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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

少しの勇気がきっかけで、動き出す世界。
 どこぞの痴話げんかに私の話が枕にされてるのがアレ。首を突っ込むのもなんだなー、と思いつつ、なんか知らんが私が巻き込まれてる感じがして「うっわー」みたいになってる。枕に使われるのは、やっぱりなんかアレだ。

 そういや、私の友人も「暴力男は女にモテる」を叩きながら「自然と仲良くなりながら付き合うのが一番~」みたいな話をしてたんだけど、そいつ前の彼女と付き合うときにイベントとか開きまくってその女を呼びまくったりしてて、めちゃくちゃ作為的なアプローチしてたしな……。私はその根性は見上げたものだと思うし、結局それにその女が乗ってるなら付き合いとしてそれでいいと思うんだけど、狙ってアプローチをかけるならナンパと何が違って自然なのかさっぱりわからない。

 ナンパが作為でなんとかなってるものだと考えるのも、そうでない恋愛を作為がないと考えるのも、どちらも人間をナメてるとしか思えないんだけど、大丈夫なんだろうか。
 自然だ運命だというなら、ナンパほど運命を感じるものもない。日常で巡り合うことのないふたりが巡り合うんだし、それが日常の関係になるかもしれないなんて、本当にワクワクしない?
 自然に知り合って自然と仲良くなるって何? 惰性?


 前もブログで書いたけど、これが割りとマジで好きになってる。

 生を生と同定するのは変化だよね。生生之謂易。生を生とするを之れ易と謂う。生物と機械との違いは代謝にある。生物は眠っているときも呼吸をし、身体を構成する物質は恒に入れ替わっている。生きることは変易であり、変易とは時間である。
 ニュートン以来の古典物理学から現代物理学への転換とは、量子力学に由来するが、これは物質が固定化された存在ではなく、実は波状、流動的な状態であり「波」であると捉える大きなパラダイムシフトであった。存在とは時間である。変易こそが存在であり、万物の根源は変易なのだ。ゆえに固定化されたところに見出された真理など一面でしかない。平鏡ではなく、円珠のごとく事物を見定めよ。

 私はかなり運命論者なんだけど、運命の中に意志の介在する瞬間みたいなのは本当に好きなんですよ。自分の人生においてもそう思う。普段が怠惰で受身で流れに身を任せるタイプなだけに、というのも含めて、少しの勇気がきっかけで世界が動き出すことに本当にワクワクする。それが楽しくて私は人生を過ごしてるのかも。
 自分は勇気とか度胸とか、自立することとか大事に思ってるんだけど、何もかもを自分の力でやることとか、そういうのはどうでもいいんですよ。んなこと無理だし。一言声を発する勇気とか、そういうのが本当に大事だと思ってる。自発的に助けを求めるのも自立だからね。むしろ、自立の本懐って言うのはそういうところにあると思う。どんなに悪であっても、意思表示には美しさと爽快さを感じる感覚が自分にはある。

 しっかし、ほんとソウルミュージックだな、これ……。


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