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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

継体と持統④

これまでの記事
継体と持統①
継体と持統②
継体と持統③ 




 華々しい戦果に彩られて天下を再統一し、漢王朝という偉大なる帝国を復活させた光武帝の栄誉は歴代の中華皇帝の中でも有数のもので、治世においても儒学を大いに振興し、当時の人々は時に彼を太古の聖人たちに勝る聖王だと評価した。

 しかし王朝成立の過程を見ればわかる通り、その正統性となると実は怪しい部分も多い。己の才覚と人望によって王朝を開いた光武帝であったが、王莽を打ち倒した当時の軍のリーダーは同じ劉氏の更始帝であった。漢王朝における皇位継承権は、光武帝より彼の方が血筋の上では優越している。これを滅ぼそうとして交戦した以上、言い訳は難しい。

 これが劉邦のように新たな王朝を開くのであれば、かえって問題はなかったに違いない。劉邦も最後はかつての主君であった項羽に対する裏切りによって攻め滅ぼしているが、所詮それが革命というものである。孔子が奉じた周王朝も、宗主国の殷王朝から軍事力で政権を奪ったもので、このメカニズムを孟子が理論化し、自らの徳でもって人民の支持を得れば、徳のない王に取って代わることは時に認められた。

 ところが光武帝は、漢王朝に対して革命を起こしたわけではない。目的は漢王朝に革命を起こした王莽を打倒し、漢王朝を再興して革命以前を取り戻すことである。ゆえに自分より優位な血統を有する更始帝が王莽を打倒した時点で、光武帝は自らが皇帝に立つ必然性はないのである。例えば先ほど挙げた周王朝でも、それなのに光武帝は更始帝を裏切って交戦し、後に成り代わって王朝を開いた。光武帝は漢の復興を唱えたことで人望を集めたが、そのことが逆に「言い訳」を彼に必要とさせた。そこで用意されたのが「漢書」である。

漢書の編纂に至る経緯

 ところで、先ほどは漢書の編纂の主体を「光武帝」ではなく「後漢王朝」としたが、これは二代目の明帝の命令によって始まったプロジェクトだからである。

 前回は「史記は私的に編纂した史書であるが、漢書は後漢王朝がお上の命令で編纂させた史書」との旨を述べたが、もうちょっと細かく見ると、もともとは漢書も史記と同様、班彪という人物が私的に編纂していた史書であった。彼は一種の史記の「ファン」であり、前漢武帝の時代までが記録されている史記を継承し、その続編を著したいと考えて史書の編纂を始めた。彼の死後、その事業は息子の班固に引き継がれた。

 ここでまた少しいかがわしい話になるのだけど、光武帝の息子である後漢二代明帝は、私的な史書の編纂を一律に法で禁止し、それを犯した者を次々と投獄した。史記についても彼は見事な文芸であると称えた一方で、漢武帝への批判を瑕疵として批判している。明帝が史書による体制批判を警戒していたことは、こうした逸話からもうかがえる。彼は皇帝への批判を許容せぬ絶対的な権威主義者であった。そして、その史書編纂を禁ずる法によって逮捕されたのが班固であった。

 ところが、逮捕された班固と面会した明帝は、彼を甚く気に入り、史官として自らの傍らに迎えることにした。毒を以て毒を制すならぬ、史を以て史を制すといったところだろうか。文才のある彼の筆を折るよりも、自らのために筆を振るわせる方が有効だと考えたわけである。これ以降、漢書は後漢王朝の官報として編纂され始めた。かくして後漢王朝は歴史という事業を独占することになったのだ。

 この漢書の目的は前漢の歴史を総攬することにあるとされる。それ自体はひとつ嘘ではない。とはいえ、なぜ史記の続編であった班固らの史書を、わざわざ時代の重複する「漢書」として編纂させたのか。史記と重複して漢の劉邦から武帝までの歴史を描かせたのは、漢王朝の公的な記録を王朝単位で後漢王朝がコントロールする目的があったに違いない。

漢書の構成と光武帝

 さて、この漢書という史書、構成が非常に優れている。まず前漢における歴代皇帝を総攬する「紀(本紀)」が最初を飾る。これは史記が歴代王朝の帝王を時代順に並べて本紀で記したのと同じであるが、漢書の本紀に並ぶ者は漢王朝の支配者に限定されるので、あたかもひとつの王朝の根幹を貫く背骨のようである。

 初代皇帝の劉邦こと「高祖」が覇王項羽と天下を二分にして争う軍記活劇から始まり、遂に高祖は項羽を下して中華を統一する。そこから呂后の台頭と暴虐、文帝の善政、各地の王が反乱を起こす呉楚七国の乱、武帝による大遠征の勝利と後の乱心、王朝崩壊の危機、宣帝による改新……と、漢書は栄光と昏迷の時代を交互に見せることで、漢という王朝を一個の主人公とし、その波乱の生涯を描いたドラマのように歴史を描き出す。

 そして本紀の最後、奸臣王莽の傀儡となって毒殺された平帝の死で締めくくられる。ここまで読んでみると、なんとなく尻切れトンボで終わってしまったような印象を受ける。悪臣が王朝を乗っ取っておしまいというのは、たとえハッピーエンドを求めずとも、200年の歴史を貫く長編物語の結末としては、どうにもスッキリしない。本紀が終わると表、志という年表や系図、文芸や地理などの情報記録が入る。資料としては非常に貴重であり、中国文化や歴史に詳しい人や嗜好する人には面白いが、本紀のドラマと比べれば無味乾燥だと感じられよう。敢えて言えば、劇終後のスタッフロールや資料集のような存在である。

 そして、表と志が終わると、最後に王朝の時代の著名人の個人史を描いた「伝(列伝)」が掲載される。ここには本紀に登場した各時代の短編エピソードが数多く掲載されており、本紀という背骨のような大枠の物語に肉付けがなされるのである。これは本紀という本編に対する番外編、スピンオフのようなものだと捉えることができよう。ここがまさに中国正史の面白みなのであるが、冒頭に本紀を記して末尾に列伝が置かれる構造自体は先行する歴史書の史記とあまり変わらない。

 ところが、ここからが史記とも違う点である。漢書では列伝の最後を飾るのが、本紀の最後に平帝を毒殺した奸臣、王莽の列伝となっている。重要なのは、その内容である。

 王莽伝には彼の失政や悪事が書き連ねられ、ほとんどゴシップの類のように思われるものまで含まれている。王莽が平帝を毒殺し、政治工作によって皇帝に即位した後、数々の奇行を起こし、失政によって飢饉と混乱を招いた――と。ここで我々は気づかなくてはならない。これは冒頭の「紀(本紀)」の最後を飾る平帝紀の後の物語である。最後の最後で本紀の「続編」が始まるわけだ。まだ漢書という一個の物語は終わっていないのである。

 前半で王莽の邪悪と無能を書き連ね、それによって引き起こされた社会の荒廃を描く王莽伝であるが、その終盤には、「世祖」という人物が颯爽と登場し、獅子奮迅の活躍で王莽百万の軍勢を数千の部隊を用いて壊滅する。そのまま列伝の主人公である王莽の死後も話は続き、更始帝による首都・長安の復興と赤眉の乱による死、そして最後は「世祖」による漢王朝の宗廟の整備と漢皇帝への即位で終わる。漢書の本文と書き下し文、現代日本語訳を以下の引用する。

≪漢文≫
 二年二月、更始到長安、下詔大赦、非王莽子、他皆除其罪、故王氏宗族得全。三輔悉平、更始都長安、居長樂宮。府藏完具、獨未央宮燒攻莽三日、死則案堵復故。更始至、歲餘政教不行。明年夏、赤眉樊崇等眾數十萬人入關、立劉盆子、稱尊號、攻更始、更始降之。赤眉遂燒長安宮室市里、害更始。民飢餓相食、死者數十萬、長安為虛、城中無人行。宗廟園陵皆發掘、唯霸陵、杜陵完。六月、世祖即位、然後宗廟社稷復立、天下艾安。

≪書き下し文≫
 二年二月、更始は長安に到り、詔(みことのり)を下して大いに赦し、王莽の子に非ずんば、他は皆が其の罪を除かれ、故に王氏の宗族も全(まった)きを得。三輔は悉く平ぎ、更始は長安に都し、長樂宮に居(いま)したり。府藏(くら)は完(まった)きに具(そな)はるも、獨り未央宮のみ燒かるるは莽を攻むること三日、死すれば則ち案堵して故(もと)に復(もど)りたり。更始は至るも、歲餘(ひととしあまり)にして政教(まつりごと)は行かず。明くる年の夏、赤眉の樊崇等の眾(もろひと)の數十萬人(いくよろづたり)は關(せき)に入り、劉盆子を立て、尊き號(よびな)を稱(よ)ばひ、更始を攻め、更始は之れに降りたり。赤眉は遂に長安の宮室(みや)や市里(さと)を燒き、更始を害(ころ)したり。民は飢餓(う)えて相ひ食(は)み、死者は數十萬、長安は虛と為り、城の中は人の行くこと無からむ。宗廟も園陵も皆が發掘(ほりおこ)り、唯だ霸陵と杜陵の完ふるのみ。六月に世祖は位に即き、然る後に宗廟と社稷は復び立ち、天下は艾安せり。

≪現代語訳≫
 二年二月、更始帝は長安にたどり着くと、詔(みことのり)によって大赦を下し、王莽の子でなければ、他の者はことごとくその罪が除かれ、ゆえに王氏の宗族も身の安全が保障された。三輔(首都長安周辺の地域。首都圏のこと。)はすべて平げられ、更始帝は長安を都として長楽宮に居住することにした。府蔵(役所や貯蔵庫)は完全な形を備え、ただひとつ三日に渡って王莽を攻めたことで焼かれてしまった未央宮も(王莽が)死んでからは落ち着き、復旧させることができたが、更始帝がたどり着いた後も一年余りにわたって政治や教化が広く行き渡ることはなかったので、明くる年の夏には、赤眉(※当時に大きな勢力を誇った盗賊団)の樊崇等の諸衆数十万人が関所から侵入し、劉盆子(※赤眉に所属していた当時13歳の劉氏の少年)を擁立して尊號(皇帝)を称して更始帝を攻めた。これに更始帝は降伏したが、赤眉は遂に長安の宮室や都市、村里を焼き、更始帝を殺害した。人民は飢餓に陥って互いの肉を食い合い、死者は數十万、長安は廃墟と化し、城の中には人の出入りさえなくなってしまった。(漢王朝の)宗廟も園陵もすべてが掘り起こされ、無事なのは霸陵と杜陵だけであった。六月に世祖が(皇帝に)即位すると、その後に元通り(漢王朝の)宗廟と社稷が立てられ、天下は安らかによく治まった。 

 列伝は漢書の最後を飾る項目である。そして王莽伝は漢書最後尾の列伝であり、その後には編者である班固の王莽への批評(と見せかけた光武帝への賛辞)が述べられ、あとがきとして自身の話を掲載した叙伝をもって漢書は完結する。ゆえに歴史の記録としては、上記引用部が漢書のフィナーレを飾る記事となる。

 高祖劉邦から始まり、混乱と繁栄を繰り返しながらも200年の永きにわたって続いた栄光の歴史は王莽の策謀によって潰えってしまったかに見えた――ところが、そこに現れた「世祖」の活躍と漢王朝の宗廟の再建によって天下は再び秩序を取り戻したのだ! この「世祖」こそ後漢光武帝であり、漢書の最初を飾る「高祖」劉邦と対置されることは言うまでもない。皇祖から始まる漢書の物語は、最後に世祖によってハッピーエンドを迎えるわけである。漢書は王莽伝によって前漢と後漢が接続されるのだ。

漢書に秘められたトリックと後漢書

 ところが、である。この漢書の記述はどう考えてもおかしい。前回の記事で触れた通り、もともと光武帝は更始帝に仕えており、そこで謀叛を起こして自ら漢の皇帝を名乗り、更始帝を偽りの皇帝だと決めつけて軍事衝突に至っている。光武帝の差し向けた将軍の鄧禹と更始帝に仕える将軍の王匡が交戦し、そこで王匡が敗れたことが更始帝凋落の直接のきっかけだったはずだ。

 それと、これは王莽伝の全文を確認しないとわからない内容なので引用は省くが、実は漢書では、光武帝が更始帝の族弟であることは記されているものの、更始帝の臣下であったことは明記されていない。更始帝と同時期に挙兵し、更始帝の配下とともに共同戦線を張って王莽百万の軍勢を打破したことは記されているが、彼の臣下であったとは記されていないのである。光武帝は更始帝から官位をもらっていたはずであるが、これを漢書は無視している。

 漢書の記事だけを読めば、あたかも更始帝の政治が上手くいかず、志半ばにして赤眉の乱に巻き込まれて死に、そこにさっそうと現れた光武帝が皇帝に立ち、天下が収まっただけのように読める。しかも更始帝の死後に漢の皇帝を名乗っただけように読めてしまう。 ところがこれは後漢王朝の歴史が記された『後漢書』を確認すれば、漢書の筆致には非常に問題があるとわかる。

 たとえば、後漢書の光武帝紀には次のような記録がある。

【現代語訳】

 更始元年(中略)九月庚戌(かのえいぬ)、三輔の豪桀がともに王莽を誅殺し、(更始帝に)首を渡そうとして宛まで参上した。

(中略)

 更始帝が洛陽までたどり着くと、そこで光武帝を派遣し、破虜將軍であることをもって大司馬の仕事をさせるようになった。十月、節(軍権代行の証)を持って黄河の北に渡り、州郡を鎮めて慰撫した。

(中略。河北での王郎との戦争)

 二年(中略)四月、進軍して邯鄲を包囲し、連戦してこれを破った。五月甲辰(きのえたつ)、その城を陥落させ、王郎を誅殺した。文書を回収し、王郎と交流のあった役人のうち(光武帝)を誹謗していた者たちの数千通の手紙を見つけた。光武は目もくれず、諸将軍を呼び出して一緒に焼き、「反側者(裏切者と不安におびえる者のダブルミーニング)を安心させてやろう。」と言った。更始帝は侍御史を派遣して節(軍権代行の証)を持たせ、光武帝を蕭王に立て、全軍に戦争を取りやめ、そちらに帰らせようとしたが、光武帝はまだ河北が平定されていないことを理由に断り、徴発に応じなかった。これ以降、更始帝に二心を懐き始めたのである。

 【漢文】

 更始元年(中略)九月庚戌、三輔豪桀共誅王莽、傳首詣宛。

(中略)

 及更始至洛陽、乃遣光武以破虜將軍行大司馬事。十月、持節北度河、鎮慰州郡。

(中略)

 二年(中略)四月、進圍邯鄲、連戰破之。五月甲辰、拔其城、誅王郎。收文書、得吏人與郎交關謗毀者數千章。光武不省、會諸將軍燒之曰、令反側子自安。更始遣侍御史持節立光武為蕭王、悉令罷兵詣行在所。光武辭以河北未平、不就徵。自是始貳於更始。

【書き下し文】

 更始元年(中略)九月庚戌(かのえいぬ)、三輔の豪桀は共に王莽を誅(う)ち、首を傳えむとして宛に詣(まひ)りたり。

(中略)

 更始の洛陽に至るに及び、乃ち光武を遣りて破虜將軍を以ちて大司馬の事を行はせしむ。十月、節を持ちて北に河を度(わた)り、州郡を鎮め慰する。

(中略。河北での王郎との戦争)

 二年(中略)四月、進みて邯鄲を圍み、連戰して之れを破る。五月甲辰(きのえたつ)、其の城を拔きて、王郎を誅(う)つ。文書(ふみ)を收め、吏人の郎と交り關り謗毀する者の數千章を得。光武は省みず、諸將軍を會して之れを燒きて曰く、令反側子自安。更始は侍御史を遣りて節を持たしめ、光武を立て蕭王と為し、悉くに令(いひつけ)して兵を罷めて行き在る所に詣(まひ)らせしめむとす。光武は辭するに河北の未だ平まらずを以ちてし、徵(め)しに就かず。是れ自り更始に貳(ふたごころ)するを始む。

  まず太字だけを見てもらえればわかる通り、後漢書には明確に光武帝が更始帝に対して二心を抱いたものだと記されている。

二心/弐心(ふたごころ) とは? 意味・読み方・使い方 goo
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E4%BA%8C%E5%BF%83_%28%E3%81%B5%E3%81%9F%E3%81%94%E3%81%93%E3%82%8D%29/
ふた‐ごころ【二心/▽弐心】 の解説
1 味方や主君にそむく心。裏切りの心。にしん。「—をいだく」
2 ふたりの人に同時に思いを寄せること。浮気心。
「—おはしますはつらけれど」〈源・宿木〉

 もちろん、こんなことは漢書にはまったく記されていない。漢王朝への忠義と孝心に燃え、見事に中興を達成したはずの光武帝が族兄にして主君の更始帝に対して「二心」を抱いたという事実は、あまりに都合が悪い。

 太字以前の上掲の内容は、王莽を打倒して更始帝が即位した後、光武帝は軍事を皇帝から代行して統括する大司馬という地位に近い職責を有するようになり、まだ平定されていない地域への遠征に出発した。つまり当時の光武帝は日本でいうところの征夷大将軍のような地位にあったわけである。

 ところが遠征を終えた光武帝は、更始帝から帰国を命じられても拒否し、自分の手元の軍隊を手放さなかった。そして、皇帝に取って代わろうとする二心を抱いた……まさしく王権社会における奸臣の典型とも言うべき態度である。

 さて、次に光武帝の即位の前後の流れについて追ってみよう。その前に前掲した漢書の内容を再掲して内容を確認する。

 二年二月、更始帝は長安にたどり着くと、詔(みことのり)によって大赦を下し、王莽の子でなければ、他の者はことごとくその罪が除かれ、ゆえに王氏の宗族も身の安全が保障された。三輔(首都長安周辺の地域。首都圏のこと。)はすべて平げられ、更始帝は長安を都として長楽宮に居住することにした。府蔵(役所や貯蔵庫)は完全な形を備え、ただひとつ三日に渡って王莽を攻めたことで焼かれてしまった未央宮も(王莽が)死んでからは落ち着き、復旧させることができたが、更始帝がたどり着いた後も一年余りにわたって政治や教化が広く行き渡ることはなかったので、明くる年の夏には、赤眉(※当時に大きな勢力を誇った盗賊団)の樊崇等の諸衆数十万人が関所から侵入し、劉盆子(※赤眉に所属していた当時13歳の劉氏の少年)を擁立して尊號(皇帝)を称して更始帝を攻めた。これに更始帝は降伏したが、赤眉は遂に長安の宮室や都市、村里を焼き、更始帝を殺害した。人民は飢餓に陥って互いの肉を食い合い、死者は數十万、長安は廃墟と化し、城の中には人の出入りさえなくなってしまった。(漢王朝の)宗廟も園陵もすべてが掘り起こされ、無事なのは霸陵と杜陵だけであった。六月に世祖が(皇帝に)即位すると、その後に元通り(漢王朝の)宗廟と社稷が立てられ、天下は安らかによく治まった。 

 これを素直に読むと時系列はあたかも次の通りと想像される。

光武帝と更始帝が王莽を打倒する。

更始帝が長安で皇帝を名のるが上手くいかない。

赤眉が勝手に皇帝を立てる。

赤眉が更始帝を打倒する。

更始帝が赤眉に殺される。

やむなく光武帝が皇帝になる。

光武帝が先祖の漢王朝の歴代皇帝を廟に祀ると天下太平が訪れた……。

ハッピーエンド

 王莽を打倒した光武帝。しかし徳のない族兄の更始帝が皇帝を名乗ってしまったから盗賊までもが皇帝を名乗るようになってしまった。こうして更始帝が皇帝を僭称する盗賊に打倒されてしまったので、徳のある光武帝が皇帝になると天下泰平が訪れた……とまあ光武帝に都合のよいストーリーである。

 では、このあたりの経緯について、今度は後漢書の記録を参照してみよう。

【現代語訳】

 建武元年の春正月、平陵人が先帝の孺子であった劉嬰を天子に立てようと望んだが、更始帝は丞相の李松を派遣して攻撃し、これを斬った。

(中略)

 六月己未、皇帝に即位した。かがり火を焚いて天に告げ、六宗に祭祀を立てて諸神を望んだ。その祝文は次のようなものである……(略)……讖記(予言書)には「劉秀が兵を起こして不道を捕え、卯金が徳を修めて天子になる」とあった。

 この月に赤眉が劉盆子を天子に立てた。

 甲子、(光武帝の臣下である)前将軍の鄧禹が更始の臣下として定められた国公の王匡を安邑にて攻撃し、これを大いに破り、その将の劉均を斬った。

(中略)

 八月壬子、社稷を祭った。癸丑、高祖劉邦、太宗文帝、世宗武帝を懐宮にて祭り、河陽まで行幸した。更始帝と廩丘王の田立が降伏した。

 九月、赤眉が長安に入り、更始帝は高陵に奔走したので、辛未に詔した。「更始帝は敗北し、城を棄てて逃走したが、妻も子も裸のまま、道路をさまよっている。まこtに朕は彼らを哀れに思う。今こそ更始帝を淮陽王に封じるので、賊害しようとする吏人がいれば、大逆と同罪にする。」

(中略)

 十二月丙戌、(略)赤眉が更始帝を殺した。そして隗嚻が隴右を拠点とし、盧芳は安定にて勃興した。破虜大将軍の叔寿は五校の賊を曲梁にて攻撃したが、戦没した。

【漢文】

  二年正月(略)青犢、赤眉賊入函谷關、攻更始。光武乃遣鄧禹率六裨將引兵而西、以乘更始、赤眉之亂。時更始使大司馬朱鮪、舞陰王李軼等屯洛陽、光武亦令馮異守孟津以拒之。

(中略)

 建武元年春正月、平陵人方望立前孺子劉嬰為天子、更始遣丞相李松擊斬之。

(中略)

 六月己未、即皇帝位。燔燎告天、禋于六宗、望於羣神。其祝文曰(略)讖記曰、劉秀發兵捕不道、卯金修德為天子。

 是月、赤眉立劉盆子為天子。

 甲子、前將軍鄧禹擊更始定國公王匡於安邑、大破之、斬其將劉均。

(中略)

 八月壬子、祭社稷。癸丑、祠高祖、太宗、世宗於懷宮。進幸河陽。更始廩丘王田立降。

 九月、赤眉入長安、更始奔高陵。辛未、詔曰、更始破敗、棄城逃走、妻子裸袒、流宂道路。朕甚愍之。今封更始為淮陽王。吏人敢有賊害者、罪同大逆。

(中略)

 十二月丙戌、至自懷。

 赤眉殺更始、而隗嚻據隴右、盧芳起安定。破虜大將軍叔壽擊五校賊於曲梁、戰歿。

【書き下し文】

 建武元年の春正月、平陵人は方(まさ)に前孺子劉嬰を立て天子に為さむと望むも、更始は丞相の李松を遣はして擊ち、之れを斬りたり。

(中略)

 六月己未、皇帝の位に即(つ)く。燔燎(かがりび)して天に告げ、六宗に禋(まつ)り、羣神(もろがみ)に望りたり。其の祝文(のりと)に曰く、(略)讖記に曰く、劉秀は兵を發ちて不道を捕へ、卯金は德を修めて天子と為る、と。

 是月、赤眉は劉盆子を立て天子と為る。

 甲子、前將軍の鄧禹は更始の定むる國公の王匡を安邑に於いて擊ち、大いに之れを破り、其の將の劉均を斬る。

(中略)

 八月壬子、社稷を祭る。癸丑、高祖、太宗、世宗を懷宮に祠(まつ)る。河陽に進み幸(ゆ)く。更始と廩丘王の田立は降る。

 九月、赤眉は長安に入り、更始は高陵に奔(はし)る。辛未、詔して曰く、更始は破敗(やぶ)れ、城を棄て逃走(のが)れ、妻も子も裸袒(はだぬ)ぎ、道路(みち)に流宂(なが)る。朕は甚だ之れを愍(あはれ)む。今ぞ更始に封(あた)へて淮陽王と為す。吏人は敢へて賊害する者有り、罪は大逆に同じとす。

(中略)

 十二月丙戌、(略)赤眉は更始を殺し、而りて隗嚻は隴右に據り、盧芳は安定に起こる。破虜大將軍の叔壽は五校の賊を曲梁に擊つも、戰に歿(し)す。

  さて、後漢書の記述を時系列を並べると次のようになる。

光武帝と更始帝が王莽を打倒する。

更始帝が即位し、光武帝は征夷大将軍のような地位に就く。

更始帝の臣下であった光武帝が二心を抱く。

更始帝の命令を無視して勝手に軍を横領する。

更始帝が存命なのに光武帝が勝手に皇帝に即位する。

更に光武帝が勝手に前漢の皇帝を祭って自らが皇帝であることの権威を強く主張する。

それに釣られるように赤眉も勝手に劉氏の皇帝を立てる。

光武帝が臣下の将軍を差し向けて更始帝の軍を攻撃してボコボコにする。

その争いに乗じて赤眉が更始帝を攻撃して降す。

赤眉が更始帝を殺し、隗嚻や盧芳といった群雄が各地で並び立ち、更なる昏迷の時代へ中国は向ってゆく……。

 後漢書によれば、 このように光武帝は主君の更始帝に二心を懐き、皇帝を勝手に名乗り、宣戦布告をし、軍事衝突に至っていた。そして、更始帝に情けをかけた事実はあったものの、内戦を起こして赤眉に漁夫の利を与えたのも間違いない。悪意をもって推測すれば、赤眉に更始帝を打倒させることで、自己の政敵を追い落としたのかもしれない。

 光武帝は更始帝の族弟である。皇位継承権は低い。しかも光武帝は更始帝の臣下である。それが自らの軍才を恃んで征夷大将軍のような職位に立ち、そして軍権を勝手に専横し、武力によって天下簒奪を行なおうとして、そのためにますます中国は混乱に陥った――少なくともそのように捉えることのできる事実が光武帝には存在していた。ところが後漢王朝は漢書を編纂することで、その事実をきれいさっぱりと洗い流すことができたのである。

 ちなみにここでの漢書の内容に嘘は書いていない。

 二年二月、更始帝は長安にたどり着くと、詔(みことのり)によって大赦を下し、王莽の子でなければ、他の者はことごとくその罪が除かれ、ゆえに王氏の宗族も身の安全が保障された。三輔(首都長安周辺の地域。首都圏のこと。)はすべて平げられ、更始帝は長安を都として長楽宮に居住することにした。府蔵(役所や貯蔵庫)は完全な形を備え、ただひとつ三日に渡って王莽を攻めたことで焼かれてしまった未央宮も(王莽が)死んでからは落ち着き、復旧させることができたが、更始帝がたどり着いた後も一年余りにわたって政治や教化が広く行き渡ることはなかったので、明くる年の夏には、赤眉(※当時に大きな勢力を誇った盗賊団)の樊崇等の諸衆数十万人が関所から侵入し、劉盆子(※赤眉に所属していた当時13歳の劉氏の少年)を擁立して尊號(皇帝)を称して更始帝を攻めた。これに更始帝は降伏したが、赤眉は遂に長安の宮室や都市、村里を焼き、更始帝を殺害した。人民は飢餓に陥って互いの肉を食い合い、死者は數十万、長安は廃墟と化し、城の中には人の出入りさえなくなってしまった。(漢王朝の)宗廟も園陵もすべてが掘り起こされ、無事なのは霸陵と杜陵だけであった。六月に世祖が(皇帝に)即位すると、その後に元通り(漢王朝の)宗廟と社稷が立てられ、天下は安らかによく治まった。 

 なぜなら時間を明記した事象である赤眉の長安侵入と光武帝の即位については嘘がなく、それ以外の記述は、その後の事象という曖昧な書きぶりであるから、一応は嘘とまでは言えない内容なのである。もちろん漢書の記述のみをどれだけ読み込んでも後漢書の記述の通りの時系列を導き出すのは不可能であり、悪質な誘導が文章に含まれているのは間違いない。嘘ではないが絶対に真実にたどり着けないカラクリが仕込まれている――これがここでの漢書の記述方式である。なるほど、一度は逮捕した著者の班固を後漢明帝が寵愛した理由もわかるというものであろう。一面的な歴史とは、これほど胡散臭いものなのである。

漢書のゆがみと日本書紀

 さてはて、後漢書と比較してみれば漢書編纂の目的のひとつは、このように光武帝と更始帝の関係をごまかすためであったと推測できる。当初、更始帝は光武帝の主君であり、ろくに皇位継承権もないのに光武帝は更始帝に謀叛を起こして皇帝を名乗った。これは光武帝にとって非常に都合の悪いことであった。もちろん、日本書紀において、ここに対応するのは大友皇子と天武天皇の関係である。 これについては、前回述べた通りである。

 ところが、漢書の編纂の目的はこれに留まらない。王朝の史書の編纂という一大プロジェクトの目的は、更始帝と光武帝の関係のみに収斂されるのではなく、より大きな目的によって編纂されており、更始帝と光武帝の関係の粉飾はその一部でしかない。漢書には光武帝を正当化するために、更なる大きな仕掛けが施されている。それについて次回は論じる。

 そして日本書紀は漢書を極めて強く意識した史書であり、そこに描かれる光武帝に天武天皇を比定しようとして記された史書であると私は考えている。その根拠となる人物が、今回の記事のもう一人の主人公とも言うべき継体天皇である。そして、そこに比されるべき前漢の皇帝も漢書には登場する。これについても次回に述べよう。

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