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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

列女伝孽嬖第七妲己

前回:列女伝第七孽嬖末喜伝
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 前回は夏王朝の末喜であったが、今回は殷王朝の妲己である。
 妲己は末喜、褎姒ら他の「傾国の美女」と比べても特に有名で、悪女の象徴とされる人物であり、日本でも玉藻の前伝説など民話や伝説において、九尾の狐が化けたものとしてその名が登場する。

≪原文≫
 妲己者、殷紂之妃也。
 嬖幸於紂。
 紂材力過人、手格猛獸。
 智足以距諫、辯足以飾非。
 矜人臣以能、高天下以聲、以為人皆出己之下。
 好酒淫樂、不離妲己、妲己之所譽貴之、妲己之所憎誅之。
 作新淫之聲、北鄙之舞、靡靡之樂。
 收珍物、積之於後宮。
 諛臣群女咸獲所欲、積糟為邱。
 流酒為池、懸肉為林、使人裸形相逐其閒、為長夜之飲、妲己好之。

≪書き下し文≫
 妲己は殷紂の妃なり。
 紂に嬖幸さる。
 紂の材力は人に過ぎ、猛獸を手格す。
 智は以て諫を距むに足り、辯は以て非を飾るに足る。
 能を以て人臣に矜り、聲を以て天下に高くし、以為らく人皆己の下に出ずる。
 酒を好み樂に淫り、妲己を離さず、妲己の之を譽する所を貴とし、妲己の憎む所之れを誅す。
 新たに淫の聲、北鄙の舞、靡靡の樂を作す。
 珍物を收め、後宮に之れを積む。
 諛臣群女の欲する所を咸く獲、糟を積みては邱を為す。
 酒を流して池と為し、肉を懸けては林と為し、人をして形を裸しめ其の閒を相逐わせしめ、長夜の飲を為し、妲己之れを好む。

≪現代語訳≫
 妲己は殷の紂王に特別の寵愛を受けた妃である。
 紂王は猛獣を素手で殺すほどの人並外れた剛力を持ち、その知能はあらゆる臣下の諫言をやり込めるほど高く、弁舌はあらゆる自らの非を粉飾できるほどに達者であった。
 その知と力は天下に轟き、自らも能力をして臣下に傲然と当たり、その名声をして天下に驕った。
 紂王は自分に及ぶ者など誰一人としていないと思い込んでいた。
 酒を好み、音楽に耽溺し、妲己を自分の傍から話さなかった。
 妲己が気に入った者を高位に取り立て、妲己が嫌った者は処刑した。
 新たに淫らな歌、荒涼とした舞、退廃的な音楽を作り、珍物を収集しては、後宮にため込んだ。
 臣下や宮女が欲しがった物はなんでも集め、そのがらくたを丘の如く積み上げた。
 池の如く酒を流し、林の如く肉をかけ、宴席の参加者たちを裸にしてお互いを追いかけさせ、一晩中酒を飲み続けた。
 これが妲己の好んだ酒宴である。



 紂王は殷朝最後の王である。
 ここで描写される紂王の能力を一言で表現するなら、過剰である。そして、ここに儒教の中庸の思想が表れている。
 素手で猛獣を殺すような腕力は王に必要ない。そして、頭が回り過ぎる者は往々にして言い訳や反論が上手くなり、謙虚に自らの誤りを認められなくなる。王は人々との繋ぎ役であり、人に頼るのが仕事と言っていいが、過ぎたる能力は人の有り難みを忘れさせ、傲慢にさせる。
 孔子の弟子においても、腕っぷしはあるが蛮勇を好む子路、知恵は回るが知に逸り過ぎる子貢のような弟子より、ともすれば愚とも評価されながらも、仁心を離さない顔回が一番弟子であった。また論語には「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という有名な語も登場し、四書五経のひとつ、中庸には「知者の之れに過ぎ、愚者は及ばざるなり。」という孔子の言葉も登場する。
 それにしても、「智は以て諫を距むに足り、辯は以て非を飾るに足る。」という言葉は非常に巧みな表現であると思う。
 これは半分自己分析であるが、理屈の上手い人は、概して自分への言い訳も上手いもので、ゆえに理屈を弄んで正しい認識を歪めてしまうことがしばしばある。紂王の特徴は諫言に対する態度として描かれているが、これは自分への言い訳でもそうではないだろうか。先ほど挙げた子貢もそういった傾向があったが、それを自ら戒めたがゆえに顔回、子路に次ぐ高弟となった。子貢と同じく弁舌と知に優れるも、それに恃むばかりで知を超えた徳を疎かにした宰我は悪弟の代表として歴史に名を残した。
 力と知は、いずれも能でしかなく、徳ではない。徳が伴わなければ、知も力も害毒でしかなく、徳があれば知も力もなくとも尊い。それが儒の思想である。私は常々、力や知性は正義を保障しないし、人として一番大事なことは正義よりも思いやりの心だと言っているのは、こういったことである。

 贅沢の描写については末喜と似ているが、こちらの方が具体的である。前回も書いたが、おそらくは妲己の贅沢の描写を引き写したのが末喜伝の描写ではないだろうか。ゆえに、こちらが本来であると思われる。
 この章句に「酒を流して池と為し、肉を懸けては林と為す」とあるが、これが酒池肉林の語源である。それにしても、なんともスケールの大きい贅沢だろうか。これが妲己と紂王を貶めるための虚構であるとの説もあるが、ならばこのイマジネーションが素晴らしい。妲己伝は、このようなイメージを想起させる描写が多く、豊かな文章である。

≪原文≫
 百姓怨望、諸侯有畔者。
 紂乃為炮烙之法、膏銅柱、加之炭、令有罪者行其上、輒墮炭中、妲己乃笑。
 比干諫曰、不脩先王之典法、而用婦言、禍至無日。
 紂怒、以為妖言。
 妲己曰、吾聞聖人之心有七竅。
 於是剖心而觀之。
 囚箕子、微子去之。

≪書き下し文≫
 百姓怨望し、諸侯畔する者有り、紂乃ち炮烙の法を為し、銅柱を膏て、之れに炭を加え、罪有る者をして其の上に行かせ、炭中に輒墮し、妲己乃ち笑う。
 比干諫めて曰く、先王の典法を脩めず、而して婦言を用い、禍至るに日無し。
 紂怒り、以て妖言を為す。
 妲己曰く、吾聖人の心に七竅有りと聞く、と。
 是に於いて心を剖きて之れを觀る。
 箕子は囚われ、微子は之れを去る。

≪現代語訳≫
 百姓は紂を怨み、諸侯に叛意を翻す者が現れ始めた。
 すると紂王は『炮烙の法』を制定し、銅柱に油を塗り、下に炭を置き、それを火にかけた。
 有罪とみなされた者は柱の上を歩かされ、渡り切れば免罪されたが、油に足を滑られせば炭の中に落ちて全身を焼きつくすことになる。
 柱から堕ちて焼かれる者たちを見て、妲己は指をさして笑った。

 紂王の叔父である比干は諫言した。
「古の先王に拠る典法を蔑ろにして、婦人の言葉に従っていては、いずれ国家に禍が訪れましょうぞ。」
 紂王が怒り、妖言を吐くと、そこに妲己が歩み出た。
「私はこのように聞いております。"聖人の心臓には七つの穴が空いている"と。それを確かめてみましょう。」
 そう言うと妲己は、比干の胸を切り裂き、心臓を抉り出してそれを眺めた。

 同じく紂王の叔父である箕子は囚われ、兄の微子は国外に亡命した。


 前章は紂王を中心とした暴政の描写であったが、ここでは妲己の残虐性に焦点を当てた描写がされる。
 前半は有名な炮烙。全身が火だるまになり、やがて消し炭となる人間を指さして笑う美女というシチュエーション。
 後半は有名な比干の諫言。男の胸を切り裂き、返り血を浴びる美女。自らの手を血に染めながら心臓を掴み取り、それを取り出す。鮮血の吹き出す心臓と血の伝う手。それを眺める美女。このイメージは、背徳的かつ官能的である。

≪原文≫
 武王遂受命、興師伐紂。
 戰于牧野、紂師倒戈。
 紂乃登廩臺、衣寶玉衣而自殺。
 於是武王遂致天之罰、斬妲己頭、懸於小白旗、以為亡紂者是女也。
 書曰、牝雞無晨。牝雞之晨、惟家之索。
 詩云、君子信盜、亂是用暴、匪其止共、維王之邛。此之謂也。

≪書き下し文≫
 武王遂に命を受け、師を興し紂を伐つ。
 牧野に戰い、紂師は戈に倒れる。
 紂乃ち廩臺に登り、寶玉衣を衣して自殺す。
 是に於いて武王遂に天の罰を致し、妲己の頭を斬り、小白旗に懸ける。
 以為らく紂を亡した者は是の女なり。
 書に曰く、牝雞に晨無し。牝雞の晨なるは、惟れ家の索なり。
 詩に云う、君子盜を信じ、亂は是れに用り暴なり、其れ共を止めるに匪ざるは、維れ王の邛なり。此れ之れを謂うなり。

≪現代語訳≫
 武王はついに天命を受諾し、軍隊を率いて紂王の討伐に向かった。
 牧野で戦い、紂王の兵たちは武王の軍の矛に倒れた。
 紂王は妲己のために建てた監視塔廩臺に登り、宝玉の衣を纏い、炎の中に身を投げ自殺した。
 かくして武王はついに天罰を執行し、妲己の頭を斬り、白旗に懸けた。
 思うに、紂王をあのような亡国の君主にしたのは、この女である。
 書経には次のように書かれている。
「牝雞は朝に鳴くことはない。もし牝雞が朝に鳴くとすれば、それは家の終わりである。」
 詩経には次のような詩が掲載されている。
「君子が盗賊を信用すれば、乱政はますます暴虐を極め、家臣の諫言も聞かないとなれば、これは王の病理である。」



 殷王朝の次の王朝、周王朝を開いた武王が紂王を倒すまで。戦闘描写は前回の末喜伝と構文がほぼ同じであり、訳していると天丼のような気分になる。(私はここを読むと毎回、漫☆画太郎の漫画で階段から転げ落ちた人がトラックに轢かれてバラバラになるシーンが思い浮かぶ)

 前項での比干の諫言は女性差別的で受け入れがたいものがあったし、ここでも武王は紂王の暴虐の原因を妲己に押し付けており、末喜伝に続いて、いよいよ女性差別も極まった感がある。ここで引用される「牝雞に晨無し。牝雞の晨なるは、惟れ家の索なり」は、女性の発言権を奪うにあたり、古来から現代まで用いられ続けた言葉である。

 この過程を考察するに、夏から殷、殷から周への王朝交代により、男性的社会が徐々に確立し、強化される過程なのではないかと推測する。
 殷王朝は元来、太陽神を祭る農耕民の祭祀王であったが、甲骨文の記録によれば、徐々に生け贄の儀式が衰退しており、一説によれば、紂王は生け贄の儀式を禁止し、明確な法治を定めた王であったとも言われている。炮烙の法もその一種である、とも。
 日本で言えば卑弥呼などを見ての通り、古の呪術社会では女性が王となることが珍しくない。呪術社会から理性主義的社会へと変化していった時代であったからこそ、このような女性を政治から排除する風潮が出来上がっていったのではないだろうか。

 周王朝では遊牧民の頭領である戦士が王となった。そこでは祭祀国家の色彩は廃れ、更に周末期に孔子が大成した儒教は「怪力乱神を語らず」の男性的理性思想として完成し、1000年後の朱子学では更に理性主義的傾向が甚だしくなる。

≪原文≫
 頌曰、妲己配紂、惑亂是脩、紂既無道、又重相謬、指笑炮炙、諫士刳囚、遂敗牧野、反商為周。

≪書き下し文≫
 頌に曰く、妲己紂を配し、惑亂して是れ脩め、紂は既に無道なるも、又た相謬ちを重ね、指して炮炙を笑い、諫士を刳囚し、遂に牧野に敗れ、商を反りて周を為す、と。

≪現代語訳≫
 頌には次のように歌われている。
「妲己を目にした紂王は、冷静な判断を失い自らの妻とし、紂王はもともと無道の君主であったが、更に誤りを重ね、妲己は火に落ちて焼け死ぬ人を指さして笑い、それを諫れば胸を裂かれるか囚われの身となり、遂に紂王は牧野で敗れ、殷王朝は反乱に倒れ、周王朝の世となった。」


 前回の末喜伝とよく似た頌。妲己と紂王の運命の出会いから最期までを描いている。酷い顛末であるが。

 さて、この伝で妲己は徹底的に悪女として描かれている。「徹底的に悪として描かれている」のであれば、末喜も同様であるが、妲己は「徹底的に悪"女"」として描かれているのである。
 末喜は「女性としての女性らしさを踏み外した」と評価されており、そのように描かれているが、妲己伝の描写は「女性が女性として為す悪」として描かれており、それが一貫している。この伝の教訓と意図するものは、「女は妲己のようであるな。男は妲己のような女を斥けよ」であろう。

 しかし、思うにこれは男性が女性に陰に求めている性質ではないか? 無意識のうちに男は紂王のようになることを望んでいるのではないか。求めているからこそ、男は妲己に惹かれ、ゆえに妲己を斥けよと警告するのではないか。初めからこのような女に男が惹かれないなら、警告する必要などないはずである。
 俗に恋愛を絶対化する文句として「世界のすべてを敵に回してでも、君を愛し続ける」といった言い回しが用いられることあるが、紂王はまさに世界のすべてを敵に回して女に尽くした。これは間違いなく、一途で純粋な恋愛であると言えよう。
 紂王は有り余る才能すべてを一人の女に注ぎ、他のなにも顧みることはなく、すべてを失えば高台から炎の中に身を投げて自ら命を絶った。妲己は首を切られて旗の頭に掲げられた。類い稀なる知と力を有した祭祀王が塔から炎に身を投げる姿、血まみれの絶世の美女が首を斬られて旗に掲げられ晒し者にされる姿、そこにはサディズムとマゾヒズムの両面が含有された破滅の美がある。焼け焦げる人を指差して笑う姿や比干の心臓を抉り取る姿が表現するものは、ただ残虐と暴虐の記録のみではなく、女性のエロティシズムであろう。

 妲己は悪女の代名詞であるとともに、美女の代名詞でもあり、背徳の感情とともに賞賛として用いられる。これは妲己と紂王の関係に、世の男が知らず知らずに惹かれるがゆえのことではないか。ここにあるのは、男が女に持つ恐怖と背徳の欲望だからである。
 女性の象徴として執拗に紂王の悪事を妲己の責任に帰する本伝であるが、これは男性による女性恐怖の裏返しであろう。こうした悪女の描写は、男性がいかように女性を恐れているかを逆照射している。
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