忍者ブログ

塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

史記孔子世家を読む③

 史記の孔子世家を読もうと思った直接のきっかけは特にない。なんとなく読みたくなったからである。一応、三国史記の全訳をしたことで、自分の漢文能力の低さを痛感したことから、やはり主だった漢籍を原文で読みたかったものの、これからいきなり経書や史書を全訳するのは厳しいと思い、孔子の一生について触れた史記孔子世家は分量がそこそこ程度であるし、ちょうどよかった。それに、これから論語注疏などを訳したりとか、そもそも漢文翻訳と関係なく知っておくべきこととして、伝統的な孔子の一生に関する古典くらいはちゃんと再確認しておきたかった。今なら原文にある程度触れることができるということで漢文で目を通しておきたいと思ったのである。

 実際に漢文の孔子世家に触れてみると、過去に触れたときより私自身が多少なりともいろいろ知ったこともあって、新たな発見も多い。実は結構先までもう訳してある。だいたい半分くらい? さすがに三国史記の全訳で基礎体力のようなものをついているようで、そんなに時間かかんないわ、これ。


 今回の表題である「史記孔子世家を読む」は、宮崎市定の論文『史記李斯列伝を読む』に倣っている。敢えて言うなら、今回孔子世家を読み始めたきっかけはこれと言えるかもしんない。

 私は以前から李斯という人物が気になっていて、最近も李斯に関する小説を書こうかな、とも思っていたので、なんとなくその調査をしていると、ネットで検索してたらこの全文が読めたので、これに軽く目を通していた。

 その冒頭には、このようにある。ちょっと長いけど引用する。

 中國のへロドトスと稽せられる司馬遷の「史記」は、今日の考から言えば歴史であり、しかも歴史の祖と見られるのであるが、但しそれは祖であるだけに、まだ純粋の歴史になりきっていなかった。特に列傳の部分は多分に文學的なものであり、言いかえれば創作された箇慮を多く含んでいるのであって、同時にそこが千古の名文として持て囃される所以でもある。いわば科學としての歴史學と、藝術としての文學がまだ十分に分離していなかった時代の試作であったと見ることが出来る。だから「史記」そのものを研究の対象として、その性質を捉えようとするとき、今日の歴史學の方法を用いて考証したり、分析したりしようとしてもそんなことで易々と手におえる代物ではない。史記がどのような史料に基づき、それがどのような標準で取捨選擇され、どのような手続きにより按排されて、現在のような形になったかを、これから問題にしたいのであるが、私は先ずこれを文學の問題として慮理した上で、歴史學的な考証に論を進めて行きたいと思う。

 これについて、まさしく我が意を得たりと思うところがあった。というのも、私には孔子世家における記述で、有名な箇所でありながら爾来から事実であるとは思われないと思う節があった。次回登場するので、そこで改めて語ることになるが、それは晏嬰の儒家批判である。しかし、この晏嬰を敢えてフィクショナルな存在として見、斉における斉公派の貴族の象徴と見なせば、これらは物語としてすんなりと読めるのである。

 これまでの記事にしても、陽虎が孔子を斥けたエピソードなどは創作くさい。伝統的な認識として、陽虎は魯にいた時期の孔子のライバルとされている人物で、論語にも対話が登場するが、実は魯の政界で孔子とのかかわりはあんまり見えない。これも物語として史記を読めば、伝統的にライバルとされるのに序盤で孔子との関係が目立たない陽虎を物語の初めごろに登場させ、その出自でもって陽虎が孔子を罵ることで、ここで孔子との因縁を描きつつ、孔子を引き立てる孟孫氏とを対照的に描き出すことができるのである。孟孫氏の話もなんとなく創作臭いが、これらは物語のための装置としての役割を果たしている。


 史記は確かに面白い。しかし、面白さが先立つとともに、どうにも物語の臭いが抜けていない。宮崎市定は歴史学者なので、上の引用のように論じているわけだけど、私は歴史学者ではないし、そのようになるつもりもない。なので、基本的に私は史記を物語とする前提で読んでいくつもりである。

 こうして何が見えるかといえば、孔子がどうであるか、ではなく、史記の編者やそれが利用した史料の作成者が、孔子をどう見ていたかである。それは孔子よりもその周囲を描き出すことになる。それは迂回して、孔子という人物を浮き彫りにするかもしれない。文章で書かれていることなど、言ってしまえば嘘でも何でも書き放題である。そんなものはネット上を見ればよくわかるだろう。しかし、ある人がなにを書いたかについては、ある程度事実としてわかるのである。

 孟子には「ことごとく書を信ずるは書なきに如かず」とあるが、書に著されていることをそのまま受け取ることなく、書かれた背景を知ることでわかることもあるだろう。所詮は文字ごときが世界の事実を記すことなんかできやしないと私は思っている。しかし、それゆえに文字は事実以上の何かを描き出すことが出来る。これは欠陥であり可能性であると私は思う。
PR

コメント

コメントを書く