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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

北斗の拳における秩序と暴力、その変遷① 修羅の国には秩序がある。

 『修羅の国』というネットスラングがある。これは暴力が野放図にされ、力のみが支配する無秩序な地域の譬喩、特に福岡県を指す。

 福岡県にはヤクザの本部が5つも存在し、その中の工藤会は機関銃や手榴弾を所有する武闘派であることから、現在の日本では珍しい銃撃事件が数多く発生しており、住民生活は脅かされ、やくざの襲撃によって町長が射殺される事件なども発生している。そのため警察も対策専門部署を用意して100人以上の監視員を24時間体制で動員し、手榴弾の発見に10万円の懸賞金をかける等の他の地域では見られないような対策を取っており、更には銃の流出もよくあるためヤクザならざる中学校教員までもが拳銃所持で逮捕される事件が発生する等、このような惨状から修羅の国と呼ばれているわけである。要は武闘派のヤクザが暴れているから、それを誇張して「修羅の国」と呼んでいるわけだ。そこから発展して、現在のように「修羅の国」は無秩序な暴力を表現した呼称となった。

 ネット上では無秩序の象徴として修羅の国を持ち出す例が絶えない。日本のネット上では、なにやらヤクザが銃撃戦をやらかせば、やれこの県は修羅の国だ、暴走族や半グレが集団暴行事件を起こせば、やれこの市は修羅の国だと騒ぎ立て、修羅の国だと表現される。

 確かに修羅の国は、作中では武の掟によって統治され、男子の生存率は1%と語られており、極めて危険な国家であることは間違いない。男子の生存率は1%て。


通常なら逆に女性の発言力がめちゃ強くなりそう……。

 しかし、である。作中の修羅の国には半グレやヤクザのような国家とは別の独立した暴力組織などあっただろうか? ない。あるはずがない。作中のジード一派やジャッカル一派のような野盗集団が修羅の国に存在できるかと言えば、できないのである。そんなものが国内に存在していたら、あっという間に殲滅されてしまうからだ。

 また、作中には赤鯱という海賊が登場し、やくざ者の武装集団を結成して近海を襲っているが、かつて100人の海賊を率いて修羅の国に赴いた際には、沿岸の警備を担当していた修羅の国の下級戦闘員であった子供ひとりにあっさりと蹴散らされている。男子の生存率1%の過酷な訓練は伊達ではない。赤鯱自身も腕と脚を一本ずつ失い、自らの息子まで置いて逃げることになってしまったため、彼らは以後に修羅の国に近寄ろうとはしなかった。このように、修羅の国には外部から暴力集団が侵入することもできない。


子供の下級戦士でさえこの実力! というのが修羅の国の触れ込みだった。……当初は。

 よって、国家とは別の暴力集団が5つも国内に存在する余地は修羅の国にはないし、作中にも存在していない。複数のヤクザ組織が相争い、警察にも手に負えないような地域の譬喩として、修羅の国はまったくふさわしくないだろう。

 これはおそらく先行して存在した同作由来のネットスラングの「モヒカンヒャッハー」と混同されて用いられているからである。こちらは作中において、無秩序な荒野を通りかかる通行人や、秩序を形成しつつある村落を襲撃し、村人を次々と殺す無法者の野盗集団、それらが人に襲いかかる際にあげる奇声に由来した表現したものであり、これなら確かに福岡県の様態の表現としてふさわしい。

 しかし、こうした野盗は第一部の、特に前半における主要な敵キャラクターであって、第二部の修羅の国には登場しない。理由は上記のとおり、修羅の国では一種の『警察』や『軍隊』に絶滅させられるからだ。


これは福岡県の現状であって、修羅の国にはあり得ない光景。

 あくまで北斗の拳におけるモヒカンの野盗は、体制と秩序を失った世界における無秩序な暴力の象徴である。こうした状況の表現として、当初は「モヒカンヒャッハー」が用いられたが、これは状況の形容であって地域を形容するスラングではない。そこで地域を指して揶揄するために持ち出されたのが「修羅の国」という表現であろう。名前にインパクトがあるし、モヒカンヒャッハーと同じ作品に由来する国名(地域名)であり、確かに同じく暴力によって一般人を虐げる存在ではあるので、雑に混同されて用いられてしまっているのだろう。事実、「モヒカンヒャッハー」と「修羅の国」は、同じ状況の表現において並列して用いられる場合も多い。

 しかし、作中での修羅の国は決して無秩序な社会ではない。むしろ過剰なまでに秩序立った社会である。

修羅の国のみなさんが謎の組体操をするイメージ図は、上下関係に基づく秩序ある身分社会の証左。

 まずこの国には、羅将という国家の首長の下に郡将という地域の首長が配置されており、制度的な統治機構を有している。つまり、修羅の国は明確な領土を有し、それを支配する紛れもない国家である。そして、国内で人々を虐げる存在は、あくまで体制に公認された『修羅』と呼ばれる特権階級なのである。修羅は国の体制内の存在なのだ。言ってしまえば、修羅は公務員であり、あるいは貴族である。

 そして、なにより修羅の国の支配体制を鑑みるために重要なのは、『ボロ』という賤民の存在である。修羅になれなかった者や落ちこぼれた者は、『ボロ』に身分を落とされ、一生を賤民として過ごさねばならない。ボロとなった者は、全身をボロ布で覆い、場合によって足の腱を切られ、国内の雑務に使役されながら公然と差別される存在である。ここに修羅の国の成熟した統治システムの存在を読み取らなくてはならない。この「ボロ」のような明確に示された社会制度的かつ文化的に規定された身分としての賤民は、北斗の拳の第一部には、まったく見られない要素である。


北斗の拳だとかなり異質なデザイン。

 また、漫画というメディアは、絵的から描写の意図を読み取ることが重要である。秩序のない世界から始まる北斗の拳において、登場人物は概ね動きやすいTシャツと短パンや、頑丈かつ邪魔にならないジーンズや皮かデニムのジャケットを着用し、あるいは肩パットや鎧のようなもので武装しているが、ボロはダボダボのローブのようにボロ布を纏っている。これは秩序において戦闘からかけ離れた内務の担当者であることや、反乱を起こさぬように抑圧された存在であることが示されている。また、不具者やそれに類する存在であることを示すように腰が曲がり、ひとりの人格を有さないものとして扱われていることを示すように、ガスマスクで顔が覆い隠されている。こうした描写から、彼らが異質な存在だと読者に強く印象を与えるとともに、作中の意図として、制度によって公認された賤民という、これまでなかった役割を有する存在だと示されるのだ。

 そして、特権階級の修羅にも等級がある。まず、12歳以上の男子は国家が定めた修練場で特訓と死闘を繰り広げる。しかも、まだ彼らには個人の名が与えられず、仮面をつけることが義務付けられる。これはつまり、彼らが半人前、人間未満として扱われていることを社会的に位置づける文化である。こうして15歳までに100回の死闘を勝ち抜くと、ようやく修練場を抜けて正式に修羅となることができるものの、まだ彼らは仮面をつけたまま、名前を許されることなく治安維持部隊などに編入される。ここで更なる成果を挙げた者だけが、仮面を外し、名を得ることが許される。また、結婚も更なる死闘を勝ち抜いた修羅に与えられた特権であり、配偶者は国から進呈される。よって、女性は結婚と出産のための道具に過ぎない。この過程で死闘に敗れながら命は保った者等がボロになる。

 このように「ボロ」「仮面」という国家が制定した服飾や「名」という社会関係上の「称号」という文化的社会的スティグマによって人の上下尊卑と栄辱は視覚的にも社会関係においても可視化され、人の尊厳を体制に公然と組み込み、国家の存在そのものをも正当化するのが修羅の国である。修羅は街で女性を取り上げ、あるいは反乱を企てたボロを惨殺し、後半では反乱の鎮圧のために村ひとつを丸ごと処刑する。これは民衆を虐げるという意味では野盗と同じであるが、これらはあくまで領域国家の公務員による国内の社会治安の維持活動や貴族の儀礼と特権なのだ。

 おそらく、修羅の国のモデルのひとつとなっているのは、古代ギリシャの都市国家スパルタであろう。ギリシャには市民と賤民の別があり、スパルタにおける賤民は永遠に市民となることはない。市民から生まれた新生児は政府に公認された役人に見定められ、虚弱な者は山に遺棄される。成長して7歳になると家庭から取り上げて政府主導で共同生活を送らせ、12歳以上になると軍事調練が始まる。軍人としての勇猛さを示す行為として、彼らに対して賤民に対する暴力や盗みが、むしろ奨励された。18歳で国家の承認を得て正式に市民となるが、従軍が義務付けられ、そこで臆病な態度を見せれば、髭の半分を刈られた状態で生活することを強制され、あらゆる共同体から追放される。まさしく修羅の国であるが、スパルタもまた、古代世界においては非常に高度な文明を有しており、治安維持に長けた極めて秩序立った都市国家だった。賤民が反乱を企てているという噂があれば、それだけで処刑部隊を送り込んで虐殺し、国家が成熟すればするほど、賤民への弾圧は苛烈になっていった。暴力の支配と序列によって秩序を形成したのである。

 これに近いイメージの社会を近代から探すなら、それは福岡県よりもイタリアにおいて治安警察に強権を付与し、マフィアを根絶したムッソリーニのファシズム党だろう。あるいは、優れた者だけが生き、弱き者は死ぬか隷属すべきだとする修羅の国の在り方は、ナチス政権の優生思想とも近似している。作中でもボロの間で救世主『ラオウ』の到来とともに解放されるとする信仰の存在が描かれており、これはおそらくナチスに弾圧されたユダヤのメシア信仰がモデルであろうから、修羅の国のモデルにはナチス体制が含まれているのかもしれない。また、ヤクザよりもそれを「疑わしきは罰する」という形で罪に問える暴対法の方が修羅の国に遥かに近い。

 修羅の国の正体とは、体制なき無秩序や体制外の暴力集団によって危険に陥った国家ではない。苛烈な序列を形成することで、強権的な治安維持を行ないながら、無秩序な世界における暴力集団以上の抑圧と収奪を生み出した国家なのである。

 北斗の拳の修羅の国編において描かれていることのひとつは、この苛烈な秩序による暴力と収奪への抵抗である。そして、第一部と比較して評判のよろしからぬ第二部自体、意図してかせずにか、このテーマが冒頭から一貫して描かれているのである。このシリーズでは、それについて論じよう。



 あ、一つだけ言っておくと、


 お前の考え方がよほど修羅の国に近いぞ。

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