忍者ブログ

塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

仲哀天皇の死と三韓征伐の目的

 使おうとして訳したけど、使わなかった日本書紀における仲哀天皇の死についての書き下し文と現代語訳。古事記だの日本書紀だのはネット上に全現代語訳が大量にあるので、私がわざわざ訳す必要がない。今後も使用する予定がないので、ここに載せて供養とする。とても異常な事件なので、単体で見ても面白いと思う。




【漢文】
 秋九月乙亥朔己卯、詔群臣以議討熊襲。時有神、託皇后而誨曰、天皇、何憂熊襲之不服。是膂宍之空國也、豈足舉兵伐乎。愈茲國而有寶國、譬如處女之睩、有向津國睩、此云麻用弭枳、眼炎之金・銀・彩色、多在其國、是謂栲衾新羅國焉。若能祭吾者、則曾不血刃、其國必自服矣、復熊襲爲服。其祭之、以天皇之御船、及穴門直踐立所獻之水田、名大田、是等物爲幣也。
 天皇聞神言、有疑之情、便登高岳、遙望之大海、曠遠而不見國。於是、天皇對神曰、朕周望之、有海無國、豈於大虛有國乎。誰神徒誘朕。復我皇祖諸天皇等、盡祭神祇、豈有遺神耶。時神亦託皇后曰、如天津水影、押伏而我所見國、何謂無國、以誹謗我言。其汝王之、如此言而遂不信者、汝不得其國。唯今皇后始之有胎、其子有獲焉。然天皇猶不信、以强擊熊襲、不得勝而還之。
 九年春二月癸卯朔丁未、天皇、忽有痛身而明日崩、時年五十二。卽知、不用神言而早崩。一云、天皇親伐熊襲、中賊矢而崩也。於是、皇后及大臣武內宿禰、匿天皇之喪、不令知天下。則皇后詔大臣及中臣烏賊津連、大三輪大友主君、物部膽咋連、大伴武以連曰、今天下、未知天皇之崩。若百姓知之、有懈怠者乎。則命四大夫、領百寮令守宮中。竊收天皇之屍、付武內宿禰、以從海路遷穴門、而殯于豐浦宮、爲无火殯斂。无火殯斂、此謂褒那之阿餓利。甲子、大臣武內宿禰、自穴門還之、復奏於皇后。是年、由新羅役、以不得葬天皇也。
【書き下し文】
 秋九月乙亥(きのとい)の朔(ついたち)己卯(つちのとう)、群臣(もろをみ)に詔(みことのり)し、以て熊襲(くまそ)を討たむことを議(はか)る。時に神(かみ)有り、皇后に託(かこつ)けて誨(おし)ゆるに曰く、天皇(あめのすめら)よ、何の熊襲(くまそ)の服(したが)はざるを憂えむ。是の膂宍(そじし)の空國(むなくに)ならんや、豈に兵を舉げて伐つに足らむかな。茲(こ)の國に愈(まさ)りて寶(たから)の有る國、譬うれば處女(をとめ)の睩(まよびく)の如く、津に向かふ國有り(睩、此れ云はく麻用弭枳)眼炎(まのかがやく)の金、銀、彩色、多く其の國に在り、是れ栲衾新羅國と謂ひなむ。若し能く吾を祭る者あらば、則ち曾(すなは)ち刃を血することなくして、其の國は必ず自ら服(したが)ひ、復(ふたた)び熊襲(くまそ)も服(したが)はむと爲(せ)り。其れ之れを祭り、天皇(あめのすめら)の御船(みふね)及び穴門の直踐立、獻ずる所の水田、大田と名づく、是れ等の物を以て幣(みつぎもの)と爲すべきなり、と。
 天皇、神の言(ことば)を聞くも、疑(うたがひ)の情(こころ)有り、便ち高き岳を登り、遙か之の大海(わたつみ)を望むも、遠くを曠(むな)しくして國見えず。是に於いて、天皇(あめのすめら)は神に對へて曰く、朕は周(あまね)く之れを望むも、海有れども國は無かりし。豈に大虛(おほぞら)に國有らむかや。誰ぞ神の徒(いたずら)に朕を誘ふか。復た、我が皇祖の諸天皇等、盡く神祇を祭らむ。豈に神を遺すこと有らむか、と。時に神も亦た皇后に託けて曰く、天津(あまつ)の水影(みなかげ)の如く、押し伏して我の國を見る所なれば、何ぞ國無しと謂ひ、以て我の言を誹謗(そし)るか。其れ汝は之れに王(きみ)たるも、此の言(ことば)の如くして遂に信(まこと)とせざる者、汝は其の國すらも得ず。唯だ今の皇后、始めて之の胎む有るのみ、其の子の獲る有らむかな、と。然れども天皇(あめのすめら
)は猶ほ信(まこと)とせず、以て熊襲(くまそ)を强いて擊(う)つも、勝ちを得ずして之れに還りたり。
 九年春二月癸卯(みずのとう)の朔(つひたち)丁未(かのとひつじ)、天皇(あめのすめら)、忽ち身に痛み有りて明日に崩る。時に年(よはひ)五十二たり。卽に、神の言を用ひざりて早く崩れたるを知る。一(あるふみ)に云はく、天皇(あめのすめら)は親(みずか)ら熊襲を伐ち、賊の矢に中(あた)りて崩るるなり、と。是に於いて、皇后及び大臣の武內宿禰は天皇(あめのすめら)の喪を匿(かく)し、天下(あめのした)に知ら令(し)むることなし。則ち皇后は大臣及び中臣の烏賊津連、大三輪の大友主君、物部膽咋連、大伴武以連に詔(みことのり)して曰く、今の天下(あめのした)、未だ天皇(あめのすめら)の崩るを知らず。若し百姓(もものかばね)の之れを知れば、懈怠(なまける)者有るかな。則ち四大夫に命じ、百寮を領(おさ)めて宮中を守ら令(せ)しむ、と。竊かに天皇(あめのすめら)の屍(しかばね)を收め、武內宿禰に付(わた)し、以て海路(うみのみち)從(よ)り穴門に遷し、而りて豐浦宮に殯(かりもがり)し、无火殯斂(ほなしあがり)を爲す。无火殯斂(ほなしあがり)、此れ褒那之阿餓利(ほなしあがり)と謂ふ。
 甲子(きのえね)、大臣の武內宿禰、穴門より之れに還り、復たしても皇后に奏ず。是の年、新羅(しらぎ)の役に由り、以て天皇(あめのすめら)を葬ることを得ざるなり。
【現代語訳】
 秋九月乙亥(きのとい)の朔(ついたち)己卯(つちのとう)、群臣に詔を下して熊襲を討伐したいと建議した。この時、神が皇后に憑りついて諭した。
「天皇よ、なぜ熊襲が服従しないと憂うのか。あんな土地の瘦せてひなびた国、わざわざ兵を挙げて討伐するほどのことがあろうか。この国以上に宝物を有する国、譬えるならば処女が眉を動かすかのように、船着き場の向かい側に国がある。目にまぶしいほどの金、銀、彩色が数多くその国には在る。これを『栲衾新羅国』というぞよ。もし私をよく祭る者がいれば、刃を血に塗れさせることもなく、その国は必ず即座に自ら服従し、熊襲も再び服従するであろう。さて、この祭事のためには、天皇の御船と穴門直踐立から献上された大田という名の水田、これらの物を貢物として奉げるがよい。」
 天皇は神の言葉を耳に入れたが、疑惑の念を持ちながら、そのまま高い山岳を登って遥か広い大海を眺めたが、どこまで先にもなにもなく、国は見えなかった。そこで天皇は神に答えた。
「朕は周囲をあまねく眺めましたが、海ばかりがあって国なんてありませんでした。なぜどこまでもなにもないのに国があるなんてことがありますか。……神でありながらいたずらに朕を誘惑しようとは、あんた一体何者なんだ? そもそも我が皇祖のあらゆる天皇たちは、すべて神祇としてお祭りされておるのだ。他に神が残っているはずがないだろう。」
 この時、神もまた皇后の口を借りて言った。
「天空の船着き場の水影のように高くから静かに見下ろした私が国を見たと言っているのに、なぜ国がないなどと言って私の言葉を誹謗するのだ! ふん、お前はこの国では王らしいが、そんな言葉を吐いたまま信じないというのであれば、お前は自らの国を保つことさえできまい。ただ皇后は今、初めてこの赤子を孕んだ。その子が国を治めることになろう。」
 それでも天皇はまだ信じることなく熊襲を強擊したが、勝つことができずに帰還した。
 九年春二月癸卯(みずのとう)の朔(ついたち)丁未(かのとひつじ)、天皇が突然病気になって次の日に崩御された。この時、五十二歳である。神の言葉を用いなかったから早逝したのだとすぐにわかった。(一説には、天皇が親ら熊襲を討伐しに向かったが、賊の矢に当たって崩御したという。)そこで皇后と大臣の武內宿禰は、天皇が死去したことを隠匿し、天下に知らせようとはしなかった。すぐに皇后は大臣と中臣の烏賊津連、大三輪の大友主君、物部膽咋連、大伴武以連らに詔(みことのり)を下した。
「今の天下は、まだ天皇が崩御されたことを知りません。もし百姓がそれを知ると、怠ける者が現れてしまうでしょう。すぐに四大夫を百寮の頭領に命じ、宮中を守らせます。」
 ひそかに天皇の屍を収め、武內宿禰に託し、海路から穴門に場所を移して豊浦宮でお通夜をした。火をつけないお通夜である。
 甲子(きのえね)、大臣の武內宿禰が穴門からこちらに帰還し、またしても皇后に奏上した。この年、新羅の役があったので、天皇を葬ることができなかった。





 この後、征韓論を制止していた仲哀天皇が死去したことにより、歯止めを失った大日本帝国倭国は帝国主義の道を邁進することになり、神功皇后が親ら軍の指揮をとって新羅に攻め入って、属国となるように迫った。この後、倭国は白村江の戦いで新羅に大敗を喫するまで、朝鮮半島の権益を窺ってたびたび兵を興すことになる……ということになっているが、本文に戻ろう。


 さて、仲哀天皇について。これはどう見ても暗殺である。ちょろっと熊襲と争って死んだという説が掲載されているが、仲哀天皇は素直に読めば暗殺としか思えない死に方である。古事記だともっとわかりやすく暗殺なので、気が向いたらそちらも適当に検索して読んでほしい。日本語のネットでは、古事記や日本書紀の全訳は非常に多くあるので、まったく探すのに苦労しないだろう。犯人の本命は武内宿禰、対抗は神功皇后か。あるいは共犯であろう。仮に熊襲との戦争中に流れ矢に当たって死んだとして、その矢はどこから飛んできたのやら。もちろん、この記録がまるっきりデタラメならどうなるかわからないけども。

 それにしても、この神とは何なのか。日本書紀の記述のままでは、どう見ても悪霊か何かである。倭国の皇后にいきなり憑りついて、天皇に朝鮮を攻めるようにそそのかし、これに天皇が反対したら憑り殺す。これが悪霊じゃなかったら何なのか。しかも、これに基づけば、倭国はよくわからない邪神にそそのかされて、朝鮮半島の国を「宝があるから」という理由でいきなり侵略したことになるのだけど、これってどうなんだ。それと神が言う「処女が眉を動かすような」という表現も何がなんだわからない。なにが言いたいのか? 理解に苦しむ。どうせ下ネタであろう。

 死後の仲哀天皇の扱いもすごい。死を隠すのみならず、新羅への侵略を優先して葬儀ができなかったと明記されている。天皇の葬儀そっちのけで朝鮮を侵略とか、大日本帝国おそるべし、どころの話ではない。日本書紀の編者や神功皇后は大日本帝国下に不敬罪で逮捕されなかったのだろうか。

 この記事を当たり前に読めば、先鋭化したタカ派の武内宿禰と神功皇后が朝鮮半島への侵略を主張し、これに対して穏健でまっとうな仲哀天皇が反戦を唱えたために暗殺されたとしか読めないだろう。こんなの書いちゃっていいの? とか思っちゃう。

 ちなみに、この後で神功皇后は(神から宣告されて謎に孕んだ)子を腹に宿しながら武内宿禰とその子の葛城襲津彦を伴って朝鮮で戦争を続ける。妊娠期間は15ヶ月。その間、産気づいて石を腹に括りつけて出産を押さえたという記述がある。どう考えても仲哀天皇の子ではない。父親の本命は葛城襲津彦、対抗は武内宿禰、大穴は新羅王である。これらはすべて日本書紀に記されたことであり、こんなの読まされたら、いろんなところが気になりすぎて「勇ましきかな、三韓征伐」とはなりづらいと思うけど……。大丈夫なのだろうか。



 ……とまあ、この話、おかしなところがあまりに多い。いくら神話や伝説と未可分な時代とはいえ、どう考えても話がおかしい。それに仲哀天皇と神功皇后の次の応神天皇以降は、歴史としての色彩が非常に色濃くなる。ゆえに伝説と歴史の境目に、このような話が置かれていると考えれば、なおさら「なぜここがこんなに怪しい話だらけなのか」と、その理由を求めたくなる。


 さて、この話でははっきりと触れられていないが、この時の住吉三神は、実は渡来神なのである。そして、この話の前で軽く触れられる内容として、神功皇后も新羅から渡来した天之日矛(アメノヒボコ)の子孫であると記されている。また、私が以前の記事で述べた通り、孝霊天皇はアメノヒボコ本人の可能性もあり、そうでなくとも朝鮮半島からの渡来人だと推測でき、しかも皇后も渡来系一世か二世である可能性が高く、私の仮説が正しければ、その子の孝元天皇も渡来系の両親から生まれたことになる。こうなれば、その子孫である武内宿禰も渡来系だと考えられる。

 それに『住吉』という名の住は古くは「モチ」と読むことから、「勿吉(モツキツ)」を指すという人もいる。そのホームページを以下に引用する。

http://www5.tok2.com/home2/okunouso/0206.htm
「勿」を辞書で調べると、「ブツ」「モチ」(butsu mochi)と読むとある。が「住」という字も古訓(角川書店発行 『大字源』より)には=スミ・スミカ・スム・タダ・タツ・トドマル・トドム・ハジム・モチ・ヲリとある。つまり全国の住吉神社や住吉町はなんのことはない『勿吉』と同義であり、「靺鞨」すなわち古代の「蒙古」から渡来してきた人の定住地ということになるのだ。

 引用しておいてなんだけど、新左翼系の糾弾調のサイトなんで閲覧注意で。勿吉(モツキツ)は三国史記には靺鞨(マツカツ)の名で登場し、当初は新羅(辰韓)に幾度となく攻め込み、後に高句麗に服属する半島北方から大陸東北部にかけて存在した部族として描かれる。こうした存在がこの事件の背景にあるとすれば、半島北部から南部に侵入した靺鞨が、更に南下して倭に流入していた可能性もあるのではないか?

 ここに仮説を上積みすると、神功皇后や武内宿禰のグループは、渡来人のアイデンティティの強い一族なのではないか。以前紹介したアメノヒボコおじさん等の仮説を前提とすれば、日本書紀は天皇が渡来系であることをボカし、アメノヒボコと天皇との関係も切り離しが試みられていると思われるから、このことが非常にわかりづらい。



 かつては、おそらく日本列島と朝鮮半島は今よりシームレスな存在で、九州北部と朝鮮半島南部は対馬を通じて共同体意識を有するほどの共通文化圏だったのではないかと考えられる。これについて九州と新羅の言語的共通性については、過去に私のホームページ限定記事で述べている。そして神武天皇(あるいはそのモデルとなる人物)は、朝鮮南部出身で九州北部あたりに権益を有した有力者だと考えている。まあ、このあたりは通説から外れた話ではないと思うけど。

 そして神功皇后や武内宿禰は朝鮮半島南部にルーツを有する王族で、それ故に加羅や新羅の支配権を主張して三韓征伐をおこなったのではないか。こうした同族意識は、北陸地方出身の継体天皇以降から徐々に薄れ始め、白村江の戦いに敗北した際に日本は朝鮮半島との関係をはっきりと決別しようとしたのではないか……というのが、今の私の仮説である。この頃の歴史は日本と朝鮮という二項対立では動いていない。しかし日本書紀は朝鮮半島と決別した『日本』が倭として暦年にわたって天皇を中心に存在していたことを示す性格を含む史書であるから、半島との関係については歯切れの悪い、ぼやけた部分が多い。


PR

コメント

コメントを書く