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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

蘇塗と鳥居と鳥のシャーマン
焚巣館 -後漢書東夷列伝 三韓-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/chousenshi_chuugoku_shisho/gokanjotouiretsuden/06sankan.html

 本日の更新。魏志韓伝を要約したような内容で、スッキリとして読みやすいのだけど、魏志のような情報量はない。この点は次回の倭伝も同じ。

 最初に訳したときには鉄の産出に目を奪われたし、実際この朝鮮南部の鉄は日本列島を含む今後の朝鮮周辺の国々に多大なる影響を及ぼしたことは間違いないと思われる。それと当時は辰韓=新羅という三国史記のニュアンスをそのまま受け取った読み取りをしていたけど、今読むと印象が違う。魏志韓伝には特記されていなかった百済が、南朝宋の時代に遡って編纂された後漢書で特記されているのは感慨深い。

 さて、ここには『蘇塗』なるものを立てる風習が記されている。

大木を建て、鈴や つつみ を懸け、鬼神に仕えるのだ。

とあり、以前の記事で私はこれを長栍 チャンスン だとしていたのだけど、もしかしてこれ神社の鳥居と社頭の鈴じゃないか?

 さてはて、またしても東夷の倭人お得意の日鮮同祖論じみたキケンな妄想話になる。私が長栍 チャンスン を知ったきっかけは、AA_republicというIDでTwitterをしていた友人が私たちの一緒にみんなでつくっていた同人誌に、そういう内容の原稿が投稿されたからである。で、そこには長栍 チャンスン には鳥竿 ソッテ という鳥の載った鳥居のようなものがあり、これが日本の鳥居と通じるものだという仮説が載っていた。

 そして、これに本文の内容を加味すれば、『蘇塗』は鳥竿 ソッテ であり、日本の神社の鳥居や神社の原型のだと考えられるのだ。


 さて、ここまでは割とオーソドックスな仮説といった感じだけど、ここから私は妄想を更に進めてゆく。


 ところで、皆様方は日本に超古代文字らしき記号が存在していたことはご存じだろうか?

 なんていうと、反射的にすーぐ都市伝説だー捏造だーとわめきたてるニセ科学バスターズが現れるけれども、そういう連中の姿はまことに自身の嫌う陰謀論や都市伝説のビリーバーとよく似ており、言葉の単語や一節だけに反応するのは、これも一種のビリーバーでしかない。もちろん私が想定しているのは神代文字だの阿比留文字ではなく、弥生時代の遺跡から出土した土器や銅鐸に記される「記号」である。ただし、これは「記号」であって「文字」とまでは言えない。それを以下に掲載する。

 もう一度言っておくけど、あくまでこれから紹介するものは文字ではない。記号である。なので、過度な期待はしないでほしい。というわけで、以下が漢字以前に日本に存在した記号である。



 ……とまあ、こんなものである。「あくまで文字ではなく記号だ」と言われて「記号と文字の境界ってなんてあるの?」と思った人もいるかもしれないけど、これらの大半はさすがに文字と言うには『絵』でありすぎる。「記号」と「文字」の境界はあいまいだけど、「記号」と「絵」の境界もあいまいであり、「絵」と「文字」にはさすがに区別があると直感できるだろう。

 ただ、最初の鹿なんかは割といいセンいってたんじゃないかという気もするし、最後の鳥なんて文字としてそのまま通用する出来栄えであろう。とはいえ、「文字として通用する記号」は文字ではない。あくまで文字は言語としての体系が必要であり、鳥だけイイ感じに文字にそのまま使えるような記号ができただけでは、それが文字になるわけではない。

 そうは言っても、漢字渡来以前の日本にも結構な文化があって、文明の萌芽もあったのだとよくわかる証拠ではある。十分に文字へ発展する余地のありそうな記号だということは見ればわかって盛られるのではないか。中国のような抜きんでた超文明が隣接していただけで、日本にもなかなかに興味深い先史古代文化が存在していたのだ。

 で、ここまでが前置き。ここからが本番なのだけど、実はこれらの絵や記号を解読していくと、どうにも弥生時代の日本には『鳥』というものが重大な存在と見られていたようである。先ほど見ていった記号の中でも鳥は極めて抽象化に成功している。鳥というものを頻繁に描き、概念として重大なものと確立必要があったと見ることができないだろうか。

 それだけではない。先ほど掲載したものの中にも、鳥と関連する重大な証拠となるものが存在しているのだ。それが以下である。

 先に上げた画像、実は鳥のシャーマンの絵である。下側の絵も、右側で大きく手を広げる人のように見えるものは、鳥のシャーマンである。手の下に扇状に広がっている網目のある何かは、鳥の羽を模した衣装だ。

 上は鳥のシャーマンの絵が発掘された奈良県磯城郡田原本町の唐古・鍵遺跡の資料館に置かれた復元シャーマンである。鳥。なんで鳥の格好をしているかといえば、もちろん鳥を信仰していたからである。

 さて、この鳥への信仰であるが、古事記や日本書紀にもその形跡が見られる。たとえば、神武天皇の物語である。九州からヤマトを征服しようと出発した神武天皇であったが、先にヤマトを支配していた登美饒速日命の配下にして義理の兄である鳥見彦に阻まれる。一度は敗北する神武天皇であったが、太陽神である天照大御神に遣わされた八咫烏の導きによって南東に回り込みつつ仲間を集め、再び鳥見彦に決戦を挑む。ここで天上の神である高皇産霊神が神武天皇に金のトビを遣わせて力を貸し、ついに神武天皇は鳥見彦に勝利し、登美饒速日命からヤマトを譲られるのであった。

 というのが神武天皇が畿内を支配するに至るまでの大まかな流れであるが、要所要所で八咫烏金金のトビ等、鳥が神武天皇に味方をして勝利する。金のトビは神武天皇のトレードマークである。  

 しかも、それだけではない。神武天皇側だけでなく、敵対陣営も鳥見彦であったりとか、登美(トビ)饒速日命であったりとか、鳥を思わせるような名が多い。同じ信仰を持った者同士の戦いだとか、あるいは「かつて神の加護が、かつてそれを受けていた一族から離れ、次の支配者に移った」等のようなストーリーラインを妄想することもできる。神武東征の物語に、なぜここまで鳥が関わっているのか? 実は先ほど挙げた唐古・鍵遺跡の所在地は奈良県磯城郡。この磯城郡とは、磯城氏という豪族が支配したとされる地である。そして、古事記の系図上では、二代天皇から七代天皇まではすべて皇后が磯城氏の女性なのだ。

 これは偶然だろうか? 神武天皇の東征の記録は創作とされることも多いが、どこかから神武天皇のような人物が磯城氏に婿入りした……みたいな物語自体はあって、物語や登場人物に「鳥」の影が見えるのは、当時の鳥の信仰が物語に反映されているからかもしれない。そして、もしやこれが後の日本の神社の鳥居に繋がっていたりはしないだろうか?

 で、ここから更に妄想が展開されるのだけど、こちらの記事で私は神武天皇がスサノオなのではないかと論証(妄想)した。そして、スサノオは新羅からの渡来神だとされている。もしかすると本文の『蘇塗』こそが、日本の神社の原型ではないか? そして、漢字以前の日本の記号文化や信仰には、韓の文化によるものが基調になっているのではないか……という私の妄想である。

 では、なぜ韓伝にだけ蘇塗の記事があって倭国の記事にはないのか。これについては、気になる事実がある。実は、鳥の飾りをつけた木製の鳥居、つまり韓の鳥竿と同じ「蘇塗」は、それらしきものが九州などの遺跡で発掘されている。その頃のものは、奈良県では先に挙げた鳥や鳥シャーマンの記号などの記された土器なども発掘されている。しかし、ある時期からこれらはさっぱり姿を消し、その代わりに登場したのが古墳である。現存する日本最古の古墳群といえば、代表は纏向遺跡の古墳である。そして、そこは邪馬台国の卑弥呼の墓と目されており、纏向遺跡の古墳に眠るとされる代表的な人物といえば、十代崇神天皇とともに日本書紀で登場する倭迹迹日百襲姫、卑弥呼候補の一人とされる。

 もしかすれば、卑弥呼の台頭の以前に蘇塗に代表される鳥信仰は日本列島で滅び、だからこそ、それ以前の天皇である神武天皇の記録に鳥の信仰が全面的に推されているのかもしれない。蘇塗から鳥は消えて『鳥居』という名前だけが残されたのだろうか? 私自身もこのあたりはしっかりした考えがあるわけではないので、今後とも妄想してみたい。

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