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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

月読は常世の国の王となる⑤ 月の系譜

 浦島子は月読の子孫である――。斯様な伝承が浦嶋神社には残されている。さっそく、その伝承について確認しよう。以下は、浦嶋神社のホームページに掲載された社伝の内容を箇条書きに改めたものである。実際の文章は、ホームページ本文を参照されたい。

 

1.浦嶋神社は宇良神社ともよばれ、醍醐天皇の延長5年(927)「延喜式神名帳」所載によると『宇良神社(うらのかむやしろ)』と記されている式内社である。

2.淳和天皇の天長2年(825)に創祀され、浦嶋子(うらしまこ)を筒川大明神として祀る。

3.浦嶋子(うらしまこ)の大祖は月讀命の子孫で当地の領主、日下部首(くさかべのおびと)等の先祖であると伝わる。

4.浦嶋子は雄略天皇22年(478)7月7日美婦に誘われ常世の国へ行き、三百有余年(347年間)ほど滞在した後に淳和天皇の天長2年(825)に帰ってきた。

5.淳和天皇はその話を聞いて浦嶋子を筒川大明神と名付け、小野妹子の子孫である小野篁(おののたかむら、802~853)を勅旨として派遣し社殿が造営された。

6.遷宮の際には神事能が催され、そのつど領主の格別の保護が見られた。

7.暦応二年(1339)には征夷大将軍 足利尊氏が来社し幣帛、神馬、神酒を奉納するなど、古代より当地域一帯に留まらず広域に渡り崇敬を集めている。

8.浦嶋子の子孫の日下部氏は、『新撰姓氏録』「弘仁6年(815)」の和泉皇別の条に「日下部宿禰同祖、彦座命之後也」とみえる。

9.彦座命は第9代開化天皇(紀元前157~98)の子、従って日下部首は開化天皇の後裔氏族で、その大祖は月讀命(浦嶋神社の相殿神)の子孫で当地の領主である。

 さて、このうち下線を引いた3項と9項にご注目いただきたい。確かに浦島子が月読命(つくよみのみこと)の子孫とされている。ただし、実は情報と言えるのはこれくらいで、月読命のエピソードとして、なにか残されているわけではない。どこまでも影の薄い神である。

3.その大祖は月讀命の子孫で当地の領主、日下部首(くさかべのおびと)等の先祖であると伝わる。

8.浦嶋子の子孫の日下部氏は、『新撰姓氏録』「弘仁6年(815)」の和泉皇別の条に「日下部宿禰同祖、彦座命之後也(日下部の宿禰と祖は同じ。彦座命の後裔)」とみえる。

9.彦座命は第9代開化天皇(紀元前157~98)の子、従って日下部首は開化天皇の後裔氏族で、その大祖は月讀命(浦嶋神社の相殿神)の子孫で当地の領主である。

 ちなみに、第9項には、「彦座命は第9代開化天皇(紀元前157~98)の子、従って日下部首は開化天皇の後裔氏族で、その大祖は月讀命(浦嶋神社の相殿神)の子孫で当地の領主である。」とあるのだから、前段を受けて導き出された推定ということであろう。なので、その項については、関連すると思われる第3項と第8項も一緒に確認してもらいたい。

 つまり、①浦島子は日下部首(くさかべのおびと)の先祖だという伝承がある。②新撰姓氏録には日下部首(くさかべのおびと)の祖先は彦座命だとされている。③よって、彦座命は日下部首(くさかべのおびと)の祖先であり、同時に月読命はその大祖である……ということになる。

 神社も宗教施設であるから、言うまでもなく様々な日本の古典を長年かけて施設として研究しているはずである。神社の伝承と古典を突き合わせて考察するのも、神社の仕事ということだ。言うまでもなく、私みたいな宗教思想オタクのニワカ素人(しかも興味の主が日本神話ですらないという……)とは、単純な古典の知識においても雲泥の差であり、さすがに比較をするのが失礼なレベルである。なので、こうした宗教施設の社伝というのは、私のような浅学非才の身とっては、独特の伝承以外にも古典のまとめ情報として非常にありがたい。

 さて、ここには他にも関連する人物や氏族が挙げられている。彦座命(ひこざのみこと)と第9代開化天皇、そして日下部首(くさかべのおびと)である。

 ここでは彦座命(ひこざのみこと)は9代開化天皇の息子とされているから、古事記や日本書紀に登場する10代崇神天皇の腹違いの兄の彦坐王(ひこざのきみ)、別名・日子坐王(ひこざのきみ)であろう。この人物については後に触れることになると思う。ひとつ言えることは、浦島子は日子坐王(ひこざのきみ)という皇族ともつながりのある可能性があるということである。

 少しずつ具体的な情報が集まってきた!

 ちなみに、浦島子が日下部首(くさかべのおびと)の祖先だという話は、風土記の浦島子の説話にも掲載されている。というより、浦嶋神社の社伝がこの説話に基づいて記されたものなのかもしれない。私が訳した丹後風土記を引用しよう。

 与謝郡の日置里。この里に筒川村がある。ここに住んでいた人夫こそ、日下部首等の先祖である。名は筒川島子という。その容姿はたいへん美しく、他にないほど風流であった。だから彼は水江浦島子と呼ばれるのだ。これはかつての宰であった伊預部馬養連の記録と相違がないので、あらましだけを述べることにしよう。

 さて、他にも社伝には興味深い記録が数多くある。

 

1.浦嶋神社は宇良神社ともよばれ、醍醐天皇の延長5年(927)「延喜式神名帳」所載によると『宇良神社(うらのかむやしろ)』と記されている式内社である。

 たとえば、これ。

 浦嶋神社の別名は宇良神社とのことで、二つの呼称を並列して紹介しているが、後の記述を見るに、宇良神社という呼称の方が先に存在した正式なものだったのだと思われる。というのも、『浦島子』は『浦』が名字で『島子』が名前なので、『ウラシマ神社』という名称には違和感がある。『ウラ神社』の方が適切ではないだろうか。とはいえ、実は浦嶋子には、名が子であるという説も古来から存在している。

 ちなみに私は『宇良(うら)』という名に思うところがある。この人、もしかして桃太郎に退治された人なんじゃないか? 浦島太郎vs桃太郎という夢の戦いが繰り広げられていた可能性にはロマンを感じるし、これは後に触れるかもしれない。

 

4.浦嶋子は雄略天皇22年(478)7月7日美婦に誘われ常世の国へ行き、三百有余年(347年間)ほど滞在した後に淳和天皇の天長2年(825)に帰ってきた。

5.淳和天皇はその話を聞いて浦嶋子を筒川大明神と名付け、小野妹子の子孫である小野篁(おののたかむら、802~853)を勅旨として派遣し社殿が造営された。

6.遷宮の際には神事能が催され、そのつど領主の格別の保護が見られた。

 他にも、たとえば社伝には、このように具体的な浦島子の帰国年次が記され、その時に何が起こったか、史的な浦島子の事跡が記されているのだ。これも非常に重大な情報であるが、この検討も先に取っておこう。これはかなりいろんなものが非ッ常に『危うくなる』情報なので、実は私も取扱いにハラハラしている。


 さて、今回はここまで。次回は浦島子が月読命の子孫であるという記録を前提にして、ふたたび浦島子の説話を検討し、可能であれば日本列島を飛び出して月読の考察を展開しよう。日本神話の話だからといって、話を日本にとどめる必要はどこにもない。世界は広いのだ。

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