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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

史記孔子世家を読む④
≪漢文≫
 是時也、晉平公淫、六卿擅權、東伐諸侯、楚靈王兵彊、陵轢中國、齊大而近於魯。魯小弱、附於楚則晉怒、附於晉則楚來伐、不備於齊、齊師侵魯。

≪書き下し文≫
 是の時なるや、晉の平公は淫らにして六卿は權(はかりごと)を擅(ほしいまま)にし、東に諸(もろもろ)の侯(きみ)を伐ち、楚の靈王の兵(いくさ)は彊(つよ)まり、中國(なかつくに)を陵轢(ふみにじ)り、齊は大(はなはだ)にして魯に近づけり。魯は小さく弱く、楚に附かば則ち晉怒り、晉に附かば則ち楚伐ちに來たり、齊に備へざれば、齊の師(いくさ)魯を侵せり。
≪現代語訳≫
 当時、晉では平公が姦淫にふけって六卿が政権を壟断し、東に向けて諸侯の討伐をしていた。楚では靈王が軍事力を強めて中原の国を陵轢し、齊は領土を拡大しながら魯に近づいていた。魯は弱小国で、楚に附けば晉の怒りを買うし、晉に附けば楚が討伐に来る、齊に備えなくては、齊の軍隊が魯を侵略するありさまであった。


 ここで当時の政情が説明される。孔子の生きた当時は一応、周王朝の時代であるが、孔子から2、300年前の周幽王の代で首都を異民族に蹂躙されて以来、王朝の体裁は遷都して保てたものの、その権威は地に落ちて従属国も周に従わなくなってしまったという。実質的に、周はここで一度滅んだと見なしてもいいかもしれない。周の本国は、春秋時代以降ほとんど目立った活躍をしない。代わって台頭したのが周の従属国として一地方を治める任を負っていたはずの公国たちである。これが乱世の始まりであった。

 当時の晋は中原の公国における最大勢力の国家で、周の保護国を名乗ってはいるが、実態は支配、しかも国内では上記の通り「六卿」という複数の有力な貴族が対立し、時に国公を無視して武力紛争を起こしていた。

 楚は南方の大国であるが、もともと中原と比べて文明の未発達な蛮国とみなされ見くびられていた。しかし南方の広大なフロンティアを利用しつつ周辺部族を統一して一躍大国へと躍り出て、周の権威が衰えるに合わせて独立、自ら王を名乗って周王朝の王と対等であることを主張した。(どうでもいいけど、東夷の倭人というハンドルネームの由来のひとつは、この時に楚の君主が王を名乗って言ったという「我は蛮夷なり」というセリフである。)その反骨精神から周の冊封した中原諸国への侵略を開始する。

 斉は周王朝初めの功臣である太公望が立てた国で、晋が大国となる以前から富国強兵の策に成功して周辺国を脅かす存在であった。同時に急進的な国家の膨張から国内にもやはり不安があり、大貴族たちが内乱を起こして幾度となく斉公を死に追いやるような国情であった。

 魯は周王朝の開祖である武王の弟周公旦が開いた国。孔子の祖国であり、儀礼と伝統を重んじる国風で比較的国内は治っていたというが、そのゆえか変革に疎いところが仇となり、晋楚斉のような成長が望めず、衰退期に入って大国に挟まれる国難に至っていた。
≪漢文≫
 魯昭公之二十年、而孔子蓋年三十矣。齊景公與晏嬰來適魯、景公問孔子曰、昔秦穆公國小處辟、其霸何也。對曰、秦、國雖小、其志大。處雖辟、行中正。身舉五羖、爵之大夫、起纍紲之中、與語三日、授之以政。以此取之、雖王可也、其霸小矣。景公說。

≪書き下し文≫
 魯昭公の二十年、而して孔子蓋し年三十ならむ。齊の景公と晏嬰、來たりて魯に適(ゆ)き、景公、孔子に問ひて曰く、昔、秦の穆公、國は小にして處(ところ)は辟(ひな)びたるも、其れ霸たるは何ぞや、と。對へて曰く、秦、國は小と雖も、其の志は大ならむ。處は辟(ひな)びたると雖も、行(おこなひ)は中正たり。身(みづか)ら五羖を舉げ、之れに大夫を爵(あた)へ、纍紲(つみびと)の中より起こし、與に語ること三日、之れに授くるに政を以てす。此れを以て之れを取れり。王と雖も可なるも、其の霸たるは小さきかな、と。景公說べり。

≪現代語訳≫
 魯昭公の二十年、この時の孔子はおそらく三十歳であったはずである。齊の景公と晏嬰が来て魯に適(い)った。景公が孔子に「昔、秦の穆公は国土は小さく場所も僻地であったのに、彼が霸者となったのはなぜだろうか。」と質問したので、「秦の国土は小さいですが、その志は大きく、場所は僻地ではありましたが、行政は中正でした。自分から五羖を挙げ、彼に大夫の爵位を与え、奴隷となった罪人の中から起用し、ともに語ること三日、彼に政権を託したのです。この点からしてもわかることでしょう。王とされてもおかしくないのに、彼が霸とされているのは矮小なことですね。」と答えると景公はよろこんだ。


 さて、ここから徐々に物語が動き始める。魯のライバルである斉の国公が孔子と面会を望んだ。その傍らには当代切っての名宰相として名高い晏嬰も控えている。

 これまでの孔子は低い身分の出自から祖国の高級官僚に成り上がったシンデレラボーイであったが、ここで明確に外国の存在と接触する。言うまでもなく孔子は現在において国際的な評価を受ける人物であるが、生前において国際社会というものに接触したのはこれが初めということになる。本文ではこの時30歳、順調に出世した孔子は、周への留学も果たして弟子を取り、青春を終えて若者に先立つ朱夏に入る歳ということが示されているのだろうか

 ここで斉公は、孔子にひとつの質問を投げかける。「秦が国際社会に名を轟かせる覇権国家となったのはなぜか?」というものである。秦は斉と同じく現時点では中国内の大国のひとつに過ぎないが、後に戦乱の世を治めて中国を統一し、大秦帝国を築き上げる。しかし元々は孔子の述べるように中国では西方にあって野蛮と見なされ、見くびられていた国家であった。この点は楚と似ている。

 これを孔子は不穏な回答をする。「王者となってもおかしくなかったが覇とされているのは矮小である」と評する。ここで登場する「覇」と「王」というのは、当時の実態として定義がある程度以上明確に存在している。ここで少し説明しよう。

 本来、少なくとも孔子の時代において、王とは唯一人しか存在しない、してはいけないはずの存在であった。王とは天下のすべてを統べる存在である。天下とは現代の国民国家である中国のことではない。世界のすべてである。先で楚が王を名乗って周王朝と対等であると主張したことも、ただの独立宣言ではないし、そもそも本来は王からの独立などありえない。地上の支配者であり二人として存在してはならぬ王が、ここにも存在すると楚は主張しているのだ。これは中華の威光とアイデンティティそのものを損なう大逆であると見なされるものである。

 対する覇とは何か。これはあくまで周王朝の元で少なくとも形式上の冊封を受け、その下で王に代わって政治を代行する存在である。彼らは王の下につく公国を支配する国公から選ばれる。最初に覇となったのは斉の桓公という国公で、もともとは斉公だけが名乗るはずの称号で、中原諸国の国公を統括する代表者のことであったが、まもなく斉で内乱が起こり、最初の覇である桓公もそこで死ぬことになった。彼の息子の一人は宋に退避しており、斉の国公となることはできたが、この恩をもって覇の称号を宋襄公に譲った。こうして後に中原諸国の対立によって更なる変容をきたした覇の称号は、周王朝の下にある有力な国公がそれぞれ自称するものとなった。秦も南方の楚と同様に西方の蛮国として扱われていたが、急成長した秦は王を名乗った楚と対照的に、中原の周王朝の下に集う諸国と同様に覇としての地位に甘んじた。

 してみれば、孔子はここで非常に危うい話をしている。秦が覇にとどまったことを「小」と評価し、王となってもおかしくない存在であったと嘯く。通常、王を称するのは大逆である。しかし、それが成し遂げられなかったことを孔子は残念がっているのだ。

 仮に秦が王を名乗ったとして大逆に当たらない状況があると解釈すれば、それは周王朝が既に王たる権利を失効している場合である。周王朝はもともと殷王朝を討伐して成立している。もともと周は殷の従属国であったが、革命によってこれを打倒したのであった。これがいかにして正当化されたかといえば、天命論、易姓革命論である。殷が悪政を敷き、周が善政を敷いていたから、天命が殷から周に移り、ゆえに周は殷を打倒していい、これが周王朝による革命を大逆ではないと処理する根拠となった。

 してみれば、孔子の言を控えめに解釈すれば、「秦はかつての周王朝に近い善政を敷き、そこまでは至らなかったけど覇となる程度には躍進した。」くらいのニュアンスとなろうが、やはり「秦はせっかく善政を敷いているのだから、楚のように王を名乗って周王朝になりかわってもよかったのに」「衰えた周王朝になりかわって、善政を敷く秦が天下を統一すべきだったのに」とでも言っているように解釈可能である。というか、フツーに読めば後者と解釈すべきであると思う。

 ここで孔子は百里奚の逸話を斉公に語っている。百里奚は罪を得て奴隷の身分にまで落ちぶれ、秦穆公から羊の皮5枚で買われれた。本文で孔子が語る五羖(羊の皮五枚)大夫という呼び名も、これにちなんでいる。彼を買った後で秦穆公は百里奚が賢者であると見抜き、宰相に抜擢した。秦が大国となったのは、この穆公以来のことで、百里奚が秦の政治をよく支えたことによるとされている。

 孔子は秦が覇となった要因を穆公が百里奚を登用したことに求め、それを聞いた斉公は喜んでいる。先ほど述べたように、初めて覇という称号を得たのは他ならぬ斉の斉桓公であった。孔子と対話している斉公(斉景公)は彼の玄孫にあたる。斉桓公はかつて、管仲という宰相を罪人の中から登用し、これによって覇となるまでに国を強めたのである。


 さて、ここまで長々と歴史背景を含めて説明したが、これらに基づいて孔子と斉公の対話を解釈しよう。

 史記孔子世家では、繰り返し繰り返し何度も孔子の出自が身分の低い立場にあったことが述べられる。なぜここまで何度も書かれているのか。それもここで伏線として生きてくる。

 斉公は孔子に秦の伸張について尋ねた。これは半ば若き賢者への要教、半ば孔子を試す謎かけである。だいたいにおいて、かつての中国で君主の立場にある者は、賢者に質問を投げかけ、それを拝聴して自らへのアドバイスにするとともに、これによって賢者の能力を試すのが通例である。孟子や呉子にもこういったエピソードが登場し、一種の就職試験も兼ねている。孔子より後の時代には、こうした試験も高度化しており、兵家の呉子はいきなり面前で「私は戦争が嫌いだ!」と言われ、そこから平和のための兵事の重要性をプレゼンしている。

 ここで孔子は穆公が罪人として奴隷に落とされた百里奚を登用したことをもって、秦が王者になるべき徳を有していたことを匂わせつつ、覇となった所以とした。斉公の立場からこれを聞けば、真っ先に罪人から管仲を登用した祖父のことを思い出したであろう。この答えに斉公は満足した。祖先、そして自らの有する国が王者となってもおかしくないと匂わせる発言をしたのだから、それを喜んだのは当然であるし、孔子もそれを狙っていたように思われる。そして、ここには斉公が自ら周王朝に成り代わって王になりたいとの野心を抱いていたという含みがある。

 先で述べた通り、史記における記述は一種の物語であり、この面会や会話が事実であるかはよくわからない。こんな会話なんて本当はなかったのかもしれないし、正直こんな会話を本当にしてたら結構危険だと思う。それでも、史記においては、このように記しているのだから、ここに編者の意図を読み取ることはできる。


 ところで、史記は漢において編纂された史書で、それ以前に秦は天下を統一していた。孔子の時点では秦が天下を統一することは知られていないが、史記の編者はその後の秦を知っている上で、ここで秦の百里奚のエピソードが挿入されていることに一応は留意せねばなるまい。

 これは儒教の天命論について知らないとわかりづらいことだけど、古中国における革命、易姓革命とは、必ずしも王を代える政権交代そのものではない。これは周文王と周武王を見ればわかる。殷王朝の王を倒して代わりに王に立ったのは周武王であり、父親の周文王は殷の家臣の身分のまま死去した。しかし、一般に周文王が周武王の下に置かれることや、周武王が周文王の上に置かれることはなく、真っ先に周文王が尊ばれる。

 これはなぜか。革命における「命」とは天からの命令、契約のことで、これは即座に政権獲得の実態を表す語ではない。殷は暴政を行ったとされる紂王の時点で天命を喪いつつあり、その時点で周の国公であった周文王に天命が移行しつつあったとみなされているわけである。

 そして、これは実態としても周は文王の当時、既に国力を高めつつあり、若き武王は既に即位の時点で十分に政権を窺える立場にあったということが示されている。儒家思想的に言えば、周が強くなったのは文王の徳であり、武王はこれを継承して殷を撃ったということになる。易姓革命を理論化したとされる孟子は、周武王が殷紂王を殺害したことについて、「一人の男が殺されただけで、天命を受けた王が殺されたわけではない(一夫の紂を誅するを聞くも、未だ君を弑するを聞かざるなり)」と述べている。つまり、易姓革命の思想においては、実態としての政権が移譲する以前から天命は移り変わっており、紂王は地上の王としての立場があった時点から、既に王たる資格を喪失していたと考えられるわけである。これがわからなければ、易姓革命というものはわからない。

 こうした天命論による歴史記録の慣例は、たとえば三国志からも省察できる。三国志における魏書には、本紀と銘打って魏の歴代皇帝の事績が述べられる。ところが、ここで最初に登場するのは曹操であり、魏が前王朝の漢から禅譲を受けて初めて皇帝となった曹丕の父親から始まるのである。これは三国志をある程度知っている人なら自明のことであろう。宦官の養子の子であると蔑まれてきた曹操は乱世に身を投じ、一代で漢王朝の政治を壟断するまでに成り上がり、遂には漢王朝から本来皇族しか受けられないはずの魏王の位を例外的に授かり、漢王朝の政権をほぼ完全に牛耳る立場にあった。三国志の注によれば、彼は晩年に「もし天命があっても、俺は文王の立場でいい(若天命在吾,吾爲周文王矣。)」と嘯いたという記録がある。実際に漢王朝から皇帝の位を譲り受けたのが曹丕であっても、実は曹操が既に天命を受けていたのである。少なくとも、その前提で三国志は編纂されているのだ。後世、曹操は漢から帝位を簒奪した悪役としても名を馳せることになるが、ここでまず曹丕より曹操が挙がることに、実質的に曹操が魏の初代皇帝であると後の世の人が認め、これが天命論による慣習に基づくとわかるのである。

 秦もまた、実は曹操と曹丕の関係ほどではないにせよ、始皇帝が王位に就く前から諸国統一は時間の問題という段階にあった。そもそも周を滅亡させたのは始皇帝が生まれる前の秦であり、後継争いにおいて始皇帝を秦の君主に推したのも、周を攻め滅ぼした張本人の呂不韋である。

 これらの事件は孔子から150年程度後の時代であるから時勢も少し変わっており、楚のみならず中原諸国の国公も既に周王朝の権威を否定するようになっていた。そこで斉の貴族であった田氏が太公望の子孫であった斉公の公族を追放して国主の立場を奪い取った後、王を名乗ったのを皮切りに、次々と国公たちが王を名乗り始めた。これは秦も同じである。秦の始皇帝が「皇帝」という号を用いたのも、王がかつての国公程度の意味しか持てなくなっていたことから、その上の存在を規定する必要に駆られてのことである。こんな事情があるから、周を攻め滅ぼしたからといって、すぐに殷や周の革命のように秦が政権を獲得できるわけにはいかなかった。逆に言えば、それだけのことであって、既に秦に大きな過失や不運がなければ、もはや次の王朝は秦でほとんど確定していた。

 してみれば、中原統一における始皇帝はある意味で、後始末をしただけとも言える。そこで、その下準備をした人物として後の人は、その最大の功績のあるひとりを秦の穆公に求めた。もちろん孔子の当時から既に穆公の評価は高かったが、秦の諸国統一をもってその下地を築いた人物として更に評価されたわけである。

 前置きが長くなってしまったが、本文の解釈に入ろう。孔子の時点で既に周の権威は揺らいでいた。周幽王の代に周の本国が異民族に蹂躙され、幽王は夏の桀王や殷の紂王といったそれぞれの王朝最後の王と並べられて、悪王の一人に数えられている。少し冷めた言い方をすれば、所詮は天命とは後の人の解釈であって、どの時点で失われたかは後付けで様々な説が立てられる性質のものである。その中には、この時点で周王朝は既に天命を失ったとする儒者もいるし、楚が王を名乗ったのもこの数十年後で、その裏にはこうした事情もあったと思われる。

 それならば、次に夏殷周に次ぐ王朝とはどこかを考えれば、これは秦王朝である。実際、史記の本紀では、周王朝の次に秦の記事に入り、そこでは始皇帝の統一以前の秦の歴史まで詳らかに述べられている。こうしてみると、秦は穆公の時点で天命を受けていたとする考えも十分に起こる。ゆえに孔子の不穏な言葉も、秦が天命を受けた周の次の王朝であることを前提として述べられているのだと解釈できる。

 このような解釈に基づけば、やはり先で述べた通り、この孔子と斉公の対話の実在性はすこぶる怪しくなる。今回の本文は、秦の統一以降がそこまでいかずとも秦が更に伸張して統一が目に見えていた時期における「もし孔子と斉公が穆公について対話したら?」という風な創作のようにも見える。しかし、事実性を捨象して物語としてみれば、これも今後の「孔子物語」における伏線につながるのである。

≪漢文≫
 孔子年三十五、而季平子與郈昭伯以鬬雞故得罪魯昭公、昭公率師擊平子、平子與孟氏、叔孫氏三家共攻昭公、昭公師敗、奔於齊、齊處昭公乾侯。其後頃之、魯亂。孔子適齊、為高昭子家臣、欲以通乎景公。與齊太師語樂、聞韶音、學之、三月不知肉味、齊人稱之。

≪書き下し文≫
 孔子の年(よはひ)三十五、而るに季平子と郈昭伯、以て雞を鬬はせしめ、故に罪を魯の昭公に得、昭公、師(いくさ)を率いて平子を擊たむとするも、平子と孟氏、叔孫氏の三家と共に昭公を攻め、昭公の師(いくさ)は敗れ、齊に奔(はし)り、齊は昭公に乾侯を處(ところ)せしむ。其の後、之れを頃にして魯亂る。孔子は齊に適(ゆ)き、高昭子の家臣と為り、以て景公より通ぜむことを欲す。齊の太師と樂を語り、韶の音を聞きて之れを學び、三月は肉の味を知らず、齊人之れを稱ふ。

≪現代語訳≫
 孔子が三十五歳の時、季平子と郈昭伯が闘鶏をし、そのために魯の昭公から罪に得た。昭公は軍隊を率いて季平子を擊とうとしたが、季平子と孟氏、叔孫氏の三家は共同で昭公を攻め、昭公の軍隊は敗れて齊に亡命し、齊は昭公を乾侯に住まわせた。その後、これを契機にして魯は乱れた。孔子は齊に適(ゆ)き、高昭子の家臣となって景公に通じようとした。齊の太師と楽を語り、韶の音楽を聞いてこれを学び、三月ほど肉の味さえわからなくなるほどであったので、齊人はそれを称賛した。
 さて、ついに魯でも動乱が起こった。三桓氏が主君であるはずの魯公に反旗を翻し、国外に亡命するまでに追いやったのである。先ほど魯が周公旦を開祖として礼儀と伝統を重んじることから周への忠誠は厚く治安は保たれていた一方で、改革に遅れていたことを述べたが、この前提が覆される大事件である。

 史記では先に晋、楚、斉が大国となりつつ国情が乱れていたことが述べられていたが、ここで「これを契機にして魯は乱れた」と述べられている。楚は周に大逆し、晋では六卿に牛耳られ、斉も国内の新興貴族に牛耳られて内紛を起こしていた。魯でも大貴族が国公を国外追放するほどに力をつけた。ある意味で、ここで魯はこれらの国と肩を並べた。

 魯公が斉に亡命したところ、孔子も同じく斉に向かっている。その目的に関するはっきりした見解は史記には書かれていないが、斉の貴族と通じて斉公と結びつこうとしていたことだけが述べられている。伝統的な見解としては、魯公への忠義だというが、これではよくわからない。孔子は季孫氏や孟孫氏に仕えていたのに、ここではそれと対立した魯公の後を追っている。この点も特にはっきりとは書かれていない。ちなみに、斉は過去に国公が季孫氏の娘から嫁をとっている。先で孔子と斉公が対話した点も込みで、こうした季孫氏と斉公のつながりに孔子が食い込んでいたという含みがあるのかもしれない。

 斉での音楽の話は、論語にも登場する有名な逸話である。孔子は音楽を愛好し、時に歌い、時に琴を弾き、音楽を楽師と語り合って、晩年には魯の伝統的な音楽を見直して正したという。この記述は、斉において孔子が民衆から人気を博したことや音楽の国際性が述べられているように思う。
≪漢文≫
 景公問政孔子、孔子曰、君君、臣臣、父父、子子。景公曰、善哉。信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾豈得而食諸。他日又復問政於孔子、孔子曰、政在節財。景公說、將欲以尼谿田封孔子。晏嬰進曰、夫儒者滑稽而不可軌法、倨傲自順、不可以為下、崇喪遂哀、破產厚葬、不可以為俗、游說乞貸、不可以為國。自大賢之息、周室既衰、禮樂缺有間。今孔子盛容飾、繁登降之禮、趨詳之節、累世不能殫其學、當年不能究其禮。君欲用之以移齊俗、非所以先細民也。後景公敬見孔子、不問其禮。異日、景公止孔子曰、奉子以季氏、吾不能。以季孟之間待之。齊大夫欲害孔子、孔子聞之。景公曰、吾老矣、弗能用也。孔子遂行、反乎魯。
≪書き下し文≫
 景公、政を孔子に問へば、孔子曰く、君(きみ)の君(きみ)たらば、臣(をみ)は臣(をみ)たれり。父の父たれば、子の子たらむ、と。景公曰く、善き哉。信(まこと)に如(も)し君(きみ)の君(きみ)たらず、臣(をみ)の臣(をみ)たらず、父の父たらず、子の子たらざれば、粟を有(も)つと雖も、吾は豈に得てして諸(こ)れを食むことあらむ、と。他日も又た復して政を孔子に問へり。孔子曰く、政は財を節するに在り、と。景公說び、將に尼谿の田を以て孔子を封せむと欲するも、晏嬰進みて曰く、夫れ儒者は滑稽(くちなめらか)にして軌(つね)の法(きまり)にする可からず。倨傲(おごり)て自ら順ひ、以て下と為る可からず。喪を崇めて哀を遂げ、產を破りて葬を厚くするも、以て俗と為す可からず。游說して貸を乞ふも、以て國の為にす可からず。大賢の息より周室既に衰え、禮樂の缺くるに間(とき)有り。今の孔子、盛にして容(かたち)飾り、登降の禮、趨詳の節を繁り、世を累(かさ)ねども其の學を殫(つく)すこと能はず、年に當たりても其の禮を究むること能はず。君(きみ)の之れを用いて以て齊の俗(ならひ)を移さむと欲するは、細民を先(みちび)く所以(ゆえん)に非ざるなり。後に景公、孔子を敬ひ見るも、其れに禮を問はず。異日、景公は孔子を止めて曰く、子を奉るに季氏を以てするは、吾能はず。季と孟の間を以て之れを待せむ、と。齊の大夫、孔子を害さむと欲し、孔子も之れを聞く。景公曰く、吾老ひたるかな。能く用うる弗きなり、と。孔子、遂に行きて魯に反(かへ)れり。

≪現代語訳≫
 景公が孔子に政治について質問すると、孔子は「君主が君主らしくすれば、臣下は臣下らしくなります。父が父らしくすれば、子が子らしくなるのと同じですよ。」と言った。景公は「いいことを言うじゃあないか! まったく、もし君主が君主らしくなく、臣下が臣下らしくなく、父が父らしくもなければ、子も子らしくなければ、どれだけ粟を所有していても私はどうやってこれを食べればよいことやら。」と言い、他の日にもまた同じように政治について孔子に質問した。孔子が「政治は財政の節約にあります。」と言うと、景公はよろこび、尼谿の田をもって孔子を封じようとしたが、晏嬰が進言した。「いやいや、儒者は口先ばかりは上手いですが、常軌の法(きまりごと)にしてはなりませぬぞ。傲慢で自分自身に従順ですので(君主の)下に立とうとしません。喪礼を崇めて哀礼を重視しますが、財産を傾けさせてまで葬儀を厚くするので習俗とすることはできません。游說して間借りをしたいと乞うばかりで、国家のために尽くそうとはしません。大賢(訳者注:周公のことであろう)が死去してから周室は衰えてしまいましたので、礼楽が欠けてしばらく経ちますが、今の孔子は、見た目ばかりを盛大に飾り立て、やれ祭壇の昇り降りだの、細かい歩き方だのと礼節を口うるさく言いますが、何世代かけても彼の学問を尽くすことなんてできませんし、一年かけても彼の礼を究めることなどできません。彼を君主が用いて齊の習俗を移そうとすることは、貧しい民衆を先導するためにはなりゃしませんよ。」これ以後、景公は孔子に敬礼をして会見することはあったが、彼に礼を質問しなかった。別の日のこと、景公は孔子を呼び止め、「そなたへの俸禄のことだがな、季氏ほどにはできぬが、季氏と孟氏の中間であれば、その待遇を用意できるが……。」と言った。齊の大夫は孔子を殺害しようとしており、孔子もそれを耳にした。景公は言った。「私も老いましたな。(あなたを)登用することはできません。」孔子は遂に魯に帰国した。
 さて、このエピソードは有名で、ネット上でもこのくだりを肴にして孔子と晏嬰を論じられるのを陋見している。概ね、孔子を誹るためのものであるが……。但し、晏嬰がこのような話をしたのが事実かというと怪しいと私は思う。というのも、これは墨子において晏嬰が儒家を批判する段に登場するエピソードで、そこでは明らかに時系列に反するものが含まれているからである。これは後の儒家を批判するために墨家がこしらえた創作の疑いがあり、これについて論じるのは次回に回す。ここは史記の記述そのものを読解していこう。

 私が思うに、史記におけるこのエピソードの内容は、ずいぶんと複雑な人間模様と政情を背景としているように見える。私の知る限りにおいて巷では、ここで孔子は就職活動として斉に用いられようとし、斉桓公もそれを受け入れようとしたが、晏嬰の正鵠を得た忠告によってそれがかなわず、最初は斉桓公が孔子を用いようとしたにもかかわらず、それを反故にして孔子は泣く泣く魯に帰った、という風に語られるのを見る。これは以下のような流れを前提としている。


1.孔子が斉を訪れる。
2.斉公が孔子と面会して質問をする。
3.孔子が斉公の質問に答え、気に入られる。
4.斉公が孔子を登用したいと考える。
5.晏嬰が孔子の登用に苦言を呈する。
6.斉公が孔子を登用できないと本人に告げる。
7.孔子が斉を去って魯に帰国する。

 この流れ自体が完全に間違っているわけでもないが、それだけだと孔子が単純に斉公に気に入られず、あるいは孔子がへそを曲げて就職活動に失敗したのみの話と見られるのは当然で、孔子を誹る者は「孔子は就職活動に失敗したニート」と罵り、孔子を弁護する者は「斉景公が無能で見る目がなかったがために孔子の才覚を見誤った」とする。

 ところが、ここで改めて本文に立ち返れば、これらはいずれも疎漏があることがわかり、やはり史記における記述全体をしっかりと把握しているようには思われない。今回の流れは以下である。

1.斉公が魯で孔子と面会して質問する。
2.孔子が斉公に気に入られる。
3.魯公が三桓氏との内戦に敗れて斉に亡命する。
4.その後を追って魯の高級官僚であった孔子が斉に向かい、斉公と通じようとする。
5.斉公が孔子と面会して質問をする。
6.孔子が斉公の質問に答え、気に入られる。
7.斉公が孔子を登用したいと考える。
8.晏嬰が孔子の登用に苦言を呈する。
9.斉公が孔子に質問をしなくなる。
10.それでも斉公は孔子を登用したいと本人に告げる。
11.斉の貴族が孔子の暗殺を企て、孔子もそれを察知する。
12.斉公が孔子を登用できないと本人に告げる。
13.孔子が斉を去って魯に帰国する。

 これがどこまで事実を反映しているかはわからないが、それは一旦おいておこう。ここでは史記孔子世家の記述に基づいて、このエピソードを解釈したい。

 まず、これを見ればわかる通り、どう見ても孔子は斉公に対して単純な就職活動をしているようには見えない。行動が怪しすぎる。なんだこいつ。


 史記孔子世家における斉公と孔子は、魯公の亡命以前から旧知の仲で、この時点で斉公から気に入られていたのである。(乙1)(乙2)その後に魯公の亡命があって、なぜかわからないが孔子も後を追って斉に入った。(乙3)(乙4)斉公は旧知であったから、孔子という謎の魯人の元高級官僚とも面会することにした。(乙5)こうした前提を単なる孔子の就職活動失敗とみなす甲1~13の流れは捨象している。

 孔子は亡命した魯公の後を追って斉に入り、斉公に見えたが、そこで魯公の話はまったくしていない。こんな不気味な話があるだろうか。仮に魯公への忠義から孔子が斉に向かったのであれば、本来なら斉公に頼むのは、魯公の保護や魯に返り咲くための相談となるであろう。もちろん、それをいきなり斉公に伝えても通じないとか、更なる仇になると考えて孔子はそうしなかったのかもしれない。それにしても、いきなり斉に仕えるとはどういうことか。他国の高級官僚にして大貴族から庶民までの幅広い層の教育を担当していた者が、祖国の君主の亡命に合わせていきなり自分の国に入ってきた。なにやらよからぬことを企んでいると詮索されても仕方がないだろう。それなのに旧知であったからか斉公は気にも留めていない。周囲の貴族からしてみれば、異様なこと極まりない。


 そこで孔子が斉公から気に入られて登用したいと思うようになり、晏嬰が反対したのは甲乙同じである(甲2~5、乙5~8)。しかし、甲ではすぐに斉公が孔子の登用をあきらめたようにしているが(甲5-6)、史記の記述では斉公はほとんど最後まで孔子の登用を諦めようとしていない。晏嬰の話を聞いた上で(乙8)、それでも孔子を登用したいとラブコールを送っている(乙10)。しかし、斉の貴族から孔子を暗殺しようという話が持ち上がり、これが孔子の耳に届くほどになった後で(乙11)、斉公は孔子に対して登用を見送ると伝えている(乙12)。これを見れば、「吾老哉(私も老いましたな)」という一節も、「自分自身のふがいなさの故である」と孔子に詫びるための言葉であると解釈すべきであろう。つまり斉公は国内貴族の突き上げに抗えず、しかも孔子に身の危険があることを推しはかって、孔子に対して詫びを入れたのだ。単純に晏嬰の進言を受け入れての話ではない。晏嬰の進言の後で斉公が孔子に告げた「そなたへの俸禄のことだが、季氏ほどにはできぬものの、季氏と孟氏の中間であれば、その待遇を用意できるが……。」というのも、斉公が貴族の突き上げに幾らか屈し、貴族の反発を受けない程度の俸禄をできる限り用意したとの計らいである。史記の記述に従えば、斉公は最後まで孔子を高く評価していたし、孔子も命の危険があるから斉を去ったのだ。

 さて、ここからは史記の本文に記されていない時代背景の話になるが、当時の斉では、大貴族田氏の当主であった田乞という人物が税金の取り立てを安くして回収した税を大盤振る舞いし、民衆から人気を得て斉公に迫るほどの勢いがあった。斉の重大な官職を田氏が執り、斉公も彼らの顔色を伺っていたのである。ちなみに、前の節のところで述べたけど、最終的に田氏は最後に今の斉公の子孫を国から追放し、斉を乗っ取って周王朝を差し置いて王を名乗るようになる。

 もちろん斉公としては田氏の存在が面白くないし、後の世で証明されるように自らの身においても危険である。なんとかして国公の権威と権力を取り戻したい。そこに現れたのが孔子である。史記においては、孔子は斉を訪れる前から斉公と知己であり、既に斉公は孔子を気に入っていた(乙1)。史記においては、元から斉公と孔子は5年来の顔見知りなのである。

 ここで以前の対話が伏線として生きてくる。孔子は斉公から新興国の秦についての質問を受け、そこで「王となってもおかしくない」との旨を答え、その理由として「五羖」を登用したことを挙げている。先に述べた通り、五羖とは秦の名宰相として名高い百里傒のことで、彼は奴隷の身分から秦公に気に入られ、宰相となって辺境の秦を覇者に押し上げた。孔子は秦公が奴隷の身分にあった賢才を登用したことを称えたのである。

 これはどういうことか。ここでこれまでの伏線が一気に浮かび上がる。史記において孔子は「叔梁紇は顏氏の女と野合して孔子を生んだ。」「孔子は貧困かつ身分が低かった。」「生まれの身分が低いとみなされて陽虎に追い払われた」と、孔子の生まれや若い頃の身分が低かったことが幾度となく示されているが、同時に非常に有能であることも示される。つまり、ここでは生まれの身分が低い孔子を登用できれば、王者かそれに近い存在になれる。そのように解釈できるような言葉を――少なくとも史記においては――孔子が言っている。しかも斉公はこれに満足している。

 さて、明示はされていないものの、かつて百里傒に匹敵すると互いに認める孔子と斉公が再会したのだ。そこで斉公は孔子に対して、試すように質問した。「政治とは何か?」である。そこで孔子はシンプルに言う。「君主が君主らしくすれば、臣下は臣下らしくなります。父が父らしくすれば、子が子らしくなるのと同じですよ。」当然ながら斉公はよろこんだ。「いいことを言うじゃあないか! まったく、もし君主が君主らしくなく、臣下が臣下らしくなく、父が父らしくもなければ、子も子らしくなければ、どれだけ粟を所有していても私はどうやってこれを食べればよいことやら。」

 この問答の背景にあるのは、もちろん田氏の当主田乞であろう。斉公は国公でありながら、田乞の顔色を伺わないと政治も行なうことができない。その事態をなんとしてでも脱したかった。もちろん斉公が孔子に望んでいるのは、国内において自らの権勢を回復することである。そこで孔子はすかさず「君主が君主らしくすれば、臣下は臣下らしくなります。父が父らしくすれば、子が子らしくなるのと同じですよ。」と言う。「君主は君主らしく、臣下は臣下らしく」というフレーズに斉公がよろこばないはずがない。田氏は臣下でありながら、君主に顔色を伺わせているのだ。当時の田氏は、自領の税を計算するための枡を勝手に小さいものに変えて安くすることで人気を得た人物である。斉公の「どれだけ粟を所有していても私はどうやってこれを食べればよいことやら。」という言葉も、これを意識してのことだと解釈すれば、スッキリと理解できる。

 斉公はまたしても孔子に政治に関して質問をすると、孔子は「政治は財産の節約にあります。」と答えた。これまた斉公はよろこぶに決まっている。田乞は民衆に支給する穀物の枡を大きいものにして大盤振る舞いをすることで人気を博した人物である。田氏への批判をおこなう孔子に斉公はますます惚れ込んだ。そこで孔子に具体的な登用の条件について述べ始めた。

 通常、国公がこうした賢者に意見を拝聴する際には、他の家臣の面前で行われるものである。先の外国においての対談でも傍には晏嬰がいた。自らの宮廷においては、当然のことである。この斉公のオーバーな孔子への賛同も、臣下の面前で行われていたに違いない。もしかすると、そこには田乞ら田氏の貴族たちやその派閥の者もいたことが想定されているだろう。これは田氏への牽制だったのかもしれない。

 仮にそうだとすれば、これは斉公にとって一種の犬笛である。田氏につくか斉公につくか、臣下にそれを呼びかけているわけである。斉公は孔子の言葉に賛同することで、孔子を中心に斉公派の派閥を結成しようと試みているように見える。

 ところが、斉公のあてが外れた。もちろん田氏にとっても孔子の存在は面白くないが、斉公派の臣下にとっても面白くない。というより、いきなり他国の国公の亡命に合わせて乗り込んできた謎の男にすべてを委ねんとするかのような斉公の舞い上がり方は危険極まりない。

 そこで晏嬰が進言する。繰り返しになるが、この発言は創作の疑いがあるものであるが、あくまでここでは史記の記述に関する著者の意図を解釈するものであることを重ねて付記する。ここでの晏嬰は、斉公派の臣下の代表者としての役割を作劇上で担っているのだろう。

 晏嬰は「儒者は口が上手い」と言う。既に述べた通り、これは墨家が敵対する儒家を罵るための創作であるように思われるが、これまでの解釈を前提にすれば、確かに斉公に対する孔子の返答は間違いなく口が上手い。一般論を述べながら、その裏に巧妙な形で田氏への批判を織り込んで斉公の歓心を買っている。しかも言葉を飾り立てることなく、むしろ教科書的なことを繰り返し述べるだけのカタブツであるかのように振る舞いながら、うまく斉の貴族から目を付けられないように斉公の内面から反応を引き出し、彼を意のままに操っている。そのため、口がうまいことさえ周囲からは見抜けない。史記におけるここでの孔子の弁舌は、ほとんど魔術である。史記の意図としては、それを晏嬰は見事に見抜いたということであろう。

 史記において、晏嬰は田氏を快く思っていないことが示される記述がある。なので、ここで晏嬰が忠言しているのは、孔子が斉において田氏以外の貴族からも批判的に受け止められたということを示している。

 ここに描かれる孔子は明らかな危険人物である。追放された魯公の後を追って斉に入国した他国の官僚である。しかも、魯公を追放した季孫氏の家臣である。魯公側について斉の国政につき、斉の軍事力を利用して国公を返り咲かせようとでもしているのか? はたまた季孫氏の配下として斉に潜伏し、魯公になにやら工作でもしとしているのか? 史記において孔子は何も話していないし、斉公にも何も告げていない。目的はさっぱり見えないし、とにかく不穏である。マジでなんだこいつ。


 さて、晏嬰の忠言を受けてから、斉公は孔子に礼のことを質問しなかったことが特筆されている。これは晏嬰にも斉公は頭が上がらず、その助言に表面上は従っていたという表現である。

 しかし斉公からすれば、孔子は頼みの綱である。史記において、孔子が百里奚や管仲のような名臣であることは何度も示されている。斉公と孔子の対話の裏には、当初からすべてにわたって、「孔子に斉国の政治を委任すればうまくいく」という相互の認識がある。物語上、孔子を臣下にして政治を任せれば、田氏を抑え込むどころか、自分は王になれるかもしれないのだ。なんとしてでも引き入れたい。

 そこで「そなたへの俸禄のことだが、季氏ほどにはできぬものの、季氏と孟氏の中間であれば、その待遇を用意できるが……。」と孔子に打診する。これは「呼び止めた」とあることから、先の対話と違って他の臣下を前にしていない二人だけの密談であろう。

 季孫氏は、魯において国公をしのぐ勢いの大貴族であり、国政を一手に引き受け、今回も国公をはねのけて逆に亡命させてしまうほどの存在であった。春秋左氏伝では、事実上の国公として葬儀などを扱おうとした人物(というか陽虎)のことが問題となった逸話が登場し、韓非子でも季孫氏を実質的な国公であると述べる一節がある。叔孫氏は、それに次ぐ魯の大貴族である。

 過去に孔子は穆公が王に近い存在となったのは、百里傒を抜擢して国政を委任したからだと答えた。季孫氏もまた、国政を自らほしいままにしている人物である。百里傒と季孫氏は、方向性は違えども国政をすべてにわたって操る存在であるとして軌を一にする。つまりこの斉公の言葉は、「臣下の反発からして国政をすべて任せるほどの地位は与えられないが、それに近い程度の待遇はなんとか用意する」という意味に解するべきである。

 この次の文で、斉の貴族が孔子の暗殺を計画していることが述べられる。もちろん、前文と関連づいていると解釈すべきである。斉公が孔子を呼び止めて話したことが、他の貴族に漏れてしまった。そのために孔子には命の危険があり、斉公も孔子に「季孫氏未満、叔氏以上の待遇」さえも用意することが難しくなった。

 かくして斉公が孔子に伝えたのが、「私も老いましたな。(あなたを)雇用することはできません。」という言葉である。これまでの解釈を前提に意訳すれば、「あなたをなんとか登用しようと努力しましたが、斉の貴族どもに今回のことがバレましてな。今回の件に対する周囲の反発は、私が思った以上に強いものでした。私の力が足りないばかりに貴殿の登用が実現しないばかりか、あなたの身を危険にさらしてしまったことをお詫びしたい。既にお察しの通り、斉の貴族どもはあなたの命を狙っています。まことに勝手だとは思いますが、今回の話を白紙に戻させていただきますので、先生は急いで魯にお帰り下さい。」という性質のものであろう。

 このように、斉公は晏嬰ら貴族の進言に心からのっかったわけでもなければ、さっさと前言を翻して孔子を不義のまま放逐したのではないし、単純に斉公に見る目がなくて孔子を放逐してしまったのでもない。自身の意図とかけ離れた決断を下さねばならない自身のふがいなさと、それに巻き込まれて命を危険にさらした孔子に対して詫びを入れながら泣く泣く断ったのだ。(思うのだけど、このように解釈しない人は、「吾老哉」という言葉の意図をどのように解釈しているのだろうか。)

 もちろん孔子も、彼が使い物にならないから就職活動が失敗したとか、斉公に見る目がなかったとか、そういう矮小な話ではない。孔子は孔子で、魯公の亡命に合わせた何らかの目的を有していた。はっきりいって、ここでの孔子はおそらく魯国のエージェントでありスパイである。

 これは斉公、孔子、田氏、晏嬰(斉公派の臣下)、もしかすれば魯公や季孫氏といったさまざまな思惑を有する存在による緊迫した暗闘の場面である。
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