"月読は常世の国の王となる"カテゴリーの記事一覧
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浦島子は月読の子孫である――。斯様な伝承が浦嶋神社には残されている。さっそく、その伝承について確認しよう。以下は、浦嶋神社のホームページに掲載された社伝の内容を箇条書きに改めたものである。実際の文章は、ホームページ本文を参照されたい。
1.浦嶋神社は宇良神社ともよばれ、醍醐天皇の延長5年(927)「延喜式神名帳」所載によると『宇良神社(うらのかむやしろ)』と記されている式内社である。
2.淳和天皇の天長2年(825)に創祀され、浦嶋子(うらしまこ)を筒川大明神として祀る。
3.浦嶋子(うらしまこ)の大祖は月讀命の子孫で当地の領主、日下部首(くさかべのおびと)等の先祖であると伝わる。
4.浦嶋子は雄略天皇22年(478)7月7日美婦に誘われ常世の国へ行き、三百有余年(347年間)ほど滞在した後に淳和天皇の天長2年(825)に帰ってきた。
5.淳和天皇はその話を聞いて浦嶋子を筒川大明神と名付け、小野妹子の子孫である小野篁(おののたかむら、802~853)を勅旨として派遣し社殿が造営された。
6.遷宮の際には神事能が催され、そのつど領主の格別の保護が見られた。
7.暦応二年(1339)には征夷大将軍 足利尊氏が来社し幣帛、神馬、神酒を奉納するなど、古代より当地域一帯に留まらず広域に渡り崇敬を集めている。
8.浦嶋子の子孫の日下部氏は、『新撰姓氏録』「弘仁6年(815)」の和泉皇別の条に「日下部宿禰同祖、彦座命之後也」とみえる。
9.彦座命は第9代開化天皇(紀元前157~98)の子、従って日下部首は開化天皇の後裔氏族で、その大祖は月讀命(浦嶋神社の相殿神)の子孫で当地の領主である。
さて、このうち下線を引いた3項と9項にご注目いただきたい。確かに浦島子が月読命(つくよみのみこと)の子孫とされている。ただし、実は情報と言えるのはこれくらいで、月読命のエピソードとして、なにか残されているわけではない。どこまでも影の薄い神である。
3.その大祖は月讀命の子孫で当地の領主、日下部首(くさかべのおびと)等の先祖であると伝わる。
8.浦嶋子の子孫の日下部氏は、『新撰姓氏録』「弘仁6年(815)」の和泉皇別の条に「日下部宿禰同祖、彦座命之後也(日下部の宿禰と祖は同じ。彦座命の後裔)」とみえる。
9.彦座命は第9代開化天皇(紀元前157~98)の子、従って日下部首は開化天皇の後裔氏族で、その大祖は月讀命(浦嶋神社の相殿神)の子孫で当地の領主である。
ちなみに、第9項には、「彦座命は第9代開化天皇(紀元前157~98)の子、従って日下部首は開化天皇の後裔氏族で、その大祖は月讀命(浦嶋神社の相殿神)の子孫で当地の領主である。」とあるのだから、前段を受けて導き出された推定ということであろう。なので、その項については、関連すると思われる第3項と第8項も一緒に確認してもらいたい。
つまり、①浦島子は日下部首(くさかべのおびと)の先祖だという伝承がある。②新撰姓氏録には日下部首(くさかべのおびと)の祖先は彦座命だとされている。③よって、彦座命は日下部首(くさかべのおびと)の祖先であり、同時に月読命はその大祖である……ということになる。
神社も宗教施設であるから、言うまでもなく様々な日本の古典を長年かけて施設として研究しているはずである。神社の伝承と古典を突き合わせて考察するのも、神社の仕事ということだ。言うまでもなく、私みたいな宗教思想オタクのニワカ素人(しかも興味の主が日本神話ですらないという……)とは、単純な古典の知識においても雲泥の差であり、さすがに比較をするのが失礼なレベルである。なので、こうした宗教施設の社伝というのは、私のような浅学非才の身とっては、独特の伝承以外にも古典のまとめ情報として非常にありがたい。
さて、ここには他にも関連する人物や氏族が挙げられている。彦座命(ひこざのみこと)と第9代開化天皇、そして日下部首(くさかべのおびと)である。
ここでは彦座命(ひこざのみこと)は9代開化天皇の息子とされているから、古事記や日本書紀に登場する10代崇神天皇の腹違いの兄の彦坐王(ひこざのきみ)、別名・日子坐王(ひこざのきみ)であろう。この人物については後に触れることになると思う。ひとつ言えることは、浦島子は日子坐王(ひこざのきみ)という皇族ともつながりのある可能性があるということである。
少しずつ具体的な情報が集まってきた!
ちなみに、浦島子が日下部首(くさかべのおびと)の祖先だという話は、風土記の浦島子の説話にも掲載されている。というより、浦嶋神社の社伝がこの説話に基づいて記されたものなのかもしれない。私が訳した丹後風土記を引用しよう。
与謝郡の日置里。この里に筒川村がある。ここに住んでいた人夫こそ、日下部首等の先祖である。名は筒川島子という。その容姿はたいへん美しく、他にないほど風流であった。だから彼は水江浦島子と呼ばれるのだ。これはかつての宰であった伊預部馬養連の記録と相違がないので、あらましだけを述べることにしよう。
さて、他にも社伝には興味深い記録が数多くある。
1.浦嶋神社は宇良神社ともよばれ、醍醐天皇の延長5年(927)「延喜式神名帳」所載によると『宇良神社(うらのかむやしろ)』と記されている式内社である。
浦嶋神社の別名は宇良神社とのことで、二つの呼称を並列して紹介しているが、後の記述を見るに、宇良神社という呼称の方が先に存在した正式なものだったのだと思われる。というのも、『浦島子』は『浦』が名字で『島子』が名前なので、『ウラシマ神社』という名称には違和感がある。『ウラ神社』の方が適切ではないだろうか。とはいえ、実は浦嶋子には、名が子であるという説も古来から存在している。
ちなみに私は『宇良(うら)』という名に思うところがある。この人、もしかして桃太郎に退治された人なんじゃないか? 浦島太郎vs桃太郎という夢の戦いが繰り広げられていた可能性にはロマンを感じるし、これは後に触れるかもしれない。
4.浦嶋子は雄略天皇22年(478)7月7日美婦に誘われ常世の国へ行き、三百有余年(347年間)ほど滞在した後に淳和天皇の天長2年(825)に帰ってきた。
5.淳和天皇はその話を聞いて浦嶋子を筒川大明神と名付け、小野妹子の子孫である小野篁(おののたかむら、802~853)を勅旨として派遣し社殿が造営された。
6.遷宮の際には神事能が催され、そのつど領主の格別の保護が見られた。
他にも、たとえば社伝には、このように具体的な浦島子の帰国年次が記され、その時に何が起こったか、史的な浦島子の事跡が記されているのだ。これも非常に重大な情報であるが、この検討も先に取っておこう。これはかなりいろんなものが非ッ常に『危うくなる』情報なので、実は私も取扱いにハラハラしている。
さて、今回はここまで。次回は浦島子が月読命の子孫であるという記録を前提にして、ふたたび浦島子の説話を検討し、可能であれば日本列島を飛び出して月読の考察を展開しよう。日本神話の話だからといって、話を日本にとどめる必要はどこにもない。世界は広いのだ。
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与謝郡の日置里。この里に筒川村がある。ここに住んでいた人夫こそ、日下部首等の先祖である。名は筒川島子という。その容姿はたいへん美しく、他にないほど風流であった。だから彼は水江浦島子と呼ばれるのだ。これはかつての宰であった伊預部馬養連の記録と相違がないので、あらましだけを述べることにしよう。
長谷の朝倉宮にいらっしゃった天皇(雄略天皇)が統治されていた時代、島子は独り小船に乗って海の真ん中に漕ぎ出して釣りをしていた。三日三晩を経ても一匹の魚さえ釣れなかったのに、不意に五色の亀が釣れた。なんとも不思議なものが釣れたと思って船の上に置き、そのままさっさと寝てしまうと、いきなり亀が女性となった。その容貌は麗しく、他に比べることができないほどである。
浦嶋子が「ここは人が住むところからはるか遠い海原だというのに、どこから人がいきなりやってきたというのか」と質問すると、その娘は微咲を浮かべて答えた。「風流な殿方様が、独りで蒼い海の真ん中にいるんですもの。お近づきになってお話ししたいと思って我慢できず、風と雲に乗って、ここまで来ちゃいました。」と言った。島子はまた質問した。「風と雲とは、どこから来たのだ。」と言うと、娘は「天の上のある仙人の住む場所です。どうか信じてください。お話しして仲よくなりましょう。」と答えた。そこで島子は、神女であることを理解し、畏敬の念を心に懐いたが、まだ疑う心も残っていた。ところが娘が「ふつつか者ではございますが、私の胸の内をお伝えします。天と地の終焉の時を迎え、太陽と月とが消滅するまで続く、永遠のご縁を結びたいのです。さあさあ、あなた様のお気持ちはいかが? 早く答えてください!」と語りかけてきたので、島子も「もはや言葉などいりません。私だって、あなたを愛する気持ちはずっと変わりませんよ。」と答えた。すると娘は言った。「ねえ、あなた。オールを漕いでちょうだい。蓬山に行きましょう。」島子は言葉通りに船を漕ごうとしたが、娘は島子を眠らせた。
意識を失っている間に、いつの間にか海の中の大きな島にたどり着いていた。その地面はまるで宝玉が敷き詰められたように美しく、闕台は太陽の光を受け、楼堂は光り輝いていた。見たことも聞いたこともない場所である。二人は手を結んでゆっくりと歩きだし、大きな門を構えた家の前までたどり着いた。娘は「あなた、ちょっとここで待ってて。」と言って、門を開いて中に入っていった。すると七人の子供が来て、「この人が亀姫の夫かぁ。」と口々に言い合った。今度は八人の子供が来て、またもや「この人が亀姫の夫かぁ。」と口々に言い合った。その時はじめて、娘の名が『亀姫』だと知った。そこで娘が出で来ると、島子は先ほどの子供たちのことを告げた。娘は「その七人の子供は昴星(プレアデス星団)、その八人の子供は畢星(ヒアデス星団)。あなた、そんなの当たり前じゃないの。」と言って、そのまま島子より前を歩いて手を引っ張り、家の中に入った。
娘の父母はともに大歓迎、拱手して丁寧にあいさつをした。そして人間界と仙界の違いを説明し、人と神とが偶然にも巡り合えた奇跡の喜びを熱く語った。そこで百品のおいしい料理を薦め、兄弟姉妹等が杯を挙げて酒を杯に注ぎ合い、隣の里の幼女たちも晴れ晴れとした顔で一緒に遊んだ。仙人の歌は声が透き通り、神の舞は妖艶で、その歓宴は、すべてが人間界の一万倍以上のものであった。そこで日が暮れたことにも気づかなかったが、夕暮れ時になると仙人たちは少しずつその場から退席し、ついに娘と島子だけがその場に残された。肩を並べ、袖を手に取り合い、夫婦の理を成した。こうして島子が故郷を離れて仙都で遊ぶこと、既に三歳が経った。
そこで急に故郷を懐かしむ気持ちが沸き上がり、独り両親のことが恋しくなった。こうして悲しみが頻繁に心に立ち現れるようになり、日に日に悲しい気持ちは増していった。娘が「最近、あなたの顔を見ていると、いつもと何か違うみたい。ねえ、なにかしたいことがあるなら聞かせて。」と質問すると、島子は答えた。「孔子の言う「小人物は故郷を懐かしむ」とか、礼記にある「死にゆく狐は故郷の丘に首を向ける」とかいった言葉は、僕は嘘だと思っていた。だけど今はこれが本当なのだと思う。」娘が「故郷に帰りたいってこと?」と問うと、島子は「僕は親族や故郷を離れて、遠い神仙の世界に入った。恋焦がれる気持ちに堪えられない。だから軽々しくも自分の気持ちを口にしてしまった。どうかしばらくの間、故郷に帰って両親の顔を見させてほしい。」と言った。娘は涙をぬぐいながら嘆いた。「意志は鉄や石のように固く、一緒に永遠を共にしようと約束したのに、なぜ故郷に恋い焦がれて、永遠を一瞬のうちに捨てようと言うのですか!」その後、互いに手をつなぎながら、あたりを散歩し、一緒に話をしながら、声を上げて泣いた。ついに袂を別って岐路につくことになった。そこで娘の両親や親族も一緒に別れを惜しみながら送り出した。
娘は玉匣を手に取って、島子に授けて言った。「あなた、最後までふつつか者の私を忘れないで。もし私のことが恋しくなったら、この匣を堅く握って。だけど、これを開かないでほしいの。」と言った。お互いに別れを告げて船に乗ったその時、娘は島子を眠らせた。
意識を失っている間に島子は故郷の筒川村に着いた。ところが村を眺めてみても、人も物もまったく様変わりしており、何が何だかかわからない。そこで村人に「水の江の浦島子の家族は、今どこにいるのだろうか?」と質問した。村人は答えた。
「お前さんはどこの人かね。ずいぶんと遠い昔の人のことを聞かれるもんだ。俺も聞いたことがある。古老たちが代々口から口に伝えてきたお話だがね、『かつて水の江の浦島子という男がいて、独りで蒼い海の向こうに漕ぎ出したが、それから二度と帰って来なかった』……ってな。今から三百年以上も前のことだぞ。なぜ唐突にそんなことを聞くのかね。」
こうして茫然自失としたまま虚ろな気持ちで村を回り歩いたが、一人の親族とも会うことはできないまま、十日が過ぎてしまった。そこで玉匣を撫で、神女のことを思いだして感傷に耽った。ところが島子は、かつての約束を忘れ、おもむろに玉匣を開いてしまうと、そのまま瞬く間に『芳蘭の体』は、風と雲とに乗って蒼天の彼方に飛び去った。
そこで島子は、約束を破ったから、もう二度と神女の元に帰れないのだと理解し、首を落として立ちつくし、涙に咽びながら歩くことしかできなかった。しばらくして涙を拭い、歌った。
「永遠の世界(常世)の岸辺に向けて雲が流れる。水の江の浦島子の言葉を届けるために。」
神女は、遥か遠くから美しい声を飛ばして歌った。
「小さな国(倭)に向けて風が吹き上げ、雲は二つに別れてしまった。あなたが去った後も、私は忘れない。」
島子はまた恋焦がれる心に堪えず、歌った。
「あなたに恋い焦がれて夜を過ごし、朝日の光と共に戸を開けると、永遠の世界(常世)の浜の波の音が聞こえてくる。」
浦嶋子の説話は、シリーズ『月読は常世の国の王となる』の重要な鍵となる説話なので、これから何度も引用することが予測されるため、先に全訳して独立した記事として掲載することにした。古文の翻訳は不慣れなので、漢文よりもさらに拙いと思うがご容赦を。それと意訳が多い。
浦島太郎とは、奇妙な物語である。助けた亀に連れられて竜宮城に行き、美しいお姫様と結婚し、そこで楽しい宴が開かれ、浦島太郎はもてなされる……ここまでの話の構造は、「傘子地蔵」等に代表される報恩説話と呼ばれる類型に近い。よいことをすればよい報いがあるという、世界的によく見られる物語の様式であるが、日本の場合は特に仏教の因果応報の思想に基づいて説明される。
ところが、なぜか最後に浦島太郎は帰る故郷を失い、老母とも会うことはできず、孤独に陥ってしまう。しかも、お姫様から「開いてはならぬ」と警告されつつ手渡された玉手箱を開いてしまうと、自らも若々しい身体を失って老化してしまう。善人の浦島太郎が、なぜこのようなひどい目に合わないといけないのか。まことに理不尽であるし、なんらかの教育的価値を有する寓話にも思えない。報恩説話の中には「鶴の恩返し」のように、何らかの存在を助けた善良な人が、恩返しに来たその存在との約束を破ってしまい、その悪因によって善因の報いを失ってしまうという話も存在し、浦島太郎が瑞々しい若い肉体を失ってしまった原因は、確かに姫との約束を破ってしまったことにある。しかし、故郷も老母も喪った浦島太郎の孤独は、どうしようもなく浦島太郎に降りかかった災厄である。
その疑問は、原作となる浦島子の説話を確認すれば氷解する。浦島子はいじめられた亀を助けたのではない。釣りをしていると五色の奇妙な亀を釣り上げてしまい、それを船の上に置いていただけで、特に善行があったことが作中には記されていない。もともと浦島子の物語は報恩説話ではなく、異界の存在との邂逅を描いた悲劇の物語なのだ。話の類型としては、『竹取物語』に近い。
奈良時代から平安時代頃にかけて記された浦島子の説話が報恩説話の形式に改変され、「浦島太郎」の物語となったわけである。現存する浦島太郎物語の初出は、鎌倉時代末期以降に編纂された御伽草子集に収録されたもので、風土記からは500年の隔たりがある。
せっかくの幕間なので、ここで少し浦島子の説話についていくつかの補足を述べておこう。現代の絵本などの浦島太郎は、おおよそ亀と乙姫は別キャラクターであるが、浦島子の説話では姫は亀が変化した姿である。名前も亀姫である。これは鎌倉以降の古い御伽草子でも同様で、明治時代以降に明確な変化があったのを確認している。
また、御伽草子の浦島太郎物語では、この結末は報恩説話としてはあんまりだと思われたからだろうか。玉手箱を開けた浦島太郎は、おじいさんになった後で鶴になって飛び立ち、はるか仙界の亀と結婚し、鶴は千年、亀は万年というわけで、末長く幸せに暮らしたという。ハッピーエンドといえばハッピーエンドだけど、やや強引というか、不条理な話ではある。(私はなぜか感動したんだけど。)
ちなみに、一般に浦島太郎は釣りをして生計を立てていたとされるが、今回の丹後国風土記では明示されていない。しかし、三日三晩を船で過ごす遠洋漁業をしているあたり、こちらも内容が省かれているだけで、漁師だったと理解してよいはずである。
ところで、浦島太郎物語では、玉手箱を開けた浦島太郎はおじいさんになってしまうが、文中では『芳蘭の体』が飛んだ、と原文の表現を『』内に残して訳した。この『芳蘭の体』という部分は、解釈が分かれる。芳蘭は芳しい香りの蘭の花であるので、直訳的なものだと「箱の中から芳しい香りが立ち上った」とも解釈され、あるいはこれは箱に宿る霊的な本質が失われたという表現だとか、かつての思い出が遠く離れてしまったことのメタファーだとか、さまざまに解釈されて謎の多い語だとして議論がある。浦島太郎物語で浦島太郎がおじいさんとなるのは、『芳蘭の体』を若い頃の麗しい身体として解釈してのことであろう。
この説話は、異世界や神異との邂逅と別れを描き、しかも舞台が「えいえんのせかい」である等、あるいは情感や行間、雰囲気や理外の理に至るまでのさまざまな要素から、これを私は所謂『ゼロ年代エロゲ』と呼ばれる類型の祖先ともいうべきものだと感じているが、どうやら浦島子の説話は『リトルバスターズ!』のように全年齢版からエロゲ化された作品のようで、後の平安時代にアレンジされた『続浦島子伝』では、風土記版で仄めかされる程度の淡い描写であった浦島子と亀姫のセックスシーンに詳細な体位にまつわる描写がこれでもかと盛り込まれている。これは内容からして道教の陰陽思想に基づく表現ではあろうが、個人的には『kanon』のまこぴーのエロくらい情感を損なう存在だったので、最初にその部分を読んだ時は高速スキップした。
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み
空 行く、月読壮士 、夕 さらず、目には見れども、寄るよしもなし天空を駆ける
月読命 よ、夜空にも消えることなく姿は目に見えるというのに、近づく手立てはない。(万葉集)
結局、古事記や日本書紀に加えて風土記まで参照したのに、神話における
月読命 は何をした神なのか、よくわからない。重要な存在として明示されているのに、それをつかむことはできない。さすがは夜の世界の支配者といったところか、彼の事跡は闇の中である。古代メソポタミアでは破格の存在である月神も、はるか東方の日本列島では、あんまりな扱いである……と思われるかもしれないが、実は月神シンは人々の信仰と現世の王権の密な関係とは裏腹に、メソポタミア神話においても、ほとんど活躍が見られない。月とは沈黙を象徴するものなのかもしれない。ただし、神の本質は必ずしも神話での活躍にあるのではない。月神シンの祭祀は王権が司り、それが王朝の権威の象徴であった。これは紛れもない事実である。だからこそ、アッカド王朝における月神の地位は盤石なのだ。古事記や日本書紀においても神話の時代の後とされている人間の歴史の時代に、
天照大御神 の祭祀の描写は数多くあらわれる。これは月神シンと同様、日神天照大御神 が王権の祭祀の中心にいたことを示すためだろう。神の実体は神話にばかりあるのではない。神にまつわる文化こそ、検討しなくてはならない。
さて、日本文化において月の存在感がないかと言えば、これは否である。古事記や日本書紀から少し遅れて編纂された万葉集に掲載された月の歌は、なんと200首以上。その中には、今回の記事の冒頭に引用した歌のように、月のことを月読と呼ぶ歌もいくつか存在する。万葉集の歌における月読命 は、若い美男の象徴として歌われることが多い。歌だけではない。日本では古来から月にまつわるおとぎ話も編んできた。その中でも代表的なものとえば有名なものといえば、やはり『竹取物語』である。これは日本に現存する最古の仮名物語とも言われている。
その内容は概ね次の通りである。
竹取物語のヒロインとなるかぐや姫は、竹の中から生まれる。それを見つけた讃岐造という竹取のおじいさんに拾われ、おばあさんとともに育てられると、麗しい美女に成長した。ゆえに縁談は絶えなかったが、かぐや姫はそれらをすべて断る。遂には時の天皇までもが求婚したが、それさえもかぐや姫は拒絶した。そんなかぐや姫は、月夜にひっそりと夜空を眺めて泣くことがあった。それを心配したおじいさんがかぐや姫に問いただすと、実はかぐや姫は月の世界の住人で、前世からの因縁で罰を受け、この地上に落とされたのだという。かぐや姫は、じきに月から迎えられ、そこに帰らねばならないのだと打ち明け、おじいさんやおばあさんと過ごした日々を想ってまた涙を流した。
さて、ここでかぐや姫は、月の世界の住人の特徴について語っている。誰もが見目麗しい美男美女で、歳を取ることがないのだ、と。悩みも持たず、まさに俗世に穢れた地上世界とは隔絶した理想の世界の住人である。
かぐや姫は、そのような美しい世界であってもおじいさんとの生活を惜しみ、帰りたくないと言う。竹取のおじいさんは、なんとしてでも月人にかぐや姫をわたしてなるものかと発奮し、天皇の軍隊を呼び寄せ、自らも武装し、月人の迎えを追い返してやろうと画策する。ところが、天空を駆ける牛車に乗った月人が現れると、天皇の軍勢も竹取の翁もあっけにとられて戦いにすらならなかった。矢を飛ばす者がいても、明後日の方向に飛んでしまう。
ここで月人の王はおじいさんの名を呼びながら、その方をにらみつけ、このように言った。
「お前だよ、クソガキ(汝、幼き人)。ちょっとは善行があったということで、お前のためにと思い、少しの間(かた時)ということでかぐや姫を地上に降ろしてやったというのに、ずいぶんの時間とずいぶんの黄金をよこされたと、すっかり別人のようになってしまったな。」
そこで竹取のおじいさんは、「かぐや姫を養ってからもう二十年が経ちます。それを『少し間(かた時)』などとおっしゃられては、もうわけがわかりません。」と言い、月人の言うかぐや姫とは別人だと主張した。
その後、結局かぐや姫は月人に迎えられることになり、月の羽衣を着せられて帰ることになる。羽衣は人を悩みから解き放つ力があり、かぐや姫もこれを身にまとえば、すっかりおじいさんとおばあさんとの未練を断ち切ってしまうことになる。だから、かぐや姫は感傷を残しているうちにということで、羽衣を着る前に、おじいさんとおばあさんには一首の歌を贈り、天皇には不老不死の仙薬を贈った。こうして羽衣を着たかぐや姫は月に帰った。
後日、おじいさんとおばあさんは心労に倒れ、かぐや姫の歌を聞いても心は癒されることなく病に伏した。天皇はかぐや姫のない現世に未練はないとして、不老不死の仙薬を富士山の火口に捨て去った。
これが竹取物語のあらましである。
さて、
月読命 について考察するからには、まずは月に注目してみよう。ここで月人の特徴として挙げられるのは、まず不老である。しかも不老不死の仙薬を有している。山背国風土記において月読命 が山背国で寄りついたとする桂の木は、枝を切ってもすぐ生えることから、不老長寿の象徴とされる。わずかばかりであるが、ここに月読命 の逸話との符合が発見できる。もうひとつは美男美女しかいないということである。これが万葉集における
月読命 が若い美男子の象徴として描かれることとの関連性を想起するのは、少し考えすぎだろうか。竹取物語に描かれる月人の姿には、月読命 の影が感じられる。しかし、それよりも注目したい点は、月人の時間感覚が地上の人とは違うことである。月人の王が20年という歳月を「かた時」と呼んだことを、おじいさんは訝しがった。これが月人の不老という性質に由来しているのかはわからないが、おそらく月の世界とは、地上の人から見れば、茫漠な時間を有する世界、月の世界とは、永遠の世界なのかもしれない。時間という要素も、暦と時間を司る月神のイメージを喚起させる。
さて、ここで「月の世界」から「月」という概念を敢えて引き離してみよう。数十年の歳月を「かた時」と呼ぶような永遠の世界。このような世界は他のおとぎ話にも登場しなかっただろうか。そう、浦島太郎である。それは古来から日本で語り継がれてきた物語。数十年をも「かた時」としてしまうような永遠の世界の物語。浦島太郎は海中深くの竜宮城に行き、そこで三百年の時を過ごしたことにも気づかなかったキャラクターだ。実は竹取物語以上に、この浦島太郎の物語こそが
月読命 の正体をつきとめるためのキーとなる。
はるか海の中の竜宮城と、はるか天上の月。相反するようなふたつであるが、実は強いつながりが存在している。海には満潮と干潮がある。これは月の引力が引き起こす現象なのだ。月の軌道上で変化する地球との距離によって、潮の満ち引きは引き起こされる。古代の人が引力について知っていたかはともかく、月の動きと潮の満ち引きとに関係があることは、日本をはじめ海に囲まれた地域の人々は知っていた。月は海を支配する存在だとも考えうるわけである。
ここで海の支配者ともされる
素戔嗚命 と月読命 のエピソードが古事記と日本書紀とで入れ替わっていることについても思いを巡らせることができるが、それは後に触れよう。浦島太郎は、ただのおとぎ話ではない。歴史上の人物のモデルが存在している。その名を
浦嶋子 といい、日本書紀や風土記、更には万葉集にも登場する。そして、浦島太郎の物語自体も、丹後国風土記に記された浦嶋子 の伝承をアレンジしたものである。丹後国風土記での
浦嶋子 は海を渡って「とある国」に渡り、そこで浦島太郎と同様、その国の姫と結婚し、かた時の幸福な暮らしを営んでいたが、望郷の念に駆られて姫と別れて帰郷した。姫は、決して開けてはならないと言いつけて、浦嶋子 に玉匣を渡す。ところが、浦嶋子 の帰った故郷は、「とある国」に行く前とは様変わりし、知っている人は誰もいなくなっていた。村の人に話を聞くと、なんと三百年以上の時が経っていた……とまあ、話の筋は童話の浦島太郎と概ね同じである。ただし、
浦嶋子 が三百年の月日を過ごした「とある国」とは、竜宮城とはされていない。『神仙の堺』『蓬山』等のいくつかの呼び名があるが、その中のひとつとして『常世』という呼び方が記されている。常世――つまり永遠の世界。
月の世界も竜宮城も古事記や日本書紀には存在しないが、『常世』あるいは『常世の国』という名は他にも幾度となく登場する。古事記や日本書紀では、十一代垂仁天皇が家臣の
田道間守 に、常世の国に渡って不老不死の効用があると噂される妙薬を取ってくるように命じたと記されている。また、日本書紀の記述では、浦嶋子 が海を渡った先には、不老不死の仙人がいたと記されている。浦嶋子 が渡った常世の国の様々な要素は、あまりに月の世界の特徴と似通いすぎている。こうして竹取物語の月の世界と浦島太郎の物語はひとつにつながる。
そして、ここで遂に本シリーズの主人公月読命 の名が明確に登場する伝承につながってくる。古事記や日本書紀、風土記の神話には一切記されていないが、実は月読命 と浦嶋子 には決定的な繋がりが存在する。浦嶋子 の故郷にあり、彼を祭神として祀る兵庫県与謝郡の浦島神社 には、なんと浦嶋子 が月読命 の子孫だという伝承が遺されているのだ。日本各地の神社には、このように古事記や日本書紀から漏れた伝承が数多く存在している。
次回は浦嶋子について、もう少し掘り下げてみよう。 -
古事記の神話には、月読命 の事跡がほぼ記されていない。つまり、日本神話における最も正統な神話のひとつにおいて、ほぼ完全に無視された存在だということになる。では、もう一方の日本書紀の神代紀ではどうか。こちらには、僅かながらも
月読命 の行いが記されている。ところが、その内容は古事記における須佐之男命 のエピソードとほとんど同じものなのである。古事記では、天界を追放されて地上の新羅の国に落された
須佐之男命 は空腹に耐えかね、現地の大気都比売神 という穀物神に食べ物をねだる。そこで大気都比売神 は自らの尻などから穀物を排出して須佐之男命 にごちそうをふるまおうとした。これを侮辱だと感じた須佐之男命 は怒り狂い、その場で大気都比売神 を斬り殺してしまう。これは農作の肥料に糞尿を用いる慣習を持つ民族と持たないそれとの文化的な衝突の戯画化したものだという説や、あるいは農耕の実態を知らなかった追放貴族と農民との間において起こった事件を描いたものだとする説がある。とはいえ、これが何を表現したものかの考察は置いておこう。
古事記では、その後に
須佐之男命 は日本列島に渡って出雲の王となったわけであるが、このエピソードは日本書紀では端折られ、天界を追されて放からすぐに出雲に向かっている。そして、なぜか月読命 のエピソードとして似た話が挿入されているのだ。日本書紀では、このように記される。神話の時代、
天照大御神 から命じられて地上にいる保食神 を訪問する月読命 であったが、そこで保食神 は口や尻などから食べ物を出して月読命 をもてなそうとした。そこで先の須佐之男命 と同様に月読命 は怒り狂って、保食神 を斬り殺した。こうして月読命 は天照大御神 の怒りを買い、二度と会いたくないと絶縁を宣言されたことから、昼と夜とが分かれたという神話である。なぜ
須佐之男命 のエピソードが月読命 のものになっているのか。その検討は後にするとして、ここで言えることはひとつ、月読命 のオリジナルのエピソードは、古事記と日本書紀の神話に、ほぼ存在しないということだ。ところで、古事記と日本書紀は、時にプロパガンダの書と評価される。ヤマト朝廷が自らの権威を正当化するために歴史を造作した書である、と。これはある程度その通りであろう。とはいえ、他に体系的な書物がこれ以前に現存していないのだ。当時の史料であるというだけで、大きな価値がある。
ただし、古事記と日本書紀に非常に近い時期に編纂された書物が他にも存在する。それが『風土記』である。こちらは王朝の勅命によって各地の伝承を集めたものであり、日本における各国の名を冠する書籍が別々に刊行されている。王朝の目を免れたとは言えないが、それでも古事記や日本書紀には記載されていないエピソードや、中にはまったく矛盾する内容も含まれており、非常に重要な史料である。
たとえば、
天日槍 という神は、古事記や日本書紀では新羅の王子として登場するが、一般人に無実の罪をかけて宝玉を恐喝し、その宝玉から生まれた女神と結婚するものの、その女神にドメスティックバイオレンスを行なって日本列島まで逃げられ、それを追いかけて日本列島に渡り、結局その女神を引き戻すことができずに日本に留まったというナサケナイ小悪党のように描かれる。ところが播磨国の伝承を記した播磨国風土記では、一万人近い軍勢を率いて朝鮮半島から渡来し、大国主 を圧倒して領土を割譲させる強大な神として描かれている。しかも、渡来した当初に大国主 から海上での待機を命じられた際は、自らの剣で海をかき混ぜ、そこを島にして滞留したという。その場所は、伊邪那岐尊 が最初に日本を創造した淡路島に程近い。このようなエピソードは古事記や日本書紀にはまったく描かれていない。このエピソードからは、
天日槍 は実は朝鮮から軍勢を率いて渡来し、当時の日本では珍しかった鉄の剣や槍で武装した侵略者だったのではないか? もしや伊邪那岐尊 の正体は天日槍 だったのではないか? といった想像を掻き立てられる。古事記や日本書紀にない神々の姿が、そこには描かれているのだ。
このように重大な手がかりとなりうる『風土記』のうち、なんと『出雲国風土記』と『山背国風土記』のふたつには、月読命 が登場するのだ。早速そちらを確認してみよう。まず出雲国風土記では、
都久豆美命 という名で月読命 が登場する。ところが、ここでも「
都久豆美命 は、伊差奈枳命 の子であり、千酌 (島根県の千酌浦)で生まれ、かつてはその地が都久豆美 と呼ばれていた」という地名の由来の記録のみで、何をしたかはまったく描かれていない。伊差奈枳命 とは、古事記や日本書紀に記される伊邪那岐命 のことだと思われるので、これも新たな情報というわけではない。出身地が記されていることはひとつの貴重な情報ではあるが、そもそも自身の行動がわからない月読命 の出身地だけがわかっても、それだけではどのような神であるかを探ることはできない。ちなみに、古事記と日本書紀の月読命 は、淡路島か九州で生れている。もうひとつ『山背国風土記』にも
月読命 は登場する。天照大御神の命を受けた月読命 が、地上に降りて保食神 を訪れた。その途中、この地に湯津桂の樹が生えていたので、それを自らの形代として寄り付くことにした。こうして、その地の名は桂の里となったのだという。前半部の経緯は、ほぼ日本書紀と同じであるが、後半にオリジナルのエピソードが存在する。これまでと比較すれば、月読命 の明確な行動の記録ではあるものの、これだけ読んで何かわかるような逸話ではない。このように、風土記を参照しても、古事記や日本書紀の記述にちょっとばかりの色をつける程度のものであり、やはり
月読命 の人物像はわからず、かえって影の薄さが示されるばかりの、なんとも寂しい結果である。一応、
保食神 との関係は、必ずしも古事記の須佐之男命 のエピソードから日本書紀にコピーしただけの内容ではないと推測できることや、出身地の記録などは、考察する上で材料になるかもしれない。断片的な寂しい情報でしかないわけだけれども……このように、古事記以外の当時の文献の中にも、月読命 の記録は、あまりに少ないのだ。なぜ、ここまで
月読命 の影は薄いのか。月神は日神と対を為す存在のはずである。それなのに、神話の二大主人公が日神の天照大御神 と地上あるいは海の神とされる須佐之男命 だけが対を為す存在として描かれている。こうなってくると、かえって不思議なのは、この両者と肩を並べる月読命 は、何もしていないのに確かに存在はしていることだ。存在する。それも巨大な存在として。それならば、何の痕跡も残っていないことがあるだろうか。確かに古事記や日本書紀、風土記といったヤマト王朝欽定の史書にはほとんど記録がないかもしれない。しかし、世界は広い。小さな王朝に整えられた史料だけが材料ではないはずである。もっと視野を大きくして、各地の神社などの古伝、発掘された遺跡や物品などの史料、古くから存在するおとぎ話、更には海外の史書。こうしたものからヒントを得ることはできるのではないか。
もちろん、神社などの古伝は、古事記や日本書紀ほど体系的ではないし、遺跡や物品は言うに及ばず、おとぎ話に至っては最初からフィクションである。海外の史書は日本の神のこと記すことが目的で編纂されたものではない。しかしながら、それらの断片を継ぎ合わせ、重ね合わせれば、
月読命 の姿を描き出すことができるかもしれない。そして何より重要なのは、妄想である。
たとえば、
月読命 という名だけをじっと見つめていても、妄想は浮かび上がってくる。「月を読む」つまり、月から読み取るということだ。何を? 暦を、である。暦とは何か。時間である。古代メソポタミア文明の人々も、古代シュメル人が月を読むことによって暦を定め、だからこそ月神ナンナやシンは、時をつかさどる神であった。ということは、月読命 の正体は月神シン――なーんてことをいきなり言いだすつもりはない。しかし、古代都市ウルで灌漑を用いた農耕を始めたのは、紀元前2000年より前のことである。人類最古の文明ともいわれるウルの農耕や暦の技術が、信仰とともに徐々に東に進み、形を変えつつ日本に行きついた……なーんてこともあるかもしれない。これから長らくかけて私が描こうとするのは、様々な資料から断片的な情報をかき集め、あたかも天上の星々から星座を描き出すように妄想によってつなぎ合わせ、埋め合わせ、その末に現れた常世の国の王としての
月読命 である。もちろん、私とてできるだけ資料等に基づいて行間を埋めていくつもりである。とはいえ、ここは学術研究の発表の場でもなんでもない。ここには何ら私の妄想を縛るものはないのだ。珍説、奇説、ご容赦を。 -
日本神話においても月の神は存在する。その名は月読命 。昼の世界、夜の世界、地上世界の三つの世界を統括する貴い神として、昼の世界を司る天照大御神 と地上世界を司る須佐之男命 と共に日本列島を創造した伊邪那岐命 の子として生まれ、『三貴子』と称された。そのことは、現存する日本最古の歴史書とされる古事記と日本書紀の両方に記されたことである。古事記と日本書紀は、最初に神代と呼ばれる神話の時代から物語が始まる。それから神々と人間の交雑する神武天皇の物語を経て、欠史八代という空白期間の後、十代崇神天皇の時代となってから、人間を主とした歴史に舞台が遷るのだ。これらの書物の特徴は、神話と歴史が連続していることである。
古事記と日本書紀は、最初に神代と呼ばれる神話の時代から物語が始まる。それから神々と人間の交雑する神武天皇の物語を経て、欠史八代という空白期間の後、十代崇神天皇の時代となってから、人間を主とした歴史に舞台が遷るのだ。これらの書物の特徴は、神話と歴史が連続していることである。
では、古事記の神話では、この三者がどのように描かれているのだろうか。
まず、
須佐之男命 は天界で暴虐の限りを尽くし、一度は天照大御神 を天の岩戸と呼ばれる洞窟の中に押し込んでしまう。こうして天界から追放された後、須佐之男命 は怪物の生贄にされようとしている一人の少女を救うため、その怪物と戦って勝利し、出雲の王となる。須佐之男命 は、一種のダーティー・ヒーローとして神話の時代の前半における主人公として活躍し、その子孫の大国主 も須佐之男命 を継ぐ神話の主人公として日本全土を統治した最初の王として描かれる。これに対して、
天照大御神 はどうか。天界の神々の手によって岩戸から復活した天照大御神 は、天界の軍勢を地上に差し向け、大国主 に対して日本列島を譲るように迫り、自らの孫の瓊瓊杵尊 を日本列島の支配者に据える。この瓊瓊杵尊 こそ、大国主 の次の日本神話の主人公となり、その子孫が後の天皇であったと描かれ、そこから日本は神話の時代を終え、人間の歴史の時代に遷る。つまり、
天照大御神 と須佐之男命 は、日本における神々の時代の二大主人公の系譜なのである。この両者の対立と融合の関係こそが、古事記における神話のキモとなる。では、古事記の神話において、
月読命 はどのように描かれているのか。なんと、誕生時以外には一切登場しない。
須佐之男命 と天照大御神 という二大主人公の兄弟でありながら、活躍が見られないどころか、何のエピソードもないのである。これはどういうことだろうか。次回は、古事記の神話時代における
月読命 の記録について改めて検討しよう。