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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

高麗史に記された大内義弘と三度目の元寇

 私は日本史に詳しくないのだけど、宗教や思想は割と好きだし日本神話は昔から結構趣味にしており、さりとて体系的な知識があるわけでもないミーハー趣味なので、古事記や日本書紀の時代とそれ以外の歴史時代の知識がボトムズコピペのように偏っている。

 なので、鎌倉幕府とか室町幕府とかの時代がどうなったかとか全然知らないのだけど、神話とかを朝鮮中国の歴史などを追っていると、たまにそういう話にぶち当たる。


 で、今回高麗史から見つけた記述がこちら。


 初日本大內義弘、謂其先出於百濟、以我爲宗國、嘗欲禁諸島倭侵擾我疆。會本國使韓國柱如九州、請禁賊、義弘遣麾下朴居士、以其兵一百八十六人與之偕、謂國柱曰、以我軍爲先鋒,貴國師繼之、海賊不足平也。至是、倭寇雞林、居士率兵與戰、乙沚逗遛不救、居士軍大敗、得脫者、纔五十餘人。

 当時の日本は室町時代。山口県の守護大名、大内氏の記録である。大内義弘は、特に高麗王朝との関係を深めて大内氏の最盛期のひとつを築いた人物でもある。

 昔のブログ記事でも触れたけど、大内氏は百済の王族の子孫であると嘯いていた。この記事に記されている通り、このことは「大内多々良氏譜牒」なる大内氏の家伝に記され、あるいは「乗院寺社雑事記」にも、大内氏が日本人ではなく高麗人であるという旨の記録が為されていることから、ある程度まで日本において一般的な認識だったのだろうと思われる。

 で、ここに朝鮮半島の記録である高麗史にも「日本の大内義弘は、自らの先祖を百済の出身だと言っており、我が国(高麗)を宗主国として仰いでおり(日本大內義弘、謂其先出於百濟、以我爲宗國)」とあることから、このことは高麗王朝にも明確に認識されていたことが明らかになったわけである。


 というところまではいいのだけど、ここにちょっと気になる記述がある。それが「義弘遣麾下朴居士」の部分。「麾下」とは何かといえば、指揮下にあることで、一般には部下のことである。


き‐か【麾下】
〘名〙 (大将の采配(さいはい)の下の意から) 将軍に直属する家来。はたもと。また、ある人に属してその指揮に従う者。部下。旗下。

 ということで、「義弘遣麾下朴居士」を普通に訳せば、「大内義弘は(自らの)指揮下にある朴居士を派遣した」という意味になる。つまり朴居士という人物を大内義弘は部下に抱えていたということである。

 朴居士という名は、もちろん高麗の人名だと考えられる。一応は日本の古い姓にも朴がないわけではないし、居士という名が日本名があり得ないわけではないけど、まあ、この組み合わせは高麗の人物だろう。ということは、高麗の人物を自らの指揮下に置いていたということになるのか。信長の野望とかにも出てくるのかなー、それにしてはもうちょっと前の時代か、なんて思いつつ。

 で、先ほど引用した部分を全文訳してみる。


 
 初日本大內義弘、謂其先出於百濟、以我爲宗國、嘗欲禁諸島倭侵擾我疆。會本國使韓國柱如九州、請禁賊、義弘遣麾下朴居士、以其兵一百八十六人與之偕、謂國柱曰、以我軍爲先鋒,貴國師繼之、海賊不足平也。至是、倭寇雞林、居士率兵與戰、乙沚逗遛不救、居士軍大敗、得脫者、纔五十餘人。

 初メ日本(ヤマト)ノ大內義弘(オホウチヨシヒロ)ハ、其ノ先(オヤ)ヲ百濟(クダラ)ヨリ出ズルト謂ヒ、我ヲ以チテ宗國ト爲シ、嘗テ諸島(モロシマ)ニ倭(ヤマト)ノ我ガ疆(サカヒ)ヲ侵シ擾(ミダ)スコト禁(トド)ムルヲ欲ス。會(タマタマ)本國ノ使(ツカヒ)ノ韓國柱ハ九州ニ如(ユ)キ、賊(アタ)スルヲ禁(トド)ムルヲ請ヒタレバ、義弘(ヨシヒロ)ハ麾下ノ朴居士ヲ遣ハシ、其ノ兵(イクサ)の一百八十六人ヲ以(ヒキ)ヰテセシメテ之レト偕(トモ)ニ、國柱ニ謂ヒテ曰ク、我ガ軍ヲ以チテ先鋒ト爲シ、貴國ノ師(イクサ)ハ之レニ繼ガバ、海賊(ワタアタ)ハ平グニ足ラザルナリ、ト。是ニ至リテ、倭(ヤマト)ハ雞林ニ寇(アタ)スルモ、居士ハ兵(イクサ)ヲ率ヰテ戰ヲ與(トモ)ニシ、乙沚ハ逗遛(トド)マリテ救ハズ、居士ノ軍(イクサ)ハ大イニ敗レ、脫(ノガ)ルルヲ得ル者、纔(ワズ)カニ五十餘人タリ。

 事のはじめはこのようなものである。日本の大内義弘は、自らの先祖を百済の出身だと言っており、我が国(高麗)を宗主国として仰いでいたことから、これまで周辺諸島から倭寇が我が国の国境を侵して暴れまわっているのを止めようとしてきた。本国の使者である韓国柱が九州に行った際に、賊を止めるように要請すると、義弘は指揮下にある朴居士を派遣するとともに、自らの軍兵一百八十六人を一緒に引き連れさせ、韓国柱に言った。「我が軍を先鋒とし、貴国の軍隊はそれに後継するがよろしかろう。海賊も平気ではおられますまい。」こういうわけで、倭寇が鶏林を襲撃した際に、朴居士は兵を率いて一緒に戦ったが、乙沚がのろのろとその場に留まって救援せず、朴居士の軍は大敗してしまい、脱出できた者は、わずか五十人余りであった。
 というわけで、大内氏が倭寇を取り締まろうとしており、そこで指揮下にいた朴居士が派遣され、倭寇と交戦したのだけど、乙沚という人物がそれを見殺しにしようとしたらしい。大内義弘が派遣した朴居士が大敗しとる。
 この記述の前後関係がよくわからないし、ちょっと時間がないから読めないのだけど、ここからとりあえず、ここから大内氏が高麗の人員を指揮下に置いていたことがわかる。なんともグローバルな関係である。


http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0060676
그 죄로 순위부(巡衛府)에 체포되어 장형 100에 처해지고 하동현에 유배되었다. 곧 석방되어 계림원수(鷄林元帥)로 기용되었는데, 일본해도포착관(日本海道捕捉官) 박거사(朴居士)가 계림에 침입한 왜구에게 고전하는 것을 방관하여 대패하게 하였다.
[출처: 한국민족문화대백과사전(하을지(河乙沚))]

 私は韓国語が読めないので、機械翻訳してみると、どうやら朴居士を見殺しにしようとした乙沚は河乙沚といい、朴居士の苦戦を傍観していたらしいと書かれている。この人物は「鷄林元帥」という官職だったらしいのだけど、「鷄林」は新羅の旧名でもある。なので、旧新羅地区の軍事総督のような立ち位置だったのだろう。

 そして、大内義弘の部下とされていた朴居士には「日本海道捕捉官」という肩書があったとされている。名前からして、この人物は高麗の官吏なのだろう。ということは、朴居士は大和王朝の臣下としての大内氏に帰属した移民ではなく、あくまで直接的に高麗王朝に仕えていた人物であり、それを大内氏は部下にしていたことになる。現代から見れば、国境を越えた上司部下の関係なわけだけど、当時からしても王朝を跨いだ関係であり、君臣などの内実がどのようになっているのか気になる。

 このへんは興味深いので後に調べるとして。


 で、ここで思い出したのが、幻となった三度目の元寇のことである。元寇と言えば、鎌倉時代に文永の役と弘安の役の二回だったと通説ではされているが、なんと三回目があったという伝承があるのだ。それが江戸時代初期に記されたという石見銀山旧記である。以下に要約を引用しよう。

石見銀山旧記が伝える発見伝承 ~旧記の概要~http://sanbesan.web.fc2.com/iwami_ginzan/mine_kyuuki_01.html

 建治2(1276)年に日本を訪れた蒙古の使者を、幕府は鎌倉で殺した。その5年後、蒙古の軍勢24万人が4千艘の船に乗り九州に攻め寄った。

帝は大変驚き、急いで官軍を繰り出して九州で蒙古の軍勢を防ごうとした。しかし、蒙古の軍勢は強く、日本の軍に打ち勝ち都へ攻め寄ろうとした。

その時、我が国の神の力によって大波が起こり、蒙古の船はことごとく壊れて、我が国は無事であった。

 その後、花園天皇の世、将軍は守郡、北条貞時が執権の時、幕府に恨みがあった周防の大内弘幸は、謀反を起こして蒙古に援軍を頼んだ。蒙古は鎌倉幕府への昔の恨みを晴らそうと、軍兵2万騎が数千艘に分乗して石州に上陸した。

時貞はこれを恐れ、和睦を請うたが弘幸が聞き入れなかったため帝に相談した。帝は陽録門院(陽禄門院)を弘幸の子、弘世に嫁がせた上、石州を領地として渡した。

 弘幸は和解に応じ、蒙古軍を帰そうとしたが、幕府に恨みがある蒙古軍は戦を続けようとして帰らなかった。困った弘幸は、大内家代々の守護神である防州氷上山に祭る北辰星に祈り託宣を受けた。託宣は、石州の仙山は多くの銀を出す。この銀を採って百済の軍兵に与えてなだめ帰らせよ、その山は銀峯山ともいう、というものだった。

 弘幸が神のお告げにしたがって銀峯山に登ったところ、山の下から上まで白く輝き、積雪した冬山の雪を踏むかのようであった。弘幸は多量の粋銀を得て百済の軍兵に与えたところ、蒙古は怒りを鎮め、喜んで国へ帰った。


 というわけで、二回にわたる元寇の後、大内弘幸が倒幕のために蒙古軍を呼び出すという暴挙に出て、これに驚いた天皇と鎌倉幕府は大内弘幸に石見銀山を与える等の和解案を提示したことから、ここで大内氏は軍を引くことにしたのだけど、呼び出された蒙古軍は帰国を拒否し、戦争をすると息巻いた。そこで大内弘幸が自らの氏神である氷川山の北辰星に祈ると、神から石見銀山の銀を百済の軍に渡して帰ってもらいなさいというお告げが下った。こうしてその通りに大内弘幸が百済の軍兵に銀山からとれた銀を渡すと、蒙古軍は満足して帰国した……という話である。

 内容としては非常に嘘くさく、それホントか? って話なのだけど、物語としての筋はわかりやすくて面白い。本当だったらワクワクする……という感じである。ちなみに、ここで登場する氷上山には妙見社が置かれており、つまり昔の記事で記した通り、降松神社と同様に天之御中主神を祀った社である。天之御中主神は北辰を司る神。


 で、私の要約にも引用したサイトの本文にも、太字の強調をした単語がある。それが百済の軍兵という単語である。百済の軍兵……? そう、大内弘幸は蒙古軍を呼び寄せたはずなのに、唐突に百済の軍兵という語が登場し、なぜか百済の軍兵に銀を渡したら蒙古軍が帰国するのだ。なんだこれは。

 実際、蒙古軍は征服地の人員を使役して先遣隊に用い、自民族の犠牲を減らすという手法を侵略に用いており、元寇においても高麗の人員で構成された部隊が先遣隊として鎌倉幕府と衝突したという話は有名である。しかし、そういったことを指しているのだろうか……? そうとも思えない。そもそも、鎌倉幕府の末期の時代に百済はとっくに滅んでいる。


 このあたり、なんとなくなのだけど、大内氏が百済の末裔を自称していたというイメージと、朝鮮半島の王朝に仕える人員を配下にしていたイメージから生まれたものがあるのではないか、という気がする。国内の大名同士の争いに高麗の人員がかかわったこともあるのだろうか。このあたり、いつか掘り下げてみたい。
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