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高句麗好太王碑文の全訳を更新。
http://wjn782.cooklog.net/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91%E6%96%87%E3%81%AE%E5%85%A8%E6%96%87%E3%82%92%E8%A8%B3%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82高句麗好太王碑文に記されていること、記されていないこと、三国史記に記されていること、記されていないこと、これらを並べてみると、それぞれの記録の性格もある程度わかるかもしれない。
で、戦について確認してみると、三国史記には契丹、燕、百済との戦争が記され、好太王碑文には、契丹、百済、粛慎、倭、東扶余との戦争が記されている。とまあ、百済と契丹以外がまったく一致していない。三国史記に記される燕は、中国東北部に存在した中華王朝であり、高句麗好太王碑文に記される粛慎、倭、東扶余は、いずれも『東夷』に分類される中国東部に存在する朝鮮半島の内部と周辺の民族である。そして、戦以外では高句麗好太王碑文には新羅を服属させていたことが記され、三国史記には燕に一時は服属し、後に燕の天王(皇帝)が高句麗王の同族だと確認されて和平を結んだいう事実が記される。
さて、たとえば高句麗好太王碑文に燕への服属が記されていないことをもって「高句麗にとって都合の悪い事実だから隠蔽した」とか、高句麗に新羅が服属していたことを三国史記に記されていないことをもって「新羅びいきの三国史記は高句麗への服従を記さなかった」とか、皆さんこういう話が好きだけど、ちょっとそれは置いておこう。ここからわかることは、三国史記は大陸との関係を強調しており、好太王碑文は朝鮮半島と周辺部族、特に東夷諸部族との関係を重視しているのである。
ここから思うに、好太王碑文が示したかったのは、朝鮮半島内における支配の正統性ではないだろうか? 新羅を服属し、百済を屈服させ、倭を追い返し、契丹を斥け、東扶余を抑え、粛慎まで領土を広げた……ということは、朝鮮半島の諸部族を悉く手中に収めたことになる。おそらく実際にはそうはなっていないのだと思われるが、そのようにアピールしたかったのだろう。なんなら「初の朝鮮半島統一王」に近い形での顕彰がしたかったのかもしれない。こうしてみれば、中国北東部の王朝である燕のことを殊更書き記す必要がなかったとも考えられる。もちろん燕に対する従属は広開土王の功績を記すには都合が悪いとして無視した側面があるかもしれないけど、燕の天王(皇帝)が高句麗の王族だったことが確認されたことも併せて「高句麗の一族はここまで大いなるものになったのだ!」と示すこともできたわけで、単純に燕の臣従が恥だったからだと考えるのも、ちょっとズレているように思う。あくまで朝鮮諸部族の統一に視点があったのではないだろうか。
さて、ここからが論争の堪えない「而倭以辛卯年來渡海破百殘□□新羅以為臣民」の部分についてである。この部分を私は少し冒険をして「ところが倭が辛卯の年(391年)から来ており、海を渡って百残を破り、【□□】新羅は臣民になることにした。」と訳した。これは一般にフ本で流布している通説とは違っているし、朝鮮国や韓国のものとも違う。
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。こちらが日本における通説で、この解釈は文法的には問題がないのだけど、なんとなく違和感がある。まず、欠字が加羅というのは想像であって、実際にはわからない。
高句麗好太王碑文については、実は過去に一部を訳していろいろ書いたことがある。この時には、「文法だけで言うと日本の方が妥当性があるように見えるものの、なーんか引っかかる。朝鮮国側は読み方が強引だと思うけど、韓国はどうかな。」と述べていた。全体を読んだ現在、違和感の程度は大きくなっている。
高句麗好太王碑文を通して読むと、やはり日本の解釈では倭の状況に違和感がある。まず、欠字部分が加羅だとする根拠がよくわからない。
そして、391年の倭国の攻撃が記されているが、その後の397年の高句麗と百済の戦争では、倭がまったく登場しない。なぜ? 倭は臣民を無視したのだろうか。そして、日本の解釈では同じく倭の臣民であるはずの新羅もまったく出てこない。同じ倭国の臣民であったはずの新羅は援軍に行かなかったのだろうか? そして高句麗は百済だけを屈服させて新羅を一切無視している。なぜ? それに日本の解釈に基づいて新羅と百済、更には加羅まで倭が臣民としているなら、倭だけでなく、新羅と加羅が加勢してもいいはずだし、逆になぜ高句麗も百済だけでなく新羅と加羅を征伐しなかったのだろうか。なぜ高句麗は百済としか戦っていないのか。もちろん、倭の援軍がないことについては、百済に臣従を命じたのみで朝鮮半島に軍隊などを遺さなかっただけだと考えれば辻褄は合う。新羅や加羅が援軍を出さなかったのも海を挟んだ倭の意図に従わなくとも問題ないと判断したのかもしれないし、高句麗も継戦できずに百済を降した時点で新羅や加羅をあきらめて引き返したとか、解釈自体はできるので、これがただちにおかしいとは思わないものの、ちょっと違和感がある。
しかし、その後400年に新羅が高句麗に初めて救援を求める。その際に、新羅は自国の国境に倭国の大軍が押し寄せてしていると告げ、そこで高句麗が新羅に密計を授け、次の年の401年に新羅に向けて出軍すると、新羅の国内に倭国の大軍がひしめいていた……。先ほど見た通り、397年の時点で高句麗は百済しか打ち倒していないのだから、391年の時点で、新羅、百済、加羅を倭国が臣従させていたとすれば、まだ新羅は倭に臣従していたのではないか? なぜ既に臣従している新羅に向けて大軍を発動させて、わざわざ新羅の民を倭国の民にしようとしているのか、よくわからない。ここまでくると違和感がどんどん大きくなってくる。
さて、こうした違和感を踏まえた上で、朝鮮国と韓国の解釈を見てみよう。
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘連侵新羅以為臣民
新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に(高句麗に)来たので(高句麗は)海を渡り(倭を)破った。百残はそんな倭と連合して(高句麗の臣民である)新羅に攻め入った。(好太王は)臣民である(百残が)どうしてこんな事をしたのかと思った。百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘招倭新羅以為臣民
新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に(高句麗に)来たので(高句麗は)海を渡り(倭を)破った。百残が倭を連れ込み新羅に攻め入って、臣民とした。上が朝鮮国での解釈であり、下がそれを受けて考案された古い韓国での解釈である。日本の解釈に違和感があるからと言って、じゃあこちらが正しいかといえば、こちらはこちらでおかしい。高句麗が倭まで渡って戦争をしたというが、そんな大事件が本当にあったのだろうか? 他にそんな記録は一切ない。騎馬民族征服説だろうか? 征服説を私は全面的に棄却する気はないものの、仮に部分的にそのようなことがあったとすれば、高句麗の王族の亡命国家という記録がある百済からの更なる移民が日本に王朝を立てたかもしれない……というのが疑われる記録はそれなりにはある。しかし、せいぜいその程度ではないかと思う。
で、以下が近年の韓国の通説。
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■■羅以為臣民
新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に来たので(高句麗は)海を渡って百残を破り、新羅を救って臣民とした。こちらはこれまで私が指し示した違和感を概ね払拭する内容にはなっている。ただ、やはり來渡海破百殘の主語を高句麗とすることに、ちょっと違和感がある。この解釈は欠字部分の予測が立っていないようだけど、これは私もよくわかって、そのように解釈する上で、どのような文字を入れれば意味が通るかはよくわからない。
私は、「倭以耒卯年來渡海破百殘□□新羅以為臣民」の「以為臣民」の主語を、「新羅」としておいた。
「ところが倭が辛卯の年(391年)から来ており、海を渡って百残を破り、【□□】新羅は臣民になることにした。」
これなら文法的に違和感はないはずである。じゃあ、新羅はどこの臣民となったのか? それについては、明示していない。だってわかんないんだもん。海を渡って百残を破ったのが倭か高句麗かもどちらでも解釈できるようにしておいた。だってわかんないし。
ただし、「倭以耒卯年來」「倭が辛卯の年(391年)に来て、」ではなく、「倭が辛卯の年(391年)から来ており、」という風に訳したことには意図がある。というのも、辛卯の年(391年)は広開土王の即位の年である。「以~」という語法から、「~時点からずっと」という完了形だと読み取って、「広開土王が即位してからというもの、ずっと(朝鮮半島に)倭国が来ていた」という含意があると解釈してのことである。以前から倭が朝鮮半島に何度も何度もちょっかいを出してきていて、その勢いが増していたことを示しているのではないだろうか。三国史記を読んでみても、当時の倭は何度も何度も新羅に攻め込んでいる。こうした情勢から、倭が百済や新羅を破ったのかどうかは知らないが、高句麗には危機感があったのだと考えられる。また、「新羅以為臣民」を「新羅は臣民になることにした。」というふくらみを持たせた訳にしたのも、「以為」に完了形の含意がある可能性を考慮し、「高句麗に対して臣民になりたいと考えるようになった」という読解もできるようにしたからである。こうすれば、400年に新羅が高句麗に対して服従の意思を示し、援軍を求めたことにも接続できるからだ。この訳であれば、日本と韓国のいずれの解釈にもよらず、「倭国が百済を破ったが、□□で、新羅は高句麗に臣従しようとした。」という風にも解釈できる。
ただし、繰り返しになるが、これが新羅が倭の臣民になったことを意味する文なのか、高句麗に臣従しようとしたことを意味する文なのかは、私には同定できない。
ちなみに、割と韓国に寄せた感じの訳ではあるのだけど、私は今回の訳では韓国の解釈を参考にしたわけではない。全文を通して読んだ上で、自然と今のような翻訳になった。とまあ、こんな感じで、実際にどういう文章だったのかはわからないし、この文章が現実の実態をどこまで反映したものかはわからないのだけど、こんな感じの解釈による訳である。
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日本語堪能な韓国人のお兄様が作成されたらしい朝鮮史についてのYoutube動画。朱蒙の死と高句麗の政治情勢についての考察。おそらくは初歩的かつ簡単なものだけど、とても面白かった。
私はガチで三国史記の原文以外は朝鮮史についての本とかあんまり読んでいないので、全然知らんこととか気付かなかったことが述べられていた。朱蒙の神格化が太祖大王以降という話は、どこで知ることができるのだろう。情報源を確認したいので、今後探してみよう。
ここでは、類利から慕本王までの王統が「高氏」ではなく「解氏」であることが述べられている。私は全然知らんかった。三国史記だと、四代、五代王の諱が「解色朱」「解憂(あるいは解愛婁)」となっているし、三代王の無恤の別称に大解朱留王が挙げられている。で、高句麗好太王碑文を見ると、無恤の名が朱留王となっている。なので、確かに「解」が姓っぽい。このあたりを三国史記はごまかして記しているのか。で、太祖大王から氏が高氏になったとのこと。太祖大王という名前が王朝の建国者っぽくて、四代目の王が変に暴君として描かれているから四代目と五代目に王朝交代的な何かがあったんじゃないか、という話は以前からしているけど、やっとこさ知識としてつながった。
で、ハディージャよろしく朱蒙を経済的に支援していた亡命先の妻の子が亡命して百済を建国し、松譲の娘が類利と結婚……と。あー、だから百済の二代王が寵愛した老臣の名前が「解婁」なんだなー、と。
アジアンドラマの史実
麗・解氏(ヘ氏)が高氏(コ氏)に変わったのは高句麗時代だった?
https://korea.sseikatsu.net/post-1669/
>韓国ドラマ「麗・花萌ゆる8人の皇子たち」では。最終回で「コ氏は高麗時代はヘ氏だった」というセリフが出てきます。で、韓国ドラマファンの間では何やら常識らしい。ふええ。
一時期、韓国ドラマファンのお姉さま方が参加しているLINEチャットにいた時期があるのだけど、皆さん本当にお詳しくて。実際、完全に漢文読書初心者から始めた三国史記の全訳中も、文意が読み取れないときに検索して引っかかった韓国ドラマファンのお姉さま方のブログを拝読させていただき、アンチョコ読みをしていたこともあったりもする。スペシャルサンクスである。
朱蒙の死について、三国史記にも高句麗好太王碑文にも東明王篇にも、その最期があまりはっきり記されていないことは私も以前からずっと気になっていたが、この考察動画では、類利や松譲が朱蒙を暗殺した可能性があるという話をしている。この考察はなかなか激しい内容であるが、確かに説得力がある。とにもかくにも類利に現地の基盤がなかったのは事実であり、それで松譲の娘と結婚したというのは、よくわかるところで、じゃあ脆弱な基盤を盤石にするためには何をするか、といえば粛清である。類利は息子の解明(これも解氏!)を粛清しているし、当初に訳した頃からそれが高句麗が分裂する可能性に基づくものがあったからだと考えていたけど、中国史の魏書にある三代王がなぜか早逝したと三国史記に記されているはずの息子と似た名であることなども、こうしたお家騒動を描いたものではないだろうか。更につながってきた! 朱蒙や類利の実在性? そんなもんは知らん。
うおお、イマジネーションが湧いてくる話だ。最近はyoutube動画を見るのがずっと趣味になっている。いろいろ書きたいことはあるけど、家に帰るとなかなか筆が進まないし、暇もない。
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焚巣館 -高句麗好太王碑文-https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/koukurikoutaiouhibun/honbun.html
5日前の更新。かなり前に訳したもので、注は更新のために後からつけた。ただし、地名についてはほぼ調査中としている。全然わからん。ここのところ、とても忙しいので、ブログも全然更新していない。
さて、これが日本史の授業で習う「高句麗好太王碑文」の全文である。この碑文は三国史記における17代高句麗王の広開土王の業績を記したもので、文の最後にある通り、王の墓守を各地から結集させたことの記録を目的とした碑文のようである。その数、330家とのこと。1家につきざっくり10人と計算すれば、3300人である。……多い。ひとつの街である。
ちなみに、日本でも陵戸という墓守が定められ、賤民として扱われた歴史がある。持統天皇の時代に定められた『五色の賤』なんてのは被差別部落の歴史について触れたことがある人なら知っているかもしれない。この制度が被差別部落につながっているのか否かは、歴史学に政治がまぜこぜになって喧々諤々の議論となっている。私の意見としては、被差別部落が西日本、特に畿内に多く、東日本、特に東北に被差別部落が少ないことなどから、少なくとも朝廷の存在と被差別部落に関係はあると考えており、「被差別部落は江戸幕府以来のものだから関係ない」という否定論には与せないのだけど、この話はちょっと置いておこう。私自身、神社の氏子であり、神社をよく巡っているし、参拝もするので、実際に神道の信仰者(というような、religionの枠組みで考えるべきなのかは知らん)ではあるわけだけど、神社という存在にもいろいろ思うところがある。(特に大阪に引っ越してから。)神社が「気持ちのいい場所にある」ってのは、そういう場所を神社が占めていたわけであって……。
この碑文において王の号は、『国岡上広開土境平安好太王』とあり、ここから「広開土」を取ったのが三国史記の「広開土王」であり、日本の歴史の教科書で称される「好太王」は、末尾の好太王を取って名としたものである。ただし、「好太王」というのは、好(よい、すごく)、太(大いなる、偉大な)、王、つまり「すごく偉大な王様」くらいの意味である。最上級の賛辞ではあるが、他にも同様の名を有する王がいる。また、「国岡上」は王都を示した語で、三国史記には故国原王(広開土王の祖父)の別名として「国岡上王」の名が記されている。なので、おそらく呼称としては「好太王」よりも三国史記の「広開土王」の方がふさわしいように感じる。最近は日本でも碑の名を「広開土王碑」と記載しているのをよく見る。
当時の高句麗について考えるためには、まず広開土王の祖父の故国原王から見た方がよいように思う。故国原王の代は331年から371年、この間に高句麗は大きな苦境に立たされていた。まず316年に中国の晋が崩壊して南方に亡命政権を立てて以降、北方には在来の中原の民族と北方騎馬民族が混交して諸民族が自ら立てた王朝が林立していた。これを五胡十六国時代という。その中でも特に戦闘的な慕容氏が中国北東部に燕王朝を打ち立て、たびたび北方から高句麗を攻撃していた。そして、故国原王の代には遂に大敗を喫し、首都の平壌が陥落され、先代王の墓が暴かれる事態に至ったのである。
さて、北方の領土を大きく削られた高句麗であったが、そこで故国原王は南方に打って出ようとする。南韓地域最大の国家であった馬韓を乗っ取って南方を制圧しつつあった百済への南伐を企画し、そして王自ら出撃して敢行した。ところが、当時の百済王は中国史に初めて名を遺し、実質的な百済の建国者という説もある英雄王の近肖古王である。369年に故国原王は百済に向けて二万人で挙兵したが、近肖古王は後の近仇首王となる太子の諱須を派遣して勝利し、五千人を討ち取った。その二年後にも故国原王は百済に奇襲を仕掛けようとしたが、これを察知した近肖古王は逆に進路に伏兵を潜ませ、不意を打って高句麗を撃退した。こうしてその年の冬、今度は逆に近肖古王と太子の諱須が自ら高句麗に攻め込む。故国原王は自ら出撃して防戦にあたったが、逆に流れ矢が当たって死んでしまった。当時の高句麗は北から南から散々にやられてしまっているのである。
さて、その後に燕は一度滅び、高句麗では二人の王が立った。この間に高句麗が大きく後退することはなかったが、逆に進展もしなかった。北方からは燕に代わって騎馬民族の契丹が襲いかかり、南方の百済とは一進一退の攻防を続け、勝つこともあれば負けることもあった。当時の高句麗は、衰弱したまま事態が膠着したのである。
このじり貧の高句麗に現れて事態を一変させたのが広開土王であった。その事績を三国史記から読み直してみると、まず即位したその年の七月に南方の百済を攻撃して十の城を陥落させている。そして、その年の九月には北方の契丹を攻撃し、捕虜を奪って帰国、更にはその年の十月には再び百済に攻め込み、要塞の関弥城を攻め落としている。この時、三国史記よれば、七つの軍勢を分けて操り、堅牢な城を陥落させたとのことであった。その次の年も、そのまた次の年も百済が反撃に出て攻撃してきたが、これをすべて防ぎ切り、新たに城を七つ築いて逆に二回にわたって百済と決戦し、勝利した。
このように百済を追い払った高句麗であったが、今度は北方の脅威である。燕がまた高句麗に攻め込み、二つの城を陥落して一度は燕が勝利した。しかし、ここから高句麗の猛反撃が始まる。まずは燕の侵攻軍を一度打ち倒し、さらに奇襲に出た燕をまた撃退した。この敗戦を受けて、またしても燕は崩壊し、今度は高句麗出身の高雲を天王(皇帝)に立てることにした。そこで広開土王は燕と同盟を結び、北方の患いを削いだ。
とまあ、獅子奮迅の活躍なわけであり、高句麗好太王碑文にも契丹や百済との交戦は記されている。ところが、碑文では広開土王は新羅の懇願に応えて倭国と交戦したと記されているにもかかわらず、そのことが一切すべて省かれている。これはどういうことだろうか。また、実は古事記や日本書紀にも新羅に侵攻した倭国軍と高句麗が交戦したという記録はない。これはどういうことか。
そして、論争の種となっている「倭以辛卯年來渡海破百殘□□新羅以為臣民」という部分は、どのように解釈したらいいのか。これらについて明確な答えが私に出せるとは思わないが、少し自分なりの考えを記してみよう。
というところで次回に続く。たぶん次で終わるよん。
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焚巣館 -東明王篇 序-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/toumeiouhen/jo.html
4日前の更新。ずっと以前に訳したもの。とにかく朱蒙はよい。東明王篇を詩作した李奎報は、高麗王朝の儒者。王を傀儡とする武人政権に就いた。この武人政権というのは、日本で言えば武家政権を築いた幕府みたいなものである。1170年に成立しており、鎌倉幕府よりも少しだけ早い。
高麗王朝は、もともと両班という官制を導入し、文官を武官の上位に置いて文治を重んじていたが、これが武官からの反感を買っていた。一方、高麗王朝を冊封していた中国では宋が北方民族の金王朝に首都を陥落され、亡命政権の南宋に移行したが領土の北半分を失ってしまった。こうした中、もともと高麗は北方民族の建てた遼王朝と交戦しており、こうした情勢を鑑みて女真族の金王朝にも冊封を求めることにしたものの、宋ならまだしも梁王朝と同じ北方民族の建てた金王朝に冊封を受けたことや、そもそも中国に対する冊封を受けること自体への反発、これに併せて武官の不満もたまり続けた。その後、遼王朝との対立も激化する中で戦争に赴く武官の発言力が強まり、高麗では軍事クーデターが頻発するようになった。こうして遂に武官が王を暗殺し、傀儡となる王を武官が据えて牛耳を執る武人政権が誕生したのである。
とはいえ、武官が中心となっただけで行政や司法を司る文官は必要である。武人政権にも当然ながら文官は存在し、そのひとりが儒者の李奎報であった。かつての高麗王朝の文官は、中国に対して一種の遠慮があったのだけど、こうした経緯から誕生した武人政権では中国からの独立心も旺盛であった。
三国史記を読んでみると、著者の金富軾は中国との所縁に王朝の正統性を求めている。
わたくし富軾も書記としての任に預かり、輔として随行した。 佑神神舘に詣でると、一堂に設けられた女仙像を拝観した。 舘伴學士の王黼は言った。
「これは貴国の神様ですよ。あなたがたはご存じですか?」
続けて言った。
「古の帝室に夫なくして孕んだ女がおりまして、人に疑われることになりました。こうして海を渡ることになり、辰韓に辿り着いてから子を生み、これが海東の始主となり、帝女は地仙となり、いつまでも仙桃山に住み続けました。それがその像です。」
わたくしがまた大宋國信使の王襄の祭東神聖母文を見れば、『娠賢肇邦』の句があった。つまり東神則ち仙桃山を司る神聖の者である。
そうであるとはいえ、その子がいつ王になったかはわからず、現在は原初に遡ることができるのみである。
上にある者とは、それが己の為には倹約し、それが人の為には寛大に、それが官を設ければ簡略に、それが事を行うならば簡潔に至誠をもって中国に仕え、海を越え山を越え、朝聘の使は相続いて絶やすことなく、常に子弟を派遣し、朝を造って宿衛し、入学して講習し、ここに聖賢の風化を代を重ねて引き継ぎ、鴻荒の俗を改革し、禮義の邦となった。
また王師の威霊に憑き、百濟、高句麗を平定し、その地を取ってこれを郡縣とした。盛況というべきであろう。金富軾は中国から渡来した神が新羅の王であったと推定されることをもって、新羅と高麗の正当性としている。
これに対して、李奎報は朱蒙という朝鮮半島独自の王が聖王だと顕彰することで、王朝に正統性を求めている。
ましてや東明王の事跡は変化神異をもって人々の目を眩惑させたものではない。これは偽りなき創国の神迹である。これに則して述べなければ、後世の人は何をたよりにすればよいのか。
かくして詩を作ることでこれを記し、かの天下に我が国の根本が聖人の都なることを知らしめんとするのみである。実は三国史記の編者である金富軾は、武人政権以前に王の寵愛を受けた文官の筆頭であり、妙清の乱という叛乱が起こった際、武官を押しのけて臨時で兵権を掌握した人物でもある。この件は武人政権が興る約30年前のことであり、文官独裁の象徴的な事件として武官たちの不満を生み出した。李奎報が今回の序で金富軾を批判していることにも、こうした武官と文官の対立という背景を読み取ることができよう。
それはさておき、この序の何がいいかって、理性を信奉する人物がそれを超越する存在を否定できなくなり、遂には信奉者となる過程が描かれているところだと個人的には思う。儒者、大いに怪力乱神を語る。こういうの本当に好きなんだけど、わかる人いない?
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本日の更新。修正と注の追加。
焚巣館 -漢書 地理志燕地条-https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/chousenshi_chuugoku_shisho/kanshochirishienchijou.html
さっき「漢書地理志燕地条」でGoogle検索したら、私のサイトが二番目に出てきてしまった。古い役だし、もう少しくらいマシなもんにしようと思って史記朝鮮伝に続いて修正と注の追記。なぜか訳文がスコーンと抜け落ちている部分があったので、そこも補修した。なんでそんなことに。
中国の正史における最初の倭国の記録ということで、日本の教科書にも載っている漢書地理志(燕地条)だけど、ここでの記述は朝鮮の方が扱いがはるかに大きい。というか、倭はオマケである。燕の本国の記述が約300字、朝鮮の記述は約250字、倭の記述は約20字。
ちなみに、本文での仁賢というのは箕子のような人物のことであり、あるいは後に登場する孔子のことを意識した語だと読解すべきであろう。箕子とは中華文明を教化する存在であり、あくまでここに記されているのは、中華文明を中心とした世界観である。
ここで大きなトピックは教化であり、政治的指導者の在り方がその土地の習俗を決定づけるというイデオロギー。だから燕丹が高級を無視して勇士をもてなせば、民衆も自分の妻を客人に与えて乱交をするようになり、燕丹が困っている人を果敢に助ける性格であれば、燕の人々もそうなる……という話が登場する。それに基づいて、箕子のエピソードを見れば、これもやはり立派な人物が政治的指導者となったので、それに教化されて朝鮮の文化はすぐれたものになったと説明される。では、武帝の征服以降に朝鮮から箕子の頃の遺風が失われたのは、中国の商人が流れてきたからだと本文で説明される。つまり、武帝以降の漢王朝は暴力的で腐敗した王朝だと漢書では認識されているわけである。その影響を受けて朝鮮も箕子の頃の遺風が失われた、と。
そして、最後に登場する孔子も、ここでは箕子が朝鮮を教化した故事に準え、東夷での教化を目指した……と解釈されている。