忍者ブログ

塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

ダブルゼータガンダムを見終えたので適当に感想を書こうとしたら長々とした批評っぽい内容になった。
 5日くらい前の事なんですけどね。論じるにあたって、テーマとかないので散漫な話になりますが。

 一般にガンダムファンの間で、今作はコメディ的な作風が混じっていることから、重々しいイメージのZガンダムに対する冒涜だという意見が多く、それが批判の的になっておりましたが、私としてはそこは別に気にならなかったです。最後にカミーユの治療が成功したのか、ファと一緒に海岸で戯れているシーンなんかを見ても、よかったね、って感じで。ハッピーエンドの方がいいですよ、やっぱり。
 もちろん、私だってZガンダムについては、最後でカミーユの気がふれたままぶん投げて放置して何のフォローもせず、二度とガンダムの続編なんかつくらないというのが一番最も素晴らしく美しい終わり方だっただろうとは思いますよ。でも、あなた方ガンダムオタクの皆さんがZZのような続編を求めない理由はそこではないし、続編そのものを拒絶するなんてのはできない注文なんでしょう?
 そもそも、みなさん今作が前作の冒涜だと言いますけどね、第1作目の『機動戦士ガンダム』自体よくできたアニメだったし、特に最後がとても綺麗にまとまった作品だったので、Zガンダムみたいな前作の希望を叩き潰すような続編をつくること自体がガンダムに対する冒涜だったのだと思いますよ。そして、Zガンダムは『機動戦士ガンダム』という作品の冒涜を、この上なく上手くやった作品だったと思います。意味のある、いい冒涜でした。でも、機動戦士ガンダムをZガンダムがどれほどの冒涜をもって迎えたかを論じずにZZをやれ冒涜それ冒涜だと論じる行為は、まったくもって信用に足りない。死ね!


 ヒートアップしてしまった。ちょっとクールダウン。

 引き続き前評判に関して。
 今作は一般に「前半のコメディ路線から後半になってシリアス路線にガラッと作風が変わった」という評判ですが、そうかな? コメディ要素は少しずつ減ったかもしれませんけど、終盤にも『タイガーバウムの夢』のような相変わらずな「宇宙コロニー紀行」が入ってたし。これも主人公たちが女装したり、ムーン・ムーン篇以上にコミカルな内容です。
 それに、終盤に再登場した序盤の敵マシュマーがタキシード姿の紳士風優男から筋肉ムキムキのマッチョメンになって、ここぞとばかりにノンスリーブで筋肉を誇示しながらも、なおかつ相変わらずバラを愛でる姿は非常に滑稽で、それを見たハマーンが事あるごとに「強化しすぎたか……」ってブツブツ言うの、完全にギャグでしょう。あのビジュアルを見れば、一体なにをどう強化したのかは知らないが、とにかく何か強化しすぎだということはビンビンに伝わってくるので、「そりゃそうだろうな……」としかコメントできない。
 同じく序盤の敵キャラクター、キャラ・スーンの再登場でも、以前の通りパンキッシュな髪形のまま、今度は女王様ルックに扮して鞭を振るって地下労働者を統括してたり、どう見ても完全に伝統的な子供向けアニメや特撮のセクシー女幹部だったし、あれがコメディ要素じゃなかったらなんなの……。
 マシュマーやキャラ・スーンを「序盤のギャグキャラがシリアス展開に放り込まれておかしくなあった」みたいに扱ってる人ばかりだけど、ずっと一貫してコミカルなキャラだよ、あいつらは。逆にハマーンがコメディアニメに紛れ込んだシリアスキャラみたいになって、パロディキャラっぽくなってたよ。
 中盤以降ハマーンが登場してストーリーに背骨が通ったので、一定シリアスに傾いたのはそうなんじゃない? と思うんだけど、前半と後半で作風がそこまでガラッと変わったとまでは感じなかった。前半も実際はそこまでふざけているわけでもなく、コメディっぽい雰囲気だっただけだし、それは後半もずっと一定以上そうだったよ。


 今作の位置づけについて。

 私にとって、前作Zガンダムのカミーユのセリフで一番好きなものが、「なぜそうも簡単に人を殺すんだよ! 死んでしまえ!!」なんですよ。これはネタでもなんでもなくて、羞悪の心(正義)が怒りとして表出する、その怒りを相手を憎む形でしか表出できない人間の性、擦り切れるような切実な心象が表現されていると思うわけです。人殺しという悪を憎む心の表出が、そのまま人殺しという悪を為すことにつながり、更にはそれを肯定することになる。その葛藤の狭間で戦うカミーユというキャラクターを一番よく表現しているのが、このセリフです。
 劇中でカミーユは本当にすぐ「死ね」という言葉を使う。何度も、何度も使う。人殺しをしたくない、殺人という行為を嫌悪する、戦争は嫌だ、そういった発言や描写が一番多いのもカミーユなのに、「死ね」という言葉を一番使うのはカミーユである。
 終盤ではヤザンに対して、「貴様のような人間はクズだ! 生きてちゃいけない人間なんだ!!」と、ついに人の生命そのものを憎む発言をする。カミーユは、戦争を当然のように遂行する連中、人殺したちに対して、強い嫌悪感を表明し、それを止めるために戦っているつもりである。
 しかし、そんなカミーユに、ジェリドは突きつける。「俺はお前ほど人を殺しちゃいない」と。カミーユはこたえる。「俺は人殺しじゃない」と。どう考えても人殺しなのに。カミーユは自らを慕うロザミィを自身の手で殺したとき、「ニュータイプなんて人殺しにしか使えない」とシャア・アズナブルに吐き捨てていたのに。あれは殺人ではなかったのか? カミーユは、戦闘の末にジェリドも殺す。ジェリドはカミーユと分かり合うことはなかった。
 かくして最後の敵シロッコと対峙したカミーユは叫ぶ。「分かるはずだ! こういうヤツは生かしておいちゃいけないって分かるはずだ!! みんな……みんなに分かるはずだ!!」と。他者に対してまで、その一人の人間に対する生存を否定するように煽動する。これは視聴者に向けられたものでもある。そして、カミーユと共鳴した戦争の犠牲者たちの魂が、それに応える。唯一シロッコをかばったサラの魂に対して、カツの魂は「あの人も死ねば自分たちと同じようにひとつになれる」とシロッコ殺害の正当性を説く。これはポア(処置不能な悪人に対する死による救済)の思想と同様である。
 シロッコは息絶える直前、「貴様の心も一緒に連れて行く」と妖言を吐き、然して後にカミーユの精神は破壊された。なぜか。調和をしていないシロッコの魂を自らに取り入れたカミーユは、その矛盾に耐えられなかったからである。カミーユはシロッコと一切わかりあうことなく、死ねばシロッコも自分の中に入るのだから大丈夫だと、ひとつになるから問題はないと、そのようにしてシロッコを殺した。カミーユが精神を壊したのは必然である。矛盾する人々の心を、その人自身と向き合うことなく、殺人という行為によって自らの中に容れているのだから。分かり合えたサラだけでも反発があったのだ。シロッコを殺す以前から、カミーユは戦争の犠牲者たちの精神を自身の受け入れ、その息苦しさは限界に達していた。そんな中、フォウやロザミィたちとシロッコがそのまま同居したら、その心は引き裂かれるに決まっている。「なぜそうも簡単に人を殺すんだよ! 死んでしまえ!!」という言葉の限界、それはそのままカミーユの精神の限界を表している。

 前置きが長くなった。では、今作の主人公であるジュドーというキャラクターはいかなる存在であったか。
 少年ジュドーは初登場の第2話(実質的な第1話)冒頭からジャンク屋として、悪ガキ仲間と違法に回収したモビルスーツの機体などを売って生計を立てていることが描写される。そして、寄港したしたアーガマからガンダムを盗もうと計画し、ヤザンと共謀して市街で貨物トラックを盗み、アーガマに潜入する。このように、ジュドーは不良少年である。
 しかし、ヤザンがアーガマのクルーであるサエグサを切りつけた際、ジュドーは怒りを露わにしてヤザンに敵対を表明する。これまで一緒にアーガマに潜入してガンダムを盗もうと悪だくみをしていたにもかかわらず、人を殺す行為は一線を越えた行為として許容しなかった。この描写がジュドーというキャラクター付けを決定的なものにしている。
 その後、ブライトがサイド3に対して市街を含めて砲撃しようとした際、敵国にも市民がいるからとそれを止めるなど、誰よりもそういった行為を忌避する描写が目立つ。更には敵であるハマーン・カーンからは、生身の人を打つことができないこと見抜かれ、事実ジュドーは戦闘中の敵であるにもかかわらず銃撃ができなかった。ジュドーは自らの"弱点"を突かれたわけである。
 こういった描写がジュドーを個性付けしている。

 そして、ジュドーも最後までハマーンに対して説得を試みていた。劇中でも、ジュドーとハマーンに関しては「似ている」「惹かれあっている」と、ラサラやプルのような仲間にさえも評価されていた。この戦いで仲間のプルが死に、妹も死んだかもしれないにもかかわらず、である。このような関係は、カミーユとシロッコとの間には構築されていない。ジュドーはハマーンの在り方を否定しても、その怨念を否定しても、死ねだとか、殺すだとか、そういった言葉は吐かなかった。ジュドーは最後までハマーンに訴える。「その潔さをなんでもっと上手に使えなかったんだ! 持てる能力を、調和と協調に使えば、地球だって救えたのに!」と。そのようなジュドーが相手であったからこそ、ハマーン・カーンは死の直前、自ら納得することができた。彼女の「帰ってきて良かった……強い子に会えて」という死に際のセリフは、シロッコの呪詛と対照的である。
 ジュドーというキャラクターは、本質的にカミーユと実は大差ない。人殺しを厭い、正義感が強く、人に共感する心が強い若者である。ただ、ジュドーは分かり合おうとすることができた。外に向くことができた。そこには仲間の存在があった。ハマーンは「人はしょせん一人だ」と言った。カミーユもまた、ファ以外に分かり合える関係の友人は身近にいなかったし、彼女との関係もどこかすれ違いを続けてしまった。最終決戦で死んだ人々の魂とともに闘ったカミーユと、生きた仲間に見送られて闘ったジュドーは対照的である。ジュドーの境遇は決して恵まれたものではない。しかし、持ち前の明るさで人を惹きつけたし、それは周囲の仲間によって支えられたものであった。それぞれの仲間に、それぞれ違ったジュドーの理解者としての役割が与えられていたのである。リィナの死後、ジュドーは精神的に非常に危うい状態であったし、ジュドーに対する働きかけも、プルやルーのような態度だけでは逆効果で、カミーユのように精神を壊していたかもしれない。かといって、ビーチャやモンド、エルやイーノだけでは、ジュドーはそのまま何も変わらなかったかもしれないように思う。
 また、敵であったマシュマーやキャラ・スーンに対しても、ジュドーは排他的ではない。最後の最後まで説得を試みた。こうしたジュドーの態度は、批判される序盤のコメディタッチな軽い雰囲気があったからこそである。ルー・ルカとグレミー・トトの関係も、カツとサラのような拗らせた病的な関係にはならなかった。カミーユは生前にフォウやロザミィとさえ満足な関係を構築できなかったが、ジュドーはプルの仇であるプルツーとも分かり合えた。『明るいガンダム』でなければ、きっとジュドーもカミーユのときのような悲劇へと向かったかもしれない。今作で批判されるコメディタッチあるが、ニュータイプが未来に希望をつなぐ存在として終末を飾ったか『機動戦士ガンダム』から一転、それを批判的に再検討し、ニュータイプの悲劇性を語ったのが『機動戦士Zガンダム』である。それを更に批判して、明るく彩られた今作は、まさにZガンダムが行った前作への批判的展開という作風を引き継いだからこそのものではないだろうか。


 ……とまあ、ここまで書いてきたわけだけど、なんだろうなあ。どうしても、「それでいいの?」って思っちゃう。っていうか、結構Zガンダムについてまっすぐ語ってるね、私。
 なんというかなー、ジュドーは好感を持てるキャラクターなんだけど、それまでというか……なんだか、「優良な不良少年」って感じでさあ。それって東夷の倭人が好きなタイプのキャラクターなのでは? と言われたらそうなんだけど、やっぱりステレオタイプ的な少年アニメの主人公の類型だからさあ……。そこで、「それでいいの? ニュータイプってそれが正解でいいの?」と思っちゃう。単純に私個人の価値観からすれば、「ジュドーみたいな人間性が理想でいいんだよ! 軽くても、明るく楽しく元気がいい方がいいよ。」と言いたいところなんだけど、それは個人のパーソナリティであって。なんだかね、作品としてはちょっとズレというか、消化不良な部分を感じる。なんかねー、作品がジュドーに追いついていない感じがするんだよな……。

 最終決戦でジュドーはハマーンに批判を加える。「今持っている肉体にだけ囚われるから……」と。ジュドーのセリフは人々が肉体を乗り越えて精神によって結びつくニュータイプに必然的に成長する、そうなるべきであるという『機動戦士ガンダム』から発された作品テーマの表出であり、地球という"坤"から宇宙という"乾"へと人類は高次な世界に飛び立つべきだというZガンダムから引き継がれた主張に通じる。
 理屈として、ジュドーの言いたいことは分かる。ジュドーの言うような「今の肉体に囚われない存在」としてはプルとプルツーが最後で一つの肉体の中で融合していることを示す描写が当てはまる。最後にジュドーを助けたのもプルの精神であり、ジュドーの存在は一人の人間の肉体に縛られない、「一人で考える」ハマーンに対するカウンターとなっている。それに、今ある肉体が地球に置き換え、それに囚われないジュドーが最後に木星探索に向かうのも、アナロジーとして成立している。そういう意味で、作品の内容とこのセリフは対応していると考えられる。
 最終話の前話で、ジュドーはグレミーに対して、似たような演説をする。そこでは血筋にスポットが当てられた。グレミーとミネバ、ハマーンたちが血筋に縛られて小競り合いをしている、そしてそれで地球やほかのコロニーの人々までもを巻き込む、その愚かしさを語り、血筋のような肉体的要因を超えて精神で結びつくニュータイプと対比することは、確かになんとなく得心がいくというか、対比が機能していると感じる。これは、この時点では血筋という"遅れた考え"に固執する態度を肉体的であるとして批判し、精神による結びつきというニュータイプの思想を対置するので違和感が小さい。
 でもさー、どうにも、なんとなく、このセリフってハマーン戦で微妙に上滑りしてない? というのも、カミーユの存在を考えると、むしろジュドーは肉体的な面をおざなりに"しなかった"からこそ、カミーユのような悲劇に至らなかったんじゃないの。このセリフってガンダムという作品的なセリフで、この瞬間のジュドーというキャラクターのセリフだと感じられないんだよ。ジュドーは肉体に縛られていないかもしれないけど、ここで肉体に対する忌避を示すセリフが出てくるの、なんだかなあって。
 うだうだと後ろ向きに考え込んでしまうカミーユに対して、前向きに考えるより先に身体が動いてしまうジュドー。死んだ人々の魂に囲まれたカミーユに対して、肉体を持った生きた人々の意志と共に闘ったジュドー。モビルスーツのデザインまで、スレンダーな「精神性」を感じるスタイルのZガンダムと違い、ずっしりと重量感のあるZZの見た目、すごく「肉体的」である。あらゆるイメージから、ジュドーはすごく肉体的だと感じる。精神的にもジュドーはたくましいと思うよ。でも、それって肉体的な実在をおざなりにしなかったからなんじゃないの? 観念論をいじくったりせず肉体を持った目の前の人間を大切にしたからじゃないの? 精神だけを昂ぶらせると、かえって精神を損傷するってことなんじゃないの? だからこそ、ジュドーはカミーユよりもハマーンの哀しみに自然な形で共感できたんじゃないの? それでカミーユのシロッコに対する態度とジュドーのハマーンに対する態度に明白な違いができたんじゃないの? ニュータイプ能力の発現の仕方まで実質的なんだもん、ジュドーは。ストーリーの理屈ではわかっても、感覚的にわかんないんだよな、ジュドーのセリフとニュータイプ的な部分。
 なんというか、こうなってくると、もはやニュータイプという存在自体に、どんどん腑に落ちなさを感じ始める。精神と肉体の二元論と精神の優越論及び進歩史観の合わせ技の末路なんですよね、ニュータイプ論って。だからそういう袋小路に陥った。カミーユ自身が、Zガンダムの最後の方で「地球に縛られるのをやめて宇宙に行くべきだけど、そのために人が大勢死ぬのは間違っている」と矛盾と葛藤を抱えているのに対して、ジュドーというキャラクターはそれに応えているけど、物語がそれに答えていない。「地球を捨てて宇宙に人類は旅立つべきだ」という思想と「肉体、物理を超えて精神で結びつこう」というニュータイプ思想は乾に向けて坤を捨てよ、という同源の考えにで一致している。でも、そのニュータイプ思想の破綻をZのカミーユ発狂でまざまざと見せつけられた直後、ZZでそのまま肯定するというのは相当無理していると思う。実際、ジュドーって一回従来のニュータイプ的なものと離れたからこそ存在しえたキャラクターじゃない? そして、すごく地に足の着いた存在で、精神ばかり先行してふわふわしたニュータイプとは違うところがジュドーの強みだと思うのだけど。 「肉体があるから……やれるのさ」というハマーンの反論は、下手したらジュドー的にも聞こえる。もちろん、先述の通り、ハマーンは確かに、自己というものを他者から防衛するための鎧として肉体を保っていた。でも、逆にジュドーだって、カミーユのように身体をただ他人に貸して自己を誹毀することはなかった。
 ジュドーというキャラクターは、「肉体と精神の調和」というカミーユへの批判的再検討として機能しているし、ジュドーの精神的な強さって、地に足の着いた「地球的」なものだと思うのだけど、そういうのってもう、これまでのニュータイプ論と齟齬が出てるし、実際ジュドーってたぶんアムロやカミーユ的なニュータイプ能力から離れたキャラクターしているでしょ? なんかジュドーというキャラクターは生きてるのに、それについて製作する方が無自覚なのか、あるいは目を逸らしてる感じがすごくする。ニュータイプの能力で分かり合うのではなく、目の前の人に対する想いで分かり合う。能力に依存したカミーユはハマーンに拒絶された。ジュドーはそうではなかった。でも、それをテーマとしてまとめられていない。それどころか、ストーリーはカミーユ的な発想のままになっているように見える。
 なんだかなあ、ZZという作品はテーマと物語がすごく混線していると感じる。難解なのではなく、混線。サラサのセリフなんかを見ての通り、憎しみの連鎖を断つことや、ハマーンに対するジュドーの最後のセリフの通り、和解と調和がテーマなのはわかるし、それがカミーユとハマーンを乗り越えることにつながるのだけど、それがむしろニュータイプという存在から離れたところで展開しているのが今作なので、その先に新たなニュータイプの可能性があったとしても、それは過去を全部ご破算にしないと展開できない質のものになるよ。ここから精神優越論を展開するの、キツくない? 今ある身体に囚われず、プルの精神を自らに容れることで自分ひとりの頭だけで考えなかったプルツーは最後に死んだし(そりゃ死ぬよ)。これなら、もう魂の安息の地バイストンウェルにでも旅立った方がいいと思う。ニュータイプ論自体、なかったことにして穴に埋めた方がいい。だって、Zでの破綻をそのまま焼き直しているのに、無理やりハッピーエンドにしているようにしか見えないもん。

 で、ここまでは作品のテーマ全体の対するスケールの大きい批判だけど、ここからは小さい話。

 視聴の途中、罵Qから「ZZはもともと後半は逆襲のシャアのような展開にする予定だったけど、映画製作が決まったから終盤が全部変更された」という話を聞いたのだけど、それを聞いた時点ではプルさえ出てない時期だったから「ここからどうやって逆襲のシャアのような展開にするつもりなんだ……」と思っていた。でも、グレミーが最後あたり、明らかにシャアが演じた方がいいような役割を演じていたので、すぐに合点がいった。だって、グレミーの反乱って経緯も何もよくわかんなかったし、実証性が怪しいザビ家の血筋を名乗るだけの男を立てる必要がどこまであるのか、ミネバの対抗軸としてどれだけ有効なのか。あれだったら、ハマーンに対して「君側の奸! トト家こそ正式な宰相の家だ!」とかいってりゃよかったんじゃねーの。ラカンとかがついていった理由がイマイチ見えない。そこをいくと、シャアだと動機づけが非常に簡単。ザビ家に対して、ジオン・ズム・ダイクンの子が宣戦布告をする、という。すごくすっきりする。これならついていくジオン兵は数多くいただろう。ラカンのような古株タイプは特にそうだと思う。
 しかし、そういった理屈とか作劇の部分じゃなく、私が特にグレミーの位置には本来シャアが適任だと直感的に感じたのは、グレミーがプルツーとクインマンサに同乗するシーン。あのプルツーとグレミーが、クェスとシャアに完全にダブって見えた。そもそも、クインマンサって見た目がガンダムっぽくてギミックがジオングっぽいという、明らかにラスボス向け、できればシャアが乗るべき機体じゃないかと思う。αアジールとも雰囲気が似ている。精神に失調をきたしたクェス(プルツー)を膝に乗せ、一緒にクインマンサを操り最終決戦に臨むシャア。絵になるんじゃないかな。シャアはZガンダムで強化人間のアイデアに理解を示していたし、グレミーはプルクローンを製作してニュータイプ部隊をつくっていたし、これもシャアがやればいい。まあ、これやるとシャアがわかりやすくマッドなド外道になるけど。それと、ジュドーがシャアに対して「血筋にこだわってんじゃねえぞ、オールドタイプ!」と突きつけることになるという、なかなかいい感じの展開に。まあ、シスコンとして通じ合えばいいんじゃないかな。話逸れるけど、逆襲のシャアのシャアってシスコン要素が雲散霧消しているから違和感がある。セイラって地球にいるんじゃないの?
 このあたりが、コメディ要素よりよっぽどZZの「その場しのぎ感」「中途半端さ」「スケールの小ささ」を構成している要因のように思えるんだよね。新約ZZ劇場版を、逆シャアのなかった世界のZZとしてやってほしいと感じる。全編2時間で。

 それと、作劇上、サエグサがヤザンに斬られたシーンが物語全体の目的性とジュドーたちのキャラクターを決定づける出来事なのに、あとの展開からは「人殺しは越えちゃいけない一線」って感じが、やっぱりイマイチなくて……。マシュマーたちのしていた葬儀とか、「あれ? ジュドーにやられた兵士って死んだの?」と、かなり気になった。ジュドー、人を殺しちゃってるじゃん、と。身を守るためだから、とは言えるけど、ゲゼのおっさんとかヤザンとかは殺さなかったのに、兵士はあっさり死ぬんだなーって。「ザクが相手なら人間じゃないんだ」的な思想があまりにベタなまま前面に出すのはなんだかなあ。かといって、トライガンやるろうに剣心のような主人公が不殺を貫くのは、なんかそれはそれで作品のコンセプトが違ってきすぎるやろね、ってのもまあ、それはそうだし。あと、これは揚げ足かもしれないけど、ヤザンはサエグサ斬りつける前に走行中のトラックから運転手を叩き落としてるんだけど、あれ頭から落ちてたし、アニメじゃなかったら割と高い確率で死ぬだろ……。
 あとは、ビーチャがジュドーにダイナマイト括り付けさせて出撃させるのとか、完全にビーチャがジュドーを殺す気だったじゃん……。あれ、「この"うっわー、この倫理観ついていけねー"って感覚、どこかでも経験したな……」と思い出してたんだけど、ビーチャってザンボット3の香月と同じ類型のキャラクターなんですよね。香月が勝平に対してしてたこと、ほんと命を奪う気でやってたよね……。あれ、めちゃくちゃドン引きしながら見てたんだけど。こういう荒っぽさのノリは、私のような肉体労働者の文化圏では、よくあることでもあるのだけどね。そういう表現として意味があると言えばそうだと思う。だけど、なんだかな。
 その話のあとでビーチャが冨野アニメお決まりの「大人ってのは!」みたいなシャウトをブライトに対してしてから、ビーチャのそういう小悪党っぽさが急に薄くなって、皮肉屋タイプになった気がするのよね。前半と後半の違いを敢えて言うなら、一番大きかったのってあそこでのビーチャの態度の変化だと思うよ。
 あとまあ、ブライトがアクシズの市街に砲撃しようとするのは、なんかおかしくない? それういうことはしないキャラクターだと思っていたし、思いとどまってもそれを計画した時点でブライトはダメダメだと思うのだけど……。なんだかなあ。

 おもしろかったと言えば、アクションとか、Zガンダムと比べても見てて飽きませんでした。カメラワークとか。絵もきれい。戦闘シーンはZだとビームの撃ち合いばっかりだった気がするんだけど、ZZは肉弾戦が多くて、そこがよかったと感じました。でもさあ、そういう点でも、やっぱり作品全体が「肉体的」なんだよなあ、ZZは。ジュドーはカミーユより精神的にも強く見えるけど、それって肉体存在的な実在性を重視しているからこそで、やっぱりニュータイプ思想に破綻、とまでは言わないまでも、オルタナティブとしてはっきりと提示されているわけでもないため、なんだか消化不良なままと感じる……。3作目にしてこれでは、ちょっと作品として弱い。Zのラストは衝撃的だったのに。それに匹敵するものにするなら、ZZはニュータイプ論自体を明確に廃棄するしかなかったんじゃないかと思うし、そうでないならそうでないことをちゃんと示したかといえば、そうでもない。



 というわけで、はっきり言ってZZは作品としてはすごく中途半端で、長大な割に小粒になってしまったのは事実だと思う。鶏肋のような作品だという印象です。エンターテイメントとしては私はZよりたのしめたけど、それでもZのラストみたいな凄みに比べると、やっぱり物足りない。そんなことはわかりきっている。だからファンの間でも、「Zの後はZZを飛ばして逆襲のシャアを見ろ」とまで言われる。そんな作品になっている。
 しかし、だからといって、お前らに駄作だ駄作だと言う資格なんかあるか。身もとれるしダシもとれるのに、生ごみ扱いしやがって。だんだん腹が立ってきた。ウオー。そういう感じでこれを書いているわけです。よかった探しとも違ってて、自明として実のある作品だよ、というのは言っておきたかった。確かにZZにおかしい点は結構あるよ。でも、それはZだって同じじゃないか。なんでZZだけをやり玉に挙げるんだ。ぶっ殺してやる。そんな気持ちでこれを書いた。それとZZで描かれた地球連邦自体の腐敗ぶりで、ようやく逆シャアでのシャアの動機が得心できた。
 そもそも、ぶっちゃけZガンダムが基本的にはつまんないアニメだと思う。ホンット、ダレにダレてるんだから。1話完結的なストーリーが多いダブルゼータの方が比較的マシ。だからZと比較してZZを面白さで貶めるのは本当に納得いかない。さっきからZのラストをほめているけど、これは単純に衝撃度合いが強い展開だったことと、これまでの物語とキャラクターがテーマとして最後にすべて浮き上がって纏まった美しいラストだからで、エンターテイメントとしてはZZガンダムの最後3話はとても面白かったと思う。ハマーンとの最終決戦は、キャラ・スーンとランスがニュータイプ部隊と激突するところからハマーンの死に至るまで、白熱した闘いで見ていてすごく面白かった。面白い止まりではあるのですが……。
 結局、「シリーズ物の3作目がテーマ的に間延びする」という、非常にありふれた現象のひとつでしかないんじゃないかな、ZZの地味さの要因は。否定派が言うほど論外でもないが、謂れのないことでもない。ただ、思想的連続性がどうのこうのと言わず、単体のエンターテイメント作品として見れば、まあまあ面白いアニメだと思います。はっきり言って、Zガンダムなんかより面白いよ。エンターテイメントとしては。カミーユ発狂を熱っぽく語ってるけど、これはガンダム→イデオン→ダンバインと発展的に引き継がれてきたテーマを再度ガンダムに落とし込んだ際の結末として美しかったから語ってるだけで、単体のエンターテイメント作品として見たZガンダムなんて全天周モニターが出てきたところの映像がピークで、あとは面白くもなんともなかったわ。


 ところで、ZZガンダムは女キャラもかわいいのですが、そこはあまりどうでもいいかな……。90年代後半のエロゲでそのまま通じるような絵と造形でした。同時代ではあり得ないほど飛びぬけていたんじゃなかろうか。キャラクターデザインとかキャラ付けを含めて先進的は先進的よね。でも、プルより集団で尻尾パタパタさせてるキュベレイMk2の方がエロい。誘ってやがるぜ、明らかに。
PR

コメント

コメントを書く