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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

継体と持統②

 さて、「継体持統」の出典である後漢記明帝紀に入る前に、持統天皇について触れておこう。

 前回述べた通り41代持統天皇は女性であり、また天智天皇の娘であるとともに40代天武天皇の皇后である。つまりこれは皇族同士の同族婚であるが、しかも天智は天武の兄であるから、天武と持統は叔父と姪の関係にあった。現代日本であれば、法的に禁じられた近親婚ということになるけれども、日本書紀には推古天皇と敏達天皇や用明天皇と穴穂部間人皇女等、より近親の異母兄弟での婚姻も存在しているし、初代神武天皇の父母も叔父と姪の関係であったことからして、古代日本の王統には珍しいことではない。

 持統天皇の夫である天武天皇は「大海人皇子」としても有名であろう。天智天皇は息子の大友皇子に王位を継がせようとしたが、その死後に大海人皇子が乱を作して大友皇子を自殺に追い込み、自ら王位に就いて天武天皇となった。これが「壬申の乱」である。
 さて、先ほど白村江の戦いの後にヤマト政権の国家体制が大きく揺らいだと述べたが、この壬申の乱もその一環である。今回は詳細に触れないが、先代の天智天皇もまた白村江の戦いに前後しての変革の渦中において王位に就いた人物であった。当時のヤマト政権が「日本」となる過程の混乱にあったことは、その後の持統天皇の事跡を追う上でも重要となる。なぜなら日本が日本を名乗り始めたのも、王号が天皇となったのも、天武天皇と持統天皇の代のいずれかであるといわれているからである。この二人によって日本は日本となり、天皇は天皇となった。

 天武天皇は即位の後、自らの治世において様々な改革に着手した。新たな都に首都を遷そうと計画して藤原京の造営を始め、律令も新たに飛鳥浄御原令を制定することにした。また日本書紀の編纂も天武天皇が始めたことである。
 藤原京は日本初の都城、飛鳥浄御原令は日本において初めて用いられた体系的な法典とされており、日本書紀は日本初の正史の編纂であった。

 しかし、天武天皇は遷都や変法の事業を為し遂げることなく死去した。それを受け継いで完成させた存在こそ、他ならぬ持統天皇である。
 藤原京の造営と飛鳥浄御原令の制定は、持統天皇の代において完遂された。この後、持統天皇は自身と天武天皇の孫の文武天皇に譲位するも、その後も太上天皇を名乗って政権を掌握している。日本書紀は持統天皇の死後しばらくして完成したが、この最後に描かれるのが持統天皇による文武天皇への譲位である。


 さて、ここでようやく「継体天皇」の後漢記の本文に入ることができる。これは中華王朝の後漢時代を記録した史書で、後に正史となる後漢書の編纂にあたっても参考にされた史料のひとつである。現在は散逸して失われているが、他の書物に引用される形で、いくつかの文面は現代においても確認可能で、「継体持統」の語が登場する明帝紀の賛辞も、後漢書での引用によって確認が可能である。

 では、以下にその内容を引用する。「継体持統」の部分は太字にした。
≪白文≫
 贊曰、明帝自在儲宮、而聰允之德著矣。及臨萬機、以身率禮、恭奉遺業、一以貫之。雖夏啟周成、繼體持統、無以加焉。是以海內乂安、四夷賓服、斷獄希少、有治平之風、號曰顯宗、不亦宜乎。

 次に私の手による書き下し文と現代語訳を掲載する。原文と同様に「継体持統」を太字にするとともに、現代語訳には「継体持統」が登場する文章全体にも下線を引いた。「継体持統」そのものの現代語訳は、解釈の介在を避けるため敢えて訳を固くしている。

≪書き下し文≫
 贊に曰く、明帝は儲宮に在らせるより、而りて允(まこと)の德著(あら)はせるを聰けり。萬機に臨むに及ぶれば、身を以て禮に率(したが)ひ、恭しくも遺業に奉らるること、一以て之れを貫けり。夏の啟、周の成と雖も、體を繼ぎて統を持さば、以て加うる無し。是れ以て海內は乂安(やすらぎ)、四夷は賓服し、獄を斷つもの希少(ごくわずか)にして、治平の風を有らしむれば、號して顯宗と曰(い)へるも、亦た宜べならむや。

≪現代語訳≫
 賛辞「明帝は儲宮(皇太子の居住する宮廷)にいらっしゃる頃から、まことの徳を著(あらわ)しておられたと聴く。萬機(君主がすべき天下の政務)に臨まれると、自ら身をもって礼に順い、恭しく遺業に奉り、ひとつを貫いてやり通された。夏の啓王や周の成王は、『体』を継承して『統』を維持しただけで、それ以上に加えることがなかった。これによって海内(世界中)はよく治まって安らかとなり、四方の蛮夷は来朝して服従し、刑罰によって人を捌くことはごく僅かとなり、治平の風をあらしめたのだから、顯宗と號されるのも、当然のことではないか。」

 さて、これをどう見るべきか。明帝とは、後漢における二代皇帝で、初代光武帝の息子である。この文章によれば、皇太子時代から徳が高く、皇帝となった後も政務では身体を張って礼に順い、腰を低くして「遺業」に奉ったと書かれている。ここでの遺業とは、おそらく父・光武帝の遺した事業、つまり後漢王朝のシステムや君主としてすべき事業のことであろう。これによって、世界中がよくおさまったので、明帝は顯宗と呼ばれるようになった。これが本文の意味するところである。

 してみれば、この中で「継体持統」の語が登場する文章だけは、後漢明帝当時のことを記載した部分ではない。その事績と評価を修飾するにあたって故事を記すための文章である。
 では、ここに登場する夏の啓王と周の成王は、如何なる人物であろうか。後漢から1000以上年前のこと、これらはいずれも父親が統一王朝を開いた人物で、それぞれ夏の禹王と周の武王の息子であった。聖王と評価されるふたりの父親に比すれば、啓王も成王も才覚は見劣りしたとされているが、それでも先代の事業を謙虚に受け継いだからこそ十分に王務をまっとうし、特に成王は、武王が即位後に早く亡くなったこともあって、父が着手できていなかった山ほどの事業を成し遂げて周王朝の土台を築き上げた時代の王として有名である(但し、これは一般に武王の弟の周公旦が宰相であったことによる成果とされているが)。
 つまり、本文は明帝が父・光武帝の遺業に沿って謙虚に順い仕事をしていたがため、新しいことを何もしなくてもうまくやれた、ということを言いたいがために引かれた故事であろう。後漢の明帝も光武帝から「継体持統(王朝を継承して道統を維持)」したというわけだ。


 ここで日本に話を戻そう。ここまで読み解くことができば、どうして41代天皇が持統天皇と名付けられたかもある程度わかるはずである。

 まず持統天皇の功績は、上述したように夫の天武天皇の政策に則って政務を執り、中途の事業を完成させたことにある。持統天皇は天武天皇の王位を受け継ぐとともに、企画していた飛鳥浄御原令と藤原京の造営を完成させ、これを次代の文武天皇に引き継いだ。これもまさに「継体持統」の働きというわけである。


 しかし、持統天皇が持統天皇と名付けられたる所以の主たる要因は、夏啓王や周成王との近似性ではないと思われる。これはあくまで二次的な存在で、この諡によって本当に持統天皇に類比したかったのは、「継体持統」によって評された皇帝本人、すなわち後漢明帝その人であろう。

 確かに天武天皇は改革者であり、その意味では夏の禹王や周の武王に比せられるかもしれない。しかし、
夏の禹王は虞王朝から王位を譲り受け、周の武王は殷王朝から王位を武力で奪い取っている。つまり、これらの中華王朝は、以前とまったく違った王族が打ち立てた別の王朝であり、その正統性は「天命」という概念が担保する。これが儒教における「易姓革命」の思想である。この思想に基づけば、天命が移れば王族の姓(血筋)は別のものに易(か)えてしまってもいい。いや、易(か)わることが必然であり、むしろこれに逆らってはならないのである。

 一方で日本書紀における天皇の系譜は、そのすべてが男系の子孫で統一されている。先でも触れた通り、日本書紀の編纂を始めたのは天武天皇であり、持統天皇や文武天皇がその事業を引き継いだ。その政治的な立場は、あくまで自身が旧ヤマト朝廷と父系における血統上の連続性を有し、更にはそれが神話の時代から連続していると示すことで王朝の正統性を担保している。
ゆえに易姓革命を成し遂げた夏王朝や周王朝に比するのも少し趣が違っている。

 ところが、これが後漢の光武帝であればどうだろうか。後漢の開祖である光武帝は、実名を劉秀といい、前漢の血筋である。彼はあくまで劉邦が開祖となった前漢が一度滅亡したがために、それを復興させるとの立場を表明していた。これまでの王朝から血筋を易えた禹王や武王と異なり、むしろ従来の王朝の血筋であることを自らの正当性にしたのである。


 ここでは必ずしも「夏禹や周武のような人物に天皇を類比すること自体があり得ない」と主張しているのではない。むしろ当時においてそれがそこまで厳格に禁忌とされていたのであれば、継体持統の語を天皇の諡に用いること自体がないように思われる。
 私がここで持統天皇に類比されているのが主に夏啓や周成よりも後漢明帝であると主張するのは、前者を避けるという消極的な意味においてではなく、後者に強く類比したいという積極的な意思を感じ取ることができるからである。

 もっとはっきり言ってしまえば、持統天皇に「継体持統」の名を与え、後漢明帝に比した目的自体が、そもそも天武天皇を後漢光武帝に比することだったのではないだろうか。
 彼の王統が易姓革命によらないという消極的な理由のみではなく、むしろ彼のような存在が男系王朝における正統な後継者となれたこと自体が、そして彼が漢王朝の再興という偉業を成し遂げた大人物とされていることが、天武天皇自身の正統性において、そして古代日本の王統の正統性を主張するためにおいても重要な価値を有していたのではないか。

 天武天皇は武力を用いた政変で王位を奪取した。壬申の乱で敗れた大友皇子は、もともと先代の天智天皇の死後にも都にとどまり政務を執っていたという。当たり前に考えれば、大友皇子は既に王位を継承した後だったのではないか。しかしながら歴代天皇に諡をした淡海三船は、大友皇子に諡をしておらず、日本書紀では天皇と認められていない。
 しかも天武天皇は、一応は旧来の都に残ったものの、即位後に新たな都と律令を定めることを目指し、その計画を引き継いで完成させた持統天皇が遷都して国号を日本に改めた。この時期に王号も天皇に変わっている。しかも中国の史書「旧唐書」によれば、かつての倭国と日本は別の国であるとも記録されている。こうした事実からすれば、どうにも旧ヤマト王朝と天武天皇・持統天皇の政権の間には、大いに隔絶した何かが存在するように考えられる。

 しかし、こうした様々な問題を抱える天武天皇を正当化するにあたって、光武帝という存在はうってつけの人物であった。しかも彼は過去の王統を正当化するにおいても有用な存在である。持統天皇を持統天皇と名付けて後漢明帝に比したのも、天武天皇を光武帝に類比するための一環であった。以降はそのような仮説に基づいて、「継体持統」についての検討を継続したい。


 さて、そろそろ長くなったので今回はこれにて。次は後漢という王朝について触れながら、天武天皇の事跡とともに「継体持統」を検討する。
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