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史記孔子世家の孔子は不穏である。孔子は食わせ者である。謗って言っているのでもなければ、奇を衒っているわけでもなく、これ以外に史記孔子世家における斉訪問時の孔子をうまく形容する言葉を持ち合わせていないだけである。とにかくおかしい。不気味である。なんだこいつは。
孔子の斉への訪問は論語や春秋左氏伝などにも記録されている。しかし、孔子の行動の理由は本当によくわからないのではないかと思う。
先の話になるが、今後の孔子は魯の政界で更に出世して活躍する記録が続き、その後に失脚して50歳を超えて他国に亡命してしまい、様々な国を巡り歩くことになる。今回の斉訪問から魯を亡命するまでに20年程度のブランクがあるが、これらをまとめて「孔子の諸国遊説」としてひとまとめにされることが多い。30代半ばにおそらくは祖国の国公を追って他国を訪れた件と、自らの政治的失脚から50歳を超えての亡命でずっと他国を巡ったことが、なぜ一緒くたにされるのか。まったく理解困難であるが、これが伝統的な解釈である。私は歴史小説の類はほとんど読まないのだけど、感想を又聞きしたところでは、「儒教の虚像をはがして孔子の実像に迫る」というように銘打った作品でも、こうした伝統的解釈に引きずられたものばかりであるように聞こえる。
そこで孔子という人物の足跡を追うにあたって、いくつか存在する典型的な誤解のうちのひとつについて、ここで指摘しておかなくてはなるまい。これは孔子と後世の儒家思想を辿っていく上では、案外あまり問題にならない。それどころか、伝統的な儒教はこういった誤解の上に成立している節があり、むしろ「誤解」を一度踏襲するほうが、儒教理解においては有用でさえある。しかし、史記という比較的古くて孔子が神格化される直前の史書の解釈において、そして現代において孔子のことを改めて推し量るには、こうした誤解から解放されることが第一歩となる。
孔子に関する典型的な誤解の第一に最大のものは、孔子が何か彼個人の思想を諸国の君主や弟子に吹き込むために塾を開いて各国を巡って遊説していたとされていることである。史書に記録された範囲でさえ、孔子は貴族の家庭教師や官僚養成所の指導教官であって、基本的には個人思想家ではない。孔子の仕事は、文字や詩、礼節や音楽といった官僚としての実務や貴族社会の社交において必要な能力や教養の指導・教育であり、同時に自身も貴族社会における官僚・政治家である。むしろ本職は後者である。もともと貴族の中では庶民同然の最下層といえる存在として生まれ、しかし実務と学問の両方に励んで成りあがった孔子は、貴族の子弟や庶民から官僚貴族に抜擢される可能性のある若者を指導する立場として非常に適切であった。孔子は「貴族でない者を貴族にする指導者」という役割を担う士大夫である。
古来より貴族というものは伝統に裏付けされた自律性を必要とする。なので、その指導に当たって孔子は、伝統に関する意味付けなどを自己解釈して指導する必要もあったし、あるいは貴族らしくなるための修身に有する一種の思弁や倫理について述べる際にも個人の思想めいたものを口にすることもあっただろう。そこから孔子独自の思想を読み取ったのが直接の弟子や後世の儒家かもしれないが、これは孔子自身が思想家として人に思想を説いたことを意味しない。
そもそも孔子の時代に個人が思想を説く慣習はない。孔子以前の人物の名を冠した思想書と言えば、老子と管子であるが前者は著者の実在さえおぼつかないし、後者は思想家が当たり前になった後の時代の人が政治家の菅仲を思想家と見なすためにこしらえた書物である。中華においては、孔子が登場して初めて「個人の思想」というものが芽生えた。いや、まだ孔子の生前には種が撒かれただけで、孔子自身が我こそは思想家なりと名乗りを上げたのではない。後の人が孔子について考えているうちに、勝手に孔子個人の思想というものを生み出した。孔子は個人の思想が生じるターニングポイントにいた人ではあるが、こうした革新の境界線上の人にありがちな通り、本人の自覚や意識は昔の人とさほど変わらず、しかし後世の人がここから時代が変わったのだと顕彰しているのである。
では、個人の思想家がいつ確立したのか。孔子の死後、彼と入れ替わるように生まれた墨子は、もともとは孔子の弟子の下で学問を積む孔子の孫弟子であったが、学ぶ過程で次第に師に反発を持つようになり、自らの学派を形成して敵対した。これを墨家といい、墨子の思想は書物の『墨子』において述べられている。これは墨子個人というよりも学派を総括した思想書の性格が強いものの、これは少なくとも、孔子よりも個人の思想が学祖より意識されている。
次に現れた個人思想家は、活動時期がはっきりしないものの、一般に墨子の死んだ時期に入れ替わるように生まれたという楊朱という人物は、今度は墨子に敵対する思想を生み出した。これもまた、個人の思想である。楊朱と同世代か、やや遅れて登場したのが孟子であり、彼は墨子と楊朱を批判して孔子の後継者を自称した。孟子は孔子の継承者を自負し、儒家のひとりであることを自任しながら個人の思想書が存在する。この時期には、個人の思想家というものが確立したことがわかるだろう。楊朱、孟子らは個人の思想家として思想を意識した存在であり、彼らの存在は孔子とは性格を異にしている。墨子は彼らと孔子の中間に位置しよう。
楊朱や孟子の生きた時代は、前回の記事で述べた田氏による斉の乗っ取り事件の後で、この国は斉の名を引き継いでいるものの国公から新興国ともいえる存在であった。他の伝統ある国公と比べて、今ひとつ文化的背景が劣るところが感じられたのかもしれない。そこで斉は、後に『稷下の学』と呼ばれる学者の結集を図った。ここに中原諸国各国から名うての学者が集い、斉は学問の国となったわけである。もともと中原には賢者を他国から招く風習はあったが、これに倣って斉以外の国も更に諸国の学者を自国に呼び寄せようと躍起になった。
このようにして学者と学者が鎬を削る時代となると、いったいどういうことが起こったか。墨子が孔子の弟子たちに反発し、楊朱が墨子に反発することで自己の思想を自覚したように、ある思想に対する反発によって新たな思想が芽生えるという連鎖反応が短期間で起こり、そこに個人の思想が爆発的に誕生した。諸国に遊説して俸禄を得ようとする学者たちは、自分の学説という『商品』を他の学者と差異化させる必要に迫られたのである。
孔子の時代やそれ以前から高名な賢者というものはいたし、その弟子であることは一種のセールスポイントになっていたが、これらは個人の思想で売れていたわけではない。『百家争鳴』と呼ばれる時代が到来し、個人の思想というものが社会的に認知され、思想家というべき学者が諸国に自らの思想を売り込んで遊説することが本格的に一般化したのは斉の稷下の学の前後と言えよう。管子が書籍としてまとめられたのも、この時期と言われている。これまでのまとめとして、またしても「孔子就職活動失敗」という陋談への批判の話になるのだけど、斉を訪れた孔子の軌跡は、どう見ても就職活動失敗なんて話ではない。では、伝統的な儒者が言うような「思想の遊説を理解できなかった斉公は愚かである」という話かといえば、それも違う。これらの見方はどちらも、孔子よりずっと後に成立した「思想を遊説して諸国をめぐって官職にありつく」という稷下の学の前後から先の時代に存在した遊説家たちのあり方と孔子を完全に同一視する愚を犯し、しかも孔子の放浪と斉への訪問という20年近いブランクのある事蹟を一緒くたにする愚を犯している。亡命後の孔子については後に検討するとして、斉を訪問した孔子は思想の遊説でもないし、単純な就職活動でもない、なにやら不穏な陰謀の中で動いている。
孔子の亡命による諸国放浪や斉での事件から、こうした遊説家の先駆者であったと評価することは間違いではない。しかし、あくまでそれは後世の標準からの見方、かなり狭い一面的な見方でもある。孔子自身はもともと貴族の家庭教師や官僚養成学校の教官でしかなく、思想家として諸国の遊説をはじめから目的としていた孟子などとは100年以上も時代を隔てており、意識も社会環境もまったく違っている。それなのに孔子は、彼らと同一視される誤解に基づいて解釈されてきた。
ここで少し留保を置くと、孔子が後年において自分を思想家のようなものだと自覚したかもしれないとは考えられる。彼は諸国を放浪する中で、さまざまな新しい世界と出会い、そこで考えを変容させ、あるいは深化させたという逸話がいくつも残っている。また、孔子やその弟子たちが諸国放浪の中で失意に陥った時、今の世に受け入れられなくても正しい道を歩むようにと励ます人が声をかける逸話なども論語をはじめとした書物に残っている。こうした逸話がどこまで本当の話かは分からないし、後者などはむしろ孔子を偉大な思想家として見なすようになった後世の神話のように見え、あまりあてにはならないかもしれない。とはいえ、このような逸話が象徴するように、孔子自身の有する信仰や信念を孔子自身が個人の思想のようなものとして自覚された可能性は必ずしも否定しないし、現時点ではできないと思う。
とはいっても、これは孔子の亡命後においても後半と思われる話であり、孔子が亡命の当初から自らの思想を引っ提げて諸国の国公に面会し、それを遊説するために様々な国を放浪したということにはなり得ない。この場合であっても放浪の中の困苦と幸運という外在から孔子たちの内面に思想が生じたのであって、決して孔子たちに内在する思想が最初からあるとか、それを孔子たちが対外的に売り歩こうとしたのではない。因果がまったく逆である。
ましてや、今回見た孔子による斉の訪問は、亡命の遥か以前のことであり、この時の孔子は35歳、孔子の弟子として高名な顔回や子貢といった面々は、まだ産まれて10年も経っていないのである。この時の彼に確固とした思想があったのだろうか。思想家というものが成立する以前の時代に、である。
その上、ここでの孔子は魯公の後を追っての訪問であり、この段を孔子による思想の遊説だとするのはちょっと無理のある話で、後世の「百家争鳴」と呼ばれる大思想家時代の先駆者として評価する孔子への見方が思い込みを生み出し、かえって目を曇らせることにつながっているように思われる。
そもそも一人の人間の行動が一貫するということはない。いや、もちろん人には生まれて早くに芽生える何らかの本質があるという意見を必ずしも否定する気はないし、孔子は早くから何らかの一貫した自我に苦しんでいたように見え、そこから類稀なる人格を築いたのではないかと思わせるところがあるので、深層的にはそうかもしれないけど、少なくとも表面的な目的や行動が一貫することはない。今回読む孔子世家は、曲がりなりにも孔子の生誕から死没までを一望する物語なのだから、物語に一貫性はあったとしても、個人の行動に一貫した目的が常にあると見れば、それは疎漏となるであろう。
これを踏まえて、晏嬰の発言の実在性が低いことの根拠について以下に述べる。今回の晏嬰の発言に近いものは、墨子の『非儒下篇』に登場する。引用してみよう。
≪漢文≫
孔丘之齊見景公、景公說、欲封之以尼谿、以告晏子。晏子曰、不可。夫儒浩居而自順者也、不可以教下。好樂而淫人、不可使親治。立命而怠事、不可使守職。宗喪循哀、不可使慈民。機服勉容、不可使導眾。孔丘盛容脩飾以蠱世、弦歌鼓舞以聚徒、繁登降之禮以示儀、務趨翔之節以觀眾、博學不可使議世、勞思不可以補民、絫壽不能盡其學、當年不能行其禮、積財不能贍其樂、繁飾邪術以營世君、盛為聲樂以淫遇民、其道不可以期世、其學不可以導眾。今君封之、以利齊俗、非所以導國先眾。公曰、善。於是厚其禮、留其封、敬見而不問其道。孔丘乃恚、怒於景公與晏子、乃樹鴟夷子皮於田常之門、告南郭惠子以所欲為、歸於魯。有頃、閒齊將伐魯、告子貢曰、賜乎。舉大事於今之時矣。乃遣子貢之齊、因南郭惠子以見田常、勸之伐吳、以教高、國、鮑、晏、使毋得害田常之亂、勸越伐吳。三年之內、齊吳破國之難、伏尸以言術數。孔丘之誅也。
≪書き下し文≫
孔丘、齊に之(ゆ)きて景公に見ゆれば、景公說(よろこ)び、之れを封ずるに尼谿を以てせむと欲し、以て晏子に告ぐ。晏子曰く、不可たり。夫れ儒は浩居(おごり)して自らに順(したが)ふ者なりて、以て下を教ゆ可からず。樂を好みて人を淫りにし、治に親しませ使(し)むる可からず。命を立てて事を怠り、職を守ら使(し)むる可からず。喪を宗び哀に循ひ、民を慈させ使(し)む可からず。服に機すれば容(みため)を勉め、眾を導びかせ使(し)む可からず。孔丘、容(みため)を盛りたて飾(かざり)を脩(おさ)め以て世に蠱(むしく)ひ、弦歌鼓舞して以て徒(ともがら)を聚(あつ)め、登降の禮を繁(さかん)にして以て儀を示し、趨翔(はしりとぶ)の節に務めて以て眾を觀、博く學ぶは世に議せ使(し)む可からず、思に勞せしむるは以て民に補ふ可からず、壽(いのち)を絫(かさ)ねども其の學を盡くすに能はず、年に當たりても其の禮を行ふこと能はず、財を積めども其の樂を贍(た)るに能はず、飾を繁りて術を邪して以て世(よよ)の君(きみ)を營ひ、盛に聲樂を為して以て遇民を淫らにし、其の道は以て世に期する可からず、其の學以て眾を導く可からず。今君(きみ)は之れを封じ、以て齊の俗に利せむとするも、以て國を導き眾に先ずる所に非ず。公曰く、善し、と。是に於いて其の禮を厚くし、其の封に留むるも、敬ひ見て其の道を問はず。孔丘乃ち恚(いか)り、景公と晏子に怒り、乃ち鴟夷子皮を田常の門に樹(た)て、南郭惠子に告げて以て欲する所為り、魯に歸せり。有頃(しばらくして)、齊の將に魯を伐たむとするを閒き、子貢に告げて曰く、賜や。大いに事を今の時に於いて舉げよ、と。乃ち子貢を遣りて齊に之(ゆ)かせしめ、南郭惠子に因りて以て田常に見え、之れに吳を伐たむことを勸め、以て高、國、鮑、晏に害を田常の亂に得ること毋(な)から使(し)めむと教え、越に吳を伐たむことを勸む。三年の內に齊と吳は國を破るの難たり、尸(しかばね)を伏して以て術數を言(まふ)せり。孔丘の誅なり。
≪現代語訳≫
孔丘が齊にいって景公と会見すると、景公はよろこび、彼を尼谿に冊封しようとして晏子に報告した。晏子は「駄目です。というのも、儒とは傲慢で自分に従順な者であり、下民を教えることはできません。音楽を好んで人を淫蕩に陥れるから、政治に近づけさせてはなりません。天命に縋って事を怠りますから、官職にあたらせてはなりません。喪を重視して哀礼を用いてますから、民への慈しみに当ててはなりません。服喪の機会では見た目ばかりに拘りますから、民衆を導びかせてはなりません。孔丘は見た目を盛り立て装飾にこだわり、世間に寄生虫のように虫食い、弦楽器や歌、鼓や舞踏で仲間を集め、階段を登降するための礼を言い立てて儀礼を見せびらかし、小走りや駆け足の礼節にやたらとこだわることで民衆に見せつけますか、学問が広すぎて世間で議論させることはできず、思索に人を駆り立てますが人民の助けにはなりません。どれだけ長生きを重ねてもその学問を極めることはできず、一年かけてもその礼を履行することができない。どれだけ財産を賭けてもその音楽を尽くすことはできず、装飾をやたらと増やして邪な術を用いて何世代も君主の業務を代行し、やたらに声楽を創り出して愚民どもを淫蕩に走らせ、その道は世間において適当ではないです。その学問では、民衆を導くことはできませんぞ。今の君上はあやつを冊封し、齊の習俗に利しようとされておいでですが、国家や民衆を先導する為にはなりません。」と言い、斉公は「そうだな。」と言った。こうして彼への礼は厚くし、封地には留めてやったが、敬った態度で面会はしても、彼の統治の術は聞かなかった。これに孔丘はイライラして、景公と晏子に怒り、鴟夷子皮(馬の革袋)を田常の門に立て、南郭惠子にしたいことを告げて魯に帰国した。しばらくして、齊が魯を討伐しようとしていると聞き、子貢に「賜よ、今こそ大いに仕事をするがよいぞ!」と告げると、子貢を齊に派遣し、南郭惠子のツテから田常に会見させ、彼に吳を討伐するように勧めながら、高氏、國氏、鮑氏、晏氏に田常の乱によって損害を受けないようにさせると言いながら、越には吳を討伐するように勧めた。三年の内に齊と吳は国家が滅亡する危機に瀕してしまった。死体が地に伏せることで術数を申し伝えたのは、孔丘の大罪である。ここでは孔子が晏嬰に斥けられ、そこで孔子が晏嬰と斉公に呪詛を吐くという内容であるが、なんというか、むしろこの章句全体が行使への悪意に溢れていて、むしろ墨家の孔子に対する禍々しい呪詛という感じである。
ちなみに、この前段にも晏嬰が斉公にアドバイスをする章があり、こちらも引用しよう。≪漢文≫
齊景公問晏子曰、孔子為人何如。晏子不對、公又復問、不對。景公曰、以孔丘語寡人者眾矣、俱以賢人也。今寡人問之、而子不對、何也。晏子對曰、嬰不肖、不足以知賢人。雖然、嬰聞所謂賢人者、入人之國必務合其君臣之親、而弭其上下之怨。孔丘之荊、知白公之謀、而奉之以石乞、君身幾滅、而白公僇。嬰聞賢人得上不虛、得下不危、言聽於君必利人、教行下必於上、是以言明而易知也、行明而易從也、行義可明乎民、謀慮可通乎君臣。今孔丘深慮同謀以奉賊、勞思盡知以行邪、勸下亂上,教臣殺君、非賢人之行也。入人之國而與人之賊、非義之類也。知人不忠、趣之為亂、非仁義之也。逃人而後謀、避人而後言、行義不可明於民、謀慮不可通於君臣、嬰不知孔丘之有異於白公也、是以不對。景公曰、嗚乎、貺寡人者眾矣、非夫子、則吾終身不知孔丘之與白公同也。
≪書き下し文≫
齊景公、晏子に問ひて曰く、孔子の為人(ひととなり)は何如(いかん)、と。晏子對へず、公又た復た問へるも、對へざりき。景公曰く、孔丘を以て寡人に語る者眾(かずおおき)かな、俱(とも)に以て賢人とするなり。今寡人は之れを問ふも、而りて子は對へず、何ぞや、と。晏子對へて曰く、嬰不肖たれば、以て賢人を知るに足らざり。然ると雖も、嬰も所謂賢人たる者を聞かば、人の國に入らば必ず其の君臣の親しむに合わさることを務め、而りて其の上下の怨みを弭(や)めり、と。孔丘の荊(しもと)、白公の謀(はかりごと)を知り、而れども之れに奉ずるに石乞を以てし、君(きみ)の身は幾かして滅び、而りて白公僇(かずかし)む。嬰聞くは、賢人は上に虛ならざるを得さしめ、下に危ならざるを得さしめ、君に言聽すれば必ず人に利し、下に教行すれば必ず上に於いてし、是れ以て言明らかにして知り易きなりや、行ひ明らかにして從ひ易きなりや、義を行ひては民に明らむ可し、謀り慮りては君臣に通ずる可し。今の孔丘深く慮り謀(はかりごと)を同じくして以て賊に奉り、思を勞せしめて知を盡くして以て邪を行ひ、下に上に亂ることを勸め,臣に君を殺すことを教え、賢人の行に非ざるなり。人の國に入りて人の賊に與すは、義の類に非ざるなり。人の忠ならざるを知り、之れに趣き亂を為すは、仁義に之れ非ざるなり。人を逃して後に謀り、人を避けて後に言ひ、義を行へば民に明らむ可からず、謀り慮りては君臣に通ず可からず、嬰は孔丘の白公に異しき有るを知らざるなり、是れ以て對へず、と。景公曰く、嗚乎、寡人に貺ゆる者は眾(かずおおき)かな、夫子に非ざれば、則ち吾は終身、孔丘の白公と與に同じくするを知らざるなり、と。
≪現代語訳≫
齊景公が晏子に「孔子のひととなりはどうか。」と質問したが、晏子は答えなかったので、公はまたしても質問したが、回答はなかった。景公が「孔丘を寡人(わたし)に語る者は数多いのだ。皆が一様に賢人としておる。今寡人(わたし)が彼について質問しているのに、あなたは答えようとしない。どうしてだろうか。」というと、晏子は答えた。「嬰(わたし)は不肖(おろかもの)ですから、賢人について理解することはできません。とはいえ、嬰(わたし)もいわゆる賢人という者について次のよう聞いたことはあります。「他人の国に入るならば、必ずその国の君臣の親しむことに合わせるように務め、その国の上下の怨みを仲裁する。」孔丘の犯した罪は、白公の謀略を知りながら石乞という人物とともにそれに協力したことであり、君主の身がまもなく滅び、白公が晒しものにしました。嬰(わたし)は「賢人は上に嘘をつくことなく、下から危険を取り除き、主君と言葉のやり取りをすれば必ず人に利益を与え、下に教育と行政を行なえば必ず向上するもので、それは言語化するにもわかりやすく、理解するのも簡単で、行動は透明化されていて従うののも簡単ですから、正義を執行するにも人民に公開しなくてはならず、策謀を考えるにしても君主と臣下に話を通さなくてはなりません。今の孔丘とは、深い思慮と暴力を共有しながらも国賊に協力し、思索と知力を尽くしながら邪悪を行い、下に対しては上に反乱を起こすことを推奨し、臣下には主君を殺すように教唆しています。賢人のすることではありませんよ。他人の国に入ってそこの賊に味方するのは、義の仲間とは言えないでしょう。人に忠義がないと知りながら、そちらに赴いて反乱を起こすのは、とても仁義とはいえないものでしょう。人のいないところで謀略を立て、人がいなくなった後で言葉を口にし、正義を執行するにしても人民に公開することなく、策謀を考えるにしても君主と臣下に話を通すことがない。嬰(わたし)は孔丘が白公に対してまで異心を有しているかは知りませんので、回答はしませんでしたがね。」景公は言った。「ああ、寡人(わたし)に天が賜られたものはあまりに多すぎる! 先生がいらっしゃらなければ、私は一生孔丘が白公と行動を共にしていたとは気づきませんでした。」
さて、こちらの引用部分の逸話はどう考えても創作である。なぜなら、ここに登場する白公の乱は、孔子が死没した直後に起こったものある。この時点でおかしいのだけど、この百倍おかしいところがある。晏嬰は孔子よりかなり年上で、孔子が死没するより遥か数十年前に死没している。このことから白公の乱に言及することなど何があってもあり得ない。しかも晏嬰の対話の相手である斉公も、孔子が死ぬ20年前に亡くなっている。つまりこれは完全な嘘である。でっち上げである。こちらの晏嬰の言葉は、間違いなく晏嬰の言葉ではない。こんなのは幽霊による対話である。
というところで、振り返って一応史記に引用された方の文章だけを見れば、確かに時系列は間違っていないものの、明らかに時系列のおかしな逸話と一緒に同じ人物同士の対話が掲載されていることから、この段も墨子による創作された対話であることが疑われる。
しかも内容も、あまりにも墨子にとって都合がよい。音楽の禁止や葬儀を薄くすることを墨子は主張しており、晏嬰の主張があまりにもこれと合致する。合致しすぎである。上の段で、自らの思想に都合のよい晏嬰の台詞を長々と悉くでっち上げた墨子が、こちらの晏嬰の台詞だけ本当のことを書いているのだろうか。ちなみに、孔子が斉を訪問した当時の田氏の家主は田乞であることから、田常の家の門に馬の革袋を立てたという部分も疑わしいことは疑わしい。
ここで孔子が用意した馬の革袋(鴟夷子皮)は酒を入れるものだと言われているが、一説によれば、これは人を入れて海に流すための刑具であるという。これに基づけば、墨子における孔子は田常に「これで斉公を殺すがよい」という呪いをかけたということになろう。カッコイイ……いや、恐ろしい。つまり墨子はここで孔子が30代の頃から斉公を恨んで田氏による斉の乗っ取りに協力する気だったということが示されているわけだけど、先で述べた通り、当時の田氏の長は田常の父親の田乞であるし、孔子の斉訪問から田常が乱を起こすまでに3、40年のブランクがあることから、ちょっとこの時点で田氏の反乱を孔子が企図していたというのも飛躍があると感じられる。どうにも後の世の人が遡って予言を仕立て上げたような話である。
ここでの晏嬰は、孔子を斥けるにあたって『儒』という語を用いるが、実は孔子自身が儒者を自称した記事は論語において一度もなく、儒という字自体が論語には一度しか登場しない。孔子は「儒家」というアイデンティティを持っていたかさえ怪しいのである。墨子に『非儒下篇』があって、そこで孔子とその弟子や孔子の学統を名乗る者を指して儒としていることから、孔子と儒というものが関連付けられていたのは確かだと思われるが、先ほども述べたように、孔子は一国の政務官であって、当時はまだ目立った弟子もいなかったと思われる時期である。他国の宰相がなぜ一介の政務官である孔子をもって儒家の象徴としたのかよくわからない。
儒家批判の内容についても、儒家は葬儀を厚くすることを命じるばかりであると晏嬰が述べたことになっているが、論語の孔子はそういう話をあまりしておらず、どちらかというと精神的なものやそれに基づく行為を重んじているように見え、むしろ葬儀の形式については倹約を勧める言葉が多い。特に庶民については、むしろ過度に儀礼を飾り立てることを越権であり非礼とする章句が論語には多い。葬儀の規模を大きく厚くするように主張し、そうでない形で葬る人を罵るのは、孔子よりも時代が下った弟子や孫弟子以降に顕著であり、孔子の弟子同士は、そういったことで互いに罵り合う章が見える。これが孔子の死後に発足した墨子の見た儒家集団の負の側面なのではないだろうか。
たとえば論語には、孔子が若い弟子の子游に対し、用いる音楽が贅沢すぎると窘めようとして、その弟子が猛烈に孔子に反論し、孔子がそこで弟子に勝ちを譲る場面が登場する。この子游は魯の国公に厚い争議をすべき根拠を説いた逸話が残っており、その学派は孔子の死後に過度な葬儀を民衆にまで売り込むということで、荀子などの儒家内でも手厳しく批判をされている。
もともと孔子は出世した政治家であるから俸禄ももらえたし、上記の記事にも登場する子貢という高弟がスポンサーとしてついていたという説もあるため、葬儀を厚くするように人々に命じる経済的な事情はなかった。しかし、儒家の中には葬儀を厚くするよう主張した派閥もあったのだろう。そして、この動機が食い扶持を稼ぐためであったとしてもおかしいとは思われない。孔子のように政務官や家庭教師のような役職として仕官ができなければ、孔子の孫弟子や曾孫弟子は葬儀などの儀礼を民間に売り歩くしかなかったのだろう。ここで墨子等が批判していたのは、こうした儒家の在り方だったと思える。逆に言えば、墨子は孔子を批判する体で当時の儒家を批判しただけのようにも思える。
このように、ここ史記孔子世家で引用された晏嬰の言葉はあまりにも後世の臭いがキツすぎる。これをそのまま信じることはできず、何の考察も解釈もなしに史記の記述をそのまま事実として信じるべきではない。
さて、何度も言うように私は歴史学者でも何でもないので、「事実の孔子の事跡」のようなものをここで述べる気はないし、そんなもの本当はわからないのだからどうしようもない。墨子に記述される晏嬰と斉公の会話が嘘くさいことや、それを引用した史記も嘘くさいことは指摘しても、じゃあ斉公と晏嬰は孔子をどう思っていたかだとか、孔子がどういう行動を取ったかはよくわからない。少なくとも墨子における晏嬰のセリフの記述は嘘くさい。それだけである。
では、ここで物語としての史記を読解していくわけであるが、ここで敢えて先ほど虚偽であると推し量ったばかりの墨子における孔子の醜聞の記述を振り返ってみたい。というのも、これらは史記を解釈する上で、重要な示唆を与えてくれているからである。それは今回の記事の冒頭で、私は史記におけるこれまでの孔子の足跡を不穏であると評したが、ここでの墨子も「不穏な孔子」を描いていることである。孔子は中華王朝の支配的なイデオロギーの開祖として、のちには聖人、果ては神に等しい存在として列せられたため、どうにも道徳的な姿ばかりが描かれがちであるが、先で述べたように、いわゆる儒教国教化の前後という孔子が神格化直前に記された史記の孔子世家には、どうにも孔子が不穏な政治工作員であるかのように描かれている節が見られ、孔子の発言にも非常に危うい何かが見える。
そこをいくと、それ以前の墨子に描かれた孔子は、まさに諸国を股にかけて陰謀を張り巡らせ、政界において暗躍してテロリズムを誘発しようとする恐ろしいテロリストのようにも見える。オウムやウサマ・ビンラディンなんてもんじゃない。政界に深く食い込んで戦争を誘発するその様は、あたかも現代において差別的なユダヤ人陰謀論や反共主義者による過剰な共産主義陰謀論、あるいはトランプ支持者によるディープステート陰謀論、ネトウヨによる在日陰謀論のような非実在的で荒唐無稽な状を含んでいる。
これを見て、そしてここから史記の編者が幾ばくかの内容を改変しつつ引用していることを鑑みれば、史記孔子世家における孔子の不穏さもよくわかる。ここでの孔子は墨子ほどの筆致ではないが、それを幾分マイルドにした程度の記述であるから、ここまで不穏なのである。そりゃ実証を反映させながらマイルドにユダヤ人陰謀論を書き直しても、下地の不穏さは隠せまい……。ここでわかることは、「孔子がどう見られていたか」である。孔子は当時の人に陰謀家として見られ、そして史記もある程度これを踏襲しているのである。
ちなみに、墨子の記述のうち、子貢が孔子の提案で斉に使者として訪れ、田常氏に働きかけて呉の討伐を唆し、その後に斉を滅ぼさせたという話は、他の史書には記されていないものの、子貢が田常に使者として出向き、斉の国家を転覆するように唆したという、これに近い話が史記に採用されている。但し、墨子では孔子の個人的恨みを理由としているように描かれるのに対して、史記では祖国の魯を守るためとしている。先では史記が墨子を元に書かれたとしたが、もしかすると共通の史料があったのかもしれない。しかし、いずれにせよ不穏な形に解釈せざるを得ないわけである。
そして、他の支署では子貢が斉に出向いて田常を唆したという記事は他には見られないものの、春秋左氏伝でも子貢が田常に使者として出向いている記事だけは存在し、韓非子にも子貢が使者として斉に出向いた記事が存在する。また、斉ではなく越を訪れた子貢が越の王を唆し、呉を滅させたという記事も見られる。おそらく、墨子の記事は、この越への使者となった逸話と斉を訪れたという逸話がごっちゃになっているのだろう。斉以外において子貢がさまざまな国に使者として出向いた記事は他にも多数掲載されており、子貢が昔から外交官として有名だったのは確かなようで、その裏に陰謀が存在するとしているのは墨子や史記だけではない。これは孔子死後のことも多く含むため、どこまで孔子と関係があったかは疑わしい。しかし、子貢の背景には陰謀の存在が察され、これが師の孔子にまで疑惑が及んでいたのは間違いない。
実際、仮に魯公の後を追って斉を訪問したのが事実であるとして、その上で孔子が怪しくないとできるような行動があるとすれば、すぐに斉公に身柄の返還を要求し、それが断られて帰国した場合くらいであろう。それなら一応は魯公の忠臣か、あるいは魯国の命を受けた正当な使者と見ることができる。逆に、これ以外の可能性は、ほぼ斉へのスパイか魯への外患誘致をもくろむ危険人物である。孔子が陰謀家として疑われたことについては事実であり、しかも疑われるような足跡の記録はあったと言えるだろう。
墨子の前者の記事は儒家のステレオタイプ的な批判に見えるが(ゆえに史記にも用いやすかったのだろう)、後者の記事は孔子へのイメージが描かれているのだろう。そこには、「人のいないところで謀略を立て、人がいなくなった後で言葉を口にし、正義を執行するにしても人民に公開することなく、策謀を考えるにしても君主と臣下に話を通すことがない。」と、民衆にも君主や貴族にも、何ら行動や目的を明らかにしない孔子が批判されている。また、墨子の「儒とは傲慢で自分に従順な者であり、下民を教えることはできません。」史記の「傲慢で自分自身に従順ですので(君主の)下に立とうとしません。」「游說して間借りをしたいと乞うばかりで、国家のために尽くそうとはしません。」といった晏嬰の言葉は、孔子が陰謀家とみられ、秘密裏に国家以外の何らかの目的を有していることが示されている。これが不穏でなくて何だというのか。史記孔子世家の孔子は完全にテロリストである。カッコイイ……いや、恐ろしい。
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≪漢文≫
是時也、晉平公淫、六卿擅權、東伐諸侯、楚靈王兵彊、陵轢中國、齊大而近於魯。魯小弱、附於楚則晉怒、附於晉則楚來伐、不備於齊、齊師侵魯。
≪書き下し文≫是の時なるや、晉の平公は淫らにして六卿は權(はかりごと)を擅(ほしいまま)にし、東に諸(もろもろ)の侯(きみ)を伐ち、楚の靈王の兵(いくさ)は彊(つよ)まり、中國(なかつくに)を陵轢(ふみにじ)り、齊は大(はなはだ)にして魯に近づけり。魯は小さく弱く、楚に附かば則ち晉怒り、晉に附かば則ち楚伐ちに來たり、齊に備へざれば、齊の師(いくさ)魯を侵せり。
≪現代語訳≫当時、晉では平公が姦淫にふけって六卿が政権を壟断し、東に向けて諸侯の討伐をしていた。楚では靈王が軍事力を強めて中原の国を陵轢し、齊は領土を拡大しながら魯に近づいていた。魯は弱小国で、楚に附けば晉の怒りを買うし、晉に附けば楚が討伐に来る、齊に備えなくては、齊の軍隊が魯を侵略するありさまであった。
ここで当時の政情が説明される。孔子の生きた当時は一応、周王朝の時代であるが、孔子から2、300年前の周幽王の代で首都を異民族に蹂躙されて以来、王朝の体裁は遷都して保てたものの、その権威は地に落ちて従属国も周に従わなくなってしまったという。実質的に、周はここで一度滅んだと見なしてもいいかもしれない。周の本国は、春秋時代以降ほとんど目立った活躍をしない。代わって台頭したのが周の従属国として一地方を治める任を負っていたはずの公国たちである。これが乱世の始まりであった。
当時の晋は中原の公国における最大勢力の国家で、周の保護国を名乗ってはいるが、実態は支配、しかも国内では上記の通り「六卿」という複数の有力な貴族が対立し、時に国公を無視して武力紛争を起こしていた。
楚は南方の大国であるが、もともと中原と比べて文明の未発達な蛮国とみなされ見くびられていた。しかし南方の広大なフロンティアを利用しつつ周辺部族を統一して一躍大国へと躍り出て、周の権威が衰えるに合わせて独立、自ら王を名乗って周王朝の王と対等であることを主張した。(どうでもいいけど、東夷の倭人というハンドルネームの由来のひとつは、この時に楚の君主が王を名乗って言ったという「我は蛮夷なり」というセリフである。)その反骨精神から周の冊封した中原諸国への侵略を開始する。
斉は周王朝初めの功臣である太公望が立てた国で、晋が大国となる以前から富国強兵の策に成功して周辺国を脅かす存在であった。同時に急進的な国家の膨張から国内にもやはり不安があり、大貴族たちが内乱を起こして幾度となく斉公を死に追いやるような国情であった。
魯は周王朝の開祖である武王の弟周公旦が開いた国。孔子の祖国であり、儀礼と伝統を重んじる国風で比較的国内は治っていたというが、そのゆえか変革に疎いところが仇となり、晋楚斉のような成長が望めず、衰退期に入って大国に挟まれる国難に至っていた。
≪漢文≫魯昭公之二十年、而孔子蓋年三十矣。齊景公與晏嬰來適魯、景公問孔子曰、昔秦穆公國小處辟、其霸何也。對曰、秦、國雖小、其志大。處雖辟、行中正。身舉五羖、爵之大夫、起纍紲之中、與語三日、授之以政。以此取之、雖王可也、其霸小矣。景公說。
≪書き下し文≫魯昭公の二十年、而して孔子蓋し年三十ならむ。齊の景公と晏嬰、來たりて魯に適(ゆ)き、景公、孔子に問ひて曰く、昔、秦の穆公、國は小にして處(ところ)は辟(ひな)びたるも、其れ霸たるは何ぞや、と。對へて曰く、秦、國は小と雖も、其の志は大ならむ。處は辟(ひな)びたると雖も、行(おこなひ)は中正たり。身(みづか)ら五羖を舉げ、之れに大夫を爵(あた)へ、纍紲(つみびと)の中より起こし、與に語ること三日、之れに授くるに政を以てす。此れを以て之れを取れり。王と雖も可なるも、其の霸たるは小さきかな、と。景公說べり。
≪現代語訳≫
魯昭公の二十年、この時の孔子はおそらく三十歳であったはずである。齊の景公と晏嬰が来て魯に適(い)った。景公が孔子に「昔、秦の穆公は国土は小さく場所も僻地であったのに、彼が霸者となったのはなぜだろうか。」と質問したので、「秦の国土は小さいですが、その志は大きく、場所は僻地ではありましたが、行政は中正でした。自分から五羖を挙げ、彼に大夫の爵位を与え、奴隷となった罪人の中から起用し、ともに語ること三日、彼に政権を託したのです。この点からしてもわかることでしょう。王とされてもおかしくないのに、彼が霸とされているのは矮小なことですね。」と答えると景公はよろこんだ。
さて、ここから徐々に物語が動き始める。魯のライバルである斉の国公が孔子と面会を望んだ。その傍らには当代切っての名宰相として名高い晏嬰も控えている。
これまでの孔子は低い身分の出自から祖国の高級官僚に成り上がったシンデレラボーイであったが、ここで明確に外国の存在と接触する。言うまでもなく孔子は現在において国際的な評価を受ける人物であるが、生前において国際社会というものに接触したのはこれが初めということになる。本文ではこの時30歳、順調に出世した孔子は、周への留学も果たして弟子を取り、青春を終えて若者に先立つ朱夏に入る歳ということが示されているのだろうか
ここで斉公は、孔子にひとつの質問を投げかける。「秦が国際社会に名を轟かせる覇権国家となったのはなぜか?」というものである。秦は斉と同じく現時点では中国内の大国のひとつに過ぎないが、後に戦乱の世を治めて中国を統一し、大秦帝国を築き上げる。しかし元々は孔子の述べるように中国では西方にあって野蛮と見なされ、見くびられていた国家であった。この点は楚と似ている。
これを孔子は不穏な回答をする。「王者となってもおかしくなかったが覇とされているのは矮小である」と評する。ここで登場する「覇」と「王」というのは、当時の実態として定義がある程度以上明確に存在している。ここで少し説明しよう。
本来、少なくとも孔子の時代において、王とは唯一人しか存在しない、してはいけないはずの存在であった。王とは天下のすべてを統べる存在である。天下とは現代の国民国家である中国のことではない。世界のすべてである。先で楚が王を名乗って周王朝と対等であると主張したことも、ただの独立宣言ではないし、そもそも本来は王からの独立などありえない。地上の支配者であり二人として存在してはならぬ王が、ここにも存在すると楚は主張しているのだ。これは中華の威光とアイデンティティそのものを損なう大逆であると見なされるものである。
対する覇とは何か。これはあくまで周王朝の元で少なくとも形式上の冊封を受け、その下で王に代わって政治を代行する存在である。彼らは王の下につく公国を支配する国公から選ばれる。最初に覇となったのは斉の桓公という国公で、もともとは斉公だけが名乗るはずの称号で、中原諸国の国公を統括する代表者のことであったが、まもなく斉で内乱が起こり、最初の覇である桓公もそこで死ぬことになった。彼の息子の一人は宋に退避しており、斉の国公となることはできたが、この恩をもって覇の称号を宋襄公に譲った。こうして後に中原諸国の対立によって更なる変容をきたした覇の称号は、周王朝の下にある有力な国公がそれぞれ自称するものとなった。秦も南方の楚と同様に西方の蛮国として扱われていたが、急成長した秦は王を名乗った楚と対照的に、中原の周王朝の下に集う諸国と同様に覇としての地位に甘んじた。
してみれば、孔子はここで非常に危うい話をしている。秦が覇にとどまったことを「小」と評価し、王となってもおかしくない存在であったと嘯く。通常、王を称するのは大逆である。しかし、それが成し遂げられなかったことを孔子は残念がっているのだ。
仮に秦が王を名乗ったとして大逆に当たらない状況があると解釈すれば、それは周王朝が既に王たる権利を失効している場合である。周王朝はもともと殷王朝を討伐して成立している。もともと周は殷の従属国であったが、革命によってこれを打倒したのであった。これがいかにして正当化されたかといえば、天命論、易姓革命論である。殷が悪政を敷き、周が善政を敷いていたから、天命が殷から周に移り、ゆえに周は殷を打倒していい、これが周王朝による革命を大逆ではないと処理する根拠となった。
してみれば、孔子の言を控えめに解釈すれば、「秦はかつての周王朝に近い善政を敷き、そこまでは至らなかったけど覇となる程度には躍進した。」くらいのニュアンスとなろうが、やはり「秦はせっかく善政を敷いているのだから、楚のように王を名乗って周王朝になりかわってもよかったのに」「衰えた周王朝になりかわって、善政を敷く秦が天下を統一すべきだったのに」とでも言っているように解釈可能である。というか、フツーに読めば後者と解釈すべきであると思う。
ここで孔子は百里奚の逸話を斉公に語っている。百里奚は罪を得て奴隷の身分にまで落ちぶれ、秦穆公から羊の皮5枚で買われれた。本文で孔子が語る五羖(羊の皮五枚)大夫という呼び名も、これにちなんでいる。彼を買った後で秦穆公は百里奚が賢者であると見抜き、宰相に抜擢した。秦が大国となったのは、この穆公以来のことで、百里奚が秦の政治をよく支えたことによるとされている。
孔子は秦が覇となった要因を穆公が百里奚を登用したことに求め、それを聞いた斉公は喜んでいる。先ほど述べたように、初めて覇という称号を得たのは他ならぬ斉の斉桓公であった。孔子と対話している斉公(斉景公)は彼の玄孫にあたる。斉桓公はかつて、管仲という宰相を罪人の中から登用し、これによって覇となるまでに国を強めたのである。
さて、ここまで長々と歴史背景を含めて説明したが、これらに基づいて孔子と斉公の対話を解釈しよう。
史記孔子世家では、繰り返し繰り返し何度も孔子の出自が身分の低い立場にあったことが述べられる。なぜここまで何度も書かれているのか。それもここで伏線として生きてくる。
斉公は孔子に秦の伸張について尋ねた。これは半ば若き賢者への要教、半ば孔子を試す謎かけである。だいたいにおいて、かつての中国で君主の立場にある者は、賢者に質問を投げかけ、それを拝聴して自らへのアドバイスにするとともに、これによって賢者の能力を試すのが通例である。孟子や呉子にもこういったエピソードが登場し、一種の就職試験も兼ねている。孔子より後の時代には、こうした試験も高度化しており、兵家の呉子はいきなり面前で「私は戦争が嫌いだ!」と言われ、そこから平和のための兵事の重要性をプレゼンしている。
ここで孔子は穆公が罪人として奴隷に落とされた百里奚を登用したことをもって、秦が王者になるべき徳を有していたことを匂わせつつ、覇となった所以とした。斉公の立場からこれを聞けば、真っ先に罪人から管仲を登用した祖父のことを思い出したであろう。この答えに斉公は満足した。祖先、そして自らの有する国が王者となってもおかしくないと匂わせる発言をしたのだから、それを喜んだのは当然であるし、孔子もそれを狙っていたように思われる。そして、ここには斉公が自ら周王朝に成り代わって王になりたいとの野心を抱いていたという含みがある。
先で述べた通り、史記における記述は一種の物語であり、この面会や会話が事実であるかはよくわからない。こんな会話なんて本当はなかったのかもしれないし、正直こんな会話を本当にしてたら結構危険だと思う。それでも、史記においては、このように記しているのだから、ここに編者の意図を読み取ることはできる。
ところで、史記は漢において編纂された史書で、それ以前に秦は天下を統一していた。孔子の時点では秦が天下を統一することは知られていないが、史記の編者はその後の秦を知っている上で、ここで秦の百里奚のエピソードが挿入されていることに一応は留意せねばなるまい。
これは儒教の天命論について知らないとわかりづらいことだけど、古中国における革命、易姓革命とは、必ずしも王を代える政権交代そのものではない。これは周文王と周武王を見ればわかる。殷王朝の王を倒して代わりに王に立ったのは周武王であり、父親の周文王は殷の家臣の身分のまま死去した。しかし、一般に周文王が周武王の下に置かれることや、周武王が周文王の上に置かれることはなく、真っ先に周文王が尊ばれる。
これはなぜか。革命における「命」とは天からの命令、契約のことで、これは即座に政権獲得の実態を表す語ではない。殷は暴政を行ったとされる紂王の時点で天命を喪いつつあり、その時点で周の国公であった周文王に天命が移行しつつあったとみなされているわけである。
そして、これは実態としても周は文王の当時、既に国力を高めつつあり、若き武王は既に即位の時点で十分に政権を窺える立場にあったということが示されている。儒家思想的に言えば、周が強くなったのは文王の徳であり、武王はこれを継承して殷を撃ったということになる。易姓革命を理論化したとされる孟子は、周武王が殷紂王を殺害したことについて、「一人の男が殺されただけで、天命を受けた王が殺されたわけではない(一夫の紂を誅するを聞くも、未だ君を弑するを聞かざるなり)」と述べている。つまり、易姓革命の思想においては、実態としての政権が移譲する以前から天命は移り変わっており、紂王は地上の王としての立場があった時点から、既に王たる資格を喪失していたと考えられるわけである。これがわからなければ、易姓革命というものはわからない。
こうした天命論による歴史記録の慣例は、たとえば三国志からも省察できる。三国志における魏書には、本紀と銘打って魏の歴代皇帝の事績が述べられる。ところが、ここで最初に登場するのは曹操であり、魏が前王朝の漢から禅譲を受けて初めて皇帝となった曹丕の父親から始まるのである。これは三国志をある程度知っている人なら自明のことであろう。宦官の養子の子であると蔑まれてきた曹操は乱世に身を投じ、一代で漢王朝の政治を壟断するまでに成り上がり、遂には漢王朝から本来皇族しか受けられないはずの魏王の位を例外的に授かり、漢王朝の政権をほぼ完全に牛耳る立場にあった。三国志の注によれば、彼は晩年に「もし天命があっても、俺は文王の立場でいい(若天命在吾,吾爲周文王矣。)」と嘯いたという記録がある。実際に漢王朝から皇帝の位を譲り受けたのが曹丕であっても、実は曹操が既に天命を受けていたのである。少なくとも、その前提で三国志は編纂されているのだ。後世、曹操は漢から帝位を簒奪した悪役としても名を馳せることになるが、ここでまず曹丕より曹操が挙がることに、実質的に曹操が魏の初代皇帝であると後の世の人が認め、これが天命論による慣習に基づくとわかるのである。
秦もまた、実は曹操と曹丕の関係ほどではないにせよ、始皇帝が王位に就く前から諸国統一は時間の問題という段階にあった。そもそも周を滅亡させたのは始皇帝が生まれる前の秦であり、後継争いにおいて始皇帝を秦の君主に推したのも、周を攻め滅ぼした張本人の呂不韋である。
これらの事件は孔子から150年程度後の時代であるから時勢も少し変わっており、楚のみならず中原諸国の国公も既に周王朝の権威を否定するようになっていた。そこで斉の貴族であった田氏が太公望の子孫であった斉公の公族を追放して国主の立場を奪い取った後、王を名乗ったのを皮切りに、次々と国公たちが王を名乗り始めた。これは秦も同じである。秦の始皇帝が「皇帝」という号を用いたのも、王がかつての国公程度の意味しか持てなくなっていたことから、その上の存在を規定する必要に駆られてのことである。こんな事情があるから、周を攻め滅ぼしたからといって、すぐに殷や周の革命のように秦が政権を獲得できるわけにはいかなかった。逆に言えば、それだけのことであって、既に秦に大きな過失や不運がなければ、もはや次の王朝は秦でほとんど確定していた。
してみれば、中原統一における始皇帝はある意味で、後始末をしただけとも言える。そこで、その下準備をした人物として後の人は、その最大の功績のあるひとりを秦の穆公に求めた。もちろん孔子の当時から既に穆公の評価は高かったが、秦の諸国統一をもってその下地を築いた人物として更に評価されたわけである。
前置きが長くなってしまったが、本文の解釈に入ろう。孔子の時点で既に周の権威は揺らいでいた。周幽王の代に周の本国が異民族に蹂躙され、幽王は夏の桀王や殷の紂王といったそれぞれの王朝最後の王と並べられて、悪王の一人に数えられている。少し冷めた言い方をすれば、所詮は天命とは後の人の解釈であって、どの時点で失われたかは後付けで様々な説が立てられる性質のものである。その中には、この時点で周王朝は既に天命を失ったとする儒者もいるし、楚が王を名乗ったのもこの数十年後で、その裏にはこうした事情もあったと思われる。
それならば、次に夏殷周に次ぐ王朝とはどこかを考えれば、これは秦王朝である。実際、史記の本紀では、周王朝の次に秦の記事に入り、そこでは始皇帝の統一以前の秦の歴史まで詳らかに述べられている。こうしてみると、秦は穆公の時点で天命を受けていたとする考えも十分に起こる。ゆえに孔子の不穏な言葉も、秦が天命を受けた周の次の王朝であることを前提として述べられているのだと解釈できる。
このような解釈に基づけば、やはり先で述べた通り、この孔子と斉公の対話の実在性はすこぶる怪しくなる。今回の本文は、秦の統一以降がそこまでいかずとも秦が更に伸張して統一が目に見えていた時期における「もし孔子と斉公が穆公について対話したら?」という風な創作のようにも見える。しかし、事実性を捨象して物語としてみれば、これも今後の「孔子物語」における伏線につながるのである。
≪漢文≫孔子年三十五、而季平子與郈昭伯以鬬雞故得罪魯昭公、昭公率師擊平子、平子與孟氏、叔孫氏三家共攻昭公、昭公師敗、奔於齊、齊處昭公乾侯。其後頃之、魯亂。孔子適齊、為高昭子家臣、欲以通乎景公。與齊太師語樂、聞韶音、學之、三月不知肉味、齊人稱之。
≪書き下し文≫孔子の年(よはひ)三十五、而るに季平子と郈昭伯、以て雞を鬬はせしめ、故に罪を魯の昭公に得、昭公、師(いくさ)を率いて平子を擊たむとするも、平子と孟氏、叔孫氏の三家と共に昭公を攻め、昭公の師(いくさ)は敗れ、齊に奔(はし)り、齊は昭公に乾侯を處(ところ)せしむ。其の後、之れを頃にして魯亂る。孔子は齊に適(ゆ)き、高昭子の家臣と為り、以て景公より通ぜむことを欲す。齊の太師と樂を語り、韶の音を聞きて之れを學び、三月は肉の味を知らず、齊人之れを稱ふ。
≪現代語訳≫孔子が三十五歳の時、季平子と郈昭伯が闘鶏をし、そのために魯の昭公から罪に得た。昭公は軍隊を率いて季平子を擊とうとしたが、季平子と孟氏、叔孫氏の三家は共同で昭公を攻め、昭公の軍隊は敗れて齊に亡命し、齊は昭公を乾侯に住まわせた。その後、これを契機にして魯は乱れた。孔子は齊に適(ゆ)き、高昭子の家臣となって景公に通じようとした。齊の太師と楽を語り、韶の音楽を聞いてこれを学び、三月ほど肉の味さえわからなくなるほどであったので、齊人はそれを称賛した。さて、ついに魯でも動乱が起こった。三桓氏が主君であるはずの魯公に反旗を翻し、国外に亡命するまでに追いやったのである。先ほど魯が周公旦を開祖として礼儀と伝統を重んじることから周への忠誠は厚く治安は保たれていた一方で、改革に遅れていたことを述べたが、この前提が覆される大事件である。
史記では先に晋、楚、斉が大国となりつつ国情が乱れていたことが述べられていたが、ここで「これを契機にして魯は乱れた」と述べられている。楚は周に大逆し、晋では六卿に牛耳られ、斉も国内の新興貴族に牛耳られて内紛を起こしていた。魯でも大貴族が国公を国外追放するほどに力をつけた。ある意味で、ここで魯はこれらの国と肩を並べた。
魯公が斉に亡命したところ、孔子も同じく斉に向かっている。その目的に関するはっきりした見解は史記には書かれていないが、斉の貴族と通じて斉公と結びつこうとしていたことだけが述べられている。伝統的な見解としては、魯公への忠義だというが、これではよくわからない。孔子は季孫氏や孟孫氏に仕えていたのに、ここではそれと対立した魯公の後を追っている。この点も特にはっきりとは書かれていない。ちなみに、斉は過去に国公が季孫氏の娘から嫁をとっている。先で孔子と斉公が対話した点も込みで、こうした季孫氏と斉公のつながりに孔子が食い込んでいたという含みがあるのかもしれない。
斉での音楽の話は、論語にも登場する有名な逸話である。孔子は音楽を愛好し、時に歌い、時に琴を弾き、音楽を楽師と語り合って、晩年には魯の伝統的な音楽を見直して正したという。この記述は、斉において孔子が民衆から人気を博したことや音楽の国際性が述べられているように思う。≪漢文≫景公問政孔子、孔子曰、君君、臣臣、父父、子子。景公曰、善哉。信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾豈得而食諸。他日又復問政於孔子、孔子曰、政在節財。景公說、將欲以尼谿田封孔子。晏嬰進曰、夫儒者滑稽而不可軌法、倨傲自順、不可以為下、崇喪遂哀、破產厚葬、不可以為俗、游說乞貸、不可以為國。自大賢之息、周室既衰、禮樂缺有間。今孔子盛容飾、繁登降之禮、趨詳之節、累世不能殫其學、當年不能究其禮。君欲用之以移齊俗、非所以先細民也。後景公敬見孔子、不問其禮。異日、景公止孔子曰、奉子以季氏、吾不能。以季孟之間待之。齊大夫欲害孔子、孔子聞之。景公曰、吾老矣、弗能用也。孔子遂行、反乎魯。≪書き下し文≫景公、政を孔子に問へば、孔子曰く、君(きみ)の君(きみ)たらば、臣(をみ)は臣(をみ)たれり。父の父たれば、子の子たらむ、と。景公曰く、善き哉。信(まこと)に如(も)し君(きみ)の君(きみ)たらず、臣(をみ)の臣(をみ)たらず、父の父たらず、子の子たらざれば、粟を有(も)つと雖も、吾は豈に得てして諸(こ)れを食むことあらむ、と。他日も又た復して政を孔子に問へり。孔子曰く、政は財を節するに在り、と。景公說び、將に尼谿の田を以て孔子を封せむと欲するも、晏嬰進みて曰く、夫れ儒者は滑稽(くちなめらか)にして軌(つね)の法(きまり)にする可からず。倨傲(おごり)て自ら順ひ、以て下と為る可からず。喪を崇めて哀を遂げ、產を破りて葬を厚くするも、以て俗と為す可からず。游說して貸を乞ふも、以て國の為にす可からず。大賢の息より周室既に衰え、禮樂の缺くるに間(とき)有り。今の孔子、盛にして容(かたち)飾り、登降の禮、趨詳の節を繁り、世を累(かさ)ねども其の學を殫(つく)すこと能はず、年に當たりても其の禮を究むること能はず。君(きみ)の之れを用いて以て齊の俗(ならひ)を移さむと欲するは、細民を先(みちび)く所以(ゆえん)に非ざるなり。後に景公、孔子を敬ひ見るも、其れに禮を問はず。異日、景公は孔子を止めて曰く、子を奉るに季氏を以てするは、吾能はず。季と孟の間を以て之れを待せむ、と。齊の大夫、孔子を害さむと欲し、孔子も之れを聞く。景公曰く、吾老ひたるかな。能く用うる弗きなり、と。孔子、遂に行きて魯に反(かへ)れり。
≪現代語訳≫景公が孔子に政治について質問すると、孔子は「君主が君主らしくすれば、臣下は臣下らしくなります。父が父らしくすれば、子が子らしくなるのと同じですよ。」と言った。景公は「いいことを言うじゃあないか! まったく、もし君主が君主らしくなく、臣下が臣下らしくなく、父が父らしくもなければ、子も子らしくなければ、どれだけ粟を所有していても私はどうやってこれを食べればよいことやら。」と言い、他の日にもまた同じように政治について孔子に質問した。孔子が「政治は財政の節約にあります。」と言うと、景公はよろこび、尼谿の田をもって孔子を封じようとしたが、晏嬰が進言した。「いやいや、儒者は口先ばかりは上手いですが、常軌の法(きまりごと)にしてはなりませぬぞ。傲慢で自分自身に従順ですので(君主の)下に立とうとしません。喪礼を崇めて哀礼を重視しますが、財産を傾けさせてまで葬儀を厚くするので習俗とすることはできません。游說して間借りをしたいと乞うばかりで、国家のために尽くそうとはしません。大賢(訳者注:周公のことであろう)が死去してから周室は衰えてしまいましたので、礼楽が欠けてしばらく経ちますが、今の孔子は、見た目ばかりを盛大に飾り立て、やれ祭壇の昇り降りだの、細かい歩き方だのと礼節を口うるさく言いますが、何世代かけても彼の学問を尽くすことなんてできませんし、一年かけても彼の礼を究めることなどできません。彼を君主が用いて齊の習俗を移そうとすることは、貧しい民衆を先導するためにはなりゃしませんよ。」これ以後、景公は孔子に敬礼をして会見することはあったが、彼に礼を質問しなかった。別の日のこと、景公は孔子を呼び止め、「そなたへの俸禄のことだがな、季氏ほどにはできぬが、季氏と孟氏の中間であれば、その待遇を用意できるが……。」と言った。齊の大夫は孔子を殺害しようとしており、孔子もそれを耳にした。景公は言った。「私も老いましたな。(あなたを)登用することはできません。」孔子は遂に魯に帰国した。さて、このエピソードは有名で、ネット上でもこのくだりを肴にして孔子と晏嬰を論じられるのを陋見している。概ね、孔子を誹るためのものであるが……。但し、晏嬰がこのような話をしたのが事実かというと怪しいと私は思う。というのも、これは墨子において晏嬰が儒家を批判する段に登場するエピソードで、そこでは明らかに時系列に反するものが含まれているからである。これは後の儒家を批判するために墨家がこしらえた創作の疑いがあり、これについて論じるのは次回に回す。ここは史記の記述そのものを読解していこう。
私が思うに、史記におけるこのエピソードの内容は、ずいぶんと複雑な人間模様と政情を背景としているように見える。私の知る限りにおいて巷では、ここで孔子は就職活動として斉に用いられようとし、斉桓公もそれを受け入れようとしたが、晏嬰の正鵠を得た忠告によってそれがかなわず、最初は斉桓公が孔子を用いようとしたにもかかわらず、それを反故にして孔子は泣く泣く魯に帰った、という風に語られるのを見る。これは以下のような流れを前提としている。
甲
1.孔子が斉を訪れる。2.斉公が孔子と面会して質問をする。3.孔子が斉公の質問に答え、気に入られる。4.斉公が孔子を登用したいと考える。5.晏嬰が孔子の登用に苦言を呈する。6.斉公が孔子を登用できないと本人に告げる。7.孔子が斉を去って魯に帰国する。
この流れ自体が完全に間違っているわけでもないが、それだけだと孔子が単純に斉公に気に入られず、あるいは孔子がへそを曲げて就職活動に失敗したのみの話と見られるのは当然で、孔子を誹る者は「孔子は就職活動に失敗したニート」と罵り、孔子を弁護する者は「斉景公が無能で見る目がなかったがために孔子の才覚を見誤った」とする。
ところが、ここで改めて本文に立ち返れば、これらはいずれも疎漏があることがわかり、やはり史記における記述全体をしっかりと把握しているようには思われない。今回の流れは以下である。
乙1.斉公が魯で孔子と面会して質問する。2.孔子が斉公に気に入られる。3.魯公が三桓氏との内戦に敗れて斉に亡命する。4.その後を追って魯の高級官僚であった孔子が斉に向かい、斉公と通じようとする。5.斉公が孔子と面会して質問をする。6.孔子が斉公の質問に答え、気に入られる。7.斉公が孔子を登用したいと考える。8.晏嬰が孔子の登用に苦言を呈する。9.斉公が孔子に質問をしなくなる。10.それでも斉公は孔子を登用したいと本人に告げる。11.斉の貴族が孔子の暗殺を企て、孔子もそれを察知する。12.斉公が孔子を登用できないと本人に告げる。13.孔子が斉を去って魯に帰国する。
これがどこまで事実を反映しているかはわからないが、それは一旦おいておこう。ここでは史記孔子世家の記述に基づいて、このエピソードを解釈したい。
まず、これを見ればわかる通り、どう見ても孔子は斉公に対して単純な就職活動をしているようには見えない。行動が怪しすぎる。なんだこいつ。
史記孔子世家における斉公と孔子は、魯公の亡命以前から旧知の仲で、この時点で斉公から気に入られていたのである。(乙1)(乙2)その後に魯公の亡命があって、なぜかわからないが孔子も後を追って斉に入った。(乙3)(乙4)斉公は旧知であったから、孔子という謎の魯人の元高級官僚とも面会することにした。(乙5)こうした前提を単なる孔子の就職活動失敗とみなす甲1~13の流れは捨象している。
孔子は亡命した魯公の後を追って斉に入り、斉公に見えたが、そこで魯公の話はまったくしていない。こんな不気味な話があるだろうか。仮に魯公への忠義から孔子が斉に向かったのであれば、本来なら斉公に頼むのは、魯公の保護や魯に返り咲くための相談となるであろう。もちろん、それをいきなり斉公に伝えても通じないとか、更なる仇になると考えて孔子はそうしなかったのかもしれない。それにしても、いきなり斉に仕えるとはどういうことか。他国の高級官僚にして大貴族から庶民までの幅広い層の教育を担当していた者が、祖国の君主の亡命に合わせていきなり自分の国に入ってきた。なにやらよからぬことを企んでいると詮索されても仕方がないだろう。それなのに旧知であったからか斉公は気にも留めていない。周囲の貴族からしてみれば、異様なこと極まりない。
そこで孔子が斉公から気に入られて登用したいと思うようになり、晏嬰が反対したのは甲乙同じである(甲2~5、乙5~8)。しかし、甲ではすぐに斉公が孔子の登用をあきらめたようにしているが(甲5-6)、史記の記述では斉公はほとんど最後まで孔子の登用を諦めようとしていない。晏嬰の話を聞いた上で(乙8)、それでも孔子を登用したいとラブコールを送っている(乙10)。しかし、斉の貴族から孔子を暗殺しようという話が持ち上がり、これが孔子の耳に届くほどになった後で(乙11)、斉公は孔子に対して登用を見送ると伝えている(乙12)。これを見れば、「吾老哉(私も老いましたな)」という一節も、「自分自身のふがいなさの故である」と孔子に詫びるための言葉であると解釈すべきであろう。つまり斉公は国内貴族の突き上げに抗えず、しかも孔子に身の危険があることを推しはかって、孔子に対して詫びを入れたのだ。単純に晏嬰の進言を受け入れての話ではない。晏嬰の進言の後で斉公が孔子に告げた「そなたへの俸禄のことだが、季氏ほどにはできぬものの、季氏と孟氏の中間であれば、その待遇を用意できるが……。」というのも、斉公が貴族の突き上げに幾らか屈し、貴族の反発を受けない程度の俸禄をできる限り用意したとの計らいである。史記の記述に従えば、斉公は最後まで孔子を高く評価していたし、孔子も命の危険があるから斉を去ったのだ。
さて、ここからは史記の本文に記されていない時代背景の話になるが、当時の斉では、大貴族田氏の当主であった田乞という人物が税金の取り立てを安くして回収した税を大盤振る舞いし、民衆から人気を得て斉公に迫るほどの勢いがあった。斉の重大な官職を田氏が執り、斉公も彼らの顔色を伺っていたのである。ちなみに、前の節のところで述べたけど、最終的に田氏は最後に今の斉公の子孫を国から追放し、斉を乗っ取って周王朝を差し置いて王を名乗るようになる。
もちろん斉公としては田氏の存在が面白くないし、後の世で証明されるように自らの身においても危険である。なんとかして国公の権威と権力を取り戻したい。そこに現れたのが孔子である。史記においては、孔子は斉を訪れる前から斉公と知己であり、既に斉公は孔子を気に入っていた(乙1)。史記においては、元から斉公と孔子は5年来の顔見知りなのである。
ここで以前の対話が伏線として生きてくる。孔子は斉公から新興国の秦についての質問を受け、そこで「王となってもおかしくない」との旨を答え、その理由として「五羖」を登用したことを挙げている。先に述べた通り、五羖とは秦の名宰相として名高い百里傒のことで、彼は奴隷の身分から秦公に気に入られ、宰相となって辺境の秦を覇者に押し上げた。孔子は秦公が奴隷の身分にあった賢才を登用したことを称えたのである。
これはどういうことか。ここでこれまでの伏線が一気に浮かび上がる。史記において孔子は「叔梁紇は顏氏の女と野合して孔子を生んだ。」「孔子は貧困かつ身分が低かった。」「生まれの身分が低いとみなされて陽虎に追い払われた」と、孔子の生まれや若い頃の身分が低かったことが幾度となく示されているが、同時に非常に有能であることも示される。つまり、ここでは生まれの身分が低い孔子を登用できれば、王者かそれに近い存在になれる。そのように解釈できるような言葉を――少なくとも史記においては――孔子が言っている。しかも斉公はこれに満足している。
さて、明示はされていないものの、かつて百里傒に匹敵すると互いに認める孔子と斉公が再会したのだ。そこで斉公は孔子に対して、試すように質問した。「政治とは何か?」である。そこで孔子はシンプルに言う。「君主が君主らしくすれば、臣下は臣下らしくなります。父が父らしくすれば、子が子らしくなるのと同じですよ。」当然ながら斉公はよろこんだ。「いいことを言うじゃあないか! まったく、もし君主が君主らしくなく、臣下が臣下らしくなく、父が父らしくもなければ、子も子らしくなければ、どれだけ粟を所有していても私はどうやってこれを食べればよいことやら。」
この問答の背景にあるのは、もちろん田氏の当主田乞であろう。斉公は国公でありながら、田乞の顔色を伺わないと政治も行なうことができない。その事態をなんとしてでも脱したかった。もちろん斉公が孔子に望んでいるのは、国内において自らの権勢を回復することである。そこで孔子はすかさず「君主が君主らしくすれば、臣下は臣下らしくなります。父が父らしくすれば、子が子らしくなるのと同じですよ。」と言う。「君主は君主らしく、臣下は臣下らしく」というフレーズに斉公がよろこばないはずがない。田氏は臣下でありながら、君主に顔色を伺わせているのだ。当時の田氏は、自領の税を計算するための枡を勝手に小さいものに変えて安くすることで人気を得た人物である。斉公の「どれだけ粟を所有していても私はどうやってこれを食べればよいことやら。」という言葉も、これを意識してのことだと解釈すれば、スッキリと理解できる。
斉公はまたしても孔子に政治に関して質問をすると、孔子は「政治は財産の節約にあります。」と答えた。これまた斉公はよろこぶに決まっている。田乞は民衆に支給する穀物の枡を大きいものにして大盤振る舞いをすることで人気を博した人物である。田氏への批判をおこなう孔子に斉公はますます惚れ込んだ。そこで孔子に具体的な登用の条件について述べ始めた。
通常、国公がこうした賢者に意見を拝聴する際には、他の家臣の面前で行われるものである。先の外国においての対談でも傍には晏嬰がいた。自らの宮廷においては、当然のことである。この斉公のオーバーな孔子への賛同も、臣下の面前で行われていたに違いない。もしかすると、そこには田乞ら田氏の貴族たちやその派閥の者もいたことが想定されているだろう。これは田氏への牽制だったのかもしれない。
仮にそうだとすれば、これは斉公にとって一種の犬笛である。田氏につくか斉公につくか、臣下にそれを呼びかけているわけである。斉公は孔子の言葉に賛同することで、孔子を中心に斉公派の派閥を結成しようと試みているように見える。
ところが、斉公のあてが外れた。もちろん田氏にとっても孔子の存在は面白くないが、斉公派の臣下にとっても面白くない。というより、いきなり他国の国公の亡命に合わせて乗り込んできた謎の男にすべてを委ねんとするかのような斉公の舞い上がり方は危険極まりない。
そこで晏嬰が進言する。繰り返しになるが、この発言は創作の疑いがあるものであるが、あくまでここでは史記の記述に関する著者の意図を解釈するものであることを重ねて付記する。ここでの晏嬰は、斉公派の臣下の代表者としての役割を作劇上で担っているのだろう。
晏嬰は「儒者は口が上手い」と言う。既に述べた通り、これは墨家が敵対する儒家を罵るための創作であるように思われるが、これまでの解釈を前提にすれば、確かに斉公に対する孔子の返答は間違いなく口が上手い。一般論を述べながら、その裏に巧妙な形で田氏への批判を織り込んで斉公の歓心を買っている。しかも言葉を飾り立てることなく、むしろ教科書的なことを繰り返し述べるだけのカタブツであるかのように振る舞いながら、うまく斉の貴族から目を付けられないように斉公の内面から反応を引き出し、彼を意のままに操っている。そのため、口がうまいことさえ周囲からは見抜けない。史記におけるここでの孔子の弁舌は、ほとんど魔術である。史記の意図としては、それを晏嬰は見事に見抜いたということであろう。
史記において、晏嬰は田氏を快く思っていないことが示される記述がある。なので、ここで晏嬰が忠言しているのは、孔子が斉において田氏以外の貴族からも批判的に受け止められたということを示している。
ここに描かれる孔子は明らかな危険人物である。追放された魯公の後を追って斉に入国した他国の官僚である。しかも、魯公を追放した季孫氏の家臣である。魯公側について斉の国政につき、斉の軍事力を利用して国公を返り咲かせようとでもしているのか? はたまた季孫氏の配下として斉に潜伏し、魯公になにやら工作でもしとしているのか? 史記において孔子は何も話していないし、斉公にも何も告げていない。目的はさっぱり見えないし、とにかく不穏である。マジでなんだこいつ。
さて、晏嬰の忠言を受けてから、斉公は孔子に礼のことを質問しなかったことが特筆されている。これは晏嬰にも斉公は頭が上がらず、その助言に表面上は従っていたという表現である。
しかし斉公からすれば、孔子は頼みの綱である。史記において、孔子が百里奚や管仲のような名臣であることは何度も示されている。斉公と孔子の対話の裏には、当初からすべてにわたって、「孔子に斉国の政治を委任すればうまくいく」という相互の認識がある。物語上、孔子を臣下にして政治を任せれば、田氏を抑え込むどころか、自分は王になれるかもしれないのだ。なんとしてでも引き入れたい。
そこで「そなたへの俸禄のことだが、季氏ほどにはできぬものの、季氏と孟氏の中間であれば、その待遇を用意できるが……。」と孔子に打診する。これは「呼び止めた」とあることから、先の対話と違って他の臣下を前にしていない二人だけの密談であろう。
季孫氏は、魯において国公をしのぐ勢いの大貴族であり、国政を一手に引き受け、今回も国公をはねのけて逆に亡命させてしまうほどの存在であった。春秋左氏伝では、事実上の国公として葬儀などを扱おうとした人物(というか陽虎)のことが問題となった逸話が登場し、韓非子でも季孫氏を実質的な国公であると述べる一節がある。叔孫氏は、それに次ぐ魯の大貴族である。
過去に孔子は穆公が王に近い存在となったのは、百里傒を抜擢して国政を委任したからだと答えた。季孫氏もまた、国政を自らほしいままにしている人物である。百里傒と季孫氏は、方向性は違えども国政をすべてにわたって操る存在であるとして軌を一にする。つまりこの斉公の言葉は、「臣下の反発からして国政をすべて任せるほどの地位は与えられないが、それに近い程度の待遇はなんとか用意する」という意味に解するべきである。
この次の文で、斉の貴族が孔子の暗殺を計画していることが述べられる。もちろん、前文と関連づいていると解釈すべきである。斉公が孔子を呼び止めて話したことが、他の貴族に漏れてしまった。そのために孔子には命の危険があり、斉公も孔子に「季孫氏未満、叔氏以上の待遇」さえも用意することが難しくなった。
かくして斉公が孔子に伝えたのが、「私も老いましたな。(あなたを)雇用することはできません。」という言葉である。これまでの解釈を前提に意訳すれば、「あなたをなんとか登用しようと努力しましたが、斉の貴族どもに今回のことがバレましてな。今回の件に対する周囲の反発は、私が思った以上に強いものでした。私の力が足りないばかりに貴殿の登用が実現しないばかりか、あなたの身を危険にさらしてしまったことをお詫びしたい。既にお察しの通り、斉の貴族どもはあなたの命を狙っています。まことに勝手だとは思いますが、今回の話を白紙に戻させていただきますので、先生は急いで魯にお帰り下さい。」という性質のものであろう。
このように、斉公は晏嬰ら貴族の進言に心からのっかったわけでもなければ、さっさと前言を翻して孔子を不義のまま放逐したのではないし、単純に斉公に見る目がなくて孔子を放逐してしまったのでもない。自身の意図とかけ離れた決断を下さねばならない自身のふがいなさと、それに巻き込まれて命を危険にさらした孔子に対して詫びを入れながら泣く泣く断ったのだ。(思うのだけど、このように解釈しない人は、「吾老哉」という言葉の意図をどのように解釈しているのだろうか。)
もちろん孔子も、彼が使い物にならないから就職活動が失敗したとか、斉公に見る目がなかったとか、そういう矮小な話ではない。孔子は孔子で、魯公の亡命に合わせた何らかの目的を有していた。はっきりいって、ここでの孔子はおそらく魯国のエージェントでありスパイである。
これは斉公、孔子、田氏、晏嬰(斉公派の臣下)、もしかすれば魯公や季孫氏といったさまざまな思惑を有する存在による緊迫した暗闘の場面である。 -
史記の孔子世家を読もうと思った直接のきっかけは特にない。なんとなく読みたくなったからである。一応、三国史記の全訳をしたことで、自分の漢文能力の低さを痛感したことから、やはり主だった漢籍を原文で読みたかったものの、これからいきなり経書や史書を全訳するのは厳しいと思い、孔子の一生について触れた史記孔子世家は分量がそこそこ程度であるし、ちょうどよかった。それに、これから論語注疏などを訳したりとか、そもそも漢文翻訳と関係なく知っておくべきこととして、伝統的な孔子の一生に関する古典くらいはちゃんと再確認しておきたかった。今なら原文にある程度触れることができるということで漢文で目を通しておきたいと思ったのである。
実際に漢文の孔子世家に触れてみると、過去に触れたときより私自身が多少なりともいろいろ知ったこともあって、新たな発見も多い。実は結構先までもう訳してある。だいたい半分くらい? さすがに三国史記の全訳で基礎体力のようなものをついているようで、そんなに時間かかんないわ、これ。
今回の表題である「史記孔子世家を読む」は、宮崎市定の論文『史記李斯列伝を読む』に倣っている。敢えて言うなら、今回孔子世家を読み始めたきっかけはこれと言えるかもしんない。
私は以前から李斯という人物が気になっていて、最近も李斯に関する小説を書こうかな、とも思っていたので、なんとなくその調査をしていると、ネットで検索してたらこの全文が読めたので、これに軽く目を通していた。
その冒頭には、このようにある。ちょっと長いけど引用する。
中國のへロドトスと稽せられる司馬遷の「史記」は、今日の考から言えば歴史であり、しかも歴史の祖と見られるのであるが、但しそれは祖であるだけに、まだ純粋の歴史になりきっていなかった。特に列傳の部分は多分に文學的なものであり、言いかえれば創作された箇慮を多く含んでいるのであって、同時にそこが千古の名文として持て囃される所以でもある。いわば科學としての歴史學と、藝術としての文學がまだ十分に分離していなかった時代の試作であったと見ることが出来る。だから「史記」そのものを研究の対象として、その性質を捉えようとするとき、今日の歴史學の方法を用いて考証したり、分析したりしようとしてもそんなことで易々と手におえる代物ではない。史記がどのような史料に基づき、それがどのような標準で取捨選擇され、どのような手続きにより按排されて、現在のような形になったかを、これから問題にしたいのであるが、私は先ずこれを文學の問題として慮理した上で、歴史學的な考証に論を進めて行きたいと思う。
これについて、まさしく我が意を得たりと思うところがあった。というのも、私には孔子世家における記述で、有名な箇所でありながら爾来から事実であるとは思われないと思う節があった。次回登場するので、そこで改めて語ることになるが、それは晏嬰の儒家批判である。しかし、この晏嬰を敢えてフィクショナルな存在として見、斉における斉公派の貴族の象徴と見なせば、これらは物語としてすんなりと読めるのである。
これまでの記事にしても、陽虎が孔子を斥けたエピソードなどは創作くさい。伝統的な認識として、陽虎は魯にいた時期の孔子のライバルとされている人物で、論語にも対話が登場するが、実は魯の政界で孔子とのかかわりはあんまり見えない。これも物語として史記を読めば、伝統的にライバルとされるのに序盤で孔子との関係が目立たない陽虎を物語の初めごろに登場させ、その出自でもって陽虎が孔子を罵ることで、ここで孔子との因縁を描きつつ、孔子を引き立てる孟孫氏とを対照的に描き出すことができるのである。孟孫氏の話もなんとなく創作臭いが、これらは物語のための装置としての役割を果たしている。
史記は確かに面白い。しかし、面白さが先立つとともに、どうにも物語の臭いが抜けていない。宮崎市定は歴史学者なので、上の引用のように論じているわけだけど、私は歴史学者ではないし、そのようになるつもりもない。なので、基本的に私は史記を物語とする前提で読んでいくつもりである。
こうして何が見えるかといえば、孔子がどうであるか、ではなく、史記の編者やそれが利用した史料の作成者が、孔子をどう見ていたかである。それは孔子よりもその周囲を描き出すことになる。それは迂回して、孔子という人物を浮き彫りにするかもしれない。文章で書かれていることなど、言ってしまえば嘘でも何でも書き放題である。そんなものはネット上を見ればよくわかるだろう。しかし、ある人がなにを書いたかについては、ある程度事実としてわかるのである。
孟子には「ことごとく書を信ずるは書なきに如かず」とあるが、書に著されていることをそのまま受け取ることなく、書かれた背景を知ることでわかることもあるだろう。所詮は文字ごときが世界の事実を記すことなんかできやしないと私は思っている。しかし、それゆえに文字は事実以上の何かを描き出すことが出来る。これは欠陥であり可能性であると私は思う。 -
では、史記の本文に入ろう。訳と訳の間では、相変わらず私がグダグダと小言を書いているから、本文だけ読みたい人は飛ばし読みして引用部になっているところだけを読んでください。
≪漢文≫
孔子生魯昌平鄉陬邑。其先宋人也、曰孔防叔。防叔生伯夏、伯夏生叔梁紇。紇與顏氏女野合而生孔子、禱於尼丘得孔子。魯襄公二十二年而孔子生。生而首上圩頂、故因名曰丘云。字仲尼、姓孔氏。
≪書き下し文≫孔子、魯の昌平鄉の陬邑に生ぜり。其の先(さきつおや)は宋人なり。孔防叔と曰ふ。防叔、伯夏を生み、伯夏、叔梁紇を生めり。紇と顏氏の女、野合にして孔子を生む。尼丘に禱(いの)りて孔子を得。魯襄公二十二年にして孔子生まる。生まれながらにして首(あたま)の上は頂(いただき)を圩(くぼ)め、故に因りて名づけて丘と曰はふと云へり。字は仲尼、姓は孔氏なり。
≪現代語訳≫孔子、魯の昌平鄉の陬邑に生まれた。彼の先祖は宋人で、孔防叔という。孔防叔が伯夏を生み、伯夏が叔梁紇を生んだ。叔梁紇は顏氏の女と野合して孔子を生んだ。尼丘で禱(いの)って孔子を得たのである。魯襄公二十二年に孔子は生まれた。生まれながらにして頭頂部が窪んでいたので、それに因んで丘と名付けたと伝わっている。字は仲尼、姓は孔氏である。
孔子の先祖と出生に関する記述である。孔子の出生には祈禱が絡んでおり、神秘的な色彩を帯びている。後世においては、孔子が生まれると龍や鳳凰が舞い踊っただとか天女が音楽を奏でながら雲に乗って降りてきたとか、麒麟が家を訪れたとか、そういった伝承に発展するが、それと比べればおとなしい。
ここでの「野合」とは、「正式な婚姻ではない」と解される。しかし、ただ庶子と述べられずに「野合」とあることから、ここでも様々な憶測を呼ぶことになる。≪漢文≫
丘生而叔梁紇死、葬於防山。防山在魯東、由是孔子疑其父墓處、母諱之也。孔子為兒嬉戲、常陳俎豆、設禮容。孔子母死、乃殯五父之衢、蓋其慎也。郰人輓父之母誨孔子父墓、然後往合葬於防焉。
≪書き下し文≫丘生まれて叔梁紇死に、防山に葬らる。防山は魯の東に在り、是れに由りて孔子、其の父の墓の處(ところ)を疑ふも、母之れを諱(さ)くるなり。孔子、兒と為れば戲(あそび)を嬉(よろこ)び、常に俎(まないた)と豆(たかつき)を陳べ、禮の容(かたち)を設くる。孔子の母死なば、乃ち五父の衢(ちまた)に殯(かりもがり)するは、蓋し其れ慎むなり。郰人の輓父の母、孔子に父の墓を誨(おし)え、然る後に往きて防に合はせて葬れり。
≪現代語訳≫孔丘が生まれて叔梁紇が死ぬと、防山に葬られた。防山は魯の東にあり、これにより孔子は自らの父の墓の場所に疑いを抱いたが、母はそれを口にしようとはしなかった。子供の頃の孔子が嬉(よろこ)んでした遊戯は、いつも祭事に用いるためのいけにえを捧げるための俎(まないた)や野菜を盛るための豆(たかつき)を並べ、儀礼の容(かたち)を設ける、というものであった。孔子の母が死ぬと、そのまま五父の衢(ちまた)で殯(かりもがり)をした。おそらくそれが慎み深かったのだろう。郰人の輓父の母が孔子に父の墓を誨(おし)えたので、やっとのことで防山に往って合葬することができた。伝承では、孔子が早くに父母を亡くしていることは有名で、この段で既にいずれも亡くなっていることを示している。孔子の父親とされる叔梁紇は魯の戦士であり、祖先が宋からの移民であったといい、史記においてもそれについて記されている。母親の顔氏の娘には顔徴在という名が伝えられているが、これが事実であるかはわからない。
先ほどの「野合」にもかかることであるが、一説には、孔子の母は流しの巫女で、これがメソポタミアや日本においてそうであったように娼婦の役割をしていたとして、孔子は父の知れない子であったともいわれている。孔子が父の墓を知らず、母親がそれを口にしたがらなかった理由はこれに起因するという解釈である。
ちなみに、孔子の父の叔梁紇の生没年は不詳であるが、一般に顔氏の娘との野合が70歳程度の頃といわれている。対する顔氏の年齢は14歳から18歳とされており、年齢差が非常に激しい。古来に年齢差婚はないわけではないけど、それにしてもちょっと差が激しい。こうした点も、このような説を生む要因であろう。
そもそも、孔子が自身の親族について語った記録が論語にはほとんどない。あれほどの分量があり、しかもよく孝行について説いていた孔子の言行録である論語には、父親や母親の話が何一つ残っていない。これは不思議なことである。唯一、論語には孔子が自身の兄の娘の嫁入りについて語る記述が存在している。孔子家語では、この名を孟皮としているが、これも本当かはわからない。
私が思うに、後に改めて述べるが孔子は宋人の末裔を名乗っていた記録もあることから、後の人がそれらしき魯に移民した宋人で辻褄をあわせようとして、叔梁紇という人物に白羽の矢を立て、ゆえにこうした無理な年齢差が生じてしまった可能性があるような気もしているが、兄の存在が事実なら、孔子も生前に父方の実家について一切述べていないとも思われないので、私のこの説はちと頼りないようにも自分で思う。「叔梁紇という人物は孔子の親族であるかもしれないが、父親であったかはチョット怪しい」くらいのことは考えることができるかな。
ちなみに、アメリカの哲学研究者であるクリールは『孔子 -その人とその伝説-』において、これらの孔子の出生にまつわる記述を孔子の神聖化のための神話として一蹴し、孔子を文書が扱える程度の下級士族の出自であると推測している。孔子は身分が低くとも自力で官僚として出世したことから、一応は貴族社会に所属する手掛かりがあり、しかも文字を早くに教えられた身分であると考えてのことである。但し、一見すると合理的で説得力があるように見えるものの、中国の文字は巫術の領分であったことからして、孔子の母が巫女であるなら、そこで文字を教わることができる可能性があるので、必ずしも反論になりきれてはいないと思う。
いずれにせよ、このように儒家思想の開祖とされる孔子の出自は、実のところ不明としか言いようのないものであり、史記の子の記述も、こうした事情を鑑みたものであるように思われる。
子供の頃の孔子が儀礼ごっこをしているという挿話は、なんとなく現在の中国や日本にも存在する、三歳の誕生日を迎えた児童の前に物を並べ、最初に手に取ったものがその子の一生を象徴するものになるという儀礼を思い起こされる。そういった風習から導かれた挿話なのかもしれないが、よくわからない。
≪漢文≫
孔子要絰、季氏饗士、孔子與往。陽虎絀曰、季氏饗士、非敢饗子也。孔子由是退。
≪書き下し文≫孔子、要に絰(こしおび)をし、季氏の士を饗(もてな)さむとすれば、孔子與に往かむとするも、陽虎絀(しりぞ)けて曰く、季氏は士を饗(もてな)さむとするも、敢て子を饗(もてな)さむとするに非ざるなり。孔子、是れに由りて退けり。
≪現代語訳≫孔子は腰に絰(おび)を巻き、季氏が士に饗宴を開こうとしたとき、孔子も一緒に往こうとしたが、陽虎が追い出して、「季氏は士に饗宴を開いたが、あんたに饗宴を開こうとしたのではない。」と言い、孔子はこれによって引き下がった。
順序から見れば、おそらく孔子の少年期のことであろう。十二歳から十五歳程度を想定しているのだろうか? 陽虎は孔子のライバルとされる人物で、論語にも数回登場する。この挿話が事実であるかはともかく、ここで挿入されることで、陽虎との因縁を印象付けさせられる。
しかし、ここでも特に強調されているのは、孔子の生まれ身分の低さであるように思われる。上で述べた通り、叔梁紇は戦士とされ、史記においても祖先が宋の貴族とされており、一応は士人のはずである。それなのに陽虎は孔子を士人の子としての身分があるとは認めていない。
これはどういうことか。これまた上記の通り、孔子は「野合」という記述からして、おとなしく解釈しても非正規の婚姻、解釈によっては父がよくわからない子ということになっている。史記の著者も、ある程度は後者のような考えを意識しているからこそ、この記述があるようにも見える。そのため、ここでの陽虎は孔子を士人の子としての身分を認めていなかったという設定なのだろう。これらの逸話が事実かはさて置き、ここで史記が述べんとしていることは、孔子の出自がよくわからず、当時の人もそう認識していたということであると思われる。
≪漢文≫孔子年十七、魯大夫孟釐子病且死、誡其嗣懿子曰、孔丘、聖人之後、滅於宋、其祖弗父何始有宋而嗣讓厲公。及正考父佐戴、武、宣公、三命茲益恭、故鼎銘云、一命而僂、再命而傴、三命而俯、循墻而走、亦莫敢余侮。饘於是、粥於是、以餬余口。其恭如是。吾聞聖人之後、雖不當世、必有達者。今孔丘年少好禮、其達者歟。吾即沒、若必師之。及釐子卒、懿子與魯人南宮敬叔往學禮焉。是歲、季武子卒、平子代立。
≪書き下し文≫孔子の年(よはひ)十七、魯大夫の孟釐子病(やまひ)且つ死し、其の嗣(あとつぎ)の懿子に誡(いまし)めて曰く、孔丘は聖人の後、宋に於いて滅べる其の祖(とほつおや)の弗父何、始め宋を有(も)ちて嗣(あとつぎ)は厲公に讓れり。正考父に及びて戴、武、宣公を佐(たす)け、三(みたび)の命に茲(いよいよ)益(ますます)恭しき。故に鼎(かなへ)の銘に云(いは)く、一(ひとたび)の命にして僂(かがみ)、再(ふたたび)の命にして傴(かがみ)、三(みたび)の命にして俯(うつむく)、墻(かきね)に循(したが)ひて走るは、亦た敢て余の侮るもの莫し。饘(かたがゆ)は是に於いてし、粥(こかゆ)は是に於いてし、以て余の口に餬(かゆい)れり、と。其の恭しきこと是の如し。吾、聖人の後は、世に當たらずと雖も、必ず達する者(こと)有ると聞けり。今の孔丘は年(とし)少(わか)かれども禮を好む。其れ達する者(こと)ならむか。吾即ち沒すれば、若(なんぢ)必ずや之れに師すべし、と。釐子の卒(し)せるに及び、懿子と魯人南宮敬叔、禮を學びに往けり。是の歲、季武子卒(し)し、平子代わりて立つ。
≪現代語訳≫孔子が十七歳の時のこと、魯の大夫である孟釐子が病にかかって死ぬ間際、彼の嗣(あとつぎ)の懿子に誡(いまし)めて言った。「孔丘は聖人の子孫で、宋で滅んだ彼の祖先の弗父何は、もともと宋の領有権があったのに厲公に嗣(あとつぎ)を讓った。正考父の時に戴、武、宣公を補佐し、三回にわたって命を受けたが、そのたびに益々恭しくなった。だから鼎の銘文には、「一度目の命を受けては身をかがめ、二度目の命を受けては更に身をかがめ、三度目の命を受けては俯き、墻(かきね)に沿って奔走し、余を侮ろうとはしなかった。饘(かたいかゆ)も粥(やわらかいかゆ)もここで炊き、これによって余の口に餬(かゆをいれる)がよい。」とあるのだ。彼はこれほどまでに恭しかった。私は「聖人の子孫は、世間に知られなくとも、必ず達することがある」と聞いた。今の孔丘は年少でありながら礼を好んでいる。彼に達することがないであろうか。私が死没したら、すぐにお前は必ず彼に師事せよ。」孟釐子が死卒すると、孟懿子と魯人の南宮敬叔が礼を学びに往った。この年に季武子が死卒し、季平子が代わりに立った。
ここで初めて孔子を認める人物が登場する。魯の大夫である孟釐子は、所謂「三桓氏」のひとりである。三桓氏とは、孔子から少し昔の時代に魯の桓公から出た公族で、孟孫氏、叔孫氏、季孫氏の三家に分かれている。彼らは魯国内で権勢を誇る大貴族で、この孟釐子や孟懿子は孟孫氏の家長である。これまで本文では孔子の出自に関してさかんに述べられ、そこでは差別に苦しむ孔子が描かれてきたが、孟孫氏は孔子を宋の公族であるとして讃えている。そのひととなりが出自によって讃えられることには、所詮は世襲貴族社会だねえ……と感じるが、それは一旦置こう。この記述がどこまで事実かは知らないが、論語には孔子が孟懿子からの質問に答えるさまが記録されている。
≪漢文≫孔子貧且賤。及長、嘗為季氏史、料量平、嘗為司職吏而畜蕃息。由是為司空。已而去魯、斥乎齊、逐乎宋、衛、困於陳蔡之間、於是反魯。孔子長九尺有六寸、人皆謂之長人而異之。魯復善待、由是反魯。
≪書き下し文≫孔子貧且つ賤。長ずるに及び、嘗て季氏の史(ふみと)と為れば、量を料(はか)れば平ら、嘗て司職(いけにへ)の吏(つかさ)と為りて畜(やしな)へば蕃(ふ)え息(こ)ゆ。是れに由りて司空と為る。已にして魯を去り、齊に斥けられ、宋衛を逐(お)われ、陳蔡の間に困り、是に於いて魯に反(かへ)る。孔子、長(みのたけ)九尺有六寸、人皆之れを長人と謂ひて之れを異す。魯復た善く待ち、是に由りて魯に反(かへ)る。
≪現代語訳≫孔子は貧困かつ身分が低かった。成長すると季氏の史(記録係)となった時には、計量をすれば公平で、司職吏(畜産係の役人)となった時には、家畜を育てれば繁殖してよく育ち、これを理由として司空(工業を司る高級官僚)となった。やがて魯を去り、齊から斥けられ、宋と衛から放逐され、陳と蔡の間で困窮し、そこで魯に帰国した。孔子は身長九尺六寸あり、人は皆が彼を長人と言ってめずらしがった。魯は再度よい待遇を与えたので、魯に帰国したのである。
最初にやはり孔子が貧困と身分の低さに悩まされたことが述べられ、ここで初めて孔子が官吏として働いていたことが記される。季氏とは上述した「三桓氏」のひとつ季孫氏のことであり、孔子を登用したのは先ほど孔子を子の教育係に任せようとした孟孫氏ではない。なぜかはよくわからない。矛盾するわけではないけど、この間に何があったのか、これらが両論併記的なものなのか、なんとなく気になる。ちなみに、季孫氏は孟孫氏や叔孫氏と比べても特に権勢を誇り、魯公をしのぐほどの勢いがあったという。
ここでの孔子は計量や畜産を任される吏員としてのをよくはたして季孫氏の覚えもめでたく、建築に関する高級官僚の要職、敢えて現代日本で言えば、道路交通省の高級官僚のような役職に若くして就いたという。ここまで史記の記述では、やたらに孔子の生まれの身分の低さがこれでもかと強調されたが、ここでようやく日の目を見たとみていいだろう。かつて史や司職吏に就いたという記述が正しいのかはよくわからないが、おそらく若いころの孔子の身分が低く、孟孫氏や季孫氏のような大貴族の下で召し抱えられ、出世してきたというのが、史記の基本的な認識のようである。
しかし、最後の方に孔子が魯から出国して齊、宋、衛で受け入れられず、陳蔡の間で困窮して魯に帰国したという記述がここにあるのはおかしい。孔子が50歳を過ぎてから諸国を巡ったことは有名であるが、この時の孔子は史記においておそらく20代と推定され、この時点での孔子の他国への亡命については、一般にほとんど無視されている。それもそのはずで、この齊、宋、衛で受け入れられず、陳蔡の間で困窮したという足跡は、順序がやや違い、いくらか抜けがあるものの後年の亡命とほぼ同じルートであり、しかも時期はバラバラ、特に陳蔡の間での困窮については、後年60代の頃の孔子の亡命時に受けた「陳蔡の難」として有名であり、これらは史記孔子世家においてもちゃんと記されており、同じことが起こったとはさすがに思えない。これはどう考えても混同か、あるいは先立って後年のことを述べているかいずれかであるし、後者であったとすれば、なぜここで述べられているのかわからない。
これは漢籍史書の慣習を知らないとわかりづらいことだけど、中国における史書の編纂には「述べて作らず」という孔子の言葉に基づく伝統がある。よく古中国においては史書を「編纂する」というが、これは「集めてまとめる」という意味で、自分の筆によるものではない。これはどういうことか。史書の編纂とは、過去の時点の記録を集め、これらにある程度の手は加えるものの、それは編集の範囲であって、基本的に記録をそのまま使うべきであるとする考えがあった。これは著者の主観を削ぎ落すためである。史記の著者は序文等において、孔子の歴史に関する言葉を引用している。
また、もともと史記は司馬父子が私的に編纂したものなので、これには当たらないが、中国の史書は、しばしば時の権力者によって歪曲を強いられ、史官もこれに屈して、あるいは自ら取り入って筆を曲げることがあったというのは、ある程度以上の事実であろうが、それでも「そうあるべきではない」という規範は存在し、これをすることは少なくとも恥であった。そして、それを果たす方法論としてあったのが、この伝統である。自らが史書をすべて書き記すのではなく、過去の記録を集積して、基本的にはそのままを用いるという伝統、つまり「そこにある他者の記録」をそのまま用いることを綱領とすることで、史官が記録を守る役割を果たしたのである。
本文の当該部分は、「季孫氏に召し抱えられた孔子は、そこで出世をしたのに他の国に飛び出して諸国を巡り、しかし全然他国で受け入れられず、結局は俸禄を用意してくれた魯の季孫氏の元に帰ってきた」という意味合いの孔子に関する記録を手にした史記の著者が、亡命の段を削らないまま、この場に用いたのではないだろうか。なんとなく季孫氏に寄った記録のようにも見え、孔子への非難の色彩を帯びているように感じられる。このように怪しい記述ではあるが、一応この時期に孔子が一度魯を出国した可能性を頭に入れておいてもいいかもしれない。
ちなみに、孔子の身長である九尺六寸は春秋時代において226cmであると言われているが、180cm代であるとか、170cm程度との説もあり、よくわからないが、背が高いという噂があったのだろう。≪漢文≫魯南宮敬叔言魯君曰、請與孔子適周。魯君與之一乘車、兩馬、一豎子俱、適周問禮、蓋見老子云。辭去、而老子送之曰、吾聞富貴者送人以財、仁人者送人以言。吾不能富貴、竊仁人之號、送子以言、曰、聰明深察而近於死者、好議人者也。博辯廣大危其身者、發人之惡者也。為人子者毋以有己、為人臣者毋以有己。孔子自周反于魯、弟子稍益進焉。
≪書き下し文≫魯の南宮敬叔、魯の君(きみ)に言(まふ)して曰く、孔子と周に適(ゆ)かむことを請はむ、と。魯の君、之れに一乘の車を與(あた)ゆれば、兩(ふた)つの馬、一つの豎子(おとも)俱(そな)ひ、周に適(ゆ)きて禮を問へば、蓋し老子に見ゆると云ふ。辭して去るに、而りて老子之れを送りて曰く、吾聞けり、富み貴き者は人を送るに財(もちもの)を以てし、仁(ひとよき)人の者は人を送るに言(ことば)を以てす、と。吾の富貴に能はざればこそ、仁(ひとよき)人の號を竊(ぬす)みて、子(そち)を送るに言(ことば)を以てせむ、と。曰く聰明深察にして死に近き者、好く人に議する者なり。博辯廣大にして其の身を危うくする者、人の惡を發(はな)つ者なり。人の子為(た)る者、以て己を有(も)つ毋れ、人の臣為(た)る者、以て己を有(も)つこと毋れ、と。孔子周より魯に反(かへ)り、弟子稍(やうや)く益(ますます)進めり。
≪現代語訳≫魯の南宮敬叔は魯の君主に「要請いたします。孔子と周に適(ゆ)かせてください。」と申し上げた。魯の君主は、彼らに一乗の車に二匹の馬と一人の付き人の童子を俱(そな)えて与えた。周に適(ゆ)き、礼について学問にあたった際、どうやら老子に見(まみ)えたといわれている。別れの際、彼らを見送る老子は言った。「私は「富貴の者は人を見送るのに財産を与え、仁人の者は人を見送るのに言葉を送る」と聞いた。私は富貴の者にはなれそうもないので、ここは仁人ということにして、そなたらの送別に言葉を送ることにしよう。」と言って、「聡明で深い洞察力があるのに死に近い者は、人との議論を好む者だ。博学で弁舌も達者なのに自らの身を危うくする者は、人の悪事を告発する者だ。人の子たる者、自己を捨て去るがよい。人の臣下たる者、自己を捨て去るがよい。」と言葉をつづけた。孔子は周から魯に帰国すると、弟子が少しずつ、確実に増えていった。ここで南宮敬淑という人物が魯公にお目通りし、孔子と一緒に宗主国の周に留学したいと要請し、それがかなって老子に師事したことが述べられる。南宮敬淑は魯の貴族で、史記の別の列伝では孔子の弟子とされている。しかし、このさまを見ると、孔子の学友や理解者という感じで、弟子という感じはしない。史記の仲尼弟子列伝で孔子の弟子とされる人物には、このように本当に弟子か疑わしい人物が複数存在する。
ここで孔子が自ら魯公に進言せず、南宮敬淑の随伴という形で留学をしているのは、これまた孔子の生まれ身分が低く、この時はまだ魯公に直接進言できる立場にないことを表現しているように思われる。史記の編者はやたらと孔子の生まれ身分が低いことを強調する。しかしこれゆえに、古式ゆかしい貴族社会にありながら、周囲に孔子の理解者が多数存在することが一層際立つのである。
老子は史記においては列伝の第三に序せられ、道家思想の開祖として有名であるが、実在が疑わしくもある人物である。ゆえに孔子が老子に師事したという伝承も有名ではあるが、事実かどうかは疑われており、史記の時点で既に「蓋〜云(どうやら~だという言い伝えがある)」という構文で記されている。
孔子と南宮敬淑が留学を終えると、指導にあたった老子は突如としてTwitter批判を始める。「聡明で深い洞察力があるのに死に近い者は、人との議論を好む者だ。博学で弁舌も達者なのに自らの身を危うくする者は、人の悪事を告発する者だ。人の子たる者、自己を捨て去るがよい。人の臣下たる者、自己を捨て去るがよい。」人臣だからどうだという身分制度に基づいた話をしてくるからそのへんは全然受け入れらんないし、悪事の告発を否定するのも一面どうかと思うものの、全体を通して意を汲めば、Twitterの連中を思い起こして然り然りと言いたくなる一方、自分が聡明で博学かはさて置き、我がことを顧みてもまあ耳が痛い……。言葉を切り出す前の諧謔に富んだ言い回しといい、さすがは老子といったところか。「ここは仁人ということにして」と訳した部分は「吾の富貴に能はざればこそ、仁(ひとよき)人の號を竊(ぬす)みて、子(そち)を送るに言(ことば)を以てせむ」であり、直訳すると「私は富貴の者にはなれそうもないので、ここは仁人という称号を盗んで、そなたらの送別に言葉を送ることにしよう。」であり、本当に諧謔に富んでおり、とても上手い。
最後は孔子に弟子が多く現れたことが記される。周に留学して老子の教えを受けることで、学者としての実力も権威も高まったという描写だろう。30歳程度のことであるから、なんとなく教え子からしても親分というより兄貴分という風情が想像され、この記述が正しいなら、論語に登場する孔子の弟分風の子路などは、この頃に弟子入りしたのだろうか……なーんて読む人の想像力が掻き立てられる文章である。孔子は教育者としてこそ有名であるが、彼が弟子を取り始めた時期というのは実際のところ、よくわからない。史記では、この時期だとある程度同定しているのだろうか。
思った以上に私の小言が長くなったので、ここで一旦切る。次回はここまでの小括。
先で述べたように、私は史記の孔子世家は以前に訳文で読んでいるし、実はこの時点で本文の現代語訳もずっと先まで進んでいて、ここで一旦切るのも分量が思ったより膨大となったからである。なので、この後のことも一応は知っている。
ここまで史記の記述について、私はほとんどを事実であるかどうかわからないとしてきたし、それはこれからもそうである。史記の記述が事実であるかどうかなど、ある程度は考察できるけど、究極的には私にわかりようがない。しかし、史記孔子世家をひとつの物語と見なせば、これまでの本文の記述は後々生きてくる伏線となっている。孔子の出自に関しても、老子の言葉についても、物語としての意味を含有している。それを中心に今後とも読解していきたい。 -
史記の孔子世家を読みたくなったので、読んでみようと思う。これはかなり前、10年くらい前に全文を現代日本語訳で目を通していたが、原文や書き下し文はつまみ読みしかしておらず、漢文にある程度慣れた現在であれば原文で全体を通して読むことも少しはできるかもしれないと思い、ここで改めて読むことにする。
史記の孔子世家は、孔子の一生を追う伝記として最もポピュラーな古典である。孔子の一生を描いた古典絵物語である聖蹟図なども、概ねこれに準じて描かれている。
史記は司馬談・司馬遷父子の著した史書で、これは本紀、表、書、世家、列伝の5つの項目に分けて記される。史記における孔子の記録についての特異性を述べるため、まずはこれら項目について、それぞれ簡単に説明する。
本紀とは何か。これは天下の主となった帝王たちの歴史である。中国の王朝は一般的に、唐→虞→夏→殷→周→(春秋戦国)→秦→(楚漢戦争)→漢……と変遷したとされているが、史記の本紀では、これらの王朝を支配する帝王の歴史を記録している。本紀は帝王という人物の歴史であると同時に王朝の歴史でもある。(前出の王朝以外に、史記では唐より前の伝説の帝王のことが本紀として記録されているのと、秦本紀と漢本紀の間に楚本紀が挿入されており、大楚覇王項羽も帝王としている。)
表は年表や帝王の家系図等の記録、書は礼制や天文などの記録であるが、今回の本題からは少し外れたものなので略す。
世家は本紀とは違い、天下の主となった帝王に及ばない一地方を治める諸国家の主の歴史である。史記では特に天下の主を喪失して戦乱の世に至った春秋戦国時代のそれぞれの国の支配者の記録が目立ち、吳、齊、魯、燕、管、蔡、陳、杞、衛、宋、晉、楚、越といった一地方を治める国家の王公が順に名を連ねる。これも本紀と同様、王公という個人の歴史であると同時に、一国家の歴史を記録したものであると言えよう。
最後に列伝であるが、これは著名な個人の歴史である。清廉の士として名高い伯夷、叔齊から始まり、管仲、晏嬰といった斉国の名宰相、老子韓非子といった思想家、司馬穰苴、孫子、吳起といった兵法家、伍子胥という名将、孔子の弟子たち……と続いてゆく。
今回読む孔子世家は孔子の一生を殊に記録した伝記である。孔子というのは特に説明はいらないと思うけど、中国で一番有名な人物のひとりで、後の中華王朝の支配的なイデオロギーであった儒家思想の開祖ともいわれる人物である。
さて、ここでピンと来た人もいると思うけど、史記において孔子の伝記は「孔子列伝」ではなく「孔子世家」である。確かに孔子は魯で司法大臣や宰相の代行も務めた政治家であるとともに弟子の育成に尽力した教育者であり、後世に名を知られる思想家であるから、史記において個人史が独立で記録されるのは道理である。しかし、それは当たり前に考えれば、列伝に伝記を記される管仲・晏嬰のような政治家や老子・韓非子のような思想家と同じ土俵の人物である。それなのに、孔子は呉、魯、斉といった地方国家を開いた呉太伯、周公旦、太公望といった人物と同じ土俵にあげられているのである。これはいったいどういうことだろうか。
史記で「本紀」は天下を治める帝王、「世家」では一地方を治める王公が記録されていることは既に述べたが、ここにもいくつかの例外が存在している。
たとえば、本紀には「呂后本紀」が存在する。呂后とは漢王朝を開いた劉邦の妻で、夫の死後に幼い皇帝を立てながら政治を壟断したといわれている。史記の著者は、これを実質的な帝王と見なし、記述もそれに基づいている。
世家にも、「外戚世家」や「陳丞相世家」といったものがあり、前者は政権において有力となった帝王の夫人とその親族、後者は漢王朝の皇帝に仕えた陳平という有力な宰相に関する伝記である。いずれも帝王の政権において有力な存在であったからこそ、一地方の王公と並ぶ存在であるとして、列伝ではなく世家によって述べられたのであろう。こういったトリッキーな記述のしかたも史記の魅力であり、孔子が世家で記録されていることもまた、こうした例外のひとつということになろう。
しかし、それにしても孔子が世家というのは、一般的な印象からすれば特異である。孔子が政界において活躍した時期は限られている。しかも孔子は当時、魯という一地方を治める国家の宰相の代行であるから、上記の陳平や外戚のような帝王のひとつ下で活躍した人物とも言い難い。やはり本来であれば、斉の宰相として政治を一手に引き受けた管仲・晏嬰と同じく列伝の序せられるのが相当のはずである。なぜこのようになったのか。この奇妙な事象については、様々な説が立てられている。
史記における世家は以下の通り。孔子の前後までを掲載する。
1.吳太伯世家(呉の建国者からその子孫と呉の歴史)2.齊太公世家(斉の建国者、太公望からその子孫と斉の歴史)3.魯周公世家第三(魯の建国者、周公旦からその子孫と魯の歴史)4.燕召公世家第四(燕の建国者からその子孫と燕の歴史)5.管蔡世家第五(管と蔡の歴史)6.陳杞世家第六(陳と紀の歴史)7.衛康叔世家第七(衛の建国者からその子孫と衛の歴史)8.宋微子世家第八(宋の建国者からその子孫と宋の歴史)9.晉世家第九(晋の歴史)10.楚世家第十(楚の歴史)11.越王勾踐世家第十一(越の建国者勾踐から越の歴史)12.鄭世家第十二(鄭の歴史)13.趙世家第十三(趙の歴史)14.魏世家第十四(魏の歴史)15.韓世家第十五(韓の歴史)16.田敬仲完世家第十六(太公望の家系から斉を奪った田氏とそれ以後の斉と子孫の歴史)17.孔子世家第十七(孔子の伝記)18.陳涉世家第十八(大秦帝国で反乱を起こして独自の国家を築き上げた陳勝の伝記)19.外戚世家第十九(漢王朝で権力を有した皇帝夫人とその一族について):
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このように、孔子の世家は独立国家を形成した斉田氏と陳勝の間に置かれている。これだけを見れば、史記においては孔子は一国家を形成した存在と同等として扱われていることになる。
長くなってしまったので、史記孔子世家は次回から読むことにする。