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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

カツはアムロ以上のニュータイプ
 私はガンダムオタクではない。ガンダムシリーズとか、ガンダムワールドとか、そういうものに関する知識を収集してデータベースの基づいた正誤判断をするだとか、そういう趣味はない。だから、『機動戦士ガンダム』という作品は、その機動戦士ガンダムという単独で完結した作品として一度評価すべきだし、これが制作された時点では機動戦士ゼータガンダム以降のシリーズは存在しないどころか、続編そのものが意識さえもされていなかったことを前提としなくてはならない。『機動戦士ガンダム』は、『無敵超人ザンボット3』などがそうであるように、それ単体として制作された作品である。
 続編の存在によって歪められたキャラクターとして象徴的なのは、たとえばカツである。私が「カツはアムロ以上のニュータイプである」といった話をすれば、必ず反発を受ける。もちろん、その理由のもっとも大きいところは、続編の『機動戦士ゼータガンダム』であろう。こちらでのカツは、主人公カミーユからニュータイプ能力によって自ら感応したものについて尋ねられても、なんだか的外れな回答をしたり、ニュータイプ能力があるのかどうかさえよくわからない、少なくとも非常に劣った存在として描かれている。だから、ガンダムシリーズの設定データベースのみを前提とすれば、アムロ以上のニュータイプだなんて、まったく考えられないだろう。
 以下、シリーズ物の人気アニメとして様々な「後付け」がなされた機動戦士ガンダムという作品について、いったんそれを引きはがして作品単体の内容を整理するために、それだけを視れば当たり前に得られるものだけを取り出す「読解」をしようと思う。

 機動戦士ガンダムの物語で描かれるテーマは、まずひとつとして、戦争の過酷さであろう。そして、その戦争の過酷さは、もちろん暴力、殺人、そういったものの過酷さでもあるが、なによりも集団と集団の争いによって、個が圧殺されることの過酷さである。ガンダムで描かれているのは、「どちらにも正義はある」なんて話ではない。ジオンは地球に宇宙に浮かべられた人工居住用を地球に落として億万の人を虐殺したり、兵士に対して一般人の子供を殺すように指示を出したり、条約で禁止されている核兵器を用いたり、やっていることはめちゃくちゃである。もちろん、連邦軍も兵士たちを駐屯地に置き去りにしたり、その見捨てられた兵士たちが自棄になって地域住民に無法を働くシーンなどが描かれる。アムロたちホワイトベースの少年少女たちは、その連邦の官僚主義に翻弄されることになる。彼らにとって、連邦軍は内側の、ジオン軍は外側の理不尽である。
 残虐非道を繰り返すジオン軍も、その中にいる兵士たちは、連邦側の避難民に自己判断で救援物資を送ったり、自分が仕掛けた爆弾に子供が巻き込まれそうになると逃げるように声を荒げたり、話してみれば意外と気のいい奴だったり、困窮する弟たちのためにやむを得ず軍に協力していたり、そういった描写は、残虐なジオン軍人も個人で見れば善良な人たちがいる、という話であって、ジオン軍が正義の軍隊という話ではない。ククルス・ドアンが子供を殺せとの軍の命令を拒絶し、自らが家族を殺した子供を引き取ってジオン軍を離れたのも、集団によって個人が圧殺されることから逃れたがゆえである。本作で描かれる連邦軍とジオン軍という陣営は、いずれも個人のパーソナリティを圧殺する装置、システムとして描かれている。
 連邦もジオンも、組織としては巨大で不気味な存在としてしか描かれていない。弟の死を国威高揚に利用するギレンなど、その象徴である。あのシーンで、アムロは集団にただ恐懼している。このアニメは典型的な少年アニメの文法であるから、主人公のアムロは常に正しい。誰もが正しいのではなく、アムロが正しい。ギレンは、集団主義に一切の葛藤のない存在である。
 分かり合えるはずの個人と個人が、常に殺し合いを強制され続ける、それを描いたのが本作である。そして、憎むべきは敵対した陣営の人々ではなく、戦争という状況そのものであると示したのが本作である。ゆえに、本作は一つの矛盾に直面する。その戦争という極限状態を脱するためには、戦争を続けるしかない、という矛盾である。

 機動戦士ガンダムは子供向けアニメである。そんなある種の「現実」など、ただ見せられても困る。子供にそんなものを見せていいものか、メディア倫理として非常に問題がある。それに対する回答を提示しないといけない。そこで登場するのが、ニュータイプの概念である。
 本作におけるニュータイプの登場は、正直唐突なもので、はっきり言ってちょっと理解が追いつきづらい、簡単には承認しがたいものであった。突然、これまでまったく登場しなかった超能力的存在に主人公が目覚められても、面食らうしかない。しかし、これこそが本作のテーマに対する答えであった。

 このニュータイプとは、テレパシーのようなものとして描かれているが、これは「戦争という極限状態であっても、個人と個人が分かり合える」その象徴であり、またニュータイプという名前の通り、次世代の象徴でもある。だから本作の最終話で、ジオン軍の現指導者たちを憎みながらジオン軍に参加するエースパイロットのシャア・アズナブルと、不本意な形で連邦軍に参加した一般人の少年アムロが、互いにニュータイプであるがゆえに、殺し合いの戦闘を一応は途中でやめるに至った。そして、アムロはホワイトベースのクルーたちに、戦闘を切り上げて脱出するようにテレパシー能力で誘導を行う。

 本作のラスト。連絡が途絶えたまま、いつまでも帰還しないアムロに対して、ブライトの指示でセイラがニュータイプ能力による誘導を試みる。セイラがアムロ以外で一番ニュータイプ能力が高いからである。しかし、どれだけ能力を行使しようと、アムロの存在は感じられない。アムロはもう爆発に巻き込まれて死んだのか。

「人間がそんなに便利になれるわけ……ない」

 ひとりごちるセイラの横で、カツ、レツ、キッカの三人がアムロの名を呼びながら、誘導指示のようなものを出している。三人がアムロの存在をキャッチし、ニュータイプ能力によって交信しているのだ。何の変哲もない幼子たちが、モビルスーツに搭乗したこともない、当然ながら非戦闘員の幼子が、アムロ以外で最もニュータイプ能力が高いと目されていたセイラにも発見できなかったアムロの存在を探知した。さらにはアムロがしていたような誘導も容易くこなしている。先ほどはニュータイプのアムロがオールドタイプの仲間たちを誘導していたが、今度はそのアムロに対してカツ、レツ、キッカが誘導をしているのだ。
 二つの陣営が躍起になって探した、そして戦争で圧倒的な力を見せたニュータイプ、最大のニュータイプであったアムロよりも強大なニュータイプが、これほど身近なところに現れた。なんの変哲もない平凡な幼子たちである。過去の人ができなかったことが、未来の人は容易くできるようになる。殺し合いに疑問を抱きながらも戦争に埋没せざる得なかったアムロがオールドタイプとなる、そんな次世代が待っているはずだ。
 第二次世界大戦が終結したのちも、世界各地での戦争はまったくやむ気配はない。大日本帝国を打倒したアメリカは日本と同様に各国に侵攻を繰り返し、それに対抗するソ連も恐怖政治を敷き、ナチスに弾圧されたユダヤ人たちがつくりあげた民族国家はナチスのような民族排外主義と虐殺に明け暮れている。第二次世界大戦と何も変わらず、集団と集団で個人を圧殺し続けている。結局、人類はいつまでも変わらないのか……。
 そんなはずはない。人々は時代とともに、困難を乗り越えてきた。人はいつか戦争を乗り越えることができる。私たちは、その過渡期にいるのだ。個人と個人とが、わかり合える時代がきっと来る。その未来の象徴が、カツ、レツ、キッカという何の変哲もない無邪気な幼子のニュータイプたちなのである。アニメ制作側の大人たちを含め、古いタイプの人々ではできなかったこの状況の解決を、いつかしてくれるはずだと信じている。
 このカツ、レツ、キッカとは、次世代を担うテレビの前の子供たちである。



 機動戦士ガンダムのラストは、本当に綺麗な終わり方だと思う。メッセージに同意するとかしないとか、そんなところはどうでもいい。私だって、こんなにあっけらかんとした進歩史観にはついていけないし、それって自分が結論を出さないことへの逃げじゃんって思うよ。でも、そういうことはひとまず置け。とりあえず、ここにゼロポイントがあるんだ。以上は、面白味のない、こうとしか読めない、当たり前の読解である。読み取ってるだけだから、私の主張なんてしてねーんだよ。マジで『機動戦士ガンダム』って作品は単体だとこうとしか読めないだろ!?
 で、その期待された子供たちが今のオタクどもなのだから、ガンダムの続編がああなったのもそういうことである。
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