忍者ブログ

塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

ホームページの後漢書東夷列伝夫餘国をリニューアルして訳を刷新、注を追記。
焚巣館 -後漢書東夷列伝 夫餘国-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/chousenshi_chuugoku_shisho/gokanjotouiretsuden/01fuyo.html

 本日の更新。またしても東明神話に該当する部分である。

 この扶余の東明建国神話が高句麗の建国神話と概ね同様のものであることは何度も触れているので、ひとまず置いておこう。しかし、扶余と高句麗ほどではないにせよ、この建国神話に似た類型の話は数多くみられる。前に訳した後漢書東夷列伝の序文には、注にも記した通り、徐の偃王には

「徐国の君主に仕える宮人が妊娠して卵を生み、不吉だからと川に捨てた。それを鵠蒼という名前の犬が拾ってきて、飼い主の独孤母という老婆に渡した。老婆が卵を温めてみると、中から幼児が生まれた。」

 という逸話が残っている。いやあ、どこかで見たことがあるなあ……というわけで、今回の更新記事から引用。

 かつて、北夷の索離国の王が外出すると、その側仕えの若者がその後に妊娠した。帰ってきた王は、その者を殺そうとしたが、側仕えの若者は言った。「先ほど、天上を見ていたら、ニワトリの卵くらいの大きさの気があって、私に向かって降りてきたのです。こうして、私は身ごもってしまいました。」その者を王は収監すると、その後ついに男を生んだ。王は豚小屋に置かせたが、豚が息を彼に吹きかけたので死ななかった。今度は馬小屋に移してみたが、馬も同じくそのようにした。こうして王は神だと考えるようになり、そこで母に言いつけて保護し養育させるようにして、東明と名付けた。

 宮廷の人物が妊娠し、捨てられた子供を動物が保護する……とまあ、よく似ている。徐の偃王の方が古い人物で、伝承としても一応出典は古い書籍である。なので、徐偃王の逸話に影響されて扶余の神話も形成されたのだろうか? しかし、扶余の神話は「卵くらいの大きさの気」に妊娠させられたのであって、卵そのものを生んだのではない。なので、これだけみれば、扶余と高句麗ほどの一致とは程遠い。

 では、たまたま似た部分があっただけだ考えた方がよいだろうか。私はそうとは思えない。なぜか。私の漢籍や朝鮮史についての記事を読んできた人ならご存じの通り、扶余を建国した東明ではなく、高句麗を建国した方の東明、つまり朱蒙は卵から生まれているからである。以下は三国史記の始祖東明聖王紀から。

 この話をいぶかしく思った金蛙が柳花を一室に幽閉すると、日の光が差し込んできた。身を引いてそれを避けても、日の光は追いかけてきて彼女を照らし、遂に妊娠して五升ばかりの卵を生んだ。
 王はその卵を棄てて犬や豚に与えたが、みな食べなかった。次に卵を路地の真ん中に棄ててみたが、牛も馬もそれを避けて通った。その次は野原に棄てることにしたが、鳥は翼でそれを覆い守った。終いには王は自らそれを割ろうとしたが、割ることができず、ついにそれを母親に還した。その母が卵を物で包んで暖かい場所に置くと、一人の男児が殼を破って出てきた。骨相は抜きんでて英邁、七歳ばかりになれば、常人と異なるほど嶷然とし、自ら弓矢を作って射れば、百発百中の腕前であった。扶餘の俗語では、弓矢が上手いことを朱蒙と呼んでいたので、そのように名付けられた。

 こちらは卵としての王子を動物が保護するエピソードである。とまあ、扶余を挟んで中国の徐偃王と高句麗王のエピソードが新たな一致を見せている。扶余の神話にない徐偃王のエピソードの要素が高句麗の神話には取り入れられているのだ。これは一体どういうことか。

 更に、もちろんこちらも長らくブログの読者をされている皆様は(漢籍の記事を読み飛ばしてなければ!)ご存じの通り、三国史記において卵から生まれる王は一人ではない。では、もう一人の卵生神話の持ち主、新羅王の脱解王紀を見てみよう。

 脫解尼師今が立った。〈一説には吐解と伝わる。〉この時、年齢は六十二歳、姓は昔で、妃は阿孝夫人である。もともと脫解は多婆那国で生まれた。その国は、倭国の東北一千里にある。もともとその国の王は、女国の王女を娶って妻としていたが、妊娠すること七年で大きな卵を生んだ。「人でありながら卵を生むのは、不吉の兆しだ。それを棄てよ。」と王は言ったが、その娘は忍びなく思い、帛きぬで卵を覆って宝物と一緒に櫝(ひつぎ)の中に隠し置き、海に浮かべてその往くところに任せた。最初は金官国の海辺に辿り着いたが、金官人はこれを怪んで取らず、今度は辰韓の阿珍浦口まで辿り着いた。これは始祖の赫居世の在位三十九年のことである。
 この時、海辺の老母が縄で海岸から櫝(ひつぎ)を引き繫ぎ、それを開いて中を見てみると、なんと一人の小さな乳飲み子がいるではないか。その母は、これを取って養った。

 王宮の女性が卵を生み、それを「不吉だ」ということで水際に捨てると、老婆が拾って生まれた子供を養う……という流れが一致している。実は、こちらの方が扶余王の神話や高句麗の神話よりも似ているかもしれない。ちなみに、この神話は「倭国の東北一千里にある」「多婆那国」の話である。つまり日本列島の話である。もちろん、これは朝鮮で言い伝えられた神話ではあろうが、舞台は日本なのだ。

 このように、単純に扶余の神話が高句麗に引き継がれているだけではなく、実は扶余、高句麗、更には新羅、しかも日本を舞台にした神話にまで、徐偃王のエピソードがそれぞれ分散して伝わっている可能性が存在している。これは単純に徐偃王→扶余東明王→高句麗朱蒙→新羅脱解という神話の変遷だとは説明できないが、かといって偶然の一致とも断じ難い。仮に偶然なら、どのような偶然が起こったのか知りたいところである。

 どのようにしてこれらの神話が形成されたのか、まことに想像力を掻き立てられる内容である。いやあ、ロマンがあるねえ。

PR

コメント

コメントを書く