんだよ。ジュドーは肉体に縛られていないかもしれないけど、ここで肉体に対する忌避を示すセリフが出てくるの、なんだかなあって。
うだうだと後ろ向きに考え込んでしまうカミーユに対して、前向きに考えるより先に身体が動いてしまうジュドー。死んだ人々の魂に囲まれたカミーユに対して、肉体を持った生きた人々の意志と共に闘ったジュドー。モビルスーツのデザインまで、スレンダーな「精神性」を感じるスタイルのZガンダムと違い、ずっしりと重量感のあるZZの見た目、すごく「肉体的」である。あらゆるイメージから、ジュドーはすごく肉体的だと感じる。精神的にもジュドーはたくましいと思うよ。でも、それって肉体的な実在をおざなりにしなかったからなんじゃないの? 観念論をいじくったりせず肉体を持った目の前の人間を大切にしたからじゃないの? 精神だけを昂ぶらせると、かえって精神を損傷するってことなんじゃないの? だからこそ、ジュドーはカミーユよりもハマーンの哀しみに自然な形で共感できたんじゃないの? それでカミーユのシロッコに対する態度とジュドーのハマーンに対する態度に明白な違いができたんじゃないの? ニュータイプ能力の発現の仕方まで実質的なんだもん、ジュドーは。ストーリーの理屈ではわかっても、感覚的にわかんないんだよな、ジュドーのセリフとニュータイプ的な部分。
なんというか、こうなってくると、もはやニュータイプという存在自体に、どんどん腑に落ちなさを感じ始める。精神と肉体の二元論と精神の優越論及び進歩史観の合わせ技の末路なんですよね、ニュータイプ論って。だからそういう袋小路に陥った。カミーユ自身が、Zガンダムの最後の方で「地球に縛られるのをやめて宇宙に行くべきだけど、そのために人が大勢死ぬのは間違っている」と矛盾と葛藤を抱えているのに対して、ジュドーというキャラクターはそれに応えているけど、物語がそれに答えていない。「地球を捨てて宇宙に人類は旅立つべきだ」という思想と「肉体、物理を超えて精神で結びつこう」というニュータイプ思想は乾に向けて坤を捨てよ、という同源の考えにで一致している。でも、そのニュータイプ思想の破綻をZのカミーユ発狂でまざまざと見せつけられた直後、ZZでそのまま肯定するというのは相当無理していると思う。実際、ジュドーって一回従来のニュータイプ的なものと離れたからこそ存在しえたキャラクターじゃない? そして、すごく地に足の着いた存在で、精神ばかり先行してふわふわしたニュータイプとは違うところがジュドーの強みだと思うのだけど。 「肉体があるから……やれるのさ」というハマーンの反論は、下手したらジュドー的にも聞こえる。もちろん、先述の通り、ハマーンは確かに、自己というものを他者から防衛するための鎧として肉体を保っていた。でも、逆にジュドーだって、カミーユのように身体をただ他人に貸して自己を誹毀することはなかった。
ジュドーというキャラクターは、「肉体と精神の調和」というカミーユへの批判的再検討として機能しているし、ジュドーの精神的な強さって、地に足の着いた「地球的」なものだと思うのだけど、そういうのってもう、これまでのニュータイプ論と齟齬が出てるし、実際ジュドーってたぶんアムロやカミーユ的なニュータイプ能力から離れたキャラクターしているでしょ? なんかジュドーというキャラクターは生きてるのに、それについて製作する方が無自覚なのか、あるいは目を逸らしてる感じがすごくする。ニュータイプの能力で分かり合うのではなく、目の前の人に対する想いで分かり合う。能力に依存したカミーユはハマーンに拒絶された。ジュドーはそうではなかった。でも、それをテーマとしてまとめられていない。それどころか、ストーリーはカミーユ的な発想のままになっているように見える。
なんだかなあ、ZZという作品はテーマと物語がすごく混線していると感じる。難解なのではなく、混線。サラサのセリフなんかを見ての通り、憎しみの連鎖を断つことや、ハマーンに対するジュドーの最後のセリフの通り、和解と調和がテーマなのはわかるし、それがカミーユとハマーンを乗り越えることにつながるのだけど、それがむしろニュータイプという存在から離れたところで展開しているのが今作なので、その先に新たなニュータイプの可能性があったとしても、それは過去を全部ご破算にしないと展開できない質のものになるよ。ここから精神優越論を展開するの、キツくない? 今ある身体に囚われず、プルの精神を自らに容れることで自分ひとりの頭だけで考えなかったプルツーは最後に死んだし(そりゃ死ぬよ)。これなら、もう魂の安息の地バイストンウェルにでも旅立った方がいいと思う。ニュータイプ論自体、なかったことにして穴に埋めた方がいい。だって、Zでの破綻をそのまま焼き直しているのに、無理やりハッピーエンドにしているようにしか見えないもん。
で、ここまでは作品のテーマ全体の対するスケールの大きい批判だけど、ここからは小さい話。
視聴の途中、罵Qから「ZZはもともと後半は逆襲のシャアのような展開にする予定だったけど、映画製作が決まったから終盤が全部変更された」という話を聞いたのだけど、それを聞いた時点ではプルさえ出てない時期だったから「ここからどうやって逆襲のシャアのような展開にするつもりなんだ……」と思っていた。でも、グレミーが最後あたり、明らかにシャアが演じた方がいいような役割を演じていたので、すぐに合点がいった。だって、グレミーの反乱って経緯も何もよくわかんなかったし、実証性が怪しいザビ家の血筋を名乗るだけの男を立てる必要がどこまであるのか、ミネバの対抗軸としてどれだけ有効なのか。あれだったら、ハマーンに対して「君側の奸! トト家こそ正式な宰相の家だ!」とかいってりゃよかったんじゃねーの。ラカンとかがついていった理由がイマイチ見えない。そこをいくと、シャアだと動機づけが非常に簡単。ザビ家に対して、ジオン・ズム・ダイクンの子が宣戦布告をする、という。すごくすっきりする。これならついていくジオン兵は数多くいただろう。ラカンのような古株タイプは特にそうだと思う。
しかし、そういった理屈とか作劇の部分じゃなく、私が特にグレミーの位置には本来シャアが適任だと直感的に感じたのは、グレミーがプルツーとクインマンサに同乗するシーン。あのプルツーとグレミーが、クェスとシャアに完全にダブって見えた。そもそも、クインマンサって見た目がガンダムっぽくてギミックがジオングっぽいという、明らかにラスボス向け、できればシャアが乗るべき機体じゃないかと思う。αアジールとも雰囲気が似ている。精神に失調をきたしたクェス(プルツー)を膝に乗せ、一緒にクインマンサを操り最終決戦に臨むシャア。絵になるんじゃないかな。シャアはZガンダムで強化人間のアイデアに理解を示していたし、グレミーはプルクローンを製作してニュータイプ部隊をつくっていたし、これもシャアがやればいい。まあ、これやるとシャアがわかりやすくマッドなド外道になるけど。それと、ジュドーがシャアに対して「血筋にこだわってんじゃねえぞ、オールドタイプ!」と突きつけることになるという、なかなかいい感じの展開に。まあ、シスコンとして通じ合えばいいんじゃないかな。話逸れるけど、逆襲のシャアのシャアってシスコン要素が雲散霧消しているから違和感がある。セイラって地球にいるんじゃないの?
このあたりが、コメディ要素よりよっぽどZZの「その場しのぎ感」「中途半端さ」「スケールの小ささ」を構成している要因のように思えるんだよね。新約ZZ劇場版を、逆シャアのなかった世界のZZとしてやってほしいと感じる。全編2時間で。
それと、作劇上、サエグサがヤザンに斬られたシーンが物語全体の目的性とジュドーたちのキャラクターを決定づける出来事なのに、あとの展開からは「人殺しは越えちゃいけない一線」って感じが、やっぱりイマイチなくて……。マシュマーたちのしていた葬儀とか、「あれ? ジュドーにやられた兵士って死んだの?」と、かなり気になった。ジュドー、人を殺しちゃってるじゃん、と。身を守るためだから、とは言えるけど、ゲゼのおっさんとかヤザンとかは殺さなかったのに、兵士はあっさり死ぬんだなーって。「ザクが相手なら人間じゃないんだ」的な思想があまりにベタなまま前面に出すのはなんだかなあ。かといって、トライガンやるろうに剣心のような主人公が不殺を貫くのは、なんかそれはそれで作品のコンセプトが違ってきすぎるやろね、ってのもまあ、それはそうだし。あと、これは揚げ足かもしれないけど、ヤザンはサエグサ斬りつける前に走行中のトラックから運転手を叩き落としてるんだけど、あれ頭から落ちてたし、アニメじゃなかったら割と高い確率で死ぬだろ……。
あとは、ビーチャがジュドーにダイナマイト括り付けさせて出撃させるのとか、完全にビーチャがジュドーを殺す気だったじゃん……。あれ、「この"うっわー、この倫理観ついていけねー"って感覚、どこかでも経験したな……」と思い出してたんだけど、ビーチャってザンボット3の香月と同じ類型のキャラクターなんですよね。香月が勝平に対してしてたこと、ほんと命を奪う気でやってたよね……。あれ、めちゃくちゃドン引きしながら見てたんだけど。こういう荒っぽさのノリは、私のような肉体労働者の文化圏では、よくあることでもあるのだけどね。そういう表現として意味があると言えばそうだと思う。だけど、なんだかな。
その話のあとでビーチャが冨野アニメお決まりの「大人ってのは!」みたいなシャウトをブライトに対してしてから、ビーチャのそういう小悪党っぽさが急に薄くなって、皮肉屋タイプになった気がするのよね。前半と後半の違いを敢えて言うなら、一番大きかったのってあそこでのビーチャの態度の変化だと思うよ。
あとまあ、ブライトがアクシズの市街に砲撃しようとするのは、なんかおかしくない? それういうことはしないキャラクターだと思っていたし、思いとどまってもそれを計画した時点でブライトはダメダメだと思うのだけど……。なんだかなあ。
おもしろかったと言えば、アクションとか、Zガンダムと比べても見てて飽きませんでした。カメラワークとか。絵もきれい。戦闘シーンはZだとビームの撃ち合いばっかりだった気がするんだけど、ZZは肉弾戦が多くて、そこがよかったと感じました。でもさあ、そういう点でも、やっぱり作品全体が「肉体的」なんだよなあ、ZZは。ジュドーはカミーユより精神的にも強く見えるけど、それって肉体存在的な実在性を重視しているからこそで、やっぱりニュータイプ思想に破綻、とまでは言わないまでも、オルタナティブとしてはっきりと提示されているわけでもないため、なんだか消化不良なままと感じる……。3作目にしてこれでは、ちょっと作品として弱い。Zのラストは衝撃的だったのに。それに匹敵するものにするなら、ZZはニュータイプ論自体を明確に廃棄するしかなかったんじゃないかと思うし、そうでないならそうでないことをちゃんと示したかといえば、そうでもない。
というわけで、はっきり言ってZZは作品としてはすごく中途半端で、長大な割に小粒になってしまったのは事実だと思う。鶏肋のような作品だという印象です。エンターテイメントとしては私はZよりたのしめたけど、それでもZのラストみたいな凄みに比べると、やっぱり物足りない。そんなことはわかりきっている。だからファンの間でも、「Zの後はZZを飛ばして逆襲のシャアを見ろ」とまで言われる。そんな作品になっている。
しかし、だからといって、お前らに駄作だ駄作だと言う資格なんかあるか。身もとれるしダシもとれるのに、生ごみ扱いしやがって。だんだん腹が立ってきた。ウオー。そういう感じでこれを書いているわけです。よかった探しとも違ってて、自明として実のある作品だよ、というのは言っておきたかった。確かにZZにおかしい点は結構あるよ。でも、それはZだって同じじゃないか。なんでZZだけをやり玉に挙げるんだ。ぶっ殺してやる。そんな気持ちでこれを書いた。それとZZで描かれた地球連邦自体の腐敗ぶりで、ようやく逆シャアでのシャアの動機が得心できた。
そもそも、ぶっちゃけZガンダムが基本的にはつまんないアニメだと思う。ホンット、ダレにダレてるんだから。1話完結的なストーリーが多いダブルゼータの方が比較的マシ。だからZと比較してZZを面白さで貶めるのは本当に納得いかない。さっきからZのラストをほめているけど、これは単純に衝撃度合いが強い展開だったことと、これまでの物語とキャラクターがテーマとして最後にすべて浮き上がって纏まった美しいラストだからで、エンターテイメントとしてはZZガンダムの最後3話はとても面白かったと思う。ハマーンとの最終決戦は、キャラ・スーンとランスがニュータイプ部隊と激突するところからハマーンの死に至るまで、白熱した闘いで見ていてすごく面白かった。面白い止まりではあるのですが……。
結局、「シリーズ物の3作目がテーマ的に間延びする」という、非常にありふれた現象のひとつでしかないんじゃないかな、ZZの地味さの要因は。否定派が言うほど論外でもないが、謂れのないことでもない。ただ、思想的連続性がどうのこうのと言わず、単体のエンターテイメント作品として見れば、まあまあ面白いアニメだと思います。はっきり言って、Zガンダムなんかより面白いよ。エンターテイメントとしては。カミーユ発狂を熱っぽく語ってるけど、これはガンダム→イデオン→ダンバインと発展的に引き継がれてきたテーマを再度ガンダムに落とし込んだ際の結末として美しかったから語ってるだけで、単体のエンターテイメント作品として見たZガンダムなんて全天周モニターが出てきたところの映像がピークで、あとは面白くもなんともなかったわ。
ところで、ZZガンダムは女キャラもかわいいのですが、そこはあまりどうでもいいかな……。90年代後半のエロゲでそのまま通じるような絵と造形でした。同時代ではあり得ないほど飛びぬけていたんじゃなかろうか。キャラクターデザインとかキャラ付けを含めて先進的は先進的よね。でも、プルより集団で尻尾パタパタさせてるキュベレイMk2の方がエロい。誘ってやがるぜ、明らかに。 -
ダブルゼータガンダムをちびちびと見ています。現在16話。無料期間中だけと思いバンダイチャンネルに登録したのですが、月額1000円なら1年放映のアニメを毎月見ればレンタルするより安いかなーと思ったりしたのですが、よくよく考えたらアニメDVD10本=20時間も毎月アニメを見るなんて、そんなに時間ないし、時間割くようなものなのか? と思ったりする。オタクとして衰えたわけではなく、私はもともとアニメはほとんど見ない。
ルー・ルカがグレミー・トトの善意につけこんで機銃を撃ち込んで脱出し、そのまま逃げていったから「こいつ、カツを人間不信にしたサラよりやってることがアレだ……」とドン引きしたのですが、そのまま戻ってグレミー・トトにお礼と謝罪をしていたので、なーんだサラと同じかー、とルー・ルカの評価を改めるも、結局同じ演出というか、同じようなキャラクター性なんだなー、と思うとちょっとがっかりしちゃったのも事実。だって、キャラクターが同じ価値観で同じ類型ってことになっちゃうわけじゃん。それはちょっとガッカリ要素になる。それに主人公側にしょーもない悪女がいるの、逆によくないですか、逆に。とはいえ、そこまで開き直ったアレなのが主人公チームにいても明るいムードの作品ではなおさら気分がよくないし、やっぱりこれでよかったか。これでグレミーはルー・ルカにますます惚れちゃうわけですが。
カツはサラに裏切られたことで人間不信になったのに、グレミーはあっさり自分を裏切ったルー・ルカに惚れちゃった理由は、ちゃんとルー・ルカが逃げる前にグレミーにお詫びとお礼をしたからで、逆にサラはルー・ルカよりよほどカツに対して罪悪感と好意を抱いているのに、全ッ然コミュニケーション取ってねーから齟齬ばっかり起こってカツが人間不信に陥ったり、サラがそれで気に病んでしまったりしてしまうのである。サラはカツに軽い感じで好意を伝えなかったがために悲劇につながったわけじゃないですか。お前らニュータイプ能力あるくせに、コミュニケーション能力低すぎだろ。
やっぱり重苦しいのはよろしくない。カツがサラに裏切られて人間不信になったのも、作品の空気が重苦しすぎたのがよくなかった。ダブルゼータガンダムは雰囲気が軽過ぎると評判ですし、実際軽いのですが、ゼータガンダムは重すぎじゃないですか。
それと、ダブルゼータガンダムの14話と15話(幻のコロニー前後編)を見て思ったのですが、ゼータガンダムってこういうタイプのエピソードがないんですよね。機動戦士ガンダムも『ククルス・ドアンの島』とか『時間よ、とまれ』みたいな独立した短編のようなエピソードがあったのですが、機動戦士ゼータガンダムは全部が一続きのドラマとしての面ばかり強調されて、仮に独立した短編のようなエピソードと解釈できるような話があったとしても、どうにもその印象が薄い。少なくとも、私は思い浮かばない。実は私は『時間よ、とまれ』が機動戦士ガンダムの中でもかなり好きなエピソードなんだけど、こういう話がないからこそ、逆にゼータガンダムにはのっぺりした印象を持ってしまうのかな。テレビシリーズの利点って、映画に不可能な長編ドラマがつくれることにもあるんだけど、そんなの一年分やればダレてしまうのは当たり前で、むしろ断続的に短編シリーズを重ねて構成できることにあるんじゃないかなー、と思ったり。そんな感じ。
ダブルゼータガンダムは毀誉褒貶の激しい作品であると聞いているのだけど、今のところ、よくも悪くも「後ろでブライトやアストナージがせわしく動き回っている一昔前の一般子供向けロボットアニメ」って感じです。正直、見やすいから気に入っている。ただ、フックも感じない。私はガンダム自体にそれほど思い入れはないので、ガノタのような「ガンダムという作品が壊された」的な感想はないです。そもそも、それならゼータガンダムの時点で壊されてるよ……。機動戦士ガンダムって、かなりいい感じにちゃんと完成した形で終わった作品なのに、なんで希望一杯で終わったアムロがうらぶれてるんだよ。イデオンによるガンダムに対するテーマの批判的継承があってこその存在だよなー、あれ。
機動戦士ガンダムは子供向けアニメをフォーマットにして構築されており、ゼータガンダムはそこから離れ、ダブルゼータガンダムは確信犯的に子供向けアニメに引き戻しているためか、ガンダムからゼータガンダムで失われたものが見つけやすい。先ほどの独立完結したエピソードもそうですが、たとえば、「宇宙を旅している感覚」みたいなのはゼータガンダムにはなかったし、機動戦士ガンダムって、大人である艦長が死に、全員未成年(コックはおっさんか)のクルーが奮闘する話で、「子供たちが力を合わせて宇宙を旅する」「子供たちが団結して大人の社会に切り込む」みたいな意味合いがあったはずなんだけど、その点、カミーユは孤立している。トーレスみたいな比較的年齢が近い人物とは打ち解けていたけど、ファが来るまで幼児以外の未成年と思われる人物は一人だけだった。ダブルゼータガンダムだとメインキャラクターが一気に未成年、更に言えば機動戦士ガンダムより幼い年齢に刷新されたので、そういった冒険活劇的なニュアンスが機動戦士ガンダム以上に強化されているのだろう。たぶん。
今んとこまでのノリだったら、もう劇場版ダブルゼータガンダムは二時間で纏められそうだと思った。 -
私のLINEミュージックが長らく『Z・刻を超えて』であることはディープな倭人ファンは知って……と思ったけど、Line交換をしているのは「ファン」とは違う要件か。まあいいや。こちらの記事でも触れられている曲です。作曲はニール・セダカ。(キャラゲー音楽列伝② 機動戦士Zガンダム ホットスクランブル)
最近、AmazonPrimeでアニメを見ております。世間はコロナウイルスで外出を控えることが多くなり、ネットフリックスなどの動画配信サイトに登録する人が増えているようですが、私の場合は今年に入る前後から仕事が忙しくてamazonの利用頻度が増え、ついにAmazonPrimeに加入し、そこでたまたま無料で映画などが見放題ということを知り、ここ半月くらいアニメを見るようになって現在に至る、という状況です。コロナウイルスまったく関係ないけど、時流が私になぜか近づいてくるのよね。私の生活はいつも通りです。そう、いつも通り。一昨日までゼータガンダムを見ていました。
ゼータガンダムのラストは「なにこれ」って感じでしたが、このアニメって途中までの内容自体はずーっとガンダムで提起され、イデオンで批判的に継承しつつ発展させ、ダンバインで完成して決着のついたテーマをいまさら蒸し返しているようにしか見えないものだったので、逆にあの結末こそ作品としてフックがあったと感じます。正直、ガンダムオタクではない私からすれば、ラスト以外はあんまり見るべきところがないというか……。あのラストなかったら、相当退屈かつ何がしたいのかよくわからないアニメだったと感じる。ストーリー展開以上に演出とか、ダンバインの出来損ないみたいなものが多かったし。ジェリドとかなんだよ、あのトッドもどき……。ダンバインからビルバインに乗り換えるのに酷似しているし。ビルバインが飛行機に変形するロボットなのも含め。いくらアボリーがベテランパイロットだからって、初の主人公機搭乗者になりジェリドとマウアーを圧倒してそのまま終わるのは……。
ダンバインのビルバイン乗り換えはかっこよかった。第一話からの宿敵トッド(ゼータにたとえたらジェリド)の地上時代の先輩で中盤最強の敵だったアレン(敢えてゼータでたとえたらヤザンあたり)にダンバインを破壊されたところで、ショウがビルバインに乗り換えて戦う、という流れ。めちゃかっこよかった。お陰で、せっかく特徴的で素晴らしいデザインのダンバインから、フツーのロボットなビルバインに変わってしまったことも、まあ、乗り換えシーン自体はかっこよかったし……でちょっとの間は気を逸らすことができた。いや、ダンバインのデザインが素晴らしかっただけで、ビルバイン自体はフツーのかっこいい側デザインではありますよ。
ゼータは13年前にバンダイチャンネルで途中まで視聴したけど飽きちゃって、その1年後見たダンバインはすごく面白くて、それを経たからこそゼータガンダムはわかるし観れる! みたいな感じはあるかも。正直、ゼータはのっぺりしていて退屈に感じられた。ダンバインも中盤後期から終盤は結構退屈だけど、それはさておき。ゼータはラストがよかったのでいいや。それだけでよろしい
ところで、Amazonprimeでは権利関係の都合でゼータガンダムの主題歌である『Z・刻を超えて』は使われず、オープニング曲は劇中のBGMに差し替えられている。これは私が13年前にバンダイチャンネルでゼータガンダムを見たときもそうだったので、動画配信サイトはどこもそうなのだろうと思っていたのだけど、昨日ダブルゼータを見るためにバンダイチャンネルに登録して、その第一話を見ていたら、途中で『Z・刻を超えて』が用いられていて驚いた。で、「劇中に断片的に使うだけならいいのか? んなわけないよなー」と考えつつ、なんとなくゼータガンダムの第一話を見直していたら、オープニングにちゃんとZ・刻を超えてが用いられていて、更に驚いた。13年前にバンダイチャンネルで見たときは、劇中BGMがOPで使われていたし、AmazonPrimeでも劇中BGMオープニングので、なんとなく今もバンダイチャンネルでは『Z・刻を超えて』を用いられていないのかな、と思い込んでいたのだけど、いつからかバンダイチャンネルでのみ使えるようになったのか。私は13年前、途中からDVDでゼータを見始めて、ようやくニール・セダカにご対面したのだけど。
そこでひとつ疑問なのだけど、バンダイチャンネルで権利を所得する前は、ダブルゼータガンダムの劇中で流れる『Z・刻を超えて』は流れていたのだろうか。ニール・セダカから権利を所得していない会社によるダブルゼータガンダム第一話の配信版はどうなのだろうか。dアニメストアにもAmazonPrimeにもダブルゼータガンダムはないので、確認のしようがない。曲はやはりカットされていたのかな。そもそもダブルゼータガンダムの第一話は丸々カットしてもいいような内容ではあったが。なんだあのレンタルビデオ屋で親が本編と間違えて掴まされる総集編ビデオみたいな第一話……。
Zガンダムはラストがとてもよかったので、エンディングが劇中BGMでは余韻が失われてしまったかもしれない。バンダイチャンネルで見ればよかったな、と後悔。ダンバインもラストがよくて、あそこで『みえるだろう、バイストンウェル』のEDが流れるのが更に更にすごくよかったんだけどね。
ところで、本田透はエヴァンゲリオンでアスカに共感すると言い、マンコマンはNHKへようこそでは岬ちゃんに共感すると言っていたので、私はそれを傍目で見ながら「メンヘラ男は大変だねえ」と他人事のように思っていたのだけど、ゼータガンダムではフォウ・ムラサメに一番共感したので自分も十分ヤバい。