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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

久々の更新だけど

 
三国史記 序文 -焚巣館-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/sangokushiki/jobun.html

 漢文には触れておらず、めちゃくちゃ注を増やした。
 単純に忙しい。時間があっても疲れてるから頭使いたくない。これらの注はすでにある知識で書いてるからラク。

 注と称しながら、内容は私が思いつくままに好き放題書いているもので、これが適切なものかどうかはよくわからない。そんなものは二の次である。別にこれは学術的なサイトでも何でもないし、おかげで注の字数が本文の倍になった。漢籍の訳本なんて結構こんなもんではあるが。
 用語集とか注で余談やネタなんかを好き放題書いてる本が私は好きで、そういう本で最初に読んだのは、確かティーツー出版の出したヨッシーアイランド攻略本だったと思う。漫画だと『超アレ国志』とか。あとは、普段よく批判してる呉智英とか本田透も、『封建主義者かく語りき』の参考文献とか『電波男』の注がそういう感じでよかった。
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コメント

1. 無題

おつかれさまです

注釈がつくとわかりやすいです

Re:無題

 ありがとうございます! 猫柳さんにお褒めいただくとは光栄です!!

 この序文、私はとても好きで、表層的に読むと後半部分で金富軾の謙遜が行き過ぎて自傷行為みたいになるから「自尊心、大丈夫か? 儒教が悪いのか?」とハラハラするんですが、引用した古典(論語、孟子、法言)に隠れた意味を拾っていくと、「このジジイ、めちゃくちゃ自信満々じゃん……」と思えてくるから面白いです。漢籍の教養が亡びた現代人からしたら、偉い人にへーこらするあまり自尊心を投げ捨てた人間にしか見えなくて、「これだから儒教は……」となってしまいがちですが、当時の儒者はこういう多重性を悦びとしてやってたのだろうなーと思います。これは註釈のし甲斐があるなーって。

 主君を聖上陛下と呼び、堯や禹と比するのを傍から見てると「そんなこと言っちゃって大丈夫なのか? 本当に大丈夫なのか? ヨイショのために名を安く売ってないか?」と思うんですが、これだって過去のいきさつを含めて見ると、自分(≒儒教)を選んで自分に三国史記を書くように命じたこと、朝鮮で儒教が採用されることに対して強い思い入れと自尊心があったんだろうな、と思います。自分を理解して選んだからあんたはエライ! と。
 儒教の故地でない異郷での儒教国家という独自の葛藤は、後代の朝鮮王朝でも続いていきますが、金富軾の時点で中国を唯一の正統とすることに対する朝鮮の儒者としての対抗意識が強くあったのだろうと想像します。
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