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仕事がドタバタ忙しくてソーシャルメディアどころかほぼネットに触れてない!! ノルマ達成のためのブログ更新のためのブログ更新だ!!! ただひたぶるに毎日ブログを更新するのだ!!!!!!!!!!仕事ようやく終わった! ドタバタ! ぐだぐだ!!! しかし何とかやり切った!!! 他のみんなの協力のおかげで!!!! もうブログもこれだけで終わり!!!!!!!!!! 仕事と言いつつ後半は酒! 酒! 酒! である!!!!
つくづく思うけど、本当に仕事を通じて過ぎた幸運に恵まれたとばかり思う。ダメダメすぎて本来は情けなさを感じるべき仕事のはずが、ここまで支えられたことにありがたさのあまり少し泣きそうになったけど、みな笑顔だったし私もほとんど笑顔で今日の事を終えられた。感謝しかない。
曹操の短歌行god knows...verを歌いながら。
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焚巣館 -中華民国憲法-
本日の更新。中華民国憲法である。blueskyで投降したものを転載。
成立が1946年、公布が1947年とされているけど、起草は1936年とされる。だからというべきか、文体は中華人民共和国憲法と比べ、古い文語的表現……のはず。中国語はわかんないけど漢文として読むのは中華人民共和国憲法より遥かに容易い。
今回は総綱、つまり全体の根本的な理念、つまり憲法の精神を現わしているわけであるが、いやー、素晴らしい! 「民が所有し、民が統治し、民が享受する(民有民治民享)」がよい。民主国家の原則をとてもシンプルに表現している。とてもよい。
清の末期。西洋列強の衝撃を受けた清王朝は、否が応でも政治的な改革の必要に迫られることになった。その中で、康有為らを始めとする開明派の儒者は、中国の旧来の政体では中国を維持できないと考え、西洋の政治制度を積極的に取り入れるべしとの政治運動を推進した。これを変法運動という。その中のひとりに、梁啓超という儒者がいた。
梁啓超は当初、孟子の民本思想に基づいて民主制を説明していた。これは日本の中江兆民と軌を一にしている。孟子の思想を実践するためには、西洋の民主制を中国に取り入れる必要があるのだ、と。彼らの運動は遂に時の皇帝である光緒帝の協力を得るに至る。かくして立憲君主制に基づく民選議会の開催実現まであと一歩のところまで改革を進めることができたが、そこで西太后らのクーデターにより事態は一転、変法派の儒者たちは弾圧され、その中のひとり譚嗣同は処刑される。梁啓超はなんとか日本へ亡命する途を得た。
こうして日本に亡命した後、自らの学問を研鑽する中で梁啓超は、孟子には近代民主制における重大な視点が欠けていると考え始めた。それは人民の権利である。孟子は確かに人民に益する政治をすべきだと君主に説いてきたが、それは保民(人民の安全保障)や牧民(人民の養育)といった内容で会って人民の権利を論じたものではない。だから目的は違えど人民の主体性を侵犯する点では変わらないのだと梁啓超は考えるようになった。これは重大な指摘だ。明哲な梁啓超は、「儒教は"of the people by the people for the people"のうち、"of the people"と"for the people"は語れども、"by the people"を語らなかった点が欠点である」と述べている。
とはいえ、ここまでであれば、よくある儒教批判に過ぎない。しかしながら、一筋縄にはいかないのが梁啓超という人物、そこいらの西洋主義者が「孟子の保民思想は民の主体性を奪う」と、梁啓超と同じような主張をすれば、彼は猛然と反論を始める。「保民(人民の安全保障)を主張してはならないというのなら、虐民(人民への虐待)でも主張しろというのか? 孟子は説得の対象が君主だったから君主のすべきことを述べただけである。」と。更には自ら指摘した"儒教におけるby the peopleの欠如"についても、梁啓超自ら「それではギリシャの市民に限定された民主制がby the peopleといえるのか、欧州の議会政治・多数決政治や、近年のソビエトが真のby the peopleなのか。このようにby the peopleとは現在に至るまで実現を語ることは欧州諸国にもできていないのだ。実現できないことを軽々しく語らないのは、むしろ賢明である」と批判し、孟子の立場を擁護する。これもまた鋭い指摘である。奴隷制を前提とするギリシャの民主制が果たして民主制といえるか、代議制と多数決主義が真に民意を反映するのか、ソビエト連邦が真の民主性だなどと誰が言えようか。のちに梁啓超は第一次世界大戦後の欧州の荒廃を目の当たりにし、「欧州の代議制には弊害が存在し、これを孟子の民本思想が矯正できる」と主張し始め、議会政治の外における政治運動「全民政治」「国民運動」という非代議制の直接民主制の道を模索することになる。確かに孟子は「貴民軽君(人民を貴び、君主を軽む)」を主張し、人民への虐政を行なう為政者に対する革命を正当化する。孟子の民本思想は、単に民と隔絶した為政者のみを主体と見る思想だと捉えるのも無理があるのだ。梁啓超は思想の振れ幅の激しさが現在も批判されるが、これを私は思考の柔軟さと多面的な視点を有していたものだと好意的に評価したい。
さて、中華民国憲法に話を戻そう。好悪いずれに評するにせよ、梁啓超の弁に基づけば、伝統儒教とは、民を根本とする視点を有していながら、一方で民を国家の所有と統治の主体だと明確化はしなかったことになろう。だからこそ冒頭の「民が所有し、民が統治し、民が享受する(民有民治民享)」という言葉は意義深い。中国は前近代の伝統から歩を進めたわけである。実のところ、19世紀の西洋においても近代革命のほとんどは立憲君主制に基づくものか、あるいは植民地独立革命である。つまり民衆が自ら王を打倒するフランス革命式の市民革命を成し遂げた国家はほとんどない。中国は西洋のほとんどの国より早くに自らの手で王制を廃する革命を起こした国家なのである。国家の所有を民に帰する国家がどれほどあろうか? 孟子の革命論は民衆の主体性に国家を帰する論理に他ならないはずである。してみれば、もちろん憲法の条文は近代民主制の原則としての「民が所有し、民が統治し、民が享受する(民有民治民享)」を読むこともできるが、もう一方で三千年に及ぶ中国の民衆思想のひとつの結実として見ても、きわめて感慨深く思うのである。
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ホームページを立ち上げてから約4年間、ずっとメモ帳だけでコードを打ち込んでいたわけだけど、さすがにきつくなってきたのでVisualStudioCodeなるツールを導入してみた。
これがメモ帳。なんというかイメージ的には紙テープを目で読むような感覚に近い。ケロQの『モエかん』でそんなのあったね。(アレはアンドロイドが目視するんだけども。)で、今回VisualStudioCodeを導入したきっかけはcommon.cssという、要は複数ページ共通の形式を共有するためのシートを導入するにあたって全ページを書き換えることになり、もうメモ帳では無駄が多すぎると感じたからです。仕事もしているのに時間があんまりもう時間をかけたくない。時短のための導入である。で、おまちかねのVisualStudioCodeがこちら。
じゃじゃーん。なんというか、ちゃんとデジタルデバイスって感じがしてたいへんよろしい。メモ帳を使っているとデジタル機器しか使っていないはずなのに脳裏にアナログという語がちらついてしかたがなかった。で、せっかくこういうものを導入し、過去に編集したページを確認する機会ができたということで、ファビコンとリンクカードを設定することにした。ファビコンというのは
これまでホームページにファビコンを設定していなかった。
これが未設定時の汎用ファビコンである。
じゃじゃーん。こういうファビコンをつけてみた。焚巣館という名前の出典から火山旅という易の卦である。次にリンクカードというのは、ソーシャルメディアとかSNSとかでホームページのリンクを貼った際に出てくるアレ。
これまでホームページのリンクカードを設定していなかったので、リンクカードを精製してもこのような貧弱なものしかでなかったわけだけど、今回設定したことでこの通り。
いい感じである。リンクカードもファビコンもページごとにコードを貼り付けないといけないのでめんどくさいからやってなかったんだけど、VisualStudioCodeを導入するとすぐに作業が終わった。VisualStudioCodeさまさまである。
あ。ちなみにブログで書いてなかったけどblueskyやってます。よろしければご確認ください。あんまりつぶやいていませんが……。
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ジョギングが続かない!
ジョギングを長続きさせるのは難しい。3日坊主でも続けば立派なもので、1日走れば次の日は休み、そのままズルズルとやめてしまうなんてほうが当たり前だ。もちろん、単純に継続して外に出るという定期的な活動の慣習化自体がおっくうというのもあるのだけど、ジョギングはウォーキングとは違って負荷のある運動かつ長時間の持久運動なので、その日のコンディションがモチベーションに相当大きく影響し、ちょっとでも疲れを感じていたりとか、身体に違和感があれば、なんとなーく休んでしまいたくなる。特に初心者なんかは、その日のコンディションがよくなければ、そもそも3kmや5㎞も走れなかったりするので、ジョギング自体ができなかったりする。
しかし、私の発明した「脱法ジョギング」であれば、コンディションがあまりよくなくとも、ジョギングに不慣れであっても、5kmや10kmを走ることができ、しかも体への負担が小さいため、走り始めるまでの心理的ハードルもググっと低くなる。その方法を伝授しよう。
脱法ジョギングとは何か
では、まずジョギングについて考えていこう。ジョギングとウォーキングは違う。ウォーキングは歩くこと、ジョギングは走ることである。では、「走る」とは何だろうか。「歩く」とは違う「走る」という形態。とりあえず、ジョギングをジョギングたらしめる「走る」動作について考えてみよう。
まず、ジョギングでの走りは、歩くのと違って地面を蹴るようにして前に出し、歩くよりも腿を高く上げてリズミカルに足を進める。腕は、一般に肘を直角に近い形で曲げた状態で振る。実際にしてみればわかると思うけど、この基本的な動作をしていれば、それは「歩く」ではない。間違いなく、ジョギングとしての「走る」という動作となる。つまり、この動作があれば、すなわちジョギングとなる。
さあ、あとは簡単。この動作で可能な限り遅く走り始めるのだ。そうすれば、疲れることなく楽に長い距離をジョギングすることができる。もちろん地面を蹴って足を大きく動かすので、歩くよりもスピードがどうやっても出てしまいやすい。しかし、それを押してできるだけ遅く、何なら歩くよりも遅くするつもりで走り続けるのだ。そう、下手をするとウォーキングよりも遅いペースで展開するジョギング。これが脱法ジョギングである。「ジョギング」という定義から外れずに、ジョギングらしからぬペースで走ってしまうのである。
脱法ジョギングの理論と実践
上を見て、なんだかバカみたいな話だと思われたかもしれない。しかし、実際やってみるとわかるけど、動作はジョギングなのでウォーキングよりも大きく身体が動くため、ジョギングとしての充足感は相当に得られるし、走るための筋肉もしっかりと使われ、走力も体力も確実に鍛えられる。
そもそも、遅いペースを維持するのも結構大変なもので、走っているうちにだんだん加速していき、気が付くと通常のジョギングペースに落ち着いていたりする。それなのに、最初の時点で体力を温存しているからか、明らかに無計画に走るジョギングよりも疲れず余裕があり、自分に意外と体力というか、長く走る能力があるのだと気づかされて、結構自信につながったりもするので、継続するモチベーションも高まる。また、加速によって体力が消耗していると気づいたら、すぐに元の歩くより遅いペースに戻せば、体力の消耗が防げる。最初が遅いペースなので、そちらに戻すのも容易い。
ジョギング初心者のはらむ問題として、「ペース配分」という概念が身についていないことが挙げられる。最初になんとなくの気分で走り出して、それをジョギング速度のポイントゼロとし、それより遅ければマイナス、それよりも早ければプラス、というような感覚で走る。しかし、当然ながら最初が一番体力が有り余っているのだから、これだと最初を頂点にして徐々にペースが落ちていくだけになったりする。これでは走りを愉しむよりも消耗ばかりが先立ってしまうだろう。
あるいは逆に、走り続けていく中で慣性に則って無意識にペースがどんどん加速していき、最初からペースが速いのにさらに加速するものだから、それに伴って知らぬ間に体力がどんどん消費されていき、想定以上に早くバテてしまったりしまったりもする。また、初速をベースとして体も頭も認識しているので、いきなりペースを落とすのが難しくなる。『脱法ジョギング』では、初速をできる限り遅くすることで、そうした問題を起こさないようにすることができる。
しかも、上に書いた通り、余裕のある走りというものをずっとしていると体力がある状態で身体をしっかり動かしている感覚が得られるので、自信がわいてくるし、次の日も嫌な気持ちにならず、軽い気持ちでまた走れるようになる。それにコンディションが悪くとも、歩ける程度の体調であれば、それと同じかそれより遅く走ることは概ね可能だ。
そんな感じで、できるかぎりめちゃくちゃ遅く走るだけの『脱法ジョギング』は結構いい感じだという話です。もうちょっとしっかりした記事を書こうと思っていたのですが、時間がないのでざざっと書いてこのへんで。 -
ジョギングが続けられない
ジョギングを長続きさせるのは難しい。3日坊主でも続けば立派なもので、1日走れば次の日は休み、そのままズルズルとやめてしまうなんてほうが当たり前だ。もちろん、単純に継続して外に出るという定期的な活動の慣習化自体がおっくうというのもあるのだけど、ジョギングはその日のコンディションがモチベーションに大きく影響し、ちょっとでも疲れを感じていたりとか、身体に違和感があれば、なんとなーく休んでしまいたくなる。
特にジョギングを始めたばかりの頃というのは、人を挫折に導く要因がたくさんある。本当にジョギングに出ない言い訳が次から次へと頭に浮かぶし、走りなれていないうちは、いざジョギングを始めても、前日の運動だとか日頃の疲れだとか、不摂生だとか寝不足だとか、そういったことが影響すると息が上がったり、足が痛くなったりして、200メートルも走らないうちに走るのをやめてしまうなんてのもザラである。私はそうだった。先に情報収集なんぞを無駄にしていて頭でっかちになっているものだから、「20分以上の継続した有酸素運動でないと効果がない」だとか、いらん知識を頭に詰め込んでしまって、「じゃあ、20分走れないなら意味ないじゃん。はい、やめやめー。」なんていう"賢明な思考"のおかげで、ジョギングの機会を失してしまった時期もあった。あーあ、くだらない。
かつての私は、「調子がいい日でないと、まずろくに走れない」という問題を抱えていた。そして、一時期は「20分以上走れないと意味がない」というくだらない知識に振り回されて走らない言い訳に用いていた。
後者の思い込みについては、自身のモチベーションを下げるだけのつまらない思い込みだと割とすぐに気づいて無視するようになったものの、それですぐに走れるようになったわけではない。コンディションの悪い日は、1分も走れないものだから、さすがにこれをジョギングした日に数えるわけにもいかず、そういった不安定かつ虚弱な体に鞭を打って気合と根性で走ったり走らなかったりして、なんとか30分5km程度は継続して走れるようにはなったものの、その一回でバテバテで翌日まで疲れを持ち越し、しかもよくわからない達成感と当時の疲労感へのトラウマ的な恐れが無意識に自分を支配し、ジョギングに復帰するタイミングを逸して……といったことを繰り返し、結局「1か月に1回5㎞走る」というような、おおよそジョギングをしているとは言い難い時期が長らく続いていた。
上記の状況は本当に初心者の時期のことであるが、ここまで大げさでなくとも、私は長い間ジョギングをやったりやらなかったりしていたのは事実で、しかもサボりから再開しようとしても、実際に再開するまでの期間が空きがちであった。「脱法ジョギング」を発明するまでは、である。私は「脱法ジョギング」を発明することによってジョギングの長期定期化と、多忙期等による休止時期から再開までのタイムラグをなくすことに成功した。これから、その方法について記そう。
脱法ジョギングとは何か
この「脱法ジョギング」を行なったしたのは、しばらく体調などを言い訳にしてジョギングをサボっていた時期から再開するための日であった。当時、ジョギングなんてコンディションがとてもいい日でも8km程度が限界で、10kmなど走ったことがなかった。しかも、そんなに走っては、のち1週間程度は走らなくなってしまう。しかし、とある思い付きによって始めたある方法で走ってみると、その日は簡単に13kmを走破し、その後も2日に1回10km以上のジョギングを行えるようになった。