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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

史記孔子世家を読む②

 では、史記の本文に入ろう。訳と訳の間では、相変わらず私がグダグダと小言を書いているから、本文だけ読みたい人は飛ばし読みして引用部になっているところだけを読んでください。


≪漢文≫
 孔子生魯昌平鄉陬邑。其先宋人也、曰孔防叔。防叔生伯夏、伯夏生叔梁紇。紇與顏氏女野合而生孔子、禱於尼丘得孔子。魯襄公二十二年而孔子生。生而首上圩頂、故因名曰丘云。字仲尼、姓孔氏。

≪書き下し文≫
 孔子、魯の昌平鄉の陬邑に生ぜり。其の先(さきつおや)は宋人なり。孔防叔と曰ふ。防叔、伯夏を生み、伯夏、叔梁紇を生めり。紇と顏氏の女、野合にして孔子を生む。尼丘に禱(いの)りて孔子を得。魯襄公二十二年にして孔子生まる。生まれながらにして首(あたま)の上は頂(いただき)を圩(くぼ)め、故に因りて名づけて丘と曰はふと云へり。字は仲尼、姓は孔氏なり。

≪現代語訳≫
 孔子、魯の昌平鄉の陬邑に生まれた。彼の先祖は宋人で、孔防叔という。孔防叔が伯夏を生み、伯夏が叔梁紇を生んだ。叔梁紇は顏氏の女と野合して孔子を生んだ。尼丘で禱(いの)って孔子を得たのである。魯襄公二十二年に孔子は生まれた。生まれながらにして頭頂部が窪んでいたので、それに因んで丘と名付けたと伝わっている。字は仲尼、姓は孔氏である。

 孔子の先祖と出生に関する記述である。孔子の出生には祈禱が絡んでおり、神秘的な色彩を帯びている。後世においては、孔子が生まれると龍や鳳凰が舞い踊っただとか天女が音楽を奏でながら雲に乗って降りてきたとか、麒麟が家を訪れたとか、そういった伝承に発展するが、それと比べればおとなしい。

 ここでの「野合」とは、「正式な婚姻ではない」と解される。しかし、ただ庶子と述べられずに「野合」とあることから、ここでも様々な憶測を呼ぶことになる。
≪漢文≫
 丘生而叔梁紇死、葬於防山。防山在魯東、由是孔子疑其父墓處、母諱之也。孔子為兒嬉戲、常陳俎豆、設禮容。孔子母死、乃殯五父之衢、蓋其慎也。郰人輓父之母誨孔子父墓、然後往合葬於防焉。

≪書き下し文≫
 丘生まれて叔梁紇死に、防山に葬らる。防山は魯の東に在り、是れに由りて孔子、其の父の墓の處(ところ)を疑ふも、母之れを諱(さ)くるなり。孔子、兒と為れば戲(あそび)を嬉(よろこ)び、常に俎(まないた)と豆(たかつき)を陳べ、禮の容(かたち)を設くる。孔子の母死なば、乃ち五父の衢(ちまた)に殯(かりもがり)するは、蓋し其れ慎むなり。郰人の輓父の母、孔子に父の墓を誨(おし)え、然る後に往きて防に合はせて葬れり。

≪現代語訳≫
 孔丘が生まれて叔梁紇が死ぬと、防山に葬られた。防山は魯の東にあり、これにより孔子は自らの父の墓の場所に疑いを抱いたが、母はそれを口にしようとはしなかった。子供の頃の孔子が嬉(よろこ)んでした遊戯は、いつも祭事に用いるためのいけにえを捧げるための俎(まないた)や野菜を盛るための豆(たかつき)を並べ、儀礼の容(かたち)を設ける、というものであった。孔子の母が死ぬと、そのまま五父の衢(ちまた)で殯(かりもがり)をした。おそらくそれが慎み深かったのだろう。郰人の輓父の母が孔子に父の墓を誨(おし)えたので、やっとのことで防山に往って合葬することができた。
 伝承では、孔子が早くに父母を亡くしていることは有名で、この段で既にいずれも亡くなっていることを示している。孔子の父親とされる叔梁紇は魯の戦士であり、祖先が宋からの移民であったといい、史記においてもそれについて記されている。母親の顔氏の娘には顔徴在という名が伝えられているが、これが事実であるかはわからない。

 先ほどの「野合」にもかかることであるが、一説には、孔子の母は流しの巫女で、これがメソポタミアや日本においてそうであったように娼婦の役割をしていたとして、孔子は父の知れない子であったともいわれている。孔子が父の墓を知らず、母親がそれを口にしたがらなかった理由はこれに起因するという解釈である。

 ちなみに、孔子の父の叔梁紇の生没年は不詳であるが、一般に顔氏の娘との野合が70歳程度の頃といわれている。対する顔氏の年齢は14歳から18歳とされており、年齢差が非常に激しい。古来に年齢差婚はないわけではないけど、それにしてもちょっと差が激しい。こうした点も、このような説を生む要因であろう。

 そもそも、孔子が自身の親族について語った記録が論語にはほとんどない。あれほどの分量があり、しかもよく孝行について説いていた孔子の言行録である論語には、父親や母親の話が何一つ残っていない。これは不思議なことである。唯一、論語には孔子が自身の兄の娘の嫁入りについて語る記述が存在している。孔子家語では、この名を孟皮としているが、これも本当かはわからない。

 私が思うに、後に改めて述べるが孔子は宋人の末裔を名乗っていた記録もあることから、後の人がそれらしき魯に移民した宋人で辻褄をあわせようとして、叔梁紇という人物に白羽の矢を立て、ゆえにこうした無理な年齢差が生じてしまった可能性があるような気もしているが、兄の存在が事実なら、孔子も生前に父方の実家について一切述べていないとも思われないので、私のこの説はちと頼りないようにも自分で思う。「叔梁紇という人物は孔子の親族であるかもしれないが、父親であったかはチョット怪しい」くらいのことは考えることができるかな。

 ちなみに、アメリカの哲学研究者であるクリールは『孔子 -その人とその伝説-』において、これらの孔子の出生にまつわる記述を孔子の神聖化のための神話として一蹴し、孔子を文書が扱える程度の下級士族の出自であると推測している。孔子は身分が低くとも自力で官僚として出世したことから、一応は貴族社会に所属する手掛かりがあり、しかも文字を早くに教えられた身分であると考えてのことである。但し、一見すると合理的で説得力があるように見えるものの、中国の文字は巫術の領分であったことからして、孔子の母が巫女であるなら、そこで文字を教わることができる可能性があるので、必ずしも反論になりきれてはいないと思う。

 いずれにせよ、このように儒家思想の開祖とされる孔子の出自は、実のところ不明としか言いようのないものであり、史記の子の記述も、こうした事情を鑑みたものであるように思われる。


 子供の頃の孔子が儀礼ごっこをしているという挿話は、なんとなく現在の中国や日本にも存在する、三歳の誕生日を迎えた児童の前に物を並べ、最初に手に取ったものがその子の一生を象徴するものになるという儀礼を思い起こされる。そういった風習から導かれた挿話なのかもしれないが、よくわからない。

≪漢文≫
 孔子要絰、季氏饗士、孔子與往。陽虎絀曰、季氏饗士、非敢饗子也。孔子由是退。

≪書き下し文≫
 孔子、要に絰(こしおび)をし、季氏の士を饗(もてな)さむとすれば、孔子與に往かむとするも、陽虎絀(しりぞ)けて曰く、季氏は士を饗(もてな)さむとするも、敢て子を饗(もてな)さむとするに非ざるなり。孔子、是れに由りて退けり。

≪現代語訳≫
 孔子は腰に絰(おび)を巻き、季氏が士に饗宴を開こうとしたとき、孔子も一緒に往こうとしたが、陽虎が追い出して、「季氏は士に饗宴を開いたが、あんたに饗宴を開こうとしたのではない。」と言い、孔子はこれによって引き下がった。

 順序から見れば、おそらく孔子の少年期のことであろう。十二歳から十五歳程度を想定しているのだろうか? 陽虎は孔子のライバルとされる人物で、論語にも数回登場する。この挿話が事実であるかはともかく、ここで挿入されることで、陽虎との因縁を印象付けさせられる。

 しかし、ここでも特に強調されているのは、孔子の生まれ身分の低さであるように思われる。上で述べた通り、叔梁紇は戦士とされ、史記においても祖先が宋の貴族とされており、一応は士人のはずである。それなのに陽虎は孔子を士人の子としての身分があるとは認めていない。

 これはどういうことか。これまた上記の通り、孔子は「野合」という記述からして、おとなしく解釈しても非正規の婚姻、解釈によっては父がよくわからない子ということになっている。史記の著者も、ある程度は後者のような考えを意識しているからこそ、この記述があるようにも見える。そのため、ここでの陽虎は孔子を士人の子としての身分を認めていなかったという設定なのだろう。これらの逸話が事実かはさて置き、ここで史記が述べんとしていることは、孔子の出自がよくわからず、当時の人もそう認識していたということであると思われる。

≪漢文≫
 孔子年十七、魯大夫孟釐子病且死、誡其嗣懿子曰、孔丘、聖人之後、滅於宋、其祖弗父何始有宋而嗣讓厲公。及正考父佐戴、武、宣公、三命茲益恭、故鼎銘云、一命而僂、再命而傴、三命而俯、循墻而走、亦莫敢余侮。饘於是、粥於是、以餬余口。其恭如是。吾聞聖人之後、雖不當世、必有達者。今孔丘年少好禮、其達者歟。吾即沒、若必師之。及釐子卒、懿子與魯人南宮敬叔往學禮焉。是歲、季武子卒、平子代立。

≪書き下し文≫
 孔子の年(よはひ)十七、魯大夫の孟釐子病(やまひ)且つ死し、其の嗣(あとつぎ)の懿子に誡(いまし)めて曰く、孔丘は聖人の後、宋に於いて滅べる其の祖(とほつおや)の弗父何、始め宋を有(も)ちて嗣(あとつぎ)は厲公に讓れり。正考父に及びて戴、武、宣公を佐(たす)け、三(みたび)の命に茲(いよいよ)益(ますます)恭しき。故に鼎(かなへ)の銘に云(いは)く、一(ひとたび)の命にして僂(かがみ)、再(ふたたび)の命にして傴(かがみ)、三(みたび)の命にして俯(うつむく)、墻(かきね)に循(したが)ひて走るは、亦た敢て余の侮るもの莫し。饘(かたがゆ)は是に於いてし、粥(こかゆ)は是に於いてし、以て余の口に餬(かゆい)れり、と。其の恭しきこと是の如し。吾、聖人の後は、世に當たらずと雖も、必ず達する者(こと)有ると聞けり。今の孔丘は年(とし)少(わか)かれども禮を好む。其れ達する者(こと)ならむか。吾即ち沒すれば、若(なんぢ)必ずや之れに師すべし、と。釐子の卒(し)せるに及び、懿子と魯人南宮敬叔、禮を學びに往けり。是の歲、季武子卒(し)し、平子代わりて立つ。

≪現代語訳≫
 孔子が十七歳の時のこと、魯の大夫である孟釐子が病にかかって死ぬ間際、彼の嗣(あとつぎ)の懿子に誡(いまし)めて言った。「孔丘は聖人の子孫で、宋で滅んだ彼の祖先の弗父何は、もともと宋の領有権があったのに厲公に嗣(あとつぎ)を讓った。正考父の時に戴、武、宣公を補佐し、三回にわたって命を受けたが、そのたびに益々恭しくなった。だから鼎の銘文には、「一度目の命を受けては身をかがめ、二度目の命を受けては更に身をかがめ、三度目の命を受けては俯き、墻(かきね)に沿って奔走し、余を侮ろうとはしなかった。饘(かたいかゆ)も粥(やわらかいかゆ)もここで炊き、これによって余の口に餬(かゆをいれる)がよい。」とあるのだ。彼はこれほどまでに恭しかった。私は「聖人の子孫は、世間に知られなくとも、必ず達することがある」と聞いた。今の孔丘は年少でありながら礼を好んでいる。彼に達することがないであろうか。私が死没したら、すぐにお前は必ず彼に師事せよ。」孟釐子が死卒すると、孟懿子と魯人の南宮敬叔が礼を学びに往った。この年に季武子が死卒し、季平子が代わりに立った。

 ここで初めて孔子を認める人物が登場する。魯の大夫である孟釐子は、所謂「三桓氏」のひとりである。三桓氏とは、孔子から少し昔の時代に魯の桓公から出た公族で、孟孫氏、叔孫氏、季孫氏の三家に分かれている。彼らは魯国内で権勢を誇る大貴族で、この孟釐子や孟懿子は孟孫氏の家長である。
 これまで本文では孔子の出自に関してさかんに述べられ、そこでは差別に苦しむ孔子が描かれてきたが、孟孫氏は孔子を宋の公族であるとして讃えている。そのひととなりが出自によって讃えられることには、所詮は世襲貴族社会だねえ……と感じるが、それは一旦置こう。この記述がどこまで事実かは知らないが、論語には孔子が孟懿子からの質問に答えるさまが記録されている。

≪漢文≫
 孔子貧且賤。及長、嘗為季氏史、料量平、嘗為司職吏而畜蕃息。由是為司空。已而去魯、斥乎齊、逐乎宋、衛、困於陳蔡之間、於是反魯。孔子長九尺有六寸、人皆謂之長人而異之。魯復善待、由是反魯。

≪書き下し文≫
 孔子貧且つ賤。長ずるに及び、嘗て季氏の史(ふみと)と為れば、量を料(はか)れば平ら、嘗て司職(いけにへ)の吏(つかさ)と為りて畜(やしな)へば蕃(ふ)え息(こ)ゆ。是れに由りて司空と為る。已にして魯を去り、齊に斥けられ、宋衛を逐(お)われ、陳蔡の間に困り、是に於いて魯に反(かへ)る。孔子、長(みのたけ)九尺有六寸、人皆之れを長人と謂ひて之れを異す。魯復た善く待ち、是に由りて魯に反(かへ)る。

≪現代語訳≫
 孔子は貧困かつ身分が低かった。成長すると季氏の史(記録係)となった時には、計量をすれば公平で、司職吏(畜産係の役人)となった時には、家畜を育てれば繁殖してよく育ち、これを理由として司空(工業を司る高級官僚)となった。やがて魯を去り、齊から斥けられ、宋と衛から放逐され、陳と蔡の間で困窮し、そこで魯に帰国した。孔子は身長九尺六寸あり、人は皆が彼を長人と言ってめずらしがった。魯は再度よい待遇を与えたので、魯に帰国したのである。


 最初にやはり孔子が貧困と身分の低さに悩まされたことが述べられ、ここで初めて孔子が官吏として働いていたことが記される。季氏とは上述した「三桓氏」のひとつ季孫氏のことであり、孔子を登用したのは先ほど孔子を子の教育係に任せようとした孟孫氏ではない。なぜかはよくわからない。矛盾するわけではないけど、この間に何があったのか、これらが両論併記的なものなのか、なんとなく気になる。ちなみに、季孫氏は孟孫氏や叔孫氏と比べても特に権勢を誇り、魯公をしのぐほどの勢いがあったという。

 ここでの孔子は計量や畜産を任される吏員としてのをよくはたして季孫氏の覚えもめでたく、建築に関する高級官僚の要職、敢えて現代日本で言えば、道路交通省の高級官僚のような役職に若くして就いたという。ここまで史記の記述では、やたらに孔子の生まれの身分の低さがこれでもかと強調されたが、ここでようやく日の目を見たとみていいだろう。かつて史や司職吏に就いたという記述が正しいのかはよくわからないが、おそらく若いころの孔子の身分が低く、孟孫氏や季孫氏のような大貴族の下で召し抱えられ、出世してきたというのが、史記の基本的な認識のようである。

 しかし、最後の方に孔子が魯から出国して齊、宋、衛で受け入れられず、陳蔡の間で困窮して魯に帰国したという記述がここにあるのはおかしい。孔子が50歳を過ぎてから諸国を巡ったことは有名であるが、この時の孔子は史記においておそらく20代と推定され、この時点での孔子の他国への亡命については、一般にほとんど無視されている。それもそのはずで、この齊、宋、衛で受け入れられず、陳蔡の間で困窮したという足跡は、順序がやや違い、いくらか抜けがあるものの後年の亡命とほぼ同じルートであり、しかも時期はバラバラ、特に陳蔡の間での困窮については、後年60代の頃の孔子の亡命時に受けた「陳蔡の難」として有名であり、これらは史記孔子世家においてもちゃんと記されており、同じことが起こったとはさすがに思えない。これはどう考えても混同か、あるいは先立って後年のことを述べているかいずれかであるし、後者であったとすれば、なぜここで述べられているのかわからない。

 これは漢籍史書の慣習を知らないとわかりづらいことだけど、中国における史書の編纂には「述べて作らず」という孔子の言葉に基づく伝統がある。よく古中国においては史書を「編纂する」というが、これは「集めてまとめる」という意味で、自分の筆によるものではない。これはどういうことか。史書の編纂とは、過去の時点の記録を集め、これらにある程度の手は加えるものの、それは編集の範囲であって、基本的に記録をそのまま使うべきであるとする考えがあった。これは著者の主観を削ぎ落すためである。史記の著者は序文等において、孔子の歴史に関する言葉を引用している。

 また、もともと史記は司馬父子が私的に編纂したものなので、これには当たらないが、中国の史書は、しばしば時の権力者によって歪曲を強いられ、史官もこれに屈して、あるいは自ら取り入って筆を曲げることがあったというのは、ある程度以上の事実であろうが、それでも「そうあるべきではない」という規範は存在し、これをすることは少なくとも恥であった。そして、それを果たす方法論としてあったのが、この伝統である。自らが史書をすべて書き記すのではなく、過去の記録を集積して、基本的にはそのままを用いるという伝統、つまり「そこにある他者の記録」をそのまま用いることを綱領とすることで、史官が記録を守る役割を果たしたのである。

 本文の当該部分は、「季孫氏に召し抱えられた孔子は、そこで出世をしたのに他の国に飛び出して諸国を巡り、しかし全然他国で受け入れられず、結局は俸禄を用意してくれた魯の季孫氏の元に帰ってきた」という意味合いの孔子に関する記録を手にした史記の著者が、亡命の段を削らないまま、この場に用いたのではないだろうか。なんとなく季孫氏に寄った記録のようにも見え、孔子への非難の色彩を帯びているように感じられる。このように怪しい記述ではあるが、一応この時期に孔子が一度魯を出国した可能性を頭に入れておいてもいいかもしれない。

 ちなみに、孔子の身長である九尺六寸は春秋時代において226cmであると言われているが、180cm代であるとか、170cm程度との説もあり、よくわからないが、背が高いという噂があったのだろう。
≪漢文≫
 魯南宮敬叔言魯君曰、請與孔子適周。魯君與之一乘車、兩馬、一豎子俱、適周問禮、蓋見老子云。辭去、而老子送之曰、吾聞富貴者送人以財、仁人者送人以言。吾不能富貴、竊仁人之號、送子以言、曰、聰明深察而近於死者、好議人者也。博辯廣大危其身者、發人之惡者也。為人子者毋以有己、為人臣者毋以有己。孔子自周反于魯、弟子稍益進焉。

≪書き下し文≫
 魯の南宮敬叔、魯の君(きみ)に言(まふ)して曰く、孔子と周に適(ゆ)かむことを請はむ、と。魯の君、之れに一乘の車を與(あた)ゆれば、兩(ふた)つの馬、一つの豎子(おとも)俱(そな)ひ、周に適(ゆ)きて禮を問へば、蓋し老子に見ゆると云ふ。辭して去るに、而りて老子之れを送りて曰く、吾聞けり、富み貴き者は人を送るに財(もちもの)を以てし、仁(ひとよき)人の者は人を送るに言(ことば)を以てす、と。吾の富貴に能はざればこそ、仁(ひとよき)人の號を竊(ぬす)みて、子(そち)を送るに言(ことば)を以てせむ、と。曰く聰明深察にして死に近き者、好く人に議する者なり。博辯廣大にして其の身を危うくする者、人の惡を發(はな)つ者なり。人の子為(た)る者、以て己を有(も)つ毋れ、人の臣為(た)る者、以て己を有(も)つこと毋れ、と。孔子周より魯に反(かへ)り、弟子稍(やうや)く益(ますます)進めり。

≪現代語訳≫
 魯の南宮敬叔は魯の君主に「要請いたします。孔子と周に適(ゆ)かせてください。」と申し上げた。魯の君主は、彼らに一乗の車に二匹の馬と一人の付き人の童子を俱(そな)えて与えた。周に適(ゆ)き、礼について学問にあたった際、どうやら老子に見(まみ)えたといわれている。別れの際、彼らを見送る老子は言った。「私は「富貴の者は人を見送るのに財産を与え、仁人の者は人を見送るのに言葉を送る」と聞いた。私は富貴の者にはなれそうもないので、ここは仁人ということにして、そなたらの送別に言葉を送ることにしよう。」と言って、「聡明で深い洞察力があるのに死に近い者は、人との議論を好む者だ。博学で弁舌も達者なのに自らの身を危うくする者は、人の悪事を告発する者だ。人の子たる者、自己を捨て去るがよい。人の臣下たる者、自己を捨て去るがよい。」と言葉をつづけた。孔子は周から魯に帰国すると、弟子が少しずつ、確実に増えていった。
 ここで南宮敬淑という人物が魯公にお目通りし、孔子と一緒に宗主国の周に留学したいと要請し、それがかなって老子に師事したことが述べられる。南宮敬淑は魯の貴族で、史記の別の列伝では孔子の弟子とされている。しかし、このさまを見ると、孔子の学友や理解者という感じで、弟子という感じはしない。史記の仲尼弟子列伝で孔子の弟子とされる人物には、このように本当に弟子か疑わしい人物が複数存在する。

 ここで孔子が自ら魯公に進言せず、南宮敬淑の随伴という形で留学をしているのは、これまた孔子の生まれ身分が低く、この時はまだ魯公に直接進言できる立場にないことを表現しているように思われる。史記の編者はやたらと孔子の生まれ身分が低いことを強調する。しかしこれゆえに、古式ゆかしい貴族社会にありながら、周囲に孔子の理解者が多数存在することが一層際立つのである。

 老子は史記においては列伝の第三に序せられ、道家思想の開祖として有名であるが、実在が疑わしくもある人物である。ゆえに孔子が老子に師事したという伝承も有名ではあるが、事実かどうかは疑われており、史記の時点で既に「蓋〜云(どうやら~だという言い伝えがある)」という構文で記されている。

 孔子と南宮敬淑が留学を終えると、指導にあたった老子は突如としてTwitter批判を始める。「聡明で深い洞察力があるのに死に近い者は、人との議論を好む者だ。博学で弁舌も達者なのに自らの身を危うくする者は、人の悪事を告発する者だ。人の子たる者、自己を捨て去るがよい。人の臣下たる者、自己を捨て去るがよい。」人臣だからどうだという身分制度に基づいた話をしてくるからそのへんは全然受け入れらんないし、悪事の告発を否定するのも一面どうかと思うものの、全体を通して意を汲めば、Twitterの連中を思い起こして然り然りと言いたくなる一方、自分が聡明で博学かはさて置き、我がことを顧みてもまあ耳が痛い……。言葉を切り出す前の諧謔に富んだ言い回しといい、さすがは老子といったところか。「ここは仁人ということにして」と訳した部分は「吾の富貴に能はざればこそ、仁(ひとよき)人の號を竊(ぬす)みて、子(そち)を送るに言(ことば)を以てせむ」であり、直訳すると「私は富貴の者にはなれそうもないので、ここは仁人という称号を盗んで、そなたらの送別に言葉を送ることにしよう。」であり、本当に諧謔に富んでおり、とても上手い。

 最後は孔子に弟子が多く現れたことが記される。周に留学して老子の教えを受けることで、学者としての実力も権威も高まったという描写だろう。30歳程度のことであるから、なんとなく教え子からしても親分というより兄貴分という風情が想像され、この記述が正しいなら、論語に登場する孔子の弟分風の子路などは、この頃に弟子入りしたのだろうか……なーんて読む人の想像力が掻き立てられる文章である。孔子は教育者としてこそ有名であるが、彼が弟子を取り始めた時期というのは実際のところ、よくわからない。史記では、この時期だとある程度同定しているのだろうか。

 思った以上に私の小言が長くなったので、ここで一旦切る。次回はここまでの小括。

 先で述べたように、私は史記の孔子世家は以前に訳文で読んでいるし、実はこの時点で本文の現代語訳もずっと先まで進んでいて、ここで一旦切るのも分量が思ったより膨大となったからである。なので、この後のことも一応は知っている。

 ここまで史記の記述について、私はほとんどを事実であるかどうかわからないとしてきたし、それはこれからもそうである。史記の記述が事実であるかどうかなど、ある程度は考察できるけど、究極的には私にわかりようがない。しかし、史記孔子世家をひとつの物語と見なせば、これまでの本文の記述は後々生きてくる伏線となっている。孔子の出自に関しても、老子の言葉についても、物語としての意味を含有している。それを中心に今後とも読解していきたい。
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