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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

継体と持統③


これまでの記事
継体と持統① 
継体と持統② 



 後漢は紀元前後に成立した中国の統一王朝で、日本列島の倭が朝貢した事実の詳細が正史に記録された初の王朝である。光武帝は、この時「漢委奴国王」の金印を倭に贈った皇帝その人である。それにしても、この光武帝と彼の開いた後漢王朝を考査すれば、日本書紀における天皇の王統イデオロギーにとって、これはまことに都合のいい存在である。

 もしや日本書紀に記される王統は、後漢王朝と光武帝の存在から着想されたのではないか。いや、それどころか天武天皇は光武帝の真似事をすることで、自己の生涯を演じたのではないか。そのように思えるほど、後漢の光武帝の事業は、日本書紀における王統擁護に適したお手本であり、天武天皇の事跡のお手本となるような人物であった。

 後漢とは、いかなる性質を有する王朝か。後漢と呼ばれるからには前漢も存在する。光武帝は、自らが皇帝に立つことで一度滅亡した漢王朝を復興させた。これゆえに光武帝以後の漢王朝を後漢と呼び、それ以前を前漢と呼ぶようになった。前漢と後漢は、別を有しながらも一である。ここで後漢成立の過程を確認しよう。



前漢の成立と崩壊

 漢の興る約700年前、統一王朝たる周の権威が失墜し、領土を有する各地の諸侯が争いを始め、春秋戦国時代と呼ばれる乱世に突入した。約500年の戦乱を経て秦帝国の統一が起こるも、急進的な統一事業が反発を招いて10年そこらで瓦解、そのまま乱世は続き、様々な群雄が次の天下を競った。

 その一人であった劉邦は素性の知れぬ元ヤクザ者であったが、不思議な魅力を備えて人を束ねた。数ある群雄を押しのけて彼は勝ち残り、遂に天下統一を果たす。これが漢王朝のはじまりである。これは秦とは違って概ね代を累ねるごとに発展し、500年にわたる戦乱の時代からすれば、平和な時代を謳歌することができたのである。

 とはいえ、栄枯盛衰は世の定め、遠征によって国土を一挙に拡大した7代武帝の時代において、その後半から既に衰退の兆しは明らかとなっていった。ピークは常に衰退の途中である。度重なる遠征で人民は疲弊し、産業は衰退しつつあった。遠征の後半などは、先代までの貯金でやりくりしていたようなものである。

 以後、いくらかのアップダウンと復興を期待された事象はあれども、そのまま漢王朝の衰退は止まらず、代を累ねるごとに領土は狭まり国富も落ち込み続けた。人民の間に困窮が広がり、権臣は放蕩、皇帝は愚昧。もはや漢王朝の統治は破綻していた。そこで台頭したのが王莽という人物である。

 王莽は権臣の一族では珍しく清廉潔白な人柄で、学問にも明るく、法の運用も公正だと評判された。出世とともに野心に憑かれた王莽は幼帝の摂政となって成人前に毒殺し、遂に皇帝を名乗って国号を『漢』から『新』に改めた。革命である。きっかけは彼の野心もあったであろうが、既に漢王朝の衰退は底をついており、少なくない人が期待を込めて彼を皇帝に押し上げた。

 ここにおいて漢王朝200年の命運は尽きたかに思われたが、そうはならなかった。秦の始皇帝と同様、新の王莽が打ち上げた政策も急進的であったが故、世間では更なる飢えや混乱が巻き起こり、多くの人々から反発を招いてしまったのである。乱世の混沌も治世の腐敗も、これの荒療治というのは難しい。

 かくして王莽討つべしと唱える独自の勢力が各地で発足し、天下を治めんとして名乗りをあげた。ここで登場するのが今回の主人公のひとり、将来の後漢光武帝こと劉秀である。彼は一応、漢の皇帝の一族であった。


反新運動と劉氏の擁立

 漢王朝は曲がりなりにも200年の平和を保持したのは事実である。それ以前は500年以上にわたる戦乱の時代があり、それは歴史的トラウマでもあった。王莽打倒に共感すれども、再び戦乱の世に戻るのは御免被る、そんなムードも人々の間には存在していた。

 そうした中で起こったこと、それは反乱軍が新帝国打倒の旗頭に劉氏のリーダーを担ぎ上げ、漢王朝再興のスローガンを唱えることであった。長永たる戦乱を治めた偉大なる漢王朝、これを廃して天下を混乱に導く逆賊王莽、彼奴めを打倒して漢を復興すれば、天下に平安が約束される……という一大キャンペーンである。その中でも早くに劉氏を担ぎ上げたのが盗賊団を母体とした緑林軍という結社で、ここに参加したのが後の光武帝たる劉秀であった。

 ところが実はここで最初に担がれた劉氏は彼ではなく、その親戚の劉玄という男であった。というより劉玄は舂陵侯という劉氏の家柄の本家筋にあたるが、劉秀はその分家の族弟でしかなかった。しかも劉秀には劉縯という兄がおり、当初はその副将に過ぎなかったのである。もし、ここで緑林軍が最初から劉秀を擁立していれば、「光武帝は王莽を打倒して後漢を開いた」とだけ記せばいいが、実際にはそうではなかった。そして、ここが今回の話の核心である。

 この戦で劉秀は類稀なる軍略の才を発揮し、僅か数千の兵をもって新の将軍が率いる100万の軍勢を撃ち破ったという。これによって劉秀の名は天下に轟いたというが、あくまで更始帝の武将としての栄誉である。新と緑林軍の戦いの最後は、劉玄自らの指揮の下、緑林軍が漢王朝以来の首都・長安を包囲して雪崩れ込み、遂に新の王莽を打ち滅ぼした。長安を奪還して漢王朝の復興を宣言した劉玄は、ここで漢王朝の元号を更始としたことから「更始帝」と呼ばれる。この時点では、更始帝こと劉玄こそが漢王朝の再興者として最大の栄誉を受けていた。

 やはり緑林軍は漢王朝の再興を唱えて劉氏を立てるのだから血筋は主張の根幹である。ゆえに劉氏の代表として本家筋の劉玄を立てるのは当然であり、分家の劉縯はその予備、弟の劉秀はそのまた予備である。劉縯の部下等からは彼を推す声もあったが、その一人が表立って劉玄の地位を否定したことから処刑され、これを庇おうとした劉縯も一緒に粛清された。これによって王莽打倒の直前に劉秀が分家筋の頭領に交代している。彼は劉玄に兄の不肖を謝罪したので、これといってお咎めはなかった。それにしても、もともと漢を建てた劉邦は素性のわからぬヤクザ者から皇帝に成り上がったというのに、その後継を名乗って乱世で身を立てようとする者たちが、斯様なことに悩むのも滑稽ではある。

 かくして王莽が打倒されたわけであるが、既に天下は麻の如く乱れ、あたかも春秋戦国時代や項羽と劉邦が争った時代の如く、独自勢力がそれぞれ勃興する戦乱の世と化していた。各地に劉氏を名乗るリーダーを据えた勢力等の群雄が林立し、中には更始帝による王莽征伐の後に劉氏をリーダーに担ぎ上げ、我こそは漢帝国なりと名乗りを挙げ始める勢力も複数あった。

 確かに新の王莽を撃ち破って前漢以来の首都・長安を制圧したとはいえ、この時点で更始帝政権は統一王朝の体を為しておらず、とても前漢と肩を並べられる存在ではない。更始帝の次なる任務は、地方に残存する群雄たちを取り除くことであった。これを果たせば更始帝は漢王朝の再興者にして乱世を治めた不朽の英雄となる、はずであった。


光武帝による後漢成立

 ここで更始帝は、劉秀に大司馬という軍事統括責任者の位を与え、東北部に割拠する群雄・劉子輿を討伐せよと命じた。自らの天下統一の事業を達成するにあたって、かつて100万の軍を少数で撃ち破った劉秀の軍事的センスに期待をかけたのである。

 確かに更始帝の目論見通り、劉秀は軍略の才を発揮して群雄を撃破したが、活動はそれに留まらなかった。この過程で地方に埋没していた豪族や王族に調略して自身の勢力に吸収することで力を蓄えた劉秀は、なんとそのまま更始帝に反旗を翻し、帰還要請を無視して自身の勢力圏にある更始帝の息のかかった者を味方に引き入れ、さもなくば斬り殺したのである。もはや自身の勢力が更始帝を遥かに超えると踏んだ劉秀は、自らの最大の腹心・鄧禹という武将を長安に差し向け、更始帝の撃滅を始動した。しかも北東部の豪族の支援や馬賊への調略によって、劉秀は北方騎馬民族の流れを汲む大規模な騎兵軍団までもを組織し、それを伴って更始帝配下の将軍・朱鮪が守備を務める洛陽にも電撃の如く攻め込んだ。ここで劉秀は、我こそは漢王朝の再興者なりと唱え、皇帝を自称したのである。

 これにはさしもの更始帝も想定外、劉秀の才覚は軍略に留まらず、政治手腕、社交、これが一級品であった。むしろ彼の生涯を顧みれば、これこそが本分であったと思われる。自ら龍に翼を与えて野に放ったことに気づいた更始帝であったが、時すでに遅し。鄧禹率いる光武帝軍を迎え撃つ更始帝側の武将は王匡、彼は劉秀と劉玄が共に王莽打倒の旗揚げをした緑林軍の創始者である。初戦は王匡が勝利するも、その後の一進一退の攻防の末、最後は鄧禹が勝利し、王匡は長安に撤退した。これにて天下の趨勢は明らかとなった。

 もはや更始帝に光武帝を止める術はない。ただ更始帝の軍に勝利するのみならず、洛陽と長安に洋々と二面戦を繰り広げる圧倒的な光武帝の勢いに気力を挫かれた更始帝は乱心し、緑林軍以来の仲間を粛清に次ぐ粛清、ここで王匡による反乱が起こり、なんとかこれらを追放した更始帝であったが、既に内情はガタガタである。この隙に赤眉の軍という盗賊団が長安に侵入すると、更始帝はそちらに降伏を申し出て庇護下に入ろうとしたが、かつて追放した王匡等が先に合流しており、かくして復讐を恐れた者に更始帝はあっさりと殺されてしまった。

 族兄かつ主君の更始帝を打倒した光武帝の軍は、方面軍を指揮する更始帝の武将・朱鮪を降伏させて洛陽を制圧すると、続いて長安に居座る赤眉の軍を蹴散らした。既に最大勢力であった光武帝にとって、もはや天下統一は残務処理である。各地方の群雄も征伐して天下を平らげた光武帝は、名実共に前漢に並ぶ統一王朝として後漢王朝を成立させた。彼の活躍によって戦乱の時代はごく短い期間に限られ、後漢は統一王朝として前漢と同じく約200年続く。かくして世界の秩序を回復させた光武帝の功績は後世まで称えられることになる。メデタシ、メデタシ。


光武帝と壬申の乱

 さて、漢王朝を滅ぼした悪帝王莽の打倒を唱えて兵を挙げ、遂に漢王朝を再興するという奇跡を起こした光武帝であるが、その即位の過程を見ていると、なんだかちょっとアヤシイところがある。新と後漢の間には、「幻の漢王朝」ともいうべき政権が存在していたのだ。

 新の王莽を打ち倒した際のリーダーは族兄の劉玄であり、先に彼が漢の皇帝を名乗っていた。そこで地方の遠征にかこつけて都を離れた劉秀は、更始帝にとって手つかずの地域で大勢力を築き上げ、そのまま更始帝を武力で追い詰めた。更始帝の権威を否定した光武帝は、漢の再興者として天下統一をしたのである。もちろん、ここで思い出すべきは天武天皇である。(即位前は大海人皇子であるが、紛らわしいため以下は天武天皇あるいは天武で通す)

 天智天皇から大友皇子に王位が譲られる前のこと、当時皇子であった天武天皇は出家と称して都を離れ、数名の従者とともに吉野(今の奈良県中部)に下った。日本書紀においては、天智天皇から最初は王位継承を打診されていたが、後に大友皇子の陰謀を感じた天武はこれを辞退して吉野に下ったとされている。とはいえ、こちらは一聞して怪しい。万葉集等によれば、初めから王位継承者は大友皇子と決定されていたことが臭わされることから、最初から王位継承のあり得ない天武が武力でそれを奪うために都を離れたとする説も当然のように存在する。日本書紀は天武天皇に端を発して編纂が始まったたものであるから、眉に唾を付ける必要のある記述もある。

 それはさておき、日本書紀には他にも天武が下野した際に「虎に翼を着けて放てり」という言葉が人々から上がったと述べられ、その後の運命が暗示されている。下野してからの半年間、都から遠く離れた吉野で天武は各地の勢力と調略を謀った。ご存じの通り、古代ヤマト朝廷は西方が勢力圏の中心であり、東方の地盤が弱い。ゆえに天武は東国に目を付け、美濃に使者を送って自らに味方をするように取り付け、道を封鎖して尾張や信濃といった東海道の豪族を引き入れ、徐々に勢力を大きくした。これは遠征で都を離れた時期に地方の豪族を吸収した光武帝によく似ている。

 天武天皇が挙兵をしたのは、大友皇子が都を主宰するようになってから半年後のことである。ちなみに、日本書紀においての挙兵理由は、大友皇子が天智天皇の陵墓建設のために人民を徴発したが、武器を持っている者が見えたことから、実は天武を殺すための兵を集めているのだと察したからだとされている。つまり自衛戦争を主張するわけであるが、これほど怪しい話はない。日本書紀は甚だ天武天皇に有利な記録である。

 さて、繰り返しになるが日本書紀には記されていないものの、おそらく既に王位にあった大友皇子は、天武に対抗するため西国を中心にヤマト王朝総力をかき集めた。しかし東国を味方につけた天武の軍勢は既に十分、天武天皇が大友皇子の奇襲をはねのけると、大和、河内、伊賀と各地で幾度となく転戦した。

 その末、壬申の乱の終盤に起こった最大の戦いが「瀬田唐橋での戦い」である。大軍を自ら率いる大友皇子は、橋を挟んで陣を敷いた。このはじまりは、日本書紀において以下のように記されている。

【白文】

 辛亥、男依等到瀬田。時、大友皇子及群臣等、共營於橋西而大成陣、不見其後。旗旘蔽野、埃塵連天。鉦皷之聲聞數十里、弩亂發矢下如雨。其將智尊、率精兵、以先鋒距之。

【書き下し文】

 辛亥(かのとい)、男依等、瀬田に到る。時に大友皇子及び群臣等、共に橋西に營して大いに陣を成し、其の後を見ず。旗旘は野を蔽ひ、埃塵は天に連ぬ。鉦皷の聲は數十里に聞こへ、弩を列べ亂發すれば矢の下ること雨の如し。其の將の智尊、精兵を率い、先鋒を以て之れを距む。

【現代語訳】

 辛亥(かのとい)、男依等が瀬田に到着した。この時、大友皇子と群臣等は、共同で橋の西側に軍営を立てて大いに陣を成し、その後端が側が見えないほどの大軍であった。旗旘が野を覆い、巻き上がる土埃が天まで連なり、鉦皷を叩く音は数十里(数百キロメートル)先まで鳴り響き、弩弓を並べて乱射すると、矢が雨のように降り注いだ。その将軍の智尊は、精兵を率い、先鋒となってこの防御にあたった。



 結果これに快勝した天武が更に追撃をしかけ、遁走した大友皇子は最後は琵琶湖の近くで自殺した。かくして先代の指名した王位継承者、あるいは既に王位を継承しているはずの主君を撃ち破ったことで、天武天皇はヤマト王朝の主催者として王位についたのである。

 なぜわざわざ原文を引用したかと言えば、後漢書光武帝紀に以下のような文章が記載されている。これは光武帝が新の王莽と争っていた際、寡兵で100万の軍勢を撃破した「昆陽の戦い」の始まりの一幕であるが、上掲文とともに下線部に注目してほしい。

【白文】
 嚴尤說王邑曰、昆陽城小而堅、今假號者在宛,亟進大兵、彼必奔走。宛敗、昆陽自服。邑曰、吾昔以虎牙將軍圍翟義、坐不生得、以見責讓。今將百萬之衆、遇城而不能下、何謂邪。遂圍之數十重、列營百數、雲車十餘丈、瞰臨城中、旗幟蔽野、埃塵連天、鉦鼓之聲聞數百里。或為地道、衝輣橦城。積弩亂發、矢下如雨、城中負戶而汲。王鳳等乞降、不許。

【書き下し文】
 嚴尤、王邑に說きて曰く、昆陽城は小にして堅、今の假號の者は宛に在り,亟(いそ)ぎて大兵を進むれば、彼は必ず奔走せり。宛敗らば、昆陽は自ら服せり、と。邑曰く、吾は昔、虎牙將軍を以て翟義を圍むも、坐して生得せざる、以て責讓せらる。今は百萬の衆を將(ひき)い、城に遇ひて下すに能はざれば、何の謂なるか、と。遂に之れを圍むこと數十重、營の列ぶこと百數、雲車は十餘丈、瞰けば城中を臨み、旗幟は野を蔽ひ、埃塵は天に連なり、鉦鼓の聲は數百里に聞こゆ。或は地の道を為(つく)り、衝輣は城を橦(つきくず)す。弩を積みて亂發すれば、矢の下ること雨の如くなり、城中は戶を負ひて汲めり。王鳳等は降を乞はむとするも、許さず。

【現代語訳】
 嚴尤(新の武将)は、王邑(新の腹心)を説得した。「昆陽城は小さいながらも堅固です。現在、皇帝を僭称した連中は宛にいますから、急いで大軍を進めれば、あちらは必ず逃げ出すことでしょう。宛が敗北すれば、昆陽ごときは勝手に降服します。(わざわざ攻めても無駄が増えるだけです。)」王邑は言った。「我輩は昔、虎牙将軍として翟義という反乱の首謀者を包囲したことがあったが、何もしていなかったら生け捕りにする機会を逃してしまい、その過失で処分されたことがある。今回は百万の衆勢を将帥しておるのだ。城に遭遇しながら下すことができないとなれば、どんな言い訳をすればよいのか。」こうしてそれ(昆陽城)を何十重にも包囲し、軍営が並列されること百を超え、雲車(はしご車)は十丈余りの高さに立て、そこから俯瞰すれば城中に臨むことができた。旗幟が野を覆い、巻き上がる土埃は天に連なり、鉦鼓を叩く音は数百里(数百キロメートル)先まで鳴り響いた。もう一方では、地面に車道を開き、衝車(城門や城壁を叩き壊す巨大な戦車)で城を突き崩そうとした。弩弓を積んで乱発すると、矢が雨のように降り注ぎ、城中から井戸の水を汲む際には、戸を背負って行くことになった。王鳳等(劉秀の仲間、王匡とともに緑林軍の創始)は降伏したいと願い出たが、それを許さなかった。

 この通り、ほとんど同じ文章が用いられている。昆陽の戦いは光武帝を英雄に押し上げた合戦として有名であることから、天武天皇の武勇の評判も、これにあやかろうとしたのではないか。深読みすれば、天武天皇と敵対した大友皇子は光武帝と敵対した王莽や更始帝と同じと見なされているが故ではないか。

 もちろん、文章が同じこと自体が確たる証拠となるわけではないが、天武天皇と光武帝の事跡はよく似ており、その継承権に問題を抱えていることも共通していたことから、天武は生前から何らか光武帝を意識し、それが日本書紀の編纂者のような周囲の者たちの共通認識でもあったとする仮説も、十分に成り立つのではないか。そうでなくとも、光武帝と天武天皇を重ね合わせる意図がどこかにあったのではないか。

 ちなみに、天武天皇は「天武」以前には「天渟中原瀛真人尊」という号を贈られていたが、この「瀛真人」は、後漢光武帝が「白水真人」と呼ばれていたことにあやかって付けたのではないかという説もあるそうである。

 もし天武天皇を光武帝に比する考えがあったとすれば、そのの事業を引き継いだ次代の持統天皇が、光武帝から事業を引き継いだ後漢2代明帝を評した「継体持統」を語源とする名を冠したのも理解できる。


更始帝と大友皇子

 ちなみに、自らが漢王朝の復興者でなくてはならない光武帝にとって更始帝は邪魔な存在でしかない。それにオナサケであっても彼に後漢の復興者の席を譲れば、たちまち光武帝は族兄の主君を武力で追い詰めて帝位を奪ったことになってしまう。ゆえに後漢では彼を皇帝とは認めていない。更始帝を直接追い込んで殺したのは赤眉の軍である分、天武天皇よりは若干マイルドではあろうけれども、光武帝も既に軍事衝突をして彼を追い詰めていたのだから言い逃れは難しい。

 もちろん天武天皇も同じである。大友皇子が正式な王位継承者、あるいは既に王位にあったとなれば、天武天皇は武力によって王位を奪った簒奪者となってしまう。ゆえに日本書紀に大友皇子の即位が記されることはないし、歴代天皇の号を作成した淡海三船も彼に天皇としての号を贈らなかった。

 ただし、歴代天皇の代数において、天智天皇は38代、天武天皇は40代である。これは一体どういうことか。実は天皇の代数、これが比較的新しいもので、明治維新後につけられたものである。これを整理する際、さすがに大友皇子を天皇に数えないのは誰が見てもおかしいということで、大友皇子は弘文天皇という号が贈られ、正統に39代天皇と認められた。

 実際、日本書紀の後に起こった南朝と北朝の対立等の「皇統の危機」を鑑みれば、天武天皇個人の政略のために大友皇子を天皇と認めないなどアホらしく、かえって混乱するだけであろう。この間に1000年以上の年月が必要であったが、これは日本書紀の編纂当時から神武天皇まで遡る以上の年月である。

 このように、正史の編纂は正統性の主張に強烈な威力を有する。天武天皇が武力によって王位を奪った主君・大友皇子こと弘文天皇を1000年以上にわたって天皇の座からつまはじきにできたのは、日本書紀の編纂をはじめとする文化事業の力である。

 ところが、これさえも後漢王朝の真似事で始めたことなのかもしれない。思うに、天武天皇と光武帝が似ているのは、本人の即位の過程よりも、彼らの統一後の継承を正当化する事業である。後漢もまた、史書の編纂によって光武帝を正当化し、更始帝をつまはじきにしてやった。それが漢の正史・漢書である。

 歴代中華王朝の正史は、その総数から十八史あるいは二十四史と称されているが、その第一は前漢の司馬遷の著した史記である。内容は伝説の時代から前漢の途中まで。しかし、これは司馬遷が私的に編纂したものである。しかも時の皇帝武帝に見つかれば焚書されてしまうと怖れた司馬遷は、これを山の中に隠してしまった。これはあくまで、司馬遷のプライベートな成果物を王朝が認めたという機序がある。

 ところが正史として第二に挙がる漢書はそうではない。これは前漢の歴史を記録したものであるが、後漢王朝の命令によって編纂されたものである。ということは、中華王朝における正史の編纂という国家事業そのものが後漢に端を発するのである。既にこの時点で日本最初の正史である日本書紀との一致点が存在するが、その内容と目的にも一致点を見つけることはたやすい。

 この漢書は当然のように更始帝より光武帝に正統性を与える記述が為される。そもそも漢書は後漢を正当化することが目的のひとつにあり、これは天武天皇以降の皇統の正当化を目的のひとつとしているであろう日本書紀と軌を一にする。しかも、それだけではない。全編にわたって後漢のイデオロギーが盛り込まれており、これも日本書紀と共通する。ここからも「継体持統」の謎にも結びつくものが見つかるのである。


 さて、あまりに長大となってしまったので、ここでいったん切る。次回は後漢王朝と日本書紀における王統の関係について述べ、より深く天武天皇と光武帝の共通点を探るとともに、それ以外の天皇にとっても光武帝が重要な存在であることを述べ、いよいよ「継体持統」の謎に迫る。



(※1)2022年4月3日、いくつかの文章を挿入。「その継承権に問題を抱えていることも共通していたことから、」「ちなみに、天武天皇は「天武」以前には「天渟中原瀛真人尊」という号を贈られていたが、この「瀛真人」は、後漢光武帝が「白水真人」と呼ばれていたことにあやかって付けたのではないかという説もあるそうである。」「もし天武天皇を光武帝に比する考えがあったとすれば、」「後漢もまた、史書の編纂によって光武帝を正当化し、更始帝をつまはじきにしてやった。それが漢の正史・漢書である。そもそも漢書は後漢を正当化することが目的のひとつにあり、これは天武天皇以降の皇統の正当化を目的のひとつとしているであろう日本書紀と軌を一にする。」後に触れる予定であったが、ここに入った方がおさまりがよさそうなので。

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