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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

史記孔子世家を読む⑤

 史記孔子世家の孔子は不穏である。孔子は食わせ者である。謗って言っているのでもなければ、奇を衒っているわけでもなく、これ以外に史記孔子世家における斉訪問時の孔子をうまく形容する言葉を持ち合わせていないだけである。とにかくおかしい。不気味である。なんだこいつは。


 孔子の斉への訪問は論語や春秋左氏伝などにも記録されている。しかし、孔子の行動の理由は本当によくわからないのではないかと思う。

 先の話になるが、今後の孔子は魯の政界で更に出世して活躍する記録が続き、その後に失脚して50歳を超えて他国に亡命してしまい、様々な国を巡り歩くことになる。今回の斉訪問から魯を亡命するまでに20年程度のブランクがあるが、これらをまとめて「孔子の諸国遊説」としてひとまとめにされることが多い。30代半ばにおそらくは祖国の国公を追って他国を訪れた件と、自らの政治的失脚から50歳を超えての亡命でずっと他国を巡ったことが、なぜ一緒くたにされるのか。まったく理解困難であるが、これが伝統的な解釈である。私は歴史小説の類はほとんど読まないのだけど、感想を又聞きしたところでは、「儒教の虚像をはがして孔子の実像に迫る」というように銘打った作品でも、こうした伝統的解釈に引きずられたものばかりであるように聞こえる。


 そこで孔子という人物の足跡を追うにあたって、いくつか存在する典型的な誤解のうちのひとつについて、ここで指摘しておかなくてはなるまい。これは孔子と後世の儒家思想を辿っていく上では、案外あまり問題にならない。それどころか、伝統的な儒教はこういった誤解の上に成立している節があり、むしろ「誤解」を一度踏襲するほうが、儒教理解においては有用でさえある。しかし、史記という比較的古くて孔子が神格化される直前の史書の解釈において、そして現代において孔子のことを改めて推し量るには、こうした誤解から解放されることが第一歩となる。

 孔子に関する典型的な誤解の第一に最大のものは、孔子が何か彼個人の思想を諸国の君主や弟子に吹き込むために塾を開いて各国を巡って遊説していたとされていることである。史書に記録された範囲でさえ、孔子は貴族の家庭教師や官僚養成所の指導教官であって、基本的には個人思想家ではない。孔子の仕事は、文字や詩、礼節や音楽といった官僚としての実務や貴族社会の社交において必要な能力や教養の指導・教育であり、同時に自身も貴族社会における官僚・政治家である。むしろ本職は後者である。もともと貴族の中では庶民同然の最下層といえる存在として生まれ、しかし実務と学問の両方に励んで成りあがった孔子は、貴族の子弟や庶民から官僚貴族に抜擢される可能性のある若者を指導する立場として非常に適切であった。孔子は「貴族でない者を貴族にする指導者」という役割を担う士大夫である。

 古来より貴族というものは伝統に裏付けされた自律性を必要とする。なので、その指導に当たって孔子は、伝統に関する意味付けなどを自己解釈して指導する必要もあったし、あるいは貴族らしくなるための修身に有する一種の思弁や倫理について述べる際にも個人の思想めいたものを口にすることもあっただろう。そこから孔子独自の思想を読み取ったのが直接の弟子や後世の儒家かもしれないが、これは孔子自身が思想家として人に思想を説いたことを意味しない。

 そもそも孔子の時代に個人が思想を説く慣習はない。孔子以前の人物の名を冠した思想書と言えば、老子と管子であるが前者は著者の実在さえおぼつかないし、後者は思想家が当たり前になった後の時代の人が政治家の菅仲を思想家と見なすためにこしらえた書物である。中華においては、孔子が登場して初めて「個人の思想」というものが芽生えた。いや、まだ孔子の生前には種が撒かれただけで、孔子自身が我こそは思想家なりと名乗りを上げたのではない。後の人が孔子について考えているうちに、勝手に孔子個人の思想というものを生み出した。孔子は個人の思想が生じるターニングポイントにいた人ではあるが、こうした革新の境界線上の人にありがちな通り、本人の自覚や意識は昔の人とさほど変わらず、しかし後世の人がここから時代が変わったのだと顕彰しているのである。


 では、個人の思想家がいつ確立したのか。孔子の死後、彼と入れ替わるように生まれた墨子は、もともとは孔子の弟子の下で学問を積む孔子の孫弟子であったが、学ぶ過程で次第に師に反発を持つようになり、自らの学派を形成して敵対した。これを墨家といい、墨子の思想は書物の『墨子』において述べられている。これは墨子個人というよりも学派を総括した思想書の性格が強いものの、これは少なくとも、孔子よりも個人の思想が学祖より意識されている。

 次に現れた個人思想家は、活動時期がはっきりしないものの、一般に墨子の死んだ時期に入れ替わるように生まれたという楊朱という人物は、今度は墨子に敵対する思想を生み出した。これもまた、個人の思想である。楊朱と同世代か、やや遅れて登場したのが孟子であり、彼は墨子と楊朱を批判して孔子の後継者を自称した。孟子は孔子の継承者を自負し、儒家のひとりであることを自任しながら個人の思想書が存在する。この時期には、個人の思想家というものが確立したことがわかるだろう。楊朱、孟子らは個人の思想家として思想を意識した存在であり、彼らの存在は孔子とは性格を異にしている。墨子は彼らと孔子の中間に位置しよう。

 楊朱や孟子の生きた時代は、前回の記事で述べた田氏による斉の乗っ取り事件の後で、この国は斉の名を引き継いでいるものの国公から新興国ともいえる存在であった。他の伝統ある国公と比べて、今ひとつ文化的背景が劣るところが感じられたのかもしれない。そこで斉は、後に『稷下の学』と呼ばれる学者の結集を図った。ここに中原諸国各国から名うての学者が集い、斉は学問の国となったわけである。もともと中原には賢者を他国から招く風習はあったが、これに倣って斉以外の国も更に諸国の学者を自国に呼び寄せようと躍起になった。

 このようにして学者と学者が鎬を削る時代となると、いったいどういうことが起こったか。墨子が孔子の弟子たちに反発し、楊朱が墨子に反発することで自己の思想を自覚したように、ある思想に対する反発によって新たな思想が芽生えるという連鎖反応が短期間で起こり、そこに個人の思想が爆発的に誕生した。諸国に遊説して俸禄を得ようとする学者たちは、自分の学説という『商品』を他の学者と差異化させる必要に迫られたのである。

 孔子の時代やそれ以前から高名な賢者というものはいたし、その弟子であることは一種のセールスポイントになっていたが、これらは個人の思想で売れていたわけではない。『百家争鳴』と呼ばれる時代が到来し、個人の思想というものが社会的に認知され、思想家というべき学者が諸国に自らの思想を売り込んで遊説することが本格的に一般化したのは斉の稷下の学の前後と言えよう。管子が書籍としてまとめられたのも、この時期と言われている。

 孔子の亡命による諸国放浪や斉での事件から、こうした遊説家の先駆者であったと評価することは間違いではない。しかし、あくまでそれは後世の標準からの見方、かなり狭い一面的な見方でもある。孔子自身はもともと貴族の家庭教師や官僚養成学校の教官でしかなく、思想家として諸国の遊説をはじめから目的としていた孟子などとは100年以上も時代を隔てており、意識も社会環境もまったく違っている。それなのに孔子は、彼らと同一視される誤解に基づいて解釈されてきた。


 ここで少し留保を置くと、孔子が後年において自分を思想家のようなものだと自覚したかもしれないとは考えられる。彼は諸国を放浪する中で、さまざまな新しい世界と出会い、そこで考えを変容させ、あるいは深化させたという逸話がいくつも残っている。また、孔子やその弟子たちが諸国放浪の中で失意に陥った時、今の世に受け入れられなくても正しい道を歩むようにと励ます人が声をかける逸話なども論語をはじめとした書物に残っている。こうした逸話がどこまで本当の話かは分からないし、後者などはむしろ孔子を偉大な思想家として見なすようになった後世の神話のように見え、あまりあてにはならないかもしれない。とはいえ、このような逸話が象徴するように、孔子自身の有する信仰や信念を孔子自身が個人の思想のようなものとして自覚された可能性は必ずしも否定しないし、現時点ではできないと思う。

 とはいっても、これは孔子の亡命後においても後半と思われる話であり、孔子が亡命の当初から自らの思想を引っ提げて諸国の国公に面会し、それを遊説するために様々な国を放浪したということにはなり得ない。この場合であっても放浪の中の困苦と幸運という外在から孔子たちの内面に思想が生じたのであって、決して孔子たちに内在する思想が最初からあるとか、それを孔子たちが対外的に売り歩こうとしたのではない。因果がまったく逆である。

 ましてや、今回見た孔子による斉の訪問は、亡命の遥か以前のことであり、この時の孔子は35歳、孔子の弟子として高名な顔回や子貢といった面々は、まだ産まれて10年も経っていないのである。この時の彼に確固とした思想があったのだろうか。思想家というものが成立する以前の時代に、である。

 その上、ここでの孔子は魯公の後を追っての訪問であり、この段を孔子による思想の遊説だとするのはちょっと無理のある話で、後世の「百家争鳴」と呼ばれる大思想家時代の先駆者として評価する孔子への見方が思い込みを生み出し、かえって目を曇らせることにつながっているように思われる。

 そもそも一人の人間の行動が一貫するということはない。いや、もちろん人には生まれて早くに芽生える何らかの本質があるという意見を必ずしも否定する気はないし、孔子は早くから何らかの一貫した自我に苦しんでいたように見え、そこから類稀なる人格を築いたのではないかと思わせるところがあるので、深層的にはそうかもしれないけど、少なくとも表面的な目的や行動が一貫することはない。今回読む孔子世家は、曲がりなりにも孔子の生誕から死没までを一望する物語なのだから、物語に一貫性はあったとしても、個人の行動に一貫した目的が常にあると見れば、それは疎漏となるであろう。
 これまでのまとめとして、またしても「孔子就職活動失敗」という陋談への批判の話になるのだけど、斉を訪れた孔子の軌跡は、どう見ても就職活動失敗なんて話ではない。では、伝統的な儒者が言うような「思想の遊説を理解できなかった斉公は愚かである」という話かといえば、それも違う。これらの見方はどちらも、孔子よりずっと後に成立した「思想を遊説して諸国をめぐって官職にありつく」という稷下の学の前後から先の時代に存在した遊説家たちのあり方と孔子を完全に同一視する愚を犯し、しかも孔子の放浪と斉への訪問という20年近いブランクのある事蹟を一緒くたにする愚を犯している。亡命後の孔子については後に検討するとして、斉を訪問した孔子は思想の遊説でもないし、単純な就職活動でもない、なにやら不穏な陰謀の中で動いている。


 これを踏まえて、晏嬰の発言の実在性が低いことの根拠について以下に述べる。今回の晏嬰の発言に近いものは、墨子の『非儒下篇』に登場する。引用してみよう。

≪漢文≫
 孔丘之齊見景公、景公說、欲封之以尼谿、以告晏子。晏子曰、不可。夫儒浩居而自順者也、不可以教下。好樂而淫人、不可使親治。立命而怠事、不可使守職。宗喪循哀、不可使慈民。機服勉容、不可使導眾。孔丘盛容脩飾以蠱世、弦歌鼓舞以聚徒、繁登降之禮以示儀、務趨翔之節以觀眾、博學不可使議世、勞思不可以補民、絫壽不能盡其學、當年不能行其禮、積財不能贍其樂、繁飾邪術以營世君、盛為聲樂以淫遇民、其道不可以期世、其學不可以導眾。今君封之、以利齊俗、非所以導國先眾。公曰、善。於是厚其禮、留其封、敬見而不問其道。孔丘乃恚、怒於景公與晏子、乃樹鴟夷子皮於田常之門、告南郭惠子以所欲為、歸於魯。有頃、閒齊將伐魯、告子貢曰、賜乎。舉大事於今之時矣。乃遣子貢之齊、因南郭惠子以見田常、勸之伐吳、以教高、國、鮑、晏、使毋得害田常之亂、勸越伐吳。三年之內、齊吳破國之難、伏尸以言術數。孔丘之誅也。

≪書き下し文≫
 孔丘、齊に之(ゆ)きて景公に見ゆれば、景公說(よろこ)び、之れを封ずるに尼谿を以てせむと欲し、以て晏子に告ぐ。晏子曰く、不可たり。夫れ儒は浩居(おごり)して自らに順(したが)ふ者なりて、以て下を教ゆ可からず。樂を好みて人を淫りにし、治に親しませ使(し)むる可からず。命を立てて事を怠り、職を守ら使(し)むる可からず。喪を宗び哀に循ひ、民を慈させ使(し)む可からず。服に機すれば容(みため)を勉め、眾を導びかせ使(し)む可からず。孔丘、容(みため)を盛りたて飾(かざり)を脩(おさ)め以て世に蠱(むしく)ひ、弦歌鼓舞して以て徒(ともがら)を聚(あつ)め、登降の禮を繁(さかん)にして以て儀を示し、趨翔(はしりとぶ)の節に務めて以て眾を觀、博く學ぶは世に議せ使(し)む可からず、思に勞せしむるは以て民に補ふ可からず、壽(いのち)を絫(かさ)ねども其の學を盡くすに能はず、年に當たりても其の禮を行ふこと能はず、財を積めども其の樂を贍(た)るに能はず、飾を繁りて術を邪して以て世(よよ)の君(きみ)を營ひ、盛に聲樂を為して以て遇民を淫らにし、其の道は以て世に期する可からず、其の學以て眾を導く可からず。今君(きみ)は之れを封じ、以て齊の俗に利せむとするも、以て國を導き眾に先ずる所に非ず。公曰く、善し、と。是に於いて其の禮を厚くし、其の封に留むるも、敬ひ見て其の道を問はず。孔丘乃ち恚(いか)り、景公と晏子に怒り、乃ち鴟夷子皮を田常の門に樹(た)て、南郭惠子に告げて以て欲する所為り、魯に歸せり。有頃(しばらくして)、齊の將に魯を伐たむとするを閒き、子貢に告げて曰く、賜や。大いに事を今の時に於いて舉げよ、と。乃ち子貢を遣りて齊に之(ゆ)かせしめ、南郭惠子に因りて以て田常に見え、之れに吳を伐たむことを勸め、以て高、國、鮑、晏に害を田常の亂に得ること毋(な)から使(し)めむと教え、越に吳を伐たむことを勸む。三年の內に齊と吳は國を破るの難たり、尸(しかばね)を伏して以て術數を言(まふ)せり。孔丘の誅なり。

≪現代語訳≫
 孔丘が齊にいって景公と会見すると、景公はよろこび、彼を尼谿に冊封しようとして晏子に報告した。晏子は「駄目です。というのも、儒とは傲慢で自分に従順な者であり、下民を教えることはできません。音楽を好んで人を淫蕩に陥れるから、政治に近づけさせてはなりません。天命に縋って事を怠りますから、官職にあたらせてはなりません。喪を重視して哀礼を用いてますから、民への慈しみに当ててはなりません。服喪の機会では見た目ばかりに拘りますから、民衆を導びかせてはなりません。孔丘は見た目を盛り立て装飾にこだわり、世間に寄生虫のように虫食い、弦楽器や歌、鼓や舞踏で仲間を集め、階段を登降するための礼を言い立てて儀礼を見せびらかし、小走りや駆け足の礼節にやたらとこだわることで民衆に見せつけますか、学問が広すぎて世間で議論させることはできず、思索に人を駆り立てますが人民の助けにはなりません。どれだけ長生きを重ねてもその学問を極めることはできず、一年かけてもその礼を履行することができない。どれだけ財産を賭けてもその音楽を尽くすことはできず、装飾をやたらと増やして邪な術を用いて何世代も君主の業務を代行し、やたらに声楽を創り出して愚民どもを淫蕩に走らせ、その道は世間において適当ではないです。その学問では、民衆を導くことはできませんぞ。今の君上はあやつを冊封し、齊の習俗に利しようとされておいでですが、国家や民衆を先導する為にはなりません。」と言い、斉公は「そうだな。」と言った。こうして彼への礼は厚くし、封地には留めてやったが、敬った態度で面会はしても、彼の統治の術は聞かなかった。これに孔丘はイライラして、景公と晏子に怒り、鴟夷子皮(馬の革袋)を田常の門に立て、南郭惠子にしたいことを告げて魯に帰国した。しばらくして、齊が魯を討伐しようとしていると聞き、子貢に「賜よ、今こそ大いに仕事をするがよいぞ!」と告げると、子貢を齊に派遣し、南郭惠子のツテから田常に会見させ、彼に吳を討伐するように勧めながら、高氏、國氏、鮑氏、晏氏に田常の乱によって損害を受けないようにさせると言いながら、越には吳を討伐するように勧めた。三年の内に齊と吳は国家が滅亡する危機に瀕してしまった。死体が地に伏せることで術数を申し伝えたのは、孔丘の大罪である。

 ここでは孔子が晏嬰に斥けられ、そこで孔子が晏嬰と斉公に呪詛を吐くという内容であるが、なんというか、むしろこの章句全体が行使への悪意に溢れていて、むしろ墨家の孔子に対する禍々しい呪詛という感じである。

 ちなみに、この前段にも晏嬰が斉公にアドバイスをする章があり、こちらも引用しよう。

≪漢文≫
 齊景公問晏子曰、孔子為人何如。晏子不對、公又復問、不對。景公曰、以孔丘語寡人者眾矣、俱以賢人也。今寡人問之、而子不對、何也。晏子對曰、嬰不肖、不足以知賢人。雖然、嬰聞所謂賢人者、入人之國必務合其君臣之親、而弭其上下之怨。孔丘之荊、知白公之謀、而奉之以石乞、君身幾滅、而白公僇。嬰聞賢人得上不虛、得下不危、言聽於君必利人、教行下必於上、是以言明而易知也、行明而易從也、行義可明乎民、謀慮可通乎君臣。今孔丘深慮同謀以奉賊、勞思盡知以行邪、勸下亂上,教臣殺君、非賢人之行也。入人之國而與人之賊、非義之類也。知人不忠、趣之為亂、非仁義之也。逃人而後謀、避人而後言、行義不可明於民、謀慮不可通於君臣、嬰不知孔丘之有異於白公也、是以不對。景公曰、嗚乎、貺寡人者眾矣、非夫子、則吾終身不知孔丘之與白公同也。

≪書き下し文≫
 齊景公、晏子に問ひて曰く、孔子の為人(ひととなり)は何如(いかん)、と。晏子對へず、公又た復た問へるも、對へざりき。景公曰く、孔丘を以て寡人に語る者眾(かずおおき)かな、俱(とも)に以て賢人とするなり。今寡人は之れを問ふも、而りて子は對へず、何ぞや、と。晏子對へて曰く、嬰不肖たれば、以て賢人を知るに足らざり。然ると雖も、嬰も所謂賢人たる者を聞かば、人の國に入らば必ず其の君臣の親しむに合わさることを務め、而りて其の上下の怨みを弭(や)めり、と。孔丘の荊(しもと)、白公の謀(はかりごと)を知り、而れども之れに奉ずるに石乞を以てし、君(きみ)の身は幾かして滅び、而りて白公僇(かずかし)む。嬰聞くは、賢人は上に虛ならざるを得さしめ、下に危ならざるを得さしめ、君に言聽すれば必ず人に利し、下に教行すれば必ず上に於いてし、是れ以て言明らかにして知り易きなりや、行ひ明らかにして從ひ易きなりや、義を行ひては民に明らむ可し、謀り慮りては君臣に通ずる可し。今の孔丘深く慮り謀(はかりごと)を同じくして以て賊に奉り、思を勞せしめて知を盡くして以て邪を行ひ、下に上に亂ることを勸め,臣に君を殺すことを教え、賢人の行に非ざるなり。人の國に入りて人の賊に與すは、義の類に非ざるなり。人の忠ならざるを知り、之れに趣き亂を為すは、仁義に之れ非ざるなり。人を逃して後に謀り、人を避けて後に言ひ、義を行へば民に明らむ可からず、謀り慮りては君臣に通ず可からず、嬰は孔丘の白公に異しき有るを知らざるなり、是れ以て對へず、と。景公曰く、嗚乎、寡人に貺ゆる者は眾(かずおおき)かな、夫子に非ざれば、則ち吾は終身、孔丘の白公と與に同じくするを知らざるなり、と。

≪現代語訳≫
 齊景公が晏子に「孔子のひととなりはどうか。」と質問したが、晏子は答えなかったので、公はまたしても質問したが、回答はなかった。景公が「孔丘を寡人(わたし)に語る者は数多いのだ。皆が一様に賢人としておる。今寡人(わたし)が彼について質問しているのに、あなたは答えようとしない。どうしてだろうか。」というと、晏子は答えた。「嬰(わたし)は不肖(おろかもの)ですから、賢人について理解することはできません。とはいえ、嬰(わたし)もいわゆる賢人という者について次のよう聞いたことはあります。「他人の国に入るならば、必ずその国の君臣の親しむことに合わせるように務め、その国の上下の怨みを仲裁する。」孔丘の犯した罪は、白公の謀略を知りながら石乞という人物とともにそれに協力したことであり、君主の身がまもなく滅び、白公が晒しものにしました。嬰(わたし)は「賢人は上に嘘をつくことなく、下から危険を取り除き、主君と言葉のやり取りをすれば必ず人に利益を与え、下に教育と行政を行なえば必ず向上するもので、それは言語化するにもわかりやすく、理解するのも簡単で、行動は透明化されていて従うののも簡単ですから、正義を執行するにも人民に公開しなくてはならず、策謀を考えるにしても君主と臣下に話を通さなくてはなりません。今の孔丘とは、深い思慮と暴力を共有しながらも国賊に協力し、思索と知力を尽くしながら邪悪を行い、下に対しては上に反乱を起こすことを推奨し、臣下には主君を殺すように教唆しています。賢人のすることではありませんよ。他人の国に入ってそこの賊に味方するのは、義の仲間とは言えないでしょう。人に忠義がないと知りながら、そちらに赴いて反乱を起こすのは、とても仁義とはいえないものでしょう。人のいないところで謀略を立て、人がいなくなった後で言葉を口にし、正義を執行するにしても人民に公開することなく、策謀を考えるにしても君主と臣下に話を通すことがない。嬰(わたし)は孔丘が白公に対してまで異心を有しているかは知りませんので、回答はしませんでしたがね。」景公は言った。「ああ、寡人(わたし)に天が賜られたものはあまりに多すぎる! 先生がいらっしゃらなければ、私は一生孔丘が白公と行動を共にしていたとは気づきませんでした。」


 さて、こちらの引用部分の逸話はどう考えても創作である。なぜなら、ここに登場する白公の乱は、孔子が死没した直後に起こったものある。この時点でおかしいのだけど、この百倍おかしいところがある。晏嬰は孔子よりかなり年上で、孔子が死没するより遥か数十年前に死没している。このことから白公の乱に言及することなど何があってもあり得ない。しかも晏嬰の対話の相手である斉公も、孔子が死ぬ20年前に亡くなっている。つまりこれは完全な嘘である。でっち上げである。こちらの晏嬰の言葉は、間違いなく晏嬰の言葉ではない。こんなのは幽霊による対話である。


 というところで、振り返って一応史記に引用された方の文章だけを見れば、確かに時系列は間違っていないものの、明らかに時系列のおかしな逸話と一緒に同じ人物同士の対話が掲載されていることから、この段も墨子による創作された対話であることが疑われる。

 しかも内容も、あまりにも墨子にとって都合がよい。音楽の禁止や葬儀を薄くすることを墨子は主張しており、晏嬰の主張があまりにもこれと合致する。合致しすぎである。上の段で、自らの思想に都合のよい晏嬰の台詞を長々と悉くでっち上げた墨子が、こちらの晏嬰の台詞だけ本当のことを書いているのだろうか。ちなみに、孔子が斉を訪問した当時の田氏の家主は田乞であることから、田常の家の門に馬の革袋を立てたという部分も疑わしいことは疑わしい。

 ここで孔子が用意した馬の革袋(鴟夷子皮)は酒を入れるものだと言われているが、一説によれば、これは人を入れて海に流すための刑具であるという。これに基づけば、墨子における孔子は田常に「これで斉公を殺すがよい」という呪いをかけたということになろう。カッコイイ……いや、恐ろしい。つまり墨子はここで孔子が30代の頃から斉公を恨んで田氏による斉の乗っ取りに協力する気だったということが示されているわけだけど、先で述べた通り、当時の田氏の長は田常の父親の田乞であるし、孔子の斉訪問から田常が乱を起こすまでに3、40年のブランクがあることから、ちょっとこの時点で田氏の反乱を孔子が企図していたというのも飛躍があると感じられる。どうにも後の世の人が遡って予言を仕立て上げたような話である。

 ここでの晏嬰は、孔子を斥けるにあたって『儒』という語を用いるが、実は孔子自身が儒者を自称した記事は論語において一度もなく、儒という字自体が論語には一度しか登場しない。孔子は「儒家」というアイデンティティを持っていたかさえ怪しいのである。墨子に『非儒下篇』があって、そこで孔子とその弟子や孔子の学統を名乗る者を指して儒としていることから、孔子と儒というものが関連付けられていたのは確かだと思われるが、先ほども述べたように、孔子は一国の政務官であって、当時はまだ目立った弟子もいなかったと思われる時期である。他国の宰相がなぜ一介の政務官である孔子をもって儒家の象徴としたのかよくわからない。


 儒家批判の内容についても、儒家は葬儀を厚くすることを命じるばかりであると晏嬰が述べたことになっているが、論語の孔子はそういう話をあまりしておらず、どちらかというと精神的なものやそれに基づく行為を重んじているように見え、むしろ葬儀の形式については倹約を勧める言葉が多い。特に庶民については、むしろ過度に儀礼を飾り立てることを越権であり非礼とする章句が論語には多い。葬儀の規模を大きく厚くするように主張し、そうでない形で葬る人を罵るのは、孔子よりも時代が下った弟子や孫弟子以降に顕著であり、孔子の弟子同士は、そういったことで互いに罵り合う章が見える。これが孔子の死後に発足した墨子の見た儒家集団の負の側面なのではないだろうか。

 たとえば論語には、孔子が若い弟子の子游に対し、用いる音楽が贅沢すぎると窘めようとして、その弟子が猛烈に孔子に反論し、孔子がそこで弟子に勝ちを譲る場面が登場する。この子游は魯の国公に厚い争議をすべき根拠を説いた逸話が残っており、その学派は孔子の死後に過度な葬儀を民衆にまで売り込むということで、荀子などの儒家内でも手厳しく批判をされている。

 もともと孔子は出世した政治家であるから俸禄ももらえたし、上記の記事にも登場する子貢という高弟がスポンサーとしてついていたという説もあるため、葬儀を厚くするように人々に命じる経済的な事情はなかった。しかし、儒家の中には葬儀を厚くするよう主張した派閥もあったのだろう。そして、この動機が食い扶持を稼ぐためであったとしてもおかしいとは思われない。孔子のように政務官や家庭教師のような役職として仕官ができなければ、孔子の孫弟子や曾孫弟子は葬儀などの儀礼を民間に売り歩くしかなかったのだろう。ここで墨子等が批判していたのは、こうした儒家の在り方だったと思える。逆に言えば、墨子は孔子を批判する体で当時の儒家を批判しただけのようにも思える。



 このように、ここ史記孔子世家で引用された晏嬰の言葉はあまりにも後世の臭いがキツすぎる。これをそのまま信じることはできず、何の考察も解釈もなしに史記の記述をそのまま事実として信じるべきではない。


 さて、何度も言うように私は歴史学者でも何でもないので、「事実の孔子の事跡」のようなものをここで述べる気はないし、そんなもの本当はわからないのだからどうしようもない。墨子に記述される晏嬰と斉公の会話が嘘くさいことや、それを引用した史記も嘘くさいことは指摘しても、じゃあ斉公と晏嬰は孔子をどう思っていたかだとか、孔子がどういう行動を取ったかはよくわからない。少なくとも墨子における晏嬰のセリフの記述は嘘くさい。それだけである。

 では、ここで物語としての史記を読解していくわけであるが、ここで敢えて先ほど虚偽であると推し量ったばかりの墨子における孔子の醜聞の記述を振り返ってみたい。というのも、これらは史記を解釈する上で、重要な示唆を与えてくれているからである。それは今回の記事の冒頭で、私は史記におけるこれまでの孔子の足跡を不穏であると評したが、ここでの墨子も「不穏な孔子」を描いていることである。孔子は中華王朝の支配的なイデオロギーの開祖として、のちには聖人、果ては神に等しい存在として列せられたため、どうにも道徳的な姿ばかりが描かれがちであるが、先で述べたように、いわゆる儒教国教化の前後という孔子が神格化直前に記された史記の孔子世家には、どうにも孔子が不穏な政治工作員であるかのように描かれている節が見られ、孔子の発言にも非常に危うい何かが見える。

 そこをいくと、それ以前の墨子に描かれた孔子は、まさに諸国を股にかけて陰謀を張り巡らせ、政界において暗躍してテロリズムを誘発しようとする恐ろしいテロリストのようにも見える。オウムやウサマ・ビンラディンなんてもんじゃない。政界に深く食い込んで戦争を誘発するその様は、あたかも現代において差別的なユダヤ人陰謀論や反共主義者による過剰な共産主義陰謀論、あるいはトランプ支持者によるディープステート陰謀論、ネトウヨによる在日陰謀論のような非実在的で荒唐無稽な状を含んでいる。

 これを見て、そしてここから史記の編者が幾ばくかの内容を改変しつつ引用していることを鑑みれば、史記孔子世家における孔子の不穏さもよくわかる。ここでの孔子は墨子ほどの筆致ではないが、それを幾分マイルドにした程度の記述であるから、ここまで不穏なのである。そりゃ実証を反映させながらマイルドにユダヤ人陰謀論を書き直しても、下地の不穏さは隠せまい……。ここでわかることは、「孔子がどう見られていたか」である。孔子は当時の人に陰謀家として見られ、そして史記もある程度これを踏襲しているのである。

 ちなみに、墨子の記述のうち、子貢が孔子の提案で斉に使者として訪れ、田常氏に働きかけて呉の討伐を唆し、その後に斉を滅ぼさせたという話は、他の史書には記されていないものの、子貢が田常に使者として出向き、斉の国家を転覆するように唆したという、これに近い話が史記に採用されている。但し、墨子では孔子の個人的恨みを理由としているように描かれるのに対して、史記では祖国の魯を守るためとしている。先では史記が墨子を元に書かれたとしたが、もしかすると共通の史料があったのかもしれない。しかし、いずれにせよ不穏な形に解釈せざるを得ないわけである。

 そして、他の支署では子貢が斉に出向いて田常を唆したという記事は他には見られないものの、春秋左氏伝でも子貢が田常に使者として出向いている記事だけは存在し、韓非子にも子貢が使者として斉に出向いた記事が存在する。また、斉ではなく越を訪れた子貢が越の王を唆し、呉を滅させたという記事も見られる。おそらく、墨子の記事は、この越への使者となった逸話と斉を訪れたという逸話がごっちゃになっているのだろう。斉以外において子貢がさまざまな国に使者として出向いた記事は他にも多数掲載されており、子貢が昔から外交官として有名だったのは確かなようで、その裏に陰謀が存在するとしているのは墨子や史記だけではない。これは孔子死後のことも多く含むため、どこまで孔子と関係があったかは疑わしい。しかし、子貢の背景には陰謀の存在が察され、これが師の孔子にまで疑惑が及んでいたのは間違いない。

 実際、仮に魯公の後を追って斉を訪問したのが事実であるとして、その上で孔子が怪しくないとできるような行動があるとすれば、すぐに斉公に身柄の返還を要求し、それが断られて帰国した場合くらいであろう。それなら一応は魯公の忠臣か、あるいは魯国の命を受けた正当な使者と見ることができる。逆に、これ以外の可能性は、ほぼ斉へのスパイか魯への外患誘致をもくろむ危険人物である。孔子が陰謀家として疑われたことについては事実であり、しかも疑われるような足跡の記録はあったと言えるだろう。

 墨子の前者の記事は儒家のステレオタイプ的な批判に見えるが(ゆえに史記にも用いやすかったのだろう)、後者の記事は孔子へのイメージが描かれているのだろう。そこには、「人のいないところで謀略を立て、人がいなくなった後で言葉を口にし、正義を執行するにしても人民に公開することなく、策謀を考えるにしても君主と臣下に話を通すことがない。」と、民衆にも君主や貴族にも、何ら行動や目的を明らかにしない孔子が批判されている。また、墨子の「儒とは傲慢で自分に従順な者であり、下民を教えることはできません。」史記の「傲慢で自分自身に従順ですので(君主の)下に立とうとしません。」「游說して間借りをしたいと乞うばかりで、国家のために尽くそうとはしません。」といった晏嬰の言葉は、孔子が陰謀家とみられ、秘密裏に国家以外の何らかの目的を有していることが示されている。これが不穏でなくて何だというのか。史記孔子世家の孔子は完全にテロリストである。カッコイイ……いや、恐ろしい。
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