"山口県について"カテゴリーの記事一覧
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私は日本史に詳しくないのだけど、宗教や思想は割と好きだし日本神話は昔から結構趣味にしており、さりとて体系的な知識があるわけでもないミーハー趣味なので、古事記や日本書紀の時代とそれ以外の歴史時代の知識がボトムズコピペのように偏っている。
なので、鎌倉幕府とか室町幕府とかの時代がどうなったかとか全然知らないのだけど、神話とかを朝鮮中国の歴史などを追っていると、たまにそういう話にぶち当たる。
で、今回高麗史から見つけた記述がこちら。
初日本大內義弘、謂其先出於百濟、以我爲宗國、嘗欲禁諸島倭侵擾我疆。會本國使韓國柱如九州、請禁賊、義弘遣麾下朴居士、以其兵一百八十六人與之偕、謂國柱曰、以我軍爲先鋒,貴國師繼之、海賊不足平也。至是、倭寇雞林、居士率兵與戰、乙沚逗遛不救、居士軍大敗、得脫者、纔五十餘人。
当時の日本は室町時代。山口県の守護大名、大内氏の記録である。大内義弘は、特に高麗王朝との関係を深めて大内氏の最盛期のひとつを築いた人物でもある。
昔のブログ記事でも触れたけど、大内氏は百済の王族の子孫であると嘯いていた。この記事に記されている通り、このことは「大内多々良氏譜牒」なる大内氏の家伝に記され、あるいは「乗院寺社雑事記」にも、大内氏が日本人ではなく高麗人であるという旨の記録が為されていることから、ある程度まで日本において一般的な認識だったのだろうと思われる。
で、ここに朝鮮半島の記録である高麗史にも「日本の大内義弘は、自らの先祖を百済の出身だと言っており、我が国(高麗)を宗主国として仰いでおり(日本大內義弘、謂其先出於百濟、以我爲宗國)」とあることから、このことは高麗王朝にも明確に認識されていたことが明らかになったわけである。
というところまではいいのだけど、ここにちょっと気になる記述がある。それが「義弘遣麾下朴居士」の部分。「麾下」とは何かといえば、指揮下にあることで、一般には部下のことである。
き‐か【麾下】
〘名〙 (大将の采配(さいはい)の下の意から) 将軍に直属する家来。はたもと。また、ある人に属してその指揮に従う者。部下。旗下。
ということで、「義弘遣麾下朴居士」を普通に訳せば、「大内義弘は(自らの)指揮下にある朴居士を派遣した」という意味になる。つまり朴居士という人物を大内義弘は部下に抱えていたということである。
朴居士という名は、もちろん高麗の人名だと考えられる。一応は日本の古い姓にも朴がないわけではないし、居士という名が日本名があり得ないわけではないけど、まあ、この組み合わせは高麗の人物だろう。ということは、高麗の人物を自らの指揮下に置いていたということになるのか。信長の野望とかにも出てくるのかなー、それにしてはもうちょっと前の時代か、なんて思いつつ。
で、先ほど引用した部分を全文訳してみる。
初日本大內義弘、謂其先出於百濟、以我爲宗國、嘗欲禁諸島倭侵擾我疆。會本國使韓國柱如九州、請禁賊、義弘遣麾下朴居士、以其兵一百八十六人與之偕、謂國柱曰、以我軍爲先鋒,貴國師繼之、海賊不足平也。至是、倭寇雞林、居士率兵與戰、乙沚逗遛不救、居士軍大敗、得脫者、纔五十餘人。
初メ日本(ヤマト)ノ大內義弘(オホウチヨシヒロ)ハ、其ノ先(オヤ)ヲ百濟(クダラ)ヨリ出ズルト謂ヒ、我ヲ以チテ宗國ト爲シ、嘗テ諸島(モロシマ)ニ倭(ヤマト)ノ我ガ疆(サカヒ)ヲ侵シ擾(ミダ)スコト禁(トド)ムルヲ欲ス。會(タマタマ)本國ノ使(ツカヒ)ノ韓國柱ハ九州ニ如(ユ)キ、賊(アタ)スルヲ禁(トド)ムルヲ請ヒタレバ、義弘(ヨシヒロ)ハ麾下ノ朴居士ヲ遣ハシ、其ノ兵(イクサ)の一百八十六人ヲ以(ヒキ)ヰテセシメテ之レト偕(トモ)ニ、國柱ニ謂ヒテ曰ク、我ガ軍ヲ以チテ先鋒ト爲シ、貴國ノ師(イクサ)ハ之レニ繼ガバ、海賊(ワタアタ)ハ平グニ足ラザルナリ、ト。是ニ至リテ、倭(ヤマト)ハ雞林ニ寇(アタ)スルモ、居士ハ兵(イクサ)ヲ率ヰテ戰ヲ與(トモ)ニシ、乙沚ハ逗遛(トド)マリテ救ハズ、居士ノ軍(イクサ)ハ大イニ敗レ、脫(ノガ)ルルヲ得ル者、纔(ワズ)カニ五十餘人タリ。
事のはじめはこのようなものである。日本の大内義弘は、自らの先祖を百済の出身だと言っており、我が国(高麗)を宗主国として仰いでいたことから、これまで周辺諸島から倭寇が我が国の国境を侵して暴れまわっているのを止めようとしてきた。本国の使者である韓国柱が九州に行った際に、賊を止めるように要請すると、義弘は指揮下にある朴居士を派遣するとともに、自らの軍兵一百八十六人を一緒に引き連れさせ、韓国柱に言った。「我が軍を先鋒とし、貴国の軍隊はそれに後継するがよろしかろう。海賊も平気ではおられますまい。」こういうわけで、倭寇が鶏林を襲撃した際に、朴居士は兵を率いて一緒に戦ったが、乙沚がのろのろとその場に留まって救援せず、朴居士の軍は大敗してしまい、脱出できた者は、わずか五十人余りであった。
この記述の前後関係がよくわからないし、ちょっと時間がないから読めないのだけど、ここからとりあえず、ここから大内氏が高麗の人員を指揮下に置いていたことがわかる。なんともグローバルな関係である。
http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0060676[출처: 한국민족문화대백과사전(하을지(河乙沚))]
그 죄로 순위부(巡衛府)에 체포되어 장형 100에 처해지고 하동현에 유배되었다. 곧 석방되어 계림원수(鷄林元帥)로 기용되었는데, 일본해도포착관(日本海道捕捉官) 박거사(朴居士)가 계림에 침입한 왜구에게 고전하는 것을 방관하여 대패하게 하였다.
私は韓国語が読めないので、機械翻訳してみると、どうやら朴居士を見殺しにしようとした乙沚は河乙沚といい、朴居士の苦戦を傍観していたらしいと書かれている。この人物は「鷄林元帥」という官職だったらしいのだけど、「鷄林」は新羅の旧名でもある。なので、旧新羅地区の軍事総督のような立ち位置だったのだろう。
そして、大内義弘の部下とされていた朴居士には「日本海道捕捉官」という肩書があったとされている。名前からして、この人物は高麗の官吏なのだろう。ということは、朴居士は大和王朝の臣下としての大内氏に帰属した移民ではなく、あくまで直接的に高麗王朝に仕えていた人物であり、それを大内氏は部下にしていたことになる。現代から見れば、国境を越えた上司部下の関係なわけだけど、当時からしても王朝を跨いだ関係であり、君臣などの内実がどのようになっているのか気になる。
このへんは興味深いので後に調べるとして。
で、ここで思い出したのが、幻となった三度目の元寇のことである。元寇と言えば、鎌倉時代に文永の役と弘安の役の二回だったと通説ではされているが、なんと三回目があったという伝承があるのだ。それが江戸時代初期に記されたという石見銀山旧記である。以下に要約を引用しよう。
石見銀山旧記が伝える発見伝承 ~旧記の概要~http://sanbesan.web.fc2.com/iwami_ginzan/mine_kyuuki_01.html
建治2(1276)年に日本を訪れた蒙古の使者を、幕府は鎌倉で殺した。その5年後、蒙古の軍勢24万人が4千艘の船に乗り九州に攻め寄った。
帝は大変驚き、急いで官軍を繰り出して九州で蒙古の軍勢を防ごうとした。しかし、蒙古の軍勢は強く、日本の軍に打ち勝ち都へ攻め寄ろうとした。
その時、我が国の神の力によって大波が起こり、蒙古の船はことごとく壊れて、我が国は無事であった。
その後、花園天皇の世、将軍は守郡、北条貞時が執権の時、幕府に恨みがあった周防の大内弘幸は、謀反を起こして蒙古に援軍を頼んだ。蒙古は鎌倉幕府への昔の恨みを晴らそうと、軍兵2万騎が数千艘に分乗して石州に上陸した。
時貞はこれを恐れ、和睦を請うたが弘幸が聞き入れなかったため帝に相談した。帝は陽録門院(陽禄門院)を弘幸の子、弘世に嫁がせた上、石州を領地として渡した。
弘幸は和解に応じ、蒙古軍を帰そうとしたが、幕府に恨みがある蒙古軍は戦を続けようとして帰らなかった。困った弘幸は、大内家代々の守護神である防州氷上山に祭る北辰星に祈り託宣を受けた。託宣は、石州の仙山は多くの銀を出す。この銀を採って百済の軍兵に与えてなだめ帰らせよ、その山は銀峯山ともいう、というものだった。
弘幸が神のお告げにしたがって銀峯山に登ったところ、山の下から上まで白く輝き、積雪した冬山の雪を踏むかのようであった。弘幸は多量の粋銀を得て百済の軍兵に与えたところ、蒙古は怒りを鎮め、喜んで国へ帰った。
というわけで、二回にわたる元寇の後、大内弘幸が倒幕のために蒙古軍を呼び出すという暴挙に出て、これに驚いた天皇と鎌倉幕府は大内弘幸に石見銀山を与える等の和解案を提示したことから、ここで大内氏は軍を引くことにしたのだけど、呼び出された蒙古軍は帰国を拒否し、戦争をすると息巻いた。そこで大内弘幸が自らの氏神である氷川山の北辰星に祈ると、神から石見銀山の銀を百済の軍兵に渡して帰ってもらいなさいというお告げが下った。こうしてその通りに大内弘幸が百済の軍兵に銀山からとれた銀を渡すと、蒙古軍は満足して帰国した……という話である。
内容としては非常に嘘くさく、それホントか? って話なのだけど、物語としての筋はわかりやすくて面白い。本当だったらワクワクする……という感じである。ちなみに、ここで登場する氷上山には妙見社が置かれており、つまり昔の記事で記した通り、降松神社と同様に天之御中主神を祀った社である。天之御中主神は北辰を司る神。
で、私の要約にも引用したサイトの本文にも、太字の強調をした単語がある。それが百済の軍兵という単語である。百済の軍兵……? そう、大内弘幸は蒙古軍を呼び寄せたはずなのに、唐突に百済の軍兵という語が登場し、なぜか百済の軍兵に銀を渡したら蒙古軍が帰国するのだ。なんだこれは。
実際、蒙古軍は征服地の人員を使役して先遣隊に用い、自民族の犠牲を減らすという手法を侵略に用いており、元寇においても高麗の人員で構成された部隊が先遣隊として鎌倉幕府と衝突したという話は有名である。しかし、そういったことを指しているのだろうか……? そうとも思えない。そもそも、鎌倉幕府の末期の時代に百済はとっくに滅んでいる。
このあたり、なんとなくなのだけど、大内氏が百済の末裔を自称していたというイメージと、朝鮮半島の王朝に仕える人員を配下にしていたイメージから生まれたものがあるのではないか、という気がする。国内の大名同士の争いに高麗の人員がかかわったこともあるのだろうか。このあたり、いつか掘り下げてみたい。PR -
山口県宇部市は工業が盛んで人口も多く、経済活動も活発な都市でありながら、ときわ公園という春夏秋冬四季折々の表情を見せる樹木の並ぶ巨大な自然公園を有する、まさに未来都市のイメージそのものである。このときわ公園は、そこに放し飼いされる人工受精で誕生したペリカン『カッタくん』で平成初期に一躍全国的な知名度を得た。現在は国の登録記念物に登録されている。
ここはエヴァンゲリオンの監督である庵野秀明の出身地でもあり、未来都市・第三新東京市も、少年期を過ごした宇部市がモチーフである。エヴァンゲリオンで特徴的な電柱は、自身が育った宇部市の風景から着想を得たとインタビューなどで幾度となく語られているし、氏の監督した実写映画『式日 SHIKI-JITSU』では、宇部市の風景が演出に用いられている。あと、宇部市内にある沖の山では前漢で用いられた金銭が発掘されており、ここが邪馬台国であったに違いない。
ただし、沖の山は大日本帝国時代の炭鉱であり、ここで強制労働をさせられていた朝鮮人も数多くいた。植民地の人民の血を啜り"急成長"を遂げた炭鉱を前身とするのが、現在もセメント産業で有名な宇部興産であり、これが工業都市宇部の根幹をなしている。(セメント産業は現在、三菱重工と共同で運営中。三菱も帝国時代の軍需産業である。)常磐公園も、その宇部興産が設立した公園である。宇部市の豊かな産業も豊かな自然も、ただ平和裡に築き上げられたものではなく、すべては搾取の元に誕生したものなのだ。代表取締役社長の発言などを見ても、現在において政権中枢と宇部興産とが癒着している事実は知る人には知るところであろう。
さて、宇部興産の醜聞と大日本帝国の弾劾はひとまず置いておくとして、『エコハちゃん』とは宇部市の環境マスコットキャラクターである。エコロジーの『エコ』に、葉っぱの『葉』を併せた『エコハ』という名前には、自然植物を大切にしようという想いが込められている。しかし、そのエコハちゃんが、任天堂の人気ゲームシリーズ『ポケットモンスター』に登場する人気キャラクター『ピカチュウ』の剽窃であるとの噂が世間に流れている。
しかし、これはまったくの誤りである。宇部であれば何でも叩けばいいということはない。エコハちゃんがピカチュウの剽窃であるなどとは、酷い名誉棄損である。エコハちゃんはオリジナルキャラクターであり、ピカチュウの剽窃などしていない。実物を見てほしい。
こちらがエコハちゃんである。赤い真ん丸ほっぺを見るに、確かにピカチュウの影響を受けているかもしれない。しかし、ピカチュウの剽窃と言えるほど似ているだろうか。とてもそうは見えない。剽窃と呼ぶのであれば、せめてアンパンマンと香川県のゆるキャラねんりんまんくらい似てるものを言ってほしいものだ。
もちろん、エコハちゃんがピカチュウの影響を受けた可能性については否定しない。しかし、人間にとってイチからオリジナルを構築することなど凡そ困難な徒労であり、むしろ模倣こそがクリエイティビティの端緒である。ブラック・ジャックは高額で依頼を請け負う腕利きのプロというゴルゴ13のコンセプトを拝借し、その職業を殺し屋から医者に転換した作品である。この時点で模倣性から生まれたクリエイティビティの存在が証明されたが、ここから更に料理人版ブラック・ジャックともいうべきザ・シェフや漫画家アシスタント版ブラック・ジャックであるコミックマスターJのような派生作品が次々と生まれた。ゴルゴ13とブラック・ジャックはまるで違った作品にみえるけれど、ザ・シェフの主人公味沢匠はビジュアルまでブラック・ジャックによく似ていた。しかし、これを剽窃と断じて潰すべきだったか。そんなことをしていれば、日本の漫画という文化は委縮し、途轍もなく矮小なものになっていたはずである。エコハちゃんとピカチュウの類似性が、ブラック・ジャックと味沢匠の類似性より大きなものとは思われない。
そもそも、かつての日本の漫画家たちが、どれほど海外のSF小説や映画を模倣した作品を描いてきたか。模倣から日本漫画は始まっている。それなのに、中国や韓国が日本の漫画を模倣した作品を剽窃だと暴き立てることで、ネトウヨたちがどれだけそれを差別に利用してきたか。自分たちは古くは中国や朝鮮、近代には欧州やアメリカから模倣を繰り返しておきながら、今になって日本の漫画を模倣をした中国や韓国の漫画を剽窃だとして中国人や韓国人をパクリ民族などと誹謗中傷したネトウヨどもは、恥知らずもいいところである。
たとえばヒップホップ文化は、どのように発生したか。地下社会の黒人たちによる既存音楽やダンスのミクスチャーから始まった。しかし、白人たちは、これまで散々黒人音楽を模倣してきたにもかかわらず、それを指して嘲笑し、黒人は独創ができず猿真似しかできないとせせら笑ってきた。世界にあるほとんど文化は異国の文化の模倣から始まったのではないか。過剰な著作権主張によって、どれほどの文化が潰されたか。安易にパクリだパクリだと言うのを控えていただきたい。ましてや、エコハちゃんは見ての通り、ピカチュウの剽窃でもなんでもないことは明らかなのだし。
確かにこの着ぐるみはどう見てもピカチュウのパクリにしか見えませんよ。それは確かです。しかしね、エコハちゃん自体はピカチュウのパクリではない。そもそも、パクリで何が悪い? 人は真似をすることによって成長する。"まなぶ"とは"まねぶ"なのだ。安易に剽窃だなんだというのは、本当にやめた方がいい。それは人類の進歩の否定につながる。ブルジョワ的な権益でしかない著作権は廃止するべき。 -
日本三大芋煮といえば、東北は山形県中山町の芋煮、四国は愛媛県大洲市の芋煮、そして山口県は島根県津和野町の芋煮である。芋煮といえば東北山形県が有名であるが、三大芋煮のひとつに山口県の芋煮が数えられていることはあまり知られていない。
芋煮とは小芋(山口県以外の方言では里芋と呼ぶらしい)を煮た郷土料理で、一番有名な山形県のものは牛肉とともに醤油、味醂、砂糖で煮込む。これがもっともポピュラーな芋煮であろう。対する愛媛県のものは鶏肉とともに煮込む。こちらも醤油や味醂で煮込むが、山形のものよりいりこや昆布などの出汁の旨味を中心に据えた味付けである。
さて、山口県の芋煮はこれらの芋煮と違い、肉を用いず、鯛を小芋と一緒に煮込む。まず鯛の骨で出汁を取り、そこに少しだけ醤油を入れた薄い味付けで小芋を煮込む。その後、焼いた鯛の身を入れる。ゆずの皮で香りづけがされ、煮物というよりはすまし汁の一種だと考えた方がよいかもしれない。
島根県津和野町は山口県の中でも北部にある小さな町である。稲荷神社が有名で名物は源氏巻。神社周辺はなかなか賑わった観光地で、美しい白壁の町並みには鯉こくが食べられる料理店がある。
白壁は萩市などの山口県北部に見られる街並みで、同じく山口県北部の島根県津和野町まで広がっている。
山口県の芋煮は三大芋煮の中ではマイナーの感は否めない。山口県の島根県津和野町では、三大芋煮をすべて食べられる芋煮会が開催されている。おいでませ山口
>開催地
イベント情報 山口・防府エリア
日本三大芋煮つわの~芋煮と地酒の会~
http://www.oidemase.or.jp/smartphone/tourism-information/spots/17537
>津和野町殿町・本町通り周辺
>所在地
>島根県鹿足郡津和野町後田
いずれにせよ、このあっさりとした芋煮は他にない味わいで、三方を海に面した山口県ならではの料理である。機会があれば、山口県名物、島根県津和野町の芋煮を一度食べてみてはいかがだろうか。 -
アッシリア砂漠の遊牧民にとって、天体の中心に鎮座する不動の北極星は方位を測る旅の頼りであり、ゆえに信仰の対象であった。北上して中国に到達した遊牧民は周王朝を築き、北極星信仰は北辰信仰と呼ばれて重んじられ、後に儒教と道教に多大な影響を与えた。
アッシリアで用いられた天文学は古代シュメール人の研究によるものであると言われている。ゆえに、シュメール人が基礎を築き上げた星座の体系に存在する北斗七星も、儒教及び道教では、北極星の侍従を司る星として、これも厚く信仰された。前回:山口県は都市である
http://wjn782.blog.fc2.com/blog-entry-292.html
さて、前回の予告通り、山口を山口として成立させた偉大なる守護大名、大内氏の話をしよう。山口などという日本の中でも辺鄙な田舎の領主について論じるために、私がアッシリア砂漠の遊牧民の信仰から話しを始めて、古代シュメール人の天文学まで遡った理由もここで明らかになる。
戦国大名と言えば、ほとんどは源氏か平氏を名乗り、ごく僅かに藤原氏や橘氏を名乗るものがいる、つまりほとんどが天皇の子孫を自称している。
そんな中で大内氏が名乗ったのは、百済聖王の第三子、琳聖太子の子孫である。誰? って感じだけど、聖王は朝鮮半島がかつて高句麗、新羅、百済の三国に別れていた時代、百済の26代王であり、琳聖太子は聖王の三男、ということになっている。つまり、山口県を山口県たらしめた守護大名の大内氏はもともと朝鮮からの渡来人である。
では、この琳聖太子とはどのような人物であろうか。
前回、土地を東京に売り渡して財を成し、徳山市を主体とする周南大合併を裏切った売県奴であり帝国主義の先鞭、山口県で唯一人口増を達成した経済特区下松(くだまつ)市の話をしたが、この名前の由来となったのが降松(くだまつ)神社である。降松が簡略化され、下松という市名になった。
この降松神社こそが、琳聖太子が朝鮮から日本に渡ってきた最初の地なのである。降松神社の伝説とは、次のようなものである。推古天皇の時代、まだ降松が降松という名でなかった頃、その地に立った一本の松に流星が落ちてきた。松は燃え上がったが、その炎はまったく止む気配がない。
人々はこれを奇怪に思い、地元の巫女を呼んだ。巫女が松の前に出でると突然喋りだした。
「私は北極星から遣わされた精霊である。この地に3年後、百済から王子が来訪する。私はその守護霊としてここに降り立ったのだ」
それを聞いた村の人々はこの地に神社を建て、松に降った星を祭り降松神社と名付けた。
果たして三年後、百済王の第三子、琳聖太子は降松に来訪した。琳聖太子は聖徳太子と謁見し、多々良という姓を賜って周防国の大内県を領土として与えられた。これが大内氏のはじまりであり、のちの現在の山口県東南部、周防を統治した在庁官人(大和朝廷の家臣である地方官僚)である。多々良は大内氏の本姓である。
いかがだろうか。なかなか面白い話だと思う。これは山口県における天孫降臨の伝説と言っても差し支えなかろう。
しかしながら、この伝説には非常に怪しい部分がある。流星が落ちて神が現れたこと? いやいや、おかしいのはそんなところではない。この琳聖太子なる人物の存在である。
というのも、この人物の記録は、大内氏による山口県内での記録以外には一切残っていない。大和朝廷にも朝鮮にも、そんな人物の記録は一切まったく全然残っていない。この人物の初出は室町時代に編纂された「大内多々良氏譜牒」なる大内氏家伝の記録である。大内氏の自称以前には、琳聖太子なる人物の記録は存在していない。
戦国大名の自称する先祖というものは皆インチキ臭いものばかりであるが、特に大内氏の名乗った琳聖太子は、そもそも実在しない可能性が高く、インチキ臭さの度が越えている。相手が日本から離れた国の家系の話だからって雑過ぎだろ、こいつ。
しかし、まるっきり嘘かと言えば、そうとは言えない。大内氏が琳聖太子なる謎の人物の子孫を名乗ったのは室町時代以降であるが、それ以前から百済の末裔であることは自称していた。そして、嵯峨天皇の編纂した「新撰姓氏録」には多々良氏について、日本に帰化した任那の王族であると記録されており、「乗院寺社雑事記」には大内氏について、日本人ではなく高麗人であると書かれている。
また、この降松(くだまつ)の地名の由来は、おそらく百済津(くだらつ)である。百済の津(船着き場)だから百済津であり、これがなまって下松となったのではないだろうか。
これはなにも根拠のない妄想ではない。大阪府交野市にある小松神社には流星伝説が存在しており、隕石のクレーターに建てられたとも言われ、映画「君の名は。」のモデルのひとつであるとも噂されるが、この小松神社の名前の由来は「高麗津(こまつ)」であり、高麗との交易に用いられた船着き場(津)である。大阪には「高麗」と書いて「こま」と読む地名が多い。小松神社と降松神社、これが高麗津と百済津であれば朝鮮に由来する名前である点がまったく同じであり、流星伝説が存在する点も完全に一致する。更には、小松神社と降松神社の祭神は、いずれも天之御中主神(アメノミナカノヌシノカミ)であり、これも一致する。
さて、ここでようやく冒頭のアッシリア砂漠の遊牧民や古代シュメール人の話と繋がる。
降松神社と小松神社で祭られる天之御中主神(アメノミナカノヌシノカミ)は日本書紀の冒頭で登場する天地開闢の神であり、宇宙の創造主であり、世界そのものを司る最高存在である。日本神話を知らない人からしたら、天皇の祖先とされる太陽神、天照大御神(アマテラスノオオミカミ)より偉そうな、セム一神教におけるYHVHのごとき唯一神のような、多神教に似つかわしくないこの神について不思議に思うかもしれないが、これは冒頭で説明したようにアッシリアから北方の遊牧民を経由して中国に伝わった北辰信仰に由来すると推測できる。アッシリア人はセム語族であり、イエス・キリストが話したと言われるアラム語はアッシリアの外交語である。天之御中主神(アメノミナカノヌシノカミ)はその名の通り、天の中心、則ち北極星を宿星とする。太陽は流動的な存在であるが、北極星は不動の絶対的な存在で、ゆえに絶対的な唯一神と相性がよい。
祭神が北極星を司る天之御中主神(アメノミナカノヌシノカミ)であるのは、中国から伝来した朝鮮での信仰に基づいていると考えられる。流星伝説も、朝鮮最古の歴史書三国史記の新羅本紀にも新羅王が流星を落とした描写があることから、これもやはり朝鮮の信仰に基づいたものであると考えられる。
このような傍証から考えるに、琳聖太子の実在は極めて怪しいとしても、その降臨の地である降松が朝鮮とゆかりがある多民族居住地域で、大内氏の出自が朝鮮であることは確かなように思われる。降松神社は日本で最初に節分祭を祝ったとして有名であるが、節分祭は星祭と呼ばれ、これは北辰信仰の祭である。現代日本では星祭も伝統行事のように思われるが、当時はクリスマスのようなハイカラな祭だったのではないかと思う。当時後進地域であった日本にあって、中国や朝鮮のような先進地域から、このような祭を真っ先に輸入するあたりも、江戸東京と山口西京が近似する点であると私は考えている。山口は大陸文化や半島文化の入り口である。
ここまでの話を纏めてみよう。大内氏は朝鮮からの移民の子孫であり、家系としては天皇の子孫ではない。大和朝廷の臣下であるが、祭神は中国朝鮮に由来し、日本書紀において天照大御神(アマテラスノオオミカミ)より高位の天之御中主神(アメノミナカノヌシノカミ)である。これは近代日本的な民族主義からすれば、変則的な存在であろう。
大内氏に限らず、山口県は朝鮮半島と関係が深い。今後触れることになると思うが、大内氏以前の下松近隣に存在した、大和朝廷から独立を守った古代超大国熊毛王国も朝鮮式の建築が用いられていた。
山口県は朝鮮半島に近い。直線距離では、山口市から釜山は名古屋より近い。ソウルは東京より近く、平壌は東京と同程度の距離である。ゆえに大内氏のみならず、朝鮮からの移民は古今多数である。大内氏の重臣陶氏も朝鮮からの渡来人であり、山口県の秦氏は新羅からの移民であるといわれる。
山口県は朝鮮半島と近いがゆえに、韓国とも関係が深い。韓流ブームより先に、山口県では地元映画「チルソクの夏」をつくったし、給食ではナムルやチヂミが出る。夕方のローカル番組では、お料理コーナーで郷土料理として在日韓国人発祥のもつ焼き、とんちゃん焼きが紹介される。韓国と九州の植民地下関の商店では一部で韓国の通貨ウォンが使えるし、釜山へはフェリーで1万円以下である。
地元政治のニュースになると安倍昭恵がコリアタウンでキムチづくりを実習したというニュースが流れるし、4年前の慰安婦補償に関する日韓合意の際には、民団の長老たちによる今後の日韓友好に関しての未来展望についての特別番組が放送された。その前番組として、サイコロクイズが人気のローカル番組「熱血テレビ」では、女性と戦争と題される5分程度の特集が組まれ、ナチスドイツやアメリカに至るまで、いかに人種差別の煽動に女性の性が利用されたかが論じられていた。(正直、夕方のローカル番組のレベルをあまりに逸脱してて、誰に見せるための番組かさっぱりわからなかった)。
こういった土地柄は民族マイノリティの認識にも影響がある。私は山口県出身なので、民族マイノリティと言えば在日朝鮮人だったし、学校の授業でもマイノリティの代表として挙げられてたのは朝鮮人および韓国人だった。次に被差別部落があり、逆にアイヌなどについてはよく知らない。琉球人については、マイノリティという認識がなかった。逆に、北海道出身者の話を聞くと、アイヌの話はよく知っているようだけど、在日朝鮮人についてはネットで存在を知ったと言っていたので驚いた。
山口県に韓国人や朝鮮人への差別があるかといえば、間違いなくある。しかし、それは山口県がウヨだの安倍だのというような簡単な話ではない。在日朝鮮人との交流は盛んだし、それを地域で推奨しているため、むしろ差別に否定的な人や個人レベルで国境を越えて韓国人との国際交流を持つ人も非常に多い地域でもある(他県に行ったとき、あまりに無責任に在日朝鮮人への偏見をたれ流す人に驚いた)。しかし、同時に山口県には他民族雑居地域ゆえのむずかしさがある。たとえば、メキシコとの国境線にあるアメリカの街でのメキシコ人とアメリカ人の関係を考えてみればよい。これは少し調べればわかることなのではっきり言ってしまうが、コリアンマフィアなどが下関などから侵入することは珍しくないし、それによって起こる事件もある。近いがゆえの生々しい関係がそこにはあるが、この現在の山口と半島との関係のあり方は、「日本」と「朝鮮」の存在と切り離せない。
蒙昧な左派は安倍を支持するネトウヨを見て短絡的に山口に対して朝鮮を蔑視して排斥する土地柄であると決めつけて差別し、あるいは安倍をはじめ山口の政治家が韓国と関係が深いと聞きかじった短絡的な左派はネトウヨを朝鮮人だと認定して倒錯したレイシズムに陥る。しかし、朝鮮に関する山口県の二重性を理解しなければ山口県を理解することはできないし、日韓(日朝)関係もまったく理解できないだろう。大内氏が琳聖太子を名乗ったのは、日本と朝鮮の関係における二重性のはざまに位置する山口を根城としたが故のものである。
山口の基礎を築いた大内氏は朝鮮からの移民である。江戸時代に山口長州を統治した毛利氏は山口植民地時代の広島西部、安芸出身である。近年話題の総理大臣安倍晋三もまた、東北俘囚の安倍氏である。俘囚は東北で長らく大和朝廷に帰属せず、弾圧された異民族であり、山口への移民である。安倍晋三の父、安倍晋太郎は「私は朝鮮人だ」と名乗ったらしいが、これは山口県でないと出ない言葉である。
大内氏は移民であるがゆえに日本最大の都市西京を築き上げ、西国一の帝国に広げることができた。ゆえに貨殖と文化を重んじ、経済と理念を重視した。それはアメリカや東京と同じである。あるいは、砂漠を出た遊牧民の絶対存在への信仰が、世界宗教に転じて地上を席巻したのと同様である。ユダヤ人が財貨と一神教を重んじたのは、長らく故郷を失っていたからである。
山口県民は討論が好きというステレオタイプがあるが、多民族の混交した国際都市であり帝国、文化の入り混じる地域では、フラットな言語コミュニケーションが重要になる。俗に言われる「山口弁は標準語に近い」が事実なのか、夜郎自大な山口県民の妄想かはわからないが、なぜそのように言われるのかと言えば、山口と東京がともに都市だからである。
大内氏の話が長くなったので二回に分けます。ただし、次回は山口以前の山口、大和朝廷から独立していた失われた古代超大国熊毛王国の話から。大内氏をやるかは不明。 -
山口県は都市であり、山口県民は都市民である。ゆえに現在における「東京人」のような山口県民としてのアイデンティティは存在するが、まとまりはない。山口県は移民の国であり、ゆえに山口県民は故郷喪失者である。
山口県において固有の領土と呼べる部分は少ない。山口県最大の市である西端の下関は福岡と韓国の植民地だし、東端の岩国は広島とアメリカの植民地である。その代わり山口県の北に位置する島根県津和野市は山口県の植民地である。山口固有の領土と呼べる中央部は、領土の3分の2程度であろう。
山口固有の領土である中央部の中でも、徳山や防府を中心とした旧周防国と宇部や美祢などの旧長門国も分断されており、北部の萩など山陰地域も山陽地域と分断されている。島根県や鳥取県と、広島県や岡山県は中国山脈を挟んでアイデンティティはまったく違っているが、山口県では同様の分断が県内で起こっており、私は山陽地域の出身であるから、山陰地域のことはよく知らない。
更に、周防でも徳山を中心とした周南地域と防府を中心とした防府地域でアイデンティティは異なり、それぞれの文化が存在する。防府には防府天満宮や秋芳洞などの文化財や観光地が多く、周南には瀬戸内海沿いに大工場地帯がある。
防府地域には県庁所在地である山口市も含まれているが、この地域の中心は防府である。山口市より防府市の方が人口密度が高いし、防府天満宮などの文化財もある。ショッピングモールのサティもある。山口市には山しかない。防府は古都として名が日本書紀に残り、菅原道真などともゆかりのある由緒ある街であるが、山口の名前の由来は山の入り口である。山口市より防府市の方が地域の中心であるという認識が山口県では一般的であろう。県庁所在地なのに、県どころか周辺地域の中心でさえないのが山口市である。ゆえに、新幹線の駅が無駄に4つもある山口県にあって、山口市に新幹線は停まらない。
対する周南地域は地元大企業トクヤマを産み出し、山口県最大の商店街を有する徳山を中心に周南市大合併をおこなったが、この際に下松市は拒否している。下松市は山口県で最も人口密度が高く、日立や東洋鋼鈑などの東京から誘致した大工場が沿岸に並び、ショッピングモール西友を持つ経済特区である。下松市は山口県で唯一の黒字財政であり、人口も増加している。凋落しつつある徳山市をはじめとした周南地域の市町村と合併するメリットはない。
同様に、長門においても、宇部市と長門市ではアイデンティティが明確に違う。宇部は瀬戸内海に面した市で、地元大企業である宇部興産を有し、庵野秀明を輩出、山口県初のメイドカフェができた(そしてすぐ潰れた)サイバー都市であり、長門は日本海に面し、多くの島々を有するため自然が美しく、楊貴妃が漂流したとの伝説があるなど大陸とゆかりのある文化的な街である。九州と韓国の植民地である山口県最大の市下関とともに、旧長門国も三者三様である。
このように、徹底してバラバラなのが山口県である。アメリカ国民にアメリカ国民というアイデンティティがあるように、東京都民に東京都民というアイデンティティがあるように、山口県民にも山口県民というアイデンティティはある。愛郷心もある。しかし、その内実はよくわかっていない。それが山口県である。
なぜこのように山口県はバラバラなのか。それを知るには山口県の基礎を作り上げた人物を訪ねる必要があるだろう。
維新志士? ブッブー。維新志士は山口県になにもしてない。せいぜい、廃藩置県の際に、「山口県」という名前を与えたくらいである。再度書くけど、山口の名前の由来は「山の入り口」である。維新志士はちゃっかり長州というかっこいい名前を引き継ぎながら、地元には山の入り口という名前をつけた。おそらく維新志士は故郷が嫌いで嫌いでしかたなかったのだと思う。だから京都に駆け上がり、天皇を引き連れて江戸で東京を築き、二度と帰ってこなかった。その気持ちはわからんでもないけど、それはともかく山口県の基礎を築いたのは長州志士ではない。東京に行ったきりじゃん、あいつら。
山口県の基礎を築き上げたのは、室町時代の守護大名大内氏である。山口県を中心に九州北部や広島西部、島根県を領有した西国一の大大名であった。現在では、山口県の東西は九州と広島の植民地であるが、これはもともと融和していた福岡と広島が後に栄え山口が衰え、融和していたがゆえに影響力が逆転して流入した現象である。広島市も福岡市も大内氏の領内であり、山口の支配下である。かつては九州北部から広島西部に及ぶ、山口を中心とした大帝国が存在していたのだ。関ケ原での西軍総大将にして江戸時代に長州藩の大名であった毛利家の毛利元就は山口県の植民地時代の広島西部出身である。
大内氏は山口で京都を模して都市開発と文化事業を興し、明や朝鮮との貿易により経済も発展させ、その成功により山口は西京と呼ばれた。西京という名であるが、当時戦乱で勢力を落とした本家京都より山口の財政は遥かに潤沢で、その文化は栄えた。城下町は当時の日本で最大の都市であり、この頃の文化と貿易のノウハウが、300年後に明治維新の推進力になったとも言われる。
模倣品の文化と、国際貿易による経済発展、そして本家京都を超えた日本一の栄華。近代日本の江戸東京と対を為すのが山口西京である。
山口県は都市である。都会でなくなった都市である。地元民に山口県の特徴を聞いて、一番帰ってくる返事は「なにもない」だろう。これが崩壊した都市の末路である。そして、県庁所在地でありながら山口県内全市町村でも下から数えた方が早い人口密度の、山しかないド田舎山口市こそ、かつて大内氏が開発した日本最大の文化都市西京の跡地である。
というわけで、次回は大内氏について。これまたいつやるかわからないけど。