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大阪市天王寺区にある統国寺に置かれたベルリンの壁の一部。元暁由来の歴史ある朝鮮寺。
さて、元暁が日本の大衆仏教における大先輩であり、鎌倉新仏教の多数の宗派が彼の多大な影響下にあることは既に述べた。元暁は7世紀の人物であり、鎌倉新仏教は12世紀から13世紀ごろのムーブメントであるから、元暁は500年ほど先輩であった。ここまでの話を見ると「新羅は中国の進んだ文化をいち早く取り入れ、日本より先進的な地域だったから、元暁は日本より先に大衆仏教の基礎を築いていたのか」と思う人もいるだろう。私も調査中にここまでの事実にたどり着いた際にはそうとだけ考えていたし、それはそれでおそらくひとつの解としては間違いではない。
しかし、この現象を単純に朝鮮/日本の先進性/後進性の差異によってのみ生じたものだと考えることは、元暁という人物のスケールを貶めてしまうことになる。仏教界の巨人であった元暁をそのように捉えるべきではないと思う。
さて、前回の終わりに「元暁はどこの宗派の人だろう?」という話をした。これは先に答えを述べておくと、一般的には華厳宗とされている。
有名な宗派なのは間違いないのだけど、現在の日本では浄土真宗や時宗と比べるとあんまり耳なじみないかもしれない。これは中国で生まれた宗派で、日本には奈良時代、つまり奈良の大仏が建立された時代に渡ってきた。日本最古の仏教宗派とも呼ばれる南都六宗のひとつである。初期は「唯識」という認識論を教学の中心に据え、そこから発展していったと言われる。
そして日本に華厳宗を最初に伝え、日本華厳宗の開祖と言われる審祥は、なんと元暁の直弟子である。つまり日本最古の仏教宗派ともいわれる諸宗派のひとつが元暁が仏教を直接教えた弟子によってはじめられたわけである。ちなみに、日本華厳宗で最も有名な寺と言えば、奈良大仏が安置された東大寺である。ここの初代住職であった良弁は審祥の孫弟子、つまり元暁の曾孫弟子が奈良の大仏を修める住職なのであった。
もちろんこれはすごいことなんだけど、その手の話は前回これでもかとやったので、今回はもうさらっと流してもいいかなー、と思う。
さて、この華厳宗というのは、成立の経緯が段階的である。一応、杜順という人物が開祖ということになっているが、半ば伝説的な人物であり事跡もよくわかっていない。ある程度まで華厳宗が宗派としての形を有するようになったのは、二代目の祖とされる智儼ではないかと言われている。しかし、中国華厳宗が明確に仏教宗派として体系化されたのは第三祖の法蔵とされている。
この法蔵という人物が元暁と関係が深いのである。というのも、中国僧の法蔵は華厳宗を体系化するにあたって新羅僧の元暁から多大な影響を受けていたからである。
上の文は誤りではない。中国華厳宗を体系化した法蔵に影響を与えたのが新羅華厳宗の元暁なのである。本場中国の漢仏教に新羅の仏僧が影響を与えたのだ。元暁は法蔵よりも年上である。新羅華厳宗の元暁は、中国華厳宗を体系化した法蔵の先輩だったわけである。
元暁は華厳宗において、どのような立場であったのか。半ば伝説的な彼のエピソードを紹介しよう。もともと新羅では仏教が流行していたが、当初は王族が中心となった高級な思想として扱われていた。ところが、これに対して大衆を中心とした仏教の波及を興そうとする仏僧たちが下級・中級の貴族階級出身者から興っていた。その中心的存在のひとりが元暁である。そして、彼と並び称されていた新羅の仏僧に義湘という人物がいた。義湘と元暁は盟友であり、いずれも新羅で仏教を学びながら、いつかは唐に留学をして本場の仏教を学びたいと言い合っていた。
さて、元暁が44歳の時のこと、義湘と一緒に唐にわたって華厳宗二代祖の智儼の元へ留学する機会を得た。ところが唐に向かう道中で元暁は、古塚の洞くつで一泊せざるを得なくなってしまう。のどの渇きがひどく、夜闇の中で飲んだ水はひどくおいしく感じられたが、朝を迎えてみると、そこは墓場で、自分が口をつけた水たまりには、おびただしい数の骸骨が沈んでいた。これを見て元暁は気分が悪くなってしまったが、はたとして気づいた。昨日はおいしく飲んでいた水が、今日はとても気持ち悪く感じられた。水は何も変わっていないのに、私の認識がかわっただけだ。この時、元暁は唯識を悟り、私はもう唐に行く必要がなくなったと義湘に告げて、故郷に帰って布教活動を始めた。唯識は、華厳宗二代祖の智儼が中心的な概念として説いた華厳宗の奥義だったからであるし、認識を悟った以上は、本人の認識さえあれば新羅も唐も変わらないと考えたからであろう。もう一方の義湘は、唐にわたって智儼に教えを受けて新羅に帰国し、朝鮮華厳宗の開祖となった。
もちろんこれは一種の説話であるが、特段に非現実的と言えるような逸話でもない。元暁は朝鮮華厳宗の開祖でこそないが、むしろそれより先に自力で華厳宗の奥義を悟った存在、少なくともそのように言い伝えられていたというわけだ。これは元暁の天才性・特殊性を示すものと言えよう。そして、一応は華厳宗の僧だと一般的に言われつつも、浄土宗等の宗派に多大な影響を与え、時に「朝鮮浄土宗の祖」等と呼ばれることがあるのは、こうした華厳宗との距離感からも伺い知ることができる。
その後、元暁は前回に述べたような独自の方法で大衆に仏教を布教するとともに、数多くの著書を表した。その数は義湘どころか法蔵よりも多く、彼らが片手で足りる著作数であるのに対して、元暁は20を超える著書があった。そして、法蔵は自著でこれら元暁の著書を幾度となく引用して自説に取り入れ、彼のみならず中国の仏僧たちは元暁の著書を海東経(※海東とは朝鮮地域の別名)と呼んで尊んだ。法蔵にとっての元暁は、兄弟子のパートナーにして、それを超える大天才だったわけである。
元暁がどれほど中国で有名だったかと言えば、唐の滅亡後に成立した10世紀の宋の時代に中国で発行された宋高僧伝から伺うことができる。これには、唐から宋にかけて活躍した仏僧についての伝記が収録されている。もちろん、掲載されるほとんどは中国の人であり日本の人は一人も収録されていない。ところが新羅の僧侶であるはずの元暁の伝記は、これに収録されているのだ。
日本だと真言宗の空海と日本天台宗の最澄が唐に留学し、その名が中国の史書にも記されていることが有名であるし、儒教であれば江戸時代の儒者の荻生徂徠の論語解釈の一節が中国でも高く評価されたことは知る人ぞ知る事実である。 本場中国に日本の仏僧や儒者が大いに評価された――こうした事績は、我々のような日本の人々のナショナルプライドをくすぐるものであるし、確かに彼らの業績は十分に大きなものである。だからこそ中国に対する元暁の影響力はそれ以上であったのだから、彼がどれほど大きな存在かわかるであろう。日本から中国にこれと同等以上の影響を与えた存在があるとしたら、おそらく近代以降を待たねばならぬのではないだろうか。(マリオとか。)
ちなみに、最澄の名が登場したので彼についても触れておく。日本天台宗の開祖とされる彼もまた、元暁の著書を大いに引用している。また、彼は先ほどの華厳宗三代祖の法蔵を高く評価し、著書も数多く引用しているのであるが、ここで面白いのは、法蔵の著書を引用する形で法蔵が元暁を引用した部分を数多く自著に掲載しているのである。法蔵がどれほど元暁を珍重していたか、そして元暁の影響は間接的にも多大となって、潜在的な影響力は直接的な影響力の数倍、数十倍に膨れ上がっていることを伺わさせられる。
とまあ、私が前回の冒頭で元暁をこれでもかと賞賛した理由はお分かりいただけたと思う。しかし、すぐれた思想の常として、彼の思想には問題も孕んでいた。それは日本の仏教にも、おそらくは影響したことであろう。それについて次回は触れることができれば、と思う。
さて、ここからはオマケとして私個人の想像に基づく話をするので、あまり真に受けずに聞いてもらいたい。
平安時代中期の日本において、本覚思想という教えが始まった。これは始まりがはっきりしないようであるが、どうにも日本天台宗から始まったものだとみられているらしい。どのような思想かと言えば、「あらゆる衆生は本来的に悟りを内在している」という考え方である。これだけ聞くと、「なんだかよくわからない」という人もいるだろうし、日本においてある程度は仏教についてなんとなく聞き知っている人は「そんなの大乗仏教だと当たり前じゃないの?」なんて思ったりすると思うのだけど、実はそうではない。たとえば、西遊記の三蔵法師として有名な玄奘などは、大乗仏教であっても、本来的に覚りを内在していない者は存在し、そういう人物はどうやっても成仏できないと考えていたらしい(これは駒帝情報。FGOの三蔵法師が一切衆生悉有仏性と言っていたとかで、彼はそれにツッコみを入れていた)。本覚思想は大乗仏教においても当たり前ではない。自分の知る限り、チベット仏教も違っている。
ただ、本覚思想に対して「そんなの大乗仏教だと当たり前じゃないの?」と思う人の気持ちはよくわかって、実はかつての私も同じように認識していた。なぜそのような印象があるのか。私は仏教に詳しいわけではないので、ここは想像の話になるのだけど、現代日本において大衆仏教として広まった鎌倉新仏教の教説は、基本的に本覚思想の影響下にあるからだと思う。先ほど引用した系図を見ての通り、日蓮(日蓮宗)、法然(日本浄土宗)、親鸞(浄土真宗)は日本天台宗から分岐している。事実、日蓮と法然は若き日に天台宗で学び、親鸞は法然から教えを受けている。また、先の時宗の一遍は天台宗で学んだ後で浄土宗に鞍替えし、法然の弟子に学んでいる。また、表には記されていないが、鎌倉時代の禅宗も、曹洞宗の道元、臨済宗の栄西が天台宗で学んでいる。(ちょっと横道にそれるけど、司馬遼太郎の小説でそう描かれているためか、空海の噛ませ犬みたいに扱われる最澄と彼の開いた日本天台宗は、実はスゴいのだ!)
で、この本覚思想の形成には、おそらく元暁の影響が色濃く残されているものだと私は思っている。本覚思想の成立は平安時代中期ということで、9世紀とか10世紀とか、つまり7世紀の人物である元暁よりもずっと新しい。そして、最澄は8世紀から9世紀の人物として、先ほど触れたように自らの著書で元暁の著書を数多く引用している。とまあ、ゴタクを並べてみたけれども、本覚思想と元曉の思想の近似性は、遊心安楽道の本文を読めばすぐにわかるはずである。
焚巣館 -遊心安楽道 初 述教起宗致
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/yuushin_anrakudou/01jutsukyoukisouchi.html
斯様な動乱と寂静のごときは、いずれも大いなる夢でしかない。覚(さとり)をもってそれを言葉にすれば、「こちら(此岸)」も「あちら(彼岸)」もなく、穢土も浄国も本末一心なのだ。生死も涅槃も、結局は二つの極地点に分かれているわけではない。だから原初に帰り、大いに覚(さと)り、功徳を積むことで極致に至るわけである。これは本覚思想の「あらゆる衆生は本来的に悟りを内在している」という考え方を最もシンプルに説明したものだと思えないだろうか。原初に立ち返ることが覚りの第一歩だと遊心安楽道は説明しているのだ。ここでは元暁が本覚思想のオリジナルだと主張したいわけではない。ただ、やはり影響が感じられるのである。(余談になるけど、ここの「大いなる夢(原文では大夢)」「大いなる覚り(原文では大覚)」はどう見ても荘子における斉物論篇において述べられる「大夢」「大覚」の用語である。なので、遊心安楽道のこの部分は、老荘思想の「万物斉同」や「無為自然」の思想の影響を受けているのだと私は考える。ちなみに、荘子斉物論篇は有名な胡蝶の夢の説話が含まれる一篇。)
ちなみに、最澄の弟子の安然も元暁の発言として、「諸宗所執皆得仏意(あらゆる宗派の執る学説は、どれも仏の意に適っている)」と引用している。(ただし、現行の元暁の著書にはない。元暁の主張として違和感がないため要約かも。)最澄の例も併せて、元暁が日本天台宗において広く引用されていたのは間違いない。天台宗の門下にあった法然が遊心安楽道を自らの思想の根源的な部分に引用しているのは偶然か? 私はそうは思わない。
法然や親鸞は、極楽浄土を「ここではないどこか」だと考えており、「穢土も浄国も本末一心」とする遊心安楽道の思想とは違いが感ぜられるし、「ここではないどこか」を求める以上は、内在に本来的な覚りを見出す本覚思想とも一致しない。しかし、「あらゆる衆生は本来的に悟りを内在している」という本覚思想は、つまり「本来的には誰でも成仏できる」ということでもある。その点において、実は元暁の思想や日本天台宗の本覚思想と法然・親鸞の思想とは一致しているのだ。法然や親鸞は、「この世は捉え方次第だ」というような思想には限界を感じたのだろう。しかし、それはおそらく「本来的には誰でも成仏できる」と思えばこそである。そして、「本来的には誰でも成仏できる」という思想こそが仏教の大衆化に必要な思想であったし、それが元暁の仏教大衆化であり、それを受け継いだのが本覚思想だったのではないかと私は思う。そして、そこから発展したのが鎌倉新仏教だった……というのが私の拙い想像である。
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焚巣館 -本生譚 兎王捨身供養梵志縁起 第六-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/honshoutan/06uoushashinkuyoubonshiengi.html
昨日の更新。ほとんどは前から(去年の5月には!)訳していたものだけど、訳し残しがあって放置していたもの。初めての漢訳仏典の現代日本語訳だったので、やっていて新鮮な面白さがあった。
さて、以下ネタバレ。(これまではそんなの気にせず書いておったネ。)
今回の逸話について、どこかで似たような話を目にしたことのある人も多いはずである。ウサギが餓えた人の為に自らの身を捧げ、来世でブッダに生まれ変わる……という話とか、あるいはウサギの魂が帝釈天の計らいによって月へ昇り、それで今もウサギが月で餅つきをしている……だとか、微細な違いはあれども、概ねこういった物語を知っている人は多いだろう。これは日本において今昔物語集に掲載され、それに基づいたおとぎ話として日本では広く伝わっているし、お寺なんかでもそういったお話は聞けるだろう。手塚治虫の漫画『ブッダ』でも、この話は描かれている。
しかし、我々のほとんどが知っているウサギは単なる無力な野生の一匹のウサギが通りすがりの餓えた人物の供物となる話であろう。まさかウサギが人語をしゃべり、王として多くのウサギを随え、自ら法話を説いているとか、ウサギと餓えた人が以前から師弟関係であったとか、弥勒とブッダの前世の話であるとは、今回の上記訳を読むまでほとんどの人が知らなかったのではないだろうか。なにを隠そう、私自身が知らんかった。読んでてビックリ。なぜこの話を訳そうとしたかと言えば、三国史記の弓裔の話を読み、それを思い浮かべて吟味していた時のこと、頭の中にフッとウサギが自ら命を投げ出して餓えた人の供物となり、それがブッダの前世であったという逸話が思い出された。その所以については追々機会があれば説明するとして、まさかそのウサギのエピソードがもともと弓裔が化身を自称する弥勒菩薩の前世の話だったとはまったく知らず、正直「こんな偶然ある?」と感激した。さっきの文章内の弥勒くらいテンションが上がった。
話の内容も好きで、最後らへんとかマジで涙ぐみながら訳していたのだけど(どんだけー)、まあ、とはいえみんなも思ったよね? 「ウサギの死が無駄になってない?』って……。もちろん、これは仏教のお話なので、そういう現世の功利に囚われた見方をしては本質がつかめないのである。故に危険思想でもあるわけだけれども、そもそも危険じゃない思想なんかない。
もちろんウサギの仏教説話は先に知っていたわけで、ウサギが自らを供物としてささげる結末はわかった上で読んでいたのだけど、物語を読んでみると構成がよくできていて、
今生の別れはしばしのこと。いつか再びめぐり合おう。
というウサギのセリフから始まる一連の流れは、これから婆羅門の方が餓えに苦しんで死に、その前にウサギたちが最後の手向けをするのだと読者と婆羅門にミスリードさせている。そこへきて、ウサギが自らを犠牲にするという衝撃の展開につながるわけだ。物語の構成が上手い。
それと「今生の別れはしばしのこと。いつか再びめぐり合おう。」っていうセリフ自体が単体でめちゃシブでカッコよくない? ここは私もいい感じに訳せたなーって思っている。ハードボイルドなうさぎが鼻をヒクヒクさせながら渋い声で渋いこと言うの。
さて、漢訳仏典の翻訳で苦労したのが仏教用語。三国史記でも新羅本紀や弓裔伝などの列伝にも仏教用語が登場し、それを調べながら訳していくのは愉しくもある苦労ではあったけど、さすが今回は仏典、次から次へと仏教用語が登場し、次から次へと調べていくのは更なる苦労であった。一目見て特殊な語なら調べるだけだから簡単なのだけど、一般語として何気なく訳したものが続く文章を見ていくとどうにも前後のつながりに違和感が生まれ、調べてみたら仏教用語だった……なんてこともあった。それと現代ではITの力で各言語の簡単な検索なら容易く行えるので、仏教用語にはいくつかサンスクリット語のカタカナ書きでルビを振ってある。これは私が邪気眼だからそうしているのだ。これは私の翻訳なのだから、翻訳の範囲で好きにやらせてもらう。
あの兎にまったく及ばないではないかっ! 他の誰よりも
善法 に達して悟りを開いておられる。かの者は必ずや大権聖賢の化身 ……いやいや、それどころか世界の創造主たる梵王 や大自在天 のたぐいに違いなかろうぞ。このあたりとか、まさに! ってカンジよね。ちなみに最後に登場する帝釋天も「シャックロー・デーヴァーナーン・インドラハ」とルビを振る予定だったのだけど、実際にやってみると
帝釋天 と横幅がぐにゃーっと広くなっちゃってクライマックスなのに読んでて引っ掛かりが生まれてしまうだろうということで、ここだけ帝釋天である。さて、翻訳中は地獄の描写なんかも訳していて面白かったのだけど、
当時の世の人民は行いを枉まげて法に背き、罪と悪とに慣れきって習わしとするようになっていた。福徳の力は衰弱するばかりで、善なる神からも見捨てられ、災難が競って起こった。共に招かれた業カルマは天に旱魃を引き起こさせ、数年間も甘き雨を降らせることはなく、草も木も焦枯し、泉源も枯渇した。
この描写が個人的に好きだったりする。こういうのって古代中国の漢籍では見られない雰囲気ものだし、むしろ中東地域の世界観の方に近さを感じる。なんとなく日本や中国で仏教が流行っていたからキリスト教(中東)と仏教(南アジア)から東洋と西洋を対比されることって多いけど、実際には隣接した文化圏だからね。いやね、私は中原から見て異文化の神話が漢文で記されるのって本当に好きで、訳していて本当にワクワクするんですよ。朝鮮史や越南史の漢籍翻訳でも伝説や神話の時代のそういう雰囲気の描写を訳している時はワクワクする。
ちなみに、この文章は八言で構成される。こんな長編の物語を八言で最初から最後まで描く、まさしく一大サーガであり詩として極めて高度だと思うのだけど、お経はお経なので詩として認識されていないのだろうか? この点の美しさを翻訳でも生かしたくて、三国史記の文中の詩や東明王篇でそうしているように、表示を「原文」「書き下し」「現代日本語訳」と横並びにしようかとも思ったのだけど、ごちゃごちゃしたのでやめた。
今回は私からの注はなし。仏教用語が多くて私自身が不明だし、完成させようとしていたらいつまでも公開できなくなりそうなので。機会があったら追記するかも。
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焚巣館 -後漢書東夷列伝 濊-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/chousenshi_chuugoku_shisho/gokanjotouiretsuden/05wai.html本日の更新。三国時代以前の朝鮮半島の代表的な部族の(だと思う)濊である。注11に記したけど、どうにも濊は朝鮮半島の部族の代名詞的存在だったようにも思われる。虎の信仰については、以前にも何回か書いた。美しくてよい。
今回の内容にかかる原文は、倭の列伝を読解する上で対応する語彙が多いと感じた。たとえば、後漢書の倭伝に記される有名な「倭国大乱」について様々な考察はあるけれど、今回の濊伝には、「漢初大亂、燕、齊、趙人往避地者數萬口、而燕人衛滿擊破准、而自王朝鮮、傳國至孫右渠。」という一節が登場する。ここで同じ「大乱」を示すものとして漢王朝の初期の混乱という比較対象が生じるわけだ。
また、ここには『無大君長』とある。「大君長はおらず、その国の官には『侯』『邑君』『三老』がある。」と訳したが、後の文章からいって、おそらく数多くいる諸国の長(君長)をまとめる統一君主のことを大君長と呼んだのであろう。さて、同書倭伝には『其大倭王居邪馬台國。』という表現がある。ここの『大倭』とは何だろうか。倭伝の冒頭には、「倭は韓の東南の大海の中にあり、山や島に依って住居をつくり、総じて百以上の国がある。」とある。倭は百以上の国に分かれている。してみれば、『大倭』とはおそらく数多くいる「倭」の諸国をまとめる統一の国家を指すのだろう。邪馬台国は倭に多数ある諸国をまとめる統一の中央国家だというわけだ。少なくとも、編者の意図はそうだったのではないか。魏志倭人伝では唐突に『大倭』という語だけ登場するため、これが代表国なのか、それとも邪馬台国の支配下にある諸国全体を指しての語なのか、よく意味が解らなかったけど、こちらだと文章として理解しやすい。
思うに、濊に統一の『大君長』がいなかったことと、倭に『大倭』が存在していたことは好対照だと思う。おそらく三国時代以前に朝鮮半島の代表的な部族は濊であった。しかし統一の君主(大君長)はいなかった。これに対して、北方の扶余には始祖神話があるほど統一された国家であった。高句麗も部族を五つ有する連合部族でありながらも、宮、遂成、伯固という明確な君主がいた。南方の韓は百国以上に分かれた連合国家であったが、辰王という統一の君主がいた。そして、これまで濊と同様に統一の君主がいなかった倭国も、後漢の末期になると遂に卑弥呼という統一の君主と中央国家の邪馬台国が登場している。強力な動員力を有する中央集権国家の確立は、大きなアドバンテージとなり、その結果として濊や同じく大君長の気配のなかった沃沮は衰退していき、馬韓を含み新羅百済加羅の前身にもなる韓、高句麗とその先祖の国である扶余、そして倭国という、朝鮮三国時代に活躍する諸国家が台頭した……。
ブルジョアジーは、いよいよますます、生産機關(生産手段)の、財産の、および人口の散在を抑止した。人口は集團され、生産機關は集中され、そして財産は少數者の手に集積された。それの必然な結果は、政治上の中央集權であつた。べつべつの利害、法律、政府、税制をもつてゐた獨立の諸地方、殆んど單なる聯合に過ぎなかつた諸地方が、一個の國民、一個の政府、一個の法律、一個の全國的階級利益、一個の關税區域に押し堅められてしまつた。
これは私が共産党宣言で一番好きな一節のひとつなのだけど、まさしく古代においても近代においても、国家の中央集権化は進歩の象徴であった。この後、三国時代を制するのは5世紀に台頭する新羅なわけだけど、この国は弥勒信仰を国境に採用し、国家の領域における水や草花などの自然物に至るまでの森羅万象を国家と王の所有と見なす護国仏教を成立させ、これによって極めて強烈な中央集権制を生み出した。朝鮮三国時代を勝ち残ってきた新羅、高句麗、百済、加羅、倭国のうち、もっとも連合国家の色彩の強い加羅は早々に敗北し、王権が強くない貴族の連合体であった百済も滅び、中央集権制に近づいていたがまだまだ連合国家の色が強かった倭国も新羅に敗れ、五部の部族による分権制がそのまま保存された高句麗は大国でありながら新羅に敗れた。これは唐との同盟による要因が大きかったのは事実であるが、国家体制の個別性にも大きく依存していたのは間違いないと思う。そもそも高句麗や倭国が唐との関係を新羅ほどうまく築けなかったのは、「船頭多くして船山に上」った結果ではないか?
ただし、統一後の新羅は地方と中央の格差が開き続け、王権の肥大と非王族に対する異常な差別によって国家の均衡が完全に崩れた。中央政府が腐敗と停滞を迎えると地方府は完全に放置され、民衆は餓え、離散し、盗賊となって国家は荒れた。これもまた中央集権国家の一側面である。
……とまあ、こういう風に別々の文章の共通性に気づいて様々な妄想を膨らませることができるのも全訳の魅力である。
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焚巣館 -後漢書東夷列伝 東沃沮-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/chousenshi_chuugoku_shisho/gokanjotouiretsuden/04higashiyokuso.html本日の更新。注で先立って梁書の訳文を引用。
さて、この内容はやはり以下の古老の伝聞が気になる。
その国の古老の言によれば、「かつて海の中から布の着物をひとつ見つけた。その形は中国人の着物のようであったが、両方の袖の長さが三丈(約90cm)もあった。また、岸際に一人、難破船に乗った者を見つけたが、頭のてっぺんにもうひとつの顔があり、話をしようとしたが言葉が通じず、物を食べることもなく死んでしまった。」という。また、他にも言う。「海の向こう側には女国があり、男の人がいない。その国には神井があり、それを覗き込むと子供が生まれるとも伝わっている。」
特に「海の向こう側には女国があり、男の人がいない。その国には神井があり、それを覗き込むと子供が生まれるとも伝わっている。」の部分。というのも、女国なる国が三国史記にも登場するからである。この中国正史の東夷伝の訳は、あくまで三国史記の附録資料として訳しているものなので……。
もともと脫解は多婆那国で生まれた。その国は、倭国の東北一千里にある。もともとその国の王は、女国の王女を娶って妻としていたが、妊娠すること七年で大きな卵を生んだ。
さて、この女国の王女は新羅四代脱解王の母親であるが、彼女を娶った王の在居する多婆那国とは日本の丹波とされる。つまり、この話は日本の逸話なのだ。もちろん日本列島の外から日本の国に嫁いだ可能性もあるので、女国が日本列島にあるかどうかはわからない。ただし、北沃沮から見て海の向こう側は、ほぼ日本列島しかない。なので、東夷伝で語られる女国は日本列島が想定されている可能性がある。
で、注にも引用している梁書には扶桑国伝に、その国の僧侶の言葉の引用という体で女国のことが記されている。
扶桑の東千里余りに女国があり、容貌は端正、肌の色は非常に潔白で、身体には毛が生えており、髮の長さは地につくほどである。
ただし、引用にもある通り、その描写は奇怪なもの。
二、三月になると競い合って水に入ることで妊娠し、六、七月には子供を産む。
女人は胸の前に乳がなく、項の後ろに毛が生え、毛根は白く、毛の中には汁があり、これによって子に乳をやり、百日も続けることができれば、三、四年にして成人する。」「鹹草を禽や獣のように食べる。
とはいえ、「競い合って水に入ることで妊娠」というのは、いずれも「水」であることから本文の「その国には神井があり、それを覗き込むと子供が生まれる」という描写に通じるものがあるかもしれない。
さて、この扶桑国だけど、ざっくり言うと非実在説と日本説がある。日本説については、こちらを参照。私も概ね同意している。ちなみに、梁書では中国から見て遥か東にあることが描写されているけど、距離をそのまま引くと太平洋を通じてハワイとかまでぶっ飛んでしまうので、信じられるものではない。ただ、アメリカ説やメキシコ説が西洋で唱えられてはいる。
で、扶桑国が日本列島内にあるとすれば、その東千里にある女国も日本列島内であろう。またしても日本にあることがにおわされる。
日本に女国があったかどうかはともかく、「遥か東の日本列島の方に女国があるという伝承が存在していた」というのは間違いないと見ていいのではなかろうか?
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焚巣館 -後漢書東夷列伝 高句驪-
本日の更新。内容は割と三国志の高句麗伝に掲載された内容の抜粋と要約ってカンジ。高句麗について決していい印象がないのだなあ、と感じさせる書きぶり。後漢魏晋代の高句麗は侵攻に次ぐ侵攻を繰り返していた時期だったから……というのはひとつ理由としてあると思う。
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/chousenshi_chuugoku_shisho/gokanjotouiretsuden/03koukuri.html太祖大王、次大王、新大王の三大王がそろい踏みだけど、こちらでは親子三代なのに対して三国史記では全員が兄弟。なぜか系譜が違う。理由は妄想できても判断はできない。
後漢書は正史東夷伝のうち最古の時代を記したもので、高句麗の単独の立伝も始めて。これは言ってみれば初の体系だった「高句麗史」ともいえる。で、その最初の王は『宮』こと三国史記における太祖大王。後漢書は後漢滅亡から200年以上を経て成立したものではあるが、原史料は当時のものを当たっており、「現存する高句麗最初の体系的な歴史における最初の王」と言っていいかもしれない。逆に言えば、これ以前の王については、後から歴史に登場するのである。
さて、今回の後漢書高句麗伝には、後の高句麗史に記される大事な要素が欠けている。それが神話である。ここに登場する宮(太祖大王)も「生まれながらに目が見えた」という神がかりな逸話はあるものの、神話というには足りない。しかし、後に高句麗の歴史を記した三国史記には始祖王に数々の神々しい神話が登場し、編者はそれさえも神話の要素を削ぎ落としたとコメントしている。
では、これは突然に降ってわいたものなのだろうか? おそらくはそうではないだろう。三国志、晋書、宋書には、すべて高句麗の列伝が立てられ、しかし始祖神話についてはまったく触れられていない。ところが後漢より300年近く後の王朝を記した梁書東夷諸戎伝の高句麗伝には、中国の史書で初めて高句麗の神話が登場する。
高句麗とは、その先祖は東明を出自とする。もともと東明は北夷の橐離王の息子である。橐離王が外出している間、彼の小間使いがその後に任娠した。橐離王が帰ってきて、その子を殺そうとした。小間使いは言った。「前に天の上に鶏卵ほどの大きさの
気 があるのを見ていたら、私の方に降りて来ました。それで妊娠してしまったのです。」王が彼女を収容した後、遂に男が生まれた。王はそれを豚小屋に置いたが、豚は口から息を彼に吹きかけ、死ななかった。神だと思った王は、そのまま聴き従って収めて養うことにした。成長すると上手に射撃をしたので、王は彼の勇猛さを忌み嫌い、またしても彼を殺そうとしたので、東明はそのまま南に奔走し、淹滞水にたどり着いた。弓で川を擊つと、魚や鱉 の皆が浮き出て橋となり、これに乗って東明は渡ることができて、夫餘にたどり着いて王となった。その後裔が枝分かれし、高句麗の血筋となった。その国は漢の玄菟郡である。遼東の東にあり、遼東から千里である。漢と魏の時代には、南には朝鮮、穢貃、東には沃沮、北には夫餘と接していた。漢の武帝は元封四年に朝鮮を滅ぼし、玄菟郡を置き、高句麗を縣とし、これをもって(中国に)属すことになった。完全に後漢書の扶余伝のコピーなのだけど、ここで初めて中国史に高句麗の「始祖神話」が登場することは、非常に重要な事実ではないか。後漢書や三国志の高句麗の歴史は、あくまで中国から見た実録に基づく。これに対して梁書東夷諸戎伝には、高句麗の語る始祖神話が登場するわけだ。
さて、次に周書異域伝の高句麗伝を引用してみよう。
高麗、その先祖は夫餘から出た。自らが述べるには、始祖は朱蒙といい、河伯の娘が日輪の影に感応して孕んだそうである。成長した朱蒙は才略があり、夫餘人は疾悪して彼を追放した。紇斗骨城に住みつくと、自ら高句麗と號し、それに従って高を氏とした。彼の孫の莫來は次第に盛況となり、夫餘を撃破して臣従させた。莫來の裔孫の璉が後魏への通使を始めた。
ついに朱蒙が登場する。そして、そこには太祖大王以前の王の名も記されている。これは高句麗の記録に基づく記録であろう。中国と関係した歴史ではなく、高句麗に内在する歴史なのだ。ということは、このようにして中国は「中国から見た高句麗」ではなく「高句麗から見た高句麗」も中国から語るようになるわけである。
これは中国と高句麗の関係の変化を表し、おそらく同時に高句麗自身の変化も示している。そこにある要因のひとつに漢字の使用があるのではないか。高句麗が漢文を用い、漢文で自らの歴史を自らで整理し、その史料を中国に提供することで、高句麗の神話が中国の歴史に詳細な形で反映されるようになったように感じられる。
ちなみに、見ての通り梁書東夷諸戎伝や周書異域伝の訳については、まだホームページに掲載されていない。では、なぜここで訳を貼っているかといえば、訳だけして更新をまだしていないからである。去年からとっくに訳している。今ここで後漢書の訳し直しをホームページに上げているのも、このコーナーを先に進める前準備みたいなものである。
また、いつも最近は注を別の記事のコピペで済ませることが結構多いのだけど、今回の記事ではまだ更新していない梁書の注からコピペしていたりする。本当に既に訳した文章が溜まっているんだよ……。