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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

百済とベトナムの山幸彦と海幸彦?

 日本神話の皇祖神に列なる系譜に山幸彦と海幸彦という兄弟神がいる。これは現在の九州宮崎県の神話とされており、古事記や日本書紀では、天上世界の高天原から天照大御神の孫の瓊瓊杵尊が地上の葦原中国(日本)に降臨した後、その息子二人として物語に登場する。さて、その物語はどんなものだったのだろうか。

 兄の海幸彦の本名は「ホデリ」といい、釣りの名人で海に出れば毎日大漁、ゆえに海幸彦と呼ばれるようになった。弟の山幸彦の本名は「ホデミ」といい、狩りの名人で山に行けば毎日大猟、ゆえにこれまた山幸彦と呼ばれるようになった。

 ところが、ある時から山幸彦は毎日の狩りに飽きてしまい、毎日釣りをしている兄が羨ましくなってきた。そこで海幸彦に「一度、お互いの道具を交換して、仕事先も山と海とを入れ替えてみようじゃないか」と提案した。ところが、海幸彦は、「俺の釣り針は神の力を宿したものだ。たとえ弟でも貸すことはできない。」と言って提案を拒否した。

 しかし、もはや山幸彦の頭の中は釣りのことでいっぱいである。やだやだ貸して貸してと駄々をこね、何度も何度もしつこく兄に頼み込んだ。こうして、とうとう海幸彦も折れてしまい、それぞれの道具を交換して、次の日には海幸彦は弟の弓矢を持って山に行き、山幸彦は兄の釣り具を持って海に行くことにした。

 さて、海に行った山幸彦であったが、慣れない釣りに四苦八苦するばかり。ちっとも魚が釣れやしない。これは山に行った海幸彦も同じで、弓を撃っても獲物にまったく当たらなかった。結局、それぞれなんの成果もないまま家に帰ることになったのである。

「やあ、山幸彦。魚は釣れたかい?」

 落ち込んだ様子で首を横に振る弟を見た海幸彦は、「お前にも"おのがさちさち(自分の得意なこと)"、私にも"おのがさちさち(自分の得意なこと)"がある。それぞれの得意なことを交換してもうまくいかないのは当たり前だ。明日からは元通り、私が海に、お前が山に行こうじゃないか。」と慰めた。

 さて、ここで終わっていれば、ごくごく一般的な教訓話である。古代であれば、職分が固定された世襲身分制を擁護するための寓話とも読めるが、得意なことと苦手なことをしっかりと自覚すべきだという教訓自体は、現代においても通じることだろう。ところが、この兄妹の話はここで終わらなかった。

「実は……釣りの最中、兄さんの釣り針を海に落として失くしちゃったんだ。」

 海幸彦の釣り針は神の力を宿したもので、これがなければ釣りの実力も半減してしまう。先ほどまでやさしかった海幸彦も、これには激怒した。

「お前、あれだけ注意したのに大事な釣り針を失くすとはどういうことだ! さっさと探して俺の釣り針を返せ! 返すまでお前とは絶交だ!」

 釣りを少しでもやったことのある人はわかると思うけど、そもそも釣り針というものは上手かろうと釣りをしていれば何度かは失くすものである。失くしてはならない釣り針とは、どういうものだったのだろうか? よくわからないけど、話を続けよう。

 当然、海に落とした釣り針なんて探そうにも探すことはできない。山幸彦は自分の持っていた貴重な鉄の剣を砕いて釣り針を1000個つくって差し出したが、それでも海幸彦は山幸彦を許さなかった。

 家に居づらくなって失くした釣り針を求めて海岸に行った山幸彦だったが、目の前に広がるのは無限の海である。途方に暮れ、そこで座り込んだまま、どこに行くこともできなくなってしまった。そこに現れたのが塩土老翁(シオヅチノオジ)という海の神様である。彼は父親の友人だった。山幸彦は彼に事の次第を伝えた。

「そうか、それなら海の世界にお前を導いてやろう。」

 こうして、山幸彦は海の世界に行くことになった。

 海の中には美しい世界が広がっており、底には大きな宮殿が建っていた。その中には豊玉姫という美しい女性がおり、山幸彦は彼女に一目ぼれ、逆に豊玉姫も海幸彦に一目ぼれしてしまい、すぐに結婚することになった。

 豊玉姫の父親の豊玉彦に二人が会いに行くと、彼も一目見て山幸彦を気に入り、その結婚を許した。そこで山幸彦に尋ねた。

「ところで、あなた様はどうして海の底に来たのでしょうか。」

 山幸彦が事情を話すと、豊玉彦は海の魚たちに釣り針を探すように命じた。すると、最近ノドに引っかかったものがあって物が食べられないと悩んでいる赤鯛が一匹いるとわかった。果たして赤鯛のノドを見てみると、やはり海幸彦の釣り針が引っかかっていた。

 こうして釣り針を兄に返すために地上へ戻りたいと山幸彦が願い出ると、豊玉彦は彼に言った。

「この釣り針には呪いをかけておいた。これを海幸彦に返すときに、『この針は、不安の針、貧困に至る針、愚者となる針』と言いながら返しなさい。そして、兄が低い土地に田畑を作れば、あなたは高いところに田畑を作りなさい。それと鹽盈珠と鹽乾珠を渡しておこう。もし兄と争うことになれば、潮を満たす力を持つ鹽盈珠を使って彼を溺れさせなさい。もし兄が許しを請うたら、今度は干潮をもたらす鹽乾珠を使って潮を引かせなさい。」

 ……豊玉彦は海幸彦に怨みでもあるのだろうか。もともと山幸彦が無理を言って借りたものを失くしたのが発端であり、いくら海幸彦が山幸彦をゆるさなかったからといって、そこまで海幸彦がひどい目に遭わされる理由はないと思うのだけど……。

 こうして地上世界に帰った山幸彦は、海幸彦に呪いをかけ、海幸彦が低いところに田畑を作ると、それとは逆に高いところに田畑を作った。すると、海幸彦は呪いのために漁がまったくうまくいか失くなり、田畑も塩がちでまったく実らなかった。対する山幸彦は狩りもうまくいき、田畑も毎年豊作であった。

 遂に腹を立てた海幸彦は、山幸彦に斬りかかった。ここでも山幸彦は豊玉彦の言うとおりに鹽盈珠を使って海幸彦を溺れさせ、彼が降参して子孫代々山幸彦の家来になると誓うと、鹽乾珠を使って彼を救った。

 こうして海幸彦の一族である隼人は、山幸彦の一族である天皇家に永遠に仕えることになったのである。

 ……というお話である。海幸彦の扱いが理不尽すぎない? とは思うが、そういう話が古事記や日本書紀には記されているのだ。

 これは海洋部族と山岳部族が対立し、山岳部族が勝利したことを示す物語だという説がある。そう考えてみれば、もしかすると日本の王朝を示す『ヤマト』という名も「山人(やまひと)」からきていると妄想することもできちゃうかもしれない。

 ちなみに、この話は浦島太郎の話とよく似ている。人によっては、この話を摸倣して浦島太郎の説話が考案されたという者もいるが、これについては『月読は常世の国の王となる』シリーズの方で触れよう。

 さて、この兄弟の物語と似た兄弟の話が三国史記にも掲載されている。それが百済の建国神話である。百済の始祖である温祚王には沸流という兄がおり、互いに別々の国を建てるが、兄の土地が塩がちで経営に失敗し、そのまま死んで弟の温祚王に国が吸収されたという逸話である。

焚巣館 -三国史記 第二十三巻 始祖 温祚王-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/sangokushiki/23kan/01onso.html

 百済の始祖は温祚王、その父は、鄒牟、あるいは朱蒙という。北扶餘から難を逃れ、卒本扶餘までたどり着いた。扶餘王には息子がおらず、三人の娘だけがいたが、朱蒙を見て、非常の人であると気づき、二人目の娘を彼の妻に取らせた。程なくして、扶餘王が薨去すると、朱蒙が王位を継いだ。二人の息子が生まれ、長男を沸流といい、次男を温祚という。〈あるいは次のようにも伝わっている。朱蒙が卒本にたどり着くと、越郡の女を娶り、二人の息子を産んだ、と。〉

 朱蒙が北扶餘にいた頃に生まれた息子が来て、太子となった。太子と相容れなくなることを恐れた沸流と温祚は、そのまま烏干や馬黎等の十人の臣下を伴って南に行くと、百姓にも彼らに従う者が多かった。こうして漢山までたどり着くと、負兒嶽を登り、住居にできそうな場所を望み見ると、沸流は海の浜に住もうとした。十人の臣下は諫めた。

「いえ、この河南の地は、北には漢水を帯び、東は高い岳によって守られ、南には豊潤な水沢に望み、西は大海によって隔てられています。これは天然の要塞にして地の利もあり、なんとも得難き地勢、ここに都を作ることに勝ることがあるでしょうか。」

 沸流は聴き入れず、その民を分かちて弥鄒忽まで行き、そこに住みついた。温祚が河南の慰礼城に都を立て、十人の臣下を輔翼とし、国號を十済としたのは、前漢成帝の鴻嘉三年(紀元前18年)のことである。弥鄒の土壌が湿り、水にも塩が入っていたので、沸流は安居することができず、その場を去ることになってしまい、慰礼城を見てみれば、都邑は安定し、人民は安泰、遂に慙と悔いとで死んでしまい、彼の臣下と人民は皆が慰礼城に向かった。その後、 慰礼城に来た時の百姓が音楽を鳴らしながら喜んで従っていたことから、国號を百済と改めた。

 その世系は高句麗と同じく扶餘を出自としていることから、故に扶餘を氏としている。

 兄と弟の対立で弟が勝利する。兄が塩がちな土地を選んで失敗する。……物語の類型として、とてもよく似ている。ちなみに、この兄弟の対立が実際には山の部族と海の部族とが対立して山の部族が勝利したことを意味するものだとする説も韓国にはあるそうで、これも山幸彦と海幸彦の物語と同じである。

 三国史記と東明王篇を比較してみると、朱蒙の物語において、前者は従来に流布していたものから神秘的な部分を大幅にカットしていることが伺える。もしかすると、元来の温祚王の建国神話には、神秘的な要素が多く含まれていたかもしれない。

 また、海と山とを司る兄弟の争いの神話がベトナムにも存在している。

焚巣館 -大越史記大全 外紀卷之一 雄王 https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/daietsushikizensho/G01/01K/03yuuou.html

 時は末期に属す頃、王に媚娘という娘がいた。美くしく艷やかで、それを聞いた蜀王は、王を訪ねて結婚したいと願い出た。王はその通りにしようとしたが、雄侯がそれを止め、「彼は我が国を乗っ取ろうとし、婚姻はその口実に使おうとしているだけです。」と言った。このことから蜀王は怨みを心に懐いた。王は配偶者を求め、群臣に言った。「この娘は仙女の種族だ。才徳兼備の者よ、婚姻を結ぶがよい。」その時、外から庭下に来て拜見し、婚姻を求める二人の者が見えた。王は奇異に思ってその者たちに問うと、「一人は山精、一人は水精という者です。私たちは境内にいたのですが、明王に聖女がいると聞いて、請命したく思い来たのです。」と答えた。王は言った。「私には一人の娘しかいないのだ。二人の賢者を得ることなどできるはずがなかろう。うーむ……それでは、後日聘禮(おくりもの)を持って先に来たものに娘を与えると約束しようではないか。」二人の賢者は応諾し、拜謝して帰った。翌日、山精が珍らしい宝、金銀、山の禽(とり)、野獣等をもって献上しに来た。王は彼に嫁を出すと約束し、山精は傘圓の高峰に迎え入れ、そこを住居とした。水精もこれから聘財(おくりもの)を贈ろうとしていたところであったが遅れてたどり着き、恨悔したがもう遅い。激しく感情を高ぶらせ、遂に雲を興して雨を起こし、水が漲り溢れだし、水族を率いて山精と媚姫を追いかけた。王と山精は鉄の網を張って慈廉の上流から横切らせてそれに覆いかぶせた。水精は別の江に向かい、莅仁から廣威の山麓に入り、岸から江口に勢いよく立ち上り、大江に出で陀江に入り、傘圓を擊ちつけ、ところどころに穴を鑿(うが)ち、それが淵となり潭となり、水を積み上げて襲いかかろうとした。山精は神と化し、叫び声をあげると蛮人が駆けつけ、竹を編んで籬を造って水を防ぎ、弩(いしゆみ)でこれを射た。鱗介諸種は矢に当たって避走し、ついに侵犯することができる者はいなくなった(俗伝には、山精と水精これらは後世まで仇同士となり、毎年の大洪水は、いつも互いが攻め合っているから起こるものだと伝えられている)。

 こちらは物語の構造こそ違うものの、やはり山と海との対立で、山が勝利する物語となっている。

 ちなみに、ベトナムには他にも、山と海とで部族が別れたという神話がある。

焚巣館 -大越史記大全 外紀卷之一 貉龍君
href="https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/daietsushikizensho/G01/01K/02kakuryuukun.html" title="" >https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/daietsushikizensho/G01/01K/02kakuryuukun.html

 貉龍君。諱は崇纜、涇陽王の子である。君は嫗姬という帝來の娘を娶ると、百人の男(俗には、百の卵を生んだと伝わる)を生み、これが百の祖となった。ある日、姬に言った。「私は龍の種族であり、あなたは仙人の種族だ。水火は相尅し、一体化することは実に難しい。だから、お互いに別れよう。分け合った五十人の子は母に從って山に帰り、残りの五十人の子は父に従って南に住もう(「南に住もう」は「南の海に帰ろう」とも記録されている)。」その長男を封じて雄王とし、君位を継がせた。

 こうした神話の近似性を見ると、これらの国々との縁を感じさせられる。

 ちなみに、「釣り針を失くす」という要素を含む神話が東南アジアには広く流布しており、中国の長江上流、インドネシア、パラオ、ソロモン諸島に伝わっている。以下の論文を参照。

古代日本語における異文化の要素
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0103/BO01030L097.pdf
 おそらく、これらの神話は海を通じて大きく広がってきたものであろう。
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