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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

細烏女と細媛命


 こちらの記事で、三国遺事の延烏郎は、日本神話のイザナギであるという説を紹介し、さらにイザナギがアメノヒボコかその祖先にあたり、これが天皇に繋がるという説を立てたわけだけど、じゃあ細烏女って誰よ、と考えてみると、細媛命なんじゃないだろうか。

 なぜこの人物に当たりをつけたかと言えば、もちろん名前が似ているのが理由のひとつなんだけど、もうひとつある。それは伴侶の孝霊天皇である。というのも、後に登場する神功皇后は、アメノヒボコの六世孫であると記録されている。もちろんこの六世孫というのは、「遠い子孫」くらいの意味かもしれず、数を数えることにどれほど意味があるかはわからないけど、とりあえず彼女の伴侶である仲哀天皇から六世祖先の天皇を数えてみると、八代孝元天皇に行き着く。これは七代孝霊天皇の息子とされている天皇である。

 で、ここで素直に孝元天皇を確認すればいいものを、なんとなく私は「孝霊って高霊っぽくない?」という思い、先に孝霊天皇を調べたのである。そしたらビンゴの大当たり。細烏女を思わせる細媛命なる人物を娶っており、彼女を皇女としていたのである。

 ちなみに、高霊とは何かというと、以前、朝鮮半島の大加羅国の建国者の伊珍阿鼓(イチンアギ、イジャアギ)が日本書紀に登場する伊邪那岐(イザナギ)であるとの仮説を立てたが、この大加羅というのは加羅の宗主国となる国の呼称で、海東三国時代に加羅諸国でヘゲモニーを握った金官加羅も、当時は大加羅と呼ばれていた。伊珍阿鼓が建国した加羅諸国の正式名称は「高霊加羅」という。そこで高霊→孝霊天皇という相変わらずのダジャレで、孝霊天皇=アメノヒボコ=延烏郎と連想して、その王妃を探れば細烏女につながるとあたりをつけると、見事に細烏女にたどり着いたのである。

 ただ、高霊加羅=孝霊天皇という連想は、すぐに「ちょっと違うんじゃないかなー」と思って早々に棄却した。というのも、天皇の6代から9代は、孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇であり、孝霊天皇は頭に孝の付く「孝シリーズ」天皇のひとつでしかないため、高霊とひっかけて名付けられたかは疑わしく思ったからである。まあ、嘘から出た実という言葉もある。


 話が横道に逸れた。細烏女の話に戻ろう。


 細烏女と細媛命をイコールで結ぶのに一番いい方法、それは朝鮮から渡来したことを示すことだろう。ただ、これは非常に難しい。まずこれは人類史的な問題であるが、古来より歴史というものは女性に冷淡である。女性の事跡を追うというのは一般に男性のそれを追うより難しい。それにアメノヒボコの正体を探るのに苦労しているのを見ての通り、日本書紀は朝鮮からの渡来人を実在の人物から引き離す力、特に皇室から引き離そうとする意思が見て取れるからだ。女性差別と排外主義という、今日的にも他人事でない問題がここに横たわっている。

 しかも、古い天皇の系図には作為があると推測される。特に孝霊天皇は欠史八代と呼ばれる時代の天皇である。この欠史八代というのは、二代目から八代目までの天皇のことで、これらの天王には、一切の事跡がまったく記録されておらず、生まれた日、即位した日、死去した日、親族や王妃などの親戚の名前しかほぼ掲載されていない。これらの天皇は、何をした人かまったくわからないのである。これゆえに、これらの天皇は現在においても非実在説は根強い。

 そして、欠史八代の実在性如何に関係なく、この系図がとても怪しいところがある。というのは、なにも「どこかで王統が入れ替わっている」とか、そういう話を置いたとしてもである。これらの系図は、2代目の綏靖天皇を除いて、皇后からのきれいな父子相続によって王位が継承されているのである。さすがにこれは非常に怪しい。八代にわたって何のトラブルもなく兄弟での相続などがない王統など、通常は考え難いのである。骨肉の争い、若すぎる死、幼王の回避……こうした事態は平時であったも避け得べからざるものである。ましてや、おそらく当時は倭国大乱の時期にあたると考えられる。

 一応言っておくと、もともと私は左翼に珍しく天皇の「万世一系」をそこまで疑っている方ではなかった。そもそも王制自体がダメなので、それが万世一系だろうと何だろうとどうでもよかったし、そこにやたらと焦点を置く左翼に若干イラついていた(仮に万世一系だったら天皇制を認めるのか?)。以前ちょっとずつ書いていた「継体と持統」も、実は「万世一系を疑う根拠として最もよく用いられる継体天皇は、諸国の王統と比べてもそんなに怪しくない」という話をする予定だったのだ。ただ、少なくとも欠史八代の相続関係は、少なくとも父子相続が連続しているという一点は、さすがにとんでもなく怪しいということを述べておきたい。

 というわけで、①女性の足跡を追う困難②朝鮮半島からの渡来人を系図から探ることの困難③欠史八代を父子相続で接続するための系図の作為、という3点からして、細媛命と細烏女を朝鮮半島由来であることをもって証明するのは、なかなか困難である。

 ただ、神社などの由緒を追ってみると、細媛命はなんとなーく渡来系としてのゆかりがあることが見て取れるし、もしかすると本人が朝鮮半島から渡ってきたのかもしれないと推測できなくもない。確定的ではないが、いくつかの材料をここに提供しておこう。


 まず、本人の来歴なんだけど、これは全然わからない。少なくとも、古事記と日本書紀には何のエピソードも存在しない。そりゃ欠史八代の人物だもの。まったく日本書紀が役に立たない。ただ、掲載されている系図から父親の名前はわかった。それは、大目という人物である。

 一応、日本書紀で大目は、磯城県主と書かれている。そのため、こちらの記録をそのまま信じれば、奈良県南部の磯城県主の娘ということになる。ただ、まず磯城氏というのは欠史八代のほぼすべての天皇の皇后の座を占めており、先ほど触れた通り欠史八代の不自然な系図の構成から、皇后の父親がほぼすべて磯城氏であったとのも鵜呑みにはできない。しかも、この時点で奈良県に磯城県が成立していたのかも疑わしい。神武天皇の時点でヤマトから天下を統一した前提で日本書紀のこのあたりは記されているので、現実との乖離が存在している。


 とまあ、現状の記録の不備を歎いていても始まらない。とりあえず、「目 日本神話」で検索すれば、何かが出てくるはず。と、まっさきに引っかかるのが「天目一箇神」という神である。

天目一箇神https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9B%AE%E4%B8%80%E7%AE%87%E7%A5%9E-1050897

「日本書紀」「古語拾遺」などに見える神。鍛冶(かじ)、金工の神。一つ目で、「古語拾遺」によれば、天照大神が天の岩屋戸に隠れた時、刀剣、斧(おの)、鉄鐸(さなき)などの祭具を作ったとされる。また「日本書紀」一書には、国譲りをした大己貴神(おおあなむちのかみ)を祭る際、作金者(かなだくみ)に任命されたとある。天津麻羅(あまつまら)と同神ともいう。天之麻比止都禰命(あまのまひとつねのみこと)。天久斯麻比止都命(あまのくしまひとつのみこと)。

 この神は鍛冶を司るひとつ目の神である。これは私も以前から知ってる。鍛冶屋は火をずっと見るから片目がつぶれるという逸話も聞いた覚えがあるが、この鍛冶の神がひとつ目なのも、これに由来するわけである。鍛冶の神ということは、どういうことか。製鉄、つまり渡来神である。製鉄技術は朝鮮半島から日本列島に渡ったといわれる。また当時はまだ十分な製鉄技術はなく、朝鮮半島から鉄を輸入し、日本列島では加工のみをしていた。その技術を伝えたのも朝鮮半島の技術者である。

 もちろん、この大目と天目一箇神は「目」しか合ってないじゃないかと言われたらその通り、しかし、この神はなんと孝霊天皇の代に日本列島に降臨したという伝説がある。当時の名前は「天之御影神」と言った。


 
 神自身が「天から降る」というのは、だいたい渡来である。ましてや鍛冶神。祭祀王か、それを祀る集団が渡来したと考えることもできる。ひとつ目の神が孝霊天皇と面会したということは、これが細媛命との関連性を示唆していないだろうか。

 孝霊天皇にまつわる疑わしい話はこれだけではない。孝霊天皇を主神とする最大の神社として有名な楽々福神社には、孝霊天皇にまつわる数々の伝承が存在する。その中に、天目一箇神を想起させるものが存在している。


鉄をめぐる古代交易の様相-楽々福神社鬼伝承を中心に
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/16998/1/bunkakeishogaku_8_13.pdf
ところで印賀の楽々福神社には、孝霊天皇が鬼退治で留守にしていた時、一人残された姫君は、畑に育ったえんどう豆を採りにいって豆の蔦が絡みついた竹に目を衝かれ十五歳で死んでしまい、祭神として祭祀されるようになったという伝承がある。上安曇の楽楽福神社には、好色な祭神が、ある晩よばいに行って夜明けを告げる鶏の声に驚き、松葉に眼を突かれて片目になったため、境内には松を植えず、氏子は鶏を飼わなくなったと伝えられている。宮内では楽楽福の神は片目の神で宮内の人々も片目が小さいのだと伝えられ、宮原では楽楽福の神のは眼の悪い神だとされる。その他にも篠相の楽々福神社では竹を繍えず、広瀬町石原の佐々布久神社では竹串を使って育てるきゅうりなどの野菜を作らないというように、それらの伝承からは笹や竹を嫌う一つ目の神の姿が浮かび上がってくる(10)。それはまた、出雲西比四を本社とする金屋子神を想起させる鉄神の姿でもあった。

 なんと孝霊天皇自身も片眼になったという伝承も遺されているのである。お前が片目になるのかよ、って感じだし、なんだかすごくナサケナイきっかけだけど、孝霊天皇自身も片目だったという伝承があるのは間違いない。これむしろ孝霊天皇自身が天之御影なんじゃないの? と思ったりもするわけだけど、どうにもこうにもこうした説話から天之御影=天目一箇神と孝霊天皇の関係はただならぬほど深いようにも推測できる。


 そして、この天之御影には娘が存在する。で、これが細媛だったらよかったのだけど、残念ながら違う。その名を息長水依比売といい、これは最古の「息長氏」である。ということは、天之御影が息長氏の祖であると考えることができるだろう。そして息長氏の中でもっとも有名な人物は、息長足姫であることは争いないはずである。この人物は、またの名を神功皇后という。そしてこの神功皇后、アメノヒボコの子孫であるとされているのだ。近い! おそらくなにかが近い!

 ちなみに、この息長水依比売は残念ながら孝霊天皇の皇后ではない。これが神功皇后なら細媛と同一人物だと即座に推測できたが、そうはいかなかった。彼女はこれまで過去のこのブログで名を挙げている日子坐王に嫁いだとされている。そう、私が過去に朴赫居世や逸聖王との関連付けた人物である。日子坐王は、日本書紀では10代崇神天皇の兄弟とされている。どうにも年齢がおかしい。7代孝霊天皇と天之御影が対面していて、その曾孫と娘が結婚している。絶対に無理とまで言える世代差ではないし、天之御影は神だから何か超越的な力でもあったのかもしれないけど、なんとなく違和感がある。


 そして「大目」という名前は、日本書紀では他に登場しないものの、とある神社に主神として祀られる神には大目が含まれている。それは福岡県にある香春神社、その主神の名はなんと辛国息長大目姫である。辛国! 息長! 大目姫! そう、細媛命を細烏女に比定するために要素がすべて詰まっている名である。辛国(からくに→朝鮮半島南部)息長(孝霊天皇の代に天下って面会した天之御影の氏族)大目姫(細媛の父親とされる大目)である。


 ちなみに、豊前国風土記には次のような一文がある。
豊前國風土記https://fuushi.k-pj.info/5-anc/siryou/i-fudoki-buzen.htm
 豊前國風土記にいわく。田河ノ郡 河原の郷郡の東北にあり 此の郷の中に河あり 鮎あり。その源は、郡の東北のかた、杉坂山より出でて、直ぐに、ま西を指して流れ下りて、眞漏川につどい会えり。この河の瀬、清し。因りて清河原の村となづけき。今、鹿春の郷というは、よこなまれるなり。昔、新羅の國の神、自ら渡り来たりて、この河原に住みき。すなわち、名づけて鹿春の神という。

 鹿春とは、香春神社の香春である。この地に新羅の神が渡ってきて、ここに住んだと伝えられる。辛国息長大目姫とは、まさに新羅から渡ってきた天之御影神=天目一箇神を祀る集団の女だったことが推測できる。


 そもそも、この「息長氏」とはどういう名なのだろう、と考えてみれば、これは「息を長く吹く」ということで、鍛冶の際にふいごで火に向かって息を長く吹くことに由来しているのだと思う。だから天之御影に由来する氏族なのではないか。そこに先程の論文の別の個所を引用してみよう。

鉄をめぐる古代交易の様相-楽々福神社鬼伝承を中心に
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/16998/1/bunkakeishogaku_8_13.pdf

 楽々福大明神というのは福媛とも細媛とも伝えられている孝霊天皇の皇后のことであり、孝霊天皇四十五年、孝露天皇はその皇后とともに諸国巡幸の折、隠岐島から日野郡吉日に渡ってきて、この地に鬼がおり人民が安心して住めないということを聞いた。悪鬼を退治すべく、里山との境にあるサズト山に障を取り様子をうかがい、その時サズト山麓に建てた宮が宮原の楽々福神社である。そこから日野川に沿ってさらに奥深く入って、行宮として菅福神社を建てたところ、皇后細姫命が産気づかれ、生山で姫君を出産した。
 このように、細媛には「福媛」という別名があったという。そして、この福媛こそが楽々福神社の本来の主神であったと考察されている。さて、これに基づいて、上掲の論文は以下のように考察する。

鉄をめぐる古代交易の様相-楽々福神社鬼伝承を中心に
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/16998/1/bunkakeishogaku_8_13.pdf
 そしてこの伝承で興味深いのは、楽々福の神とは実は孝憲天皇のことではなくその后のことであり、その名がまさに「フク」媛や「細(クワシ)」媛として伝えられていることである。一説では后の名が細媛、后が生んだ姫君の名が福媛であると伝えているが、いずれにせよ「フク」とは「吹く」に通じ鉄を吹くことであり、「クワシ」にしても細かいことの意で砂鉄を指す言葉であって、福姫や細姫とは踏鞴に祀られる女神であった。

 そう、「福媛」「楽々福」の「福」は「吹く」であり、鍛冶の際にふいごを吹くことを表現しているのだと考えられる。ということは、「息長」とも通じるのである。このように、細媛命が渡来系であることはおそらく間違いなく、どうにも天之御影=天目一箇神とともに本人自身が朝鮮から渡ってきた可能性も非常に高いことがわかる。



 さて、ここまでは延烏郎=イザナギ=孝霊天皇を追って日本に渡った細日女が孝霊天皇の皇后とされる細媛命であるとの仮説について論じたが、それでは、細日女=細媛命はイザナミなのだろうか? 私はそうではないと思う。

 おそらくイザナミは側室の倭国香媛である。なぜか。彼女は淡路島の出身であった。淡路島とは、イザナギとイザナミが日本列島を生み出す『島生み』で最初に生んだ島である。そして、孝霊天皇と倭国香媛の間に生まれたのが、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)。彼女の墓は箸墓古墳と呼ばれ、この墓の寸法が魏志倭人伝の記述に忠実であるとのことから、最も有力な卑弥呼の墓の候補地とされている。




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