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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

継体と持統①

 以前の記事でも触れたけど、日本の王統には『継体天皇』という名の天皇が存在する。先代の25代武烈帝が死去したのち、群臣たちの協議によって王に推挙された26代天皇である。しかし、出身は当時のヤマト王朝においては畿内から見て辺境の限りである近江あるいは越前といわれており、先代から5世遡っての祖先からの子孫であると日本書紀には記録されている。これは現在の徳仁天皇からいえば、孝明天皇まで遡って枝分かれした子孫が次の天皇になるようなもので、明治天皇の玄孫を名乗る竹田氏が次の天皇になるよりも遠い親戚、ぶっちゃけ、ほとんど赤の他人である。


 ……なぜこの人物が天皇になることになったのだろうか。実際その即位には数々の疑問が呈されており、正体についても多数の説がある。その中には、そもそも継体天皇は旧ヤマト朝廷の縁者ではなく、別の王朝がヤマト朝廷を乗っ取り、後から歴史書において同じ王朝ということにされたとする説などもある。この天皇の存在は、「神武以来」の「男系」による「万世一系」という神話を批判するための格好の材料であり、少なくとも非常に奇妙な形で天皇に即位をしているのは間違いなく、王統に不信を抱かせるには十分な要素である。そのため、現代において天皇崇拝者にとっても反天皇主義者にとっても非常に有名な人物となってしまった。


 しかし、こうした王朝交代説そのものは、これ以前の古代天皇、10代崇神天皇や15代応神天皇等にも疑惑がもたれており、継体天皇に限定されたものではない。それでもこの天皇を有名にしている特異性のひとつは、なんといっても『継体天皇』という名前そのものである。
 継体! ここまで露骨な名前をつけてよいのだろうか。先に挙げた記事でも書いたけど、あたかも体制の体裁を受け継いで取り繕うための天皇という含意が感じられる。王朝の運営にあたって途中で混乱が起こることもあるだろうけれども、そんなあからさまな名前をつけちゃっていいの? 万世一系が疑われると思わなかったの? 皇室に敬意はないの? なんJ民にまでネタにされているんだけど。

 と、ついついそんなことを言ってしまったけど、実は今回この継体天皇という名の由来について軽く調べてみると、結構興味深い事実がわかってきた。この継体天皇という名も、どうやら美名のようである。実際のところ、先代の武烈天皇というのは、妊婦の腹を割いて胎児を抜き出したりとか、人の爪を剥がして素手で芋を掘らせる等の悪行を重ねた暴君として記録されているのに「武烈天皇」なんていうカッコイイ名前が贈られているのだから、継体天皇が美名なのも当然である。



 では、「いつ」「誰が」「何をもって」26代天皇を継体天皇と名づけたのであろうか。まず、「いつ」「誰が」といえば、これは「762年(8世紀後半)」に「淡海三船」がつけた名である。継体天皇は5世紀後半から6世紀前半の人物であるから、実に2,300年の歳月を経てつけられた名ということになる。

 ヤマト政権は663年の白村江の戦いの敗北を経て国家体制が大きく揺らぎ、700年頃に国号を日本に改めた。つまり8世紀の日本とは、まさに日本が日本として成立する時代で、ここに国家の正統性を整理し、おさらいする必要が出てきたのである。日本書紀の編纂もこの一環で、かつては「オホキミ」「スメラ」と呼ばれていたと思われるヤマトの王が天皇という呼称もなったのもこの頃である。ここで淡海三船という文学者は、中国風の名で歴代「オホキミ」「スメラ」に天皇としての諡号をつけるように命じられた。彼が名づけた天皇は初代神武天皇から44代元正天皇まで、つまり一つの時間、一つの視点、一つの物語の上で、これまでの天皇がすべて一度に名づけられたのである(※ただし、それ以前から例外的に諡号を受けていた42代文武天皇はを除く)。これが以降ひとつひとつが個別に時代を追って名づけられた天皇と違う点である。


 では、継体天皇という名は、何をもって名づけられたか。「継体」という語は三国時代の呉国で編纂された「後漢記」という史書に登場する「継体持統」という語に由来するとされている。ここで「持統」という語にピンと来た人もいるだろう。実は41代持統天皇も同じ語を典拠としているのである。持統天皇は、日本書紀に紀が存在する最後の天皇であり、女性天皇として先代の40代天武天皇の事業を完成し、孫の文武天皇にそれを引き継いだ。


 ここで「継体持統」の登場する後漢記明帝記の本文を見ていくつもりであったが、長くなりそうなので、次回に回す。
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