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5日前の更新。ジャータカに続いて仏典の翻訳である。いま私は仏教にハマっている。それにしても漢訳仏典の翻訳は仏語の翻訳になれるのが愉しくも困難であった。文内で二字熟語の仏語を一字に略してたりするから、仏教の知識が全然ない私には難しい。訳して妙だなーと思ってから文章の構造を確認し、対応する二文から対照される一字を抜き出し、その一字を用いる二字熟語の仏語を検索し、もう一方の字を余剰の一字にも当てはめて仏語になるかを探す……みたいな作業を勘でやっている。我ながら訳した後で「こんなのよく訳せたな……」と思ったりする。私って結構すごいのかもしれない……とか思っちゃったりする。
あとまあ、浄土の描写の女性差別っぷりに「うっ」となる。わかっていたことだけどさあ……。やっぱこういうのは読むのキツい……。
さて、元曉は新羅の仏僧。日本では一般に有名ではないので、誰? と思うかもしれないけど、まったくとんでもない話である。この人物について追いかける過程で、私は自らの不明を恥じるとともに、特に日本において、この人物がこれほどまでに無名である現状が、どれほど甚だしい蒙昧かと私は自己嫌悪を含めて呆れること頻りであった。
どれくらいすごい人物かと言えば、この人物がいなければ間違いなく大半の日本の仏教宗派は成立しなかった。それどころか、彼がいなければ現在に至るような大乗仏教は存在していないかもしれない。
これは誇張ではない。それくらい本当にすごい大人物である。日本への仏教の影響と言うと、中学校の教科書には、唐で流行した仏教が日本に輸入されたとか百済から仏教が公伝されたとか、そのあたりのことは記されているけれども、新羅の仏教の影響については終ぞ聞くことがない。しかし、これはもう恥だと思った方がよい。そういえば昔ネトウヨが「朝鮮の仏教は大乗仏教でも小乗仏教でもなく便乗仏教w」とかくだらねーギャグを言っていたことがあったけど恥知らずもいいとこである。こんな言い草をしていいのならば、はっきり言って日本の仏教諸宗派こそ元暁の「便乗仏教」と言われてしまうだろう。マジで恥ずかしいからやめろ。
とまあ、こんなこと言っても何が何だかさっぱりだと思うので、具体的な話をしてみよう。まず、この元暁の特徴のひとつは、破戒僧である点だ。仏教には厳しい戒律がある。肉食をしてはならない。妻帯をしてはならない。酒を飲んではならない……といったことが仏教の僧侶には求められる。しかし、元暁はこれらすべての戒律を破った。これはいったいどういうことであろうか。
この時点で察しのいい人はピンときただろうが話を続けよう。先ほどの破戒僧であることにも繋がるのであるが、元暁にはもうひとつの際立った特徴であり功績がある。それは仏教の大衆化運動の代表者だった点である。当然ながら世俗に生きる人は、仏教の厳しい戒律など守っていられるものではない。そして広い範囲の人々に教えを普及させるには、わかりやすい教えが必要になる。また、当時の朝鮮新羅は中世どころか古代である。海の向こうの列島の国は「日本」という国号も「天皇」という王号も用いていなかった、それほど古い時代である。そんな時代のことであるから字を読める人は待場にほとんどいなかった。そんな中で元暁がどうやって大衆に仏教を広めたかと言えば、まず大衆と同じように生活をすることで、大衆と心をひとつにしようとした。仏僧にあるまじき肉食飲酒の破戒行為も、その一環であった。そして、次にこのようなことを説いた。
世俗で生きれば戒律を守るのは難しい。しかし一心に南無阿弥陀仏と唱えれば、一切の衆生の救済を誓った阿弥陀仏様の妙力によって浄土に生まれ変わることができる。浄土は世俗と違って破戒をしようという心の起こらない清らかに地である。だから阿弥陀仏を信じ、一心に南無阿弥陀仏と唱えれば、仏僧でなくとも誰でも成仏することができるのだ。
こうした思想を象徴するかのように、上記『遊心安楽道』には次のような言葉が残されている。
「浄土宗の本意とは、元来は凡夫の為のものであって、聖人の為になるのはついでのことでしかない(浄土宗意 本為凡夫 兼為聖人)」
そう、まさに日本浄土宗の法然が唱え、そして浄土真宗の親鸞によって発展したとされる『悪人正機説』の思想がここに見えるのである。というか、法然自身が著書の選択集に次のようなことを述べている。
「浄土宗の名その証一に非ず。元暁の『遊心安楽道』に云く、浄土宗の意は本、凡夫の為にし兼ねて聖人の為にす」(聖典三・九九/昭法全三一一)
法然自身が元暁のこのフレーズを引用し、自らの教旨を説明しているのだ。それを継承したのが親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という日本で有名なフレーズである。かくして親鸞は自ら肉食妻帯飲酒をし、大衆仏教を広めることで今もって日本最大の仏教宗派となったわけである。
厳密に言えば、実は元暁の浄土の説と法然・親鸞のそれには差異が見いだせる。故に法然や親鸞の思想にもオリジナリティはあるし、むしろ元暁の思想を更に発展させたものだと考えてよいだろう。いずれにせよ元暁という先駆者から影響を受けていることは何ら彼らの価値を毀損するものではない。それにこれらの元暁のアイデアも、唐の浄土宗に多大な影響を受けて形成されたものである。ただし、少なくとも元暁の思想は日本の浄土宗・浄土真宗の極めて深いところに霊感を与えた存在であるし、肉食妻帯等の意図的な破戒や悪人正機説の字面のみをもってして、日本の仏教宗派に他の国にはないオリジナリティが存在すると主張することは、控えた方がよさそうである。
さて、いきなり浄土宗・浄土真宗という日本仏教宗派の最大派閥を陥落(?)させてしまった元暁であるが、彼の特徴はそれだけではない。元暁は既に述べた通り、仏教大衆化の先駆者として朝鮮の仏教界を牽引した人物である。よりわかりやすく、広く親しまれる形で仏教の教えを広め、そのためには自身の破戒さえも厭わなかった。そんな彼がとった大衆教化の方法、それは歌と踊りである。
さて、皆さんお分かりだろう。元暁は踊念仏の先駆者でもあった。
踊念仏といえば、日本では法然・親鸞と同じく鎌倉新仏教の特徴的宗派である時宗が真っ先に思い浮かべられるはずである。開祖の一遍は日本全国を踊り歩き、踊りと歌によって仏法を広めた。また、踊念仏自体は一遍に先駆けて
市聖 こと空也が歌念仏とともにおこなったものであり、一遍は彼をリスペクトして踊念仏をおこなった。空也は平安時代に仏教の大衆化運動を始めたということで、鎌倉新仏教の諸宗派の先駆的存在であったといえるが、その更に先駆者が元暁だったというわけである。
鎌倉新仏教のうち浄土宗・浄土真宗に続いて時宗という、これまた日本の独自性が強烈だといわれてきた仏教が実は元暁の影響下にあることを証明し、更には新仏教以前の仏教大衆化の先駆者である空也までもを陥落(?)させてしまったわけである。もちろん、これで空也や一遍の価値は毫も減じるものではない。ただし、やはり歌念仏や踊念仏を日本のオリジナルと持ち上げる前に、元暁のことを少し思い出してもよいのではないかと思う。
さて、個性豊かに思われた鎌倉新仏教の諸宗派であるが(実際、個性豊かなのは間違いない)その多様な諸宗派の先駆者をたったひとりでやってのけているのが元暁なのである。「仏教の大衆化」においてできることは概ねやったのだろう。
それにしても、これほどまでに諸宗派に影響を与えた偉大なる元暁であるが、ここまでくると逆に新たな疑問が起こらないだろうか。
そもそも、この人って何宗の人なんだろうか?
さて、それを解き明かしてゆく過程で更なる元暁の偉大さを知ることになるわけであるが、今回はこのあたりでお開き。次回に続く。
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言うまでもなく仏教は邪教だし、私はよく「仏教 邪教」でネット検索をかけているのだけど、たいてい「葬式仏教は邪教だ」といった発言ばかりがヒットする。曰く、「ブッダは葬儀を否定した」だの「日本仏教は歪められた邪教」だの……仏教なんて歪もうが歪むまいが邪教である。曲がろうがひねろうが、とぐろを巻こうがクソはクソだろう。
もちろん、私は邪教など知ったこっちゃないので、仏教には詳しくない。ゆえに、その「正しい仏教」なるものが本当に正しいかどうかなど、それ自体は判断しかねる。「葬式仏教」と呼ばれている宗派の側からも、仏教が葬式を挙げることの正当性を仏典などを用いて主張していたりする。私にはなにも判断できない。
しかし、それらを傍観していて思う。どうしてそんなに皆さん仏教原理主義者になりたがるのだろうね、ホント。「本来の仏教」「真の仏教」なんて、よほど信心深くないと気にならないものだと思うのだけど。君たち、そんなに信心深いの? なんでそんなに葬式を否定して『真の仏教』なるものを志すのか。本気で志しているのか。
葬式のない仏教というものを想像してみよう。勝手にハゲども集まって、断食をしたり、坐禅を組んだりしているだけなのに、なぜか偉そうにふんぞり返り、挙句の果てに、食肉業者を指してはケガレだ、ケガレだと差別し、女性を指してはケガレだ、ケガレだ、と蔑視する。おおよそ、想像する限り最悪の存在でしかない。断食だの坐禅だの、そんなの他人からしたらただの趣味だろ……。勝手にやってろ。それと差別やめろ。
葬式仏教は葬式をするだけ、まだちゃんと仕事をしている。葬儀は社会的に重大な儀礼である。それをしなくなったら、仏教などただの断食クソ差別ハゲの集まりじゃないか。どうしてあの差別主義者の断食クソハゲどもが、葬式をしなくなったらまともな存在として受け入れられるのか。むしろ、今どき葬式やっている宗派の方が差別しなくなってきている、少なくとも、その宗派に所属する坊主が差別発言をしたら問題になる程度にはなっているだろ? まだマシじゃん。
そういうところの坊主は、酒を飲んでる人も逆に多いし、それが仏教に反しているというバッシングも葬式仏教バッシングとセットで出てくるけど、そんなもん勝手に飲ませてろ。葬式ハゲが酒飲んでいようと飲んでいまいと、お前に何の関係があるんだ。お前らはいつから仏教原理主義者になったの? 世界のすべての人々に対して、仏教の原理主義化を推し進めるとか、そういう教義がお前の仏教にあるの? ああいうバッシングをしている連中に、どこまで宗教的信念があるのか。
その宗教を本気で信じていないなら、ハゲが何やっていようとどうでもいいはずである。断食も坐禅も飲酒も、何でも好きにすればいい。お前はマニ教の司祭がきゅうり食べているかどうかをいちいち気にするか? ヒンドゥー教の司祭が牛をバクバク食べていても、「そんなことしていいの!?」とは思うけど、そこまでだろ。
葬式仏教批判がカジュアルに流行した理由はわかるんだよ。そりゃ寺の僧侶に対しては「坊主丸儲け」ってイメージがあるし、実際葬儀代は高い。坊主なんてそんな立派な人ばかりでないのはわかりきっているし、オマケに今どき輪廻転生だのといった宗教を本気で信じる気にならないという気持ちもわかる。
しかし、それなら「葬儀でそんな金をとるな!」「葬儀代が高すぎる!」とだけ言っていればいいと思うし、仏教が信じられないなら「宗教を押し付けるな!」とか言ってればいいだろう。なんでそこで、「真の仏教とはッ」「原始仏典にはこのように書かれておるッ」とか、原理主義者にいきなり転じるのか。結局、自分の感情や要求をそのまま表に出して闘うほどの知恵も勇気もないから、原始仏教の権威の笠を着て、あたかも自分にこそ正統性があるかのように粉飾するんだろうね。本当に小市民根性としか言いようがない。プチブルどもが。昨日まで「宗教なんてインチキ」と言っていた連中が、葬式仏教バッシングとなれば突然宗教原理主義になるんだから、めちゃくちゃである。やはり階級の存在を隠蔽する仏教は邪教である。
「葬式仏教、是か非か!」と仏教の教義から検討する言説はよく見るけど、どっちかっていうと、「葬式仏教批判がなぜ流行しているのか」と「葬式仏教批判をすることで、その延長線上に何があるか」という話を大事にしたいと思う。だって、お前ら仏教とかどうでもいいと思っているだろ、正直……。いつの間にか、そういう連中が「我こそは真の仏教!」みたいな連中に踊らされて、よくわからん宗派を持ち上げるようになってたりするし、「仏教は科学です!」とか宣伝している連中にはコロッといってるじゃん。仏教が科学なら、科学だけでいいだろ。「仏教の瞑想に医学的な効果があると科学的に証明された」と「仏教は科学」はまったく違うし、「仏教は科学」なんて仏教は科学に敗北したと宣言するに等しい。アホなの?
こういう視点の分析は、難しい専門知識がなくても世間を知っていればできることなのに、なんでみんな玄人もどきになろうとするのかね?