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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

【論語私箋】現在に至る道

≪原文≫
 子曰、温故而知新、可以為師矣。

≪書き下し文≫
 子曰く、故きを温(たず)ねて新しきを知る、以て師と為す可し。



 本章句は、『温故知新』という故事成語にて有名であり、これは「古いことを学ぶことで新たな発見ができる」という意味で解釈されてきた。しかし、古いことから新しいことを見いだすことが、なぜ師となることにつながるのだろうか。この解釈では前段が後段の『師』という概念と十全に接続されていないように思われる。
 
 古いものを古いというだけで棄却せず、そこから新しいものを見いだす者、それは確かに有能な発明者である。しかし、師となるために有能な発明者であることは絶対的な条件ではない。孔子自身、「私は過去を祖述するだけで、自らの独創はしない。自身の信念に基づいて先人の業績を愛好しているだけである。私はひそかに、自分の役割は八百年間歴史を語り継いだ伝説の語り部彭祖に比肩するものだと自負している。(※1)」と述べている。彭祖は過去に起こった事実を述べただけで、自ら創作をしたわけではない。孔子は自ら独創的な発明をしていないと主張し、書物のない時代を生きた伝説の語り部彭祖を自らと同一視していた。発明者であることは弟子を教導するための絶対的な資格ではない。

 ところで、師とは相対的な存在である。師は古義では、軍隊の指揮官であったが、ここでは教導者、教師のことである。軍隊の指揮官に指揮される兵士が必要なように、教導者には教導される弟子が必要である。
 師という語から連想される者と聞いて想像を喚起されるもの、年長者、有職故実や古典などの学識が深い者、伝統的な技術に通じた者……こういったイメージに発想を引きずられ、具体的な特性を検討することに気が回らず、ついつい従来的な解釈に納得してしまうのは理解できる。しかし、本章句を正確に解釈するなら、後段に現れる『師』の特性に対して、よりスムーズに接続できる解釈を前段の『温故而知新』に施すべきであろう。師の本質は弟子との関係にある。

 弟子と師が相対的な概念であるのと同様に、『新』は時間における相対的な概念である。弟子と師の概念が互いの存在を必要とするように、『新』にも過去の存在がなければ成立しえない。
 『新』とは何であろうか。「古いことから新しいことを学び取る」という『温故知新』の従来的解釈は、欧州におけるルネッサンスなどの古いものから革新的な概念を発見する歴史的事象を想起させる。また詩経には『周は旧き邦であるが、その天命は新たなものである(※2)』という一節も登場し、これは古くからある周という国が新たに天命を受けて時代を築くという意味で維新の語源となったが、これも「温故知新」という古事成語と重ね合わされる。維新にせよ、ルネッサンスにせよ、その後の未来を切り開く印象が強烈であるために、ついつい『新』という語の含意に、我々は過去との対義語として未来を見出してしまう。そのために、ついつい「過去のものから新たな発明を着想する」という解釈を施してしまうのだ。
 しかし、『新』という概念には『未来』という含意はない。あるいは極めて二次的な含意である。『過去』との対比において、『新』という語が直接含意する所は『現在』である。それは、最新という語が現在そのものか、あるいは過去の中で最も現在に近い時点を意味することからも明らかである。100年前の技術と対比して昨日や今日に発明された技術を最新と呼ぶことはあれども、100年後に開発されると想定される技術を現在から見て最新技術と呼ぶことない。先述の『温故而知新』という前段において対比されているのは、過去と現在である。

 また、『温故而知新』における過去は『古』ではなく『故』の字が当てられている。『故』とは何か。第一義には「事の起こり」「原因」であり、第二義には「経歴」「来歴」である。『故』で示される過去とは、現在に至るまでの過程であると考えられる。また、『温』は『温習』という語があるように、確認することである。温故とは「これまでの過程を確認すること」であると解釈できる。

『これまでの過程を確認することで現在を理解することができる者に、弟子たちを教導する師となる資格がある。』

 このように本章句を解釈すれば、従来の解釈とはまったく違った景色が見えてくる。

 人は何も知らずに、赤子としてこの世界に生れ落ちる。赤子には現在しかない。目の開いた赤子の眼前に家が建てられていても、それを”建てられた家”とは認識しない。土台を築き、柱を立て、床を張り、梁を渡し、屋根をかけ、壁を塗って戸窓を開けた”家に至る過程”を赤子は認識できないのである。赤子には『新』しか存在しない。『新』は過去との相対的な存在であるが、赤子にとっては『新』が絶対である。ゆえに『新』が『新』であることも知ることができない。その赤子に『故』を辿らせ、その果てに『新』を位置付ける営為が教育である。

 もし、この赤子が誰にも何も教わることなく野山に放り出されるとしたら、目の前の家を建てる方法を着想することができるだろうか。ただ一人で誰にも学ばず手本となるものもなければ、ほとんどの場合は一生をかけても斧をつくり木を切るところまでも、おそらく行き着かないはずである。言語も同様で、現在のような複雑な言語を構築することは一代では成し遂げられず、幾ばくかの種類の鳴き声を発明するにとどまるであろう。そのような野生の人類が何千何万集まろうと、一代でコンピュータが発明されることはない。このように、人類が一代のみ存在していても、その有様は所詮動物の一種として他との差異を見出すに足らない存在である。
 しかし、生物の進化は歩みが遅いが、人間の生活は原始から古代、中世から近代にいたる過程で激変している。なぜか。人間が教育という形で過去の事業を引き継いだからである。荀子は言う。「君子と他の人々は生来によって差異があるわけではない。君子は善く物に仮(借り)るのだ(※3)」と。『学』とは、人からの『仮(借りること)』によって成立している。

 我々は時間の中に生きている。現在は過去との連続性に成立している。荀子は言う。「干越夷貉――いかなる民族の子であれども、生まれたばかりの赤子は同じ声で泣くのに、成長するとまったく違った言語を話し始める。これは教育がそうさせているのだ(※4)」と。赤子という素体はあらゆる民族に関わらず似通った性質を持って誕生するが、それ以後に教わったもので性質が異なる。論語では人間について、「うまれつきの性質は似通っているが、習俗は異なっている(※5)」と述べられている。
 赤子が教わった民族の言語は、この赤子が生まれる以前から存在する。そして、言語はその過去、その過去から更にその過去、変化を繰り返しながら連綿として受け継がれてきたものである。言語には、現在を成立する過程が存在している。
 言語に限らず、技術、儀礼、音楽、料理……赤子が生まれたのち、大人になるまでに教育されるものは、その赤子が存在していない時から連綿と続く過程を持ち、時と共に人々により肉付けされ、あるいは削ぎ落とされ、現在に引き継がれてきたものである。赤子は自らが誕生する以前を、自らが引き継ぐことで大人になり、自らもそれを変化させながら、次世代へと引き継ぐ。赤子は成人するにあたり、他者であった過去との連続性に自己を位置付けられる。

 また、これは孔子の教えにおける根本原理である仁とも、儒教における孝の概念とも連続している。孝とは肉体的に過去からの連続性がある両親との精神的な繋がりである。そこから孔子は血縁に由らぬ人から人への思いやりの心『仁』を抽出した。仁とは、他者を自己に重ね合わせること、則ち、他者を自己として受け入れる営為である。それは、自己の存在以前の過程『故』から現在『新』に至るまで学んできた他者である師を、自己として受け入れる営為、則ち『学』にも通じている。そして、孔子と顔回がそうであったように、師弟は血縁を越える関係である。人は『学』によって技術を、知識を、精神を、まるで蝋燭の灯のように、人から人へと伝えることができる。

 孔子は言う。「これが民衆だ。夏、殷、周――これら三代の王朝すべての文化が連続していることは、他でもない彼らが証明している。(※6)」と。また、孔子は弟子の子張に未来を知ることができるかを質問されて、次のように答えた。「殷王朝は夏王朝の文化を引き継いでいる以上、それらを比較検討すれば、何が切り捨てられ、何が追加されたかを知ることができる。周王朝は殷王朝の文化を引き継いでいる以上、それらを比較検討すれば、何が切り捨てられ、何が追加されたかを知ることができる。これらの歴史法則を解析すれば、周の文化を引き継いだ後も、百世先であろうと知ることができる(※7)」と。孔子は、現在存在する人間の文化が過去からの連続性の上に存在することを知っており、それらを取捨選択することで現在に至る人類の発展があることを知っていた。

 人は現在の成立過程を確認することで、現在に至るまでを再生する。家を建築する過程を確認することで家を建設することができるように、学芸にせよ、武芸にせよ、技術にせよ、師が弟子に自らの業(わざ)を伝えることは、現在に至るまでの過程を伝えることである。
 師は過去から現在に至る道を継承し、それを他者に伝えることで、弟子を過去との連続した時間の中に位置付ける者である。ゆえに、これまでの過程を確認することで現在を知ること、それが師の条件となる。


※1 論語述而第七
※2 詩経大雅文王篇
※3 荀子勧学第一
※4 同上
※5 論語陽貨第十七
※6 論語衛霊公第十五
※7 論語為政第二
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