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【現代語訳】
時に世尊が七日を過ごした後、三昧(サマーディ)から立ち上がって、目支鄰陀(ムチャリンダ)の樹の下を離れ、羅闍耶他那(ラージャ・ヤタナ)の樹の場所へ赴いた。赴いてからは、羅闍耶他那(ラージャ・ヤタナ)の樹の下にて一度、跏趺を結んで坐することにした。坐して七日の解脱を楽しみを享受していた。その時、多富沙(トラプサ)と婆梨迦(バッリカ)という二人の商人が鬱迦羅(ウトカラ)の村から来て、この地の路上にたどり着いた。時に多富沙(トラプサ)と婆梨迦(バッリカ)の二人の商人は前世において備わった親族血縁のうち一人に鬼神がいて、多富沙(トラプサ)と婆梨迦(バッリカ)の二人の商人に告げた。
「諸兄よ、世尊はここで初めて現等覚を完成して羅闍耶他那(ラージャ・ヤタナ)の樹の下におる。お前たちはこれから麨子(クッキー)と蜜丸(キャンディ)を持っていき、かの世尊に供えるがよい。長夜においてその利益、安楽を得ることになろう。」
時に多富沙(トラプサ)と婆梨迦(バッリカ)の二人の商人はすぐさま麨子(クッキー)と蜜丸(キャンディ)を持ち、世尊の住処に到着した。到着すると、一面立によって世尊に敬礼した。一面立してから、多富沙(トラプサ)と婆梨迦(バッリカ)の二人の商人は世尊に告げて言った。
「願わくば世尊よ、我々の麨子(クッキー)と蜜丸(キャンディ)を受け取り、我々に長夜におけるその利益と安楽を得られるようになされんことを……!」
時に世尊の心は思念を生じた。
「如来たちは手を使わずに受け取るものであったな。余は何の器によって麨子(クッキー)と蜜丸(キャンディ)を受け取ればよいものか……。」
時に四大天王が現れ、世尊の思念のある処に以心知(テレパシー)をおこない、四方から分散して世尊に四つの石鉢を献上しに来て言った。
「世尊よ、この器で麨子(クッキー)と蜜丸(キャンディ)を受けて下され!」
世尊はこの新たな石鉢を受け取ると、麨子(クッキー)と蜜丸(キャンディ)を受けて食べた。
時に多富沙(トラプサ)と婆梨迦(バッリカ)の二人の商人は世尊の洗鉢と手を見てから、頭面で世尊の足に礼をして世尊に告げた。
「ここで我々は世尊と法(ダルマ)に帰依します。どうか世尊よ、我々を受け入れ、今日から始まり生命の終焉に至るまで優婆塞(ウパーサカ)にしていただきたい!」
彼らは世間において初めて二度にわたる帰依を唱え、優婆塞(ウパーサカ)となったのである。
【漢文】
時、世尊過七日後、從三昧起、離目支鄰陀樹下、往羅闍耶他那樹處。往已、于羅闍耶他那樹下、一度結跏趺坐、坐受七日解脫樂。爾時、多富沙與婆梨迦二商人從鬱迦羅村、來至此地路上。時、多富沙與婆梨迦二商人有于前生具親族血緣一鬼神、告多富沙、婆梨迦二商人曰、諸兄、世尊于此初成現等覺、在羅闍耶他那樹下。汝等應以麨子、蜜丸往供彼世尊。將于長夜得其利益、安樂。
時、多富沙、婆梨迦二商人即持麨子、蜜丸、詣世尊住處。詣已、敬禮世尊、于一面立。一面立已、多富沙、婆梨迦二商人白世尊言、願世尊受我等麨子及蜜丸、使我等于長夜得其利益、安樂。
時、世尊心生思念、諸如來不以手受、我當以何器受麨子、蜜丸耶。時、有四大天王、以心知世尊念處、分從四方來獻世尊四石鉢曰、世尊、請以此器受麨子、蜜丸。世尊受此新石鉢、受麨子、蜜丸而食。
時、多富沙、婆梨迦二商人見世尊洗鉢及手已、以頭面禮世尊足、白世尊曰、我等于此歸依世尊與法、願世尊容我等從今日起至命終止為優婆塞。彼等于世間、初唱二歸依為優婆塞。
【書き下し文】
時に世尊の七日を過ごす後、三昧從(よ)り起こり、目支鄰陀の樹の下を離れ、羅闍耶他那の樹の處に往けり。往きて已(のち)、羅闍耶他那の樹の下に于いて、一度(ひとたび)は跏趺を結びて坐(ま)し、坐(ま)して七日の解脫の樂しみを受く。爾る時、多富沙と婆梨迦の二(ふたり)の商人(あきうと)は鬱迦羅の村(むら)從(よ)り來たり、此の地の路の上に至れり。時に多富沙と婆梨迦の二(ふたり)の商人(あきうと)は前の生に于ける親族血緣の一(ひとつ)の鬼神(かみ)を具(そな)ふる有り、多富沙、婆梨迦の二(ふたり)の商人(あきうと)に告げて曰く、諸(もろもろ)の兄(このかみ)よ、世尊は此に于いて初めて現等覺を成し、羅闍耶他那の樹の下に在り。汝等は應(まさ)に麨子、蜜丸を以ちて往き、彼の世尊に供ふべし。將に長夜に于いて其の利益、安樂を得む。
時に多富沙、婆梨迦の二(ふたり)の商人(あきうと)は即ち麨子、蜜丸を持ち、世尊の住處(すみか)に詣(いた)れり。詣(いた)りて已(のち)、世尊を敬禮(ゐやま)ふこと、一面立に于いてす。一面立の已(のち)、多富沙、婆梨迦の二(ふたり)の商人(あきうと)は世尊に白(まを)して言(いは)く、願はくば世尊は我等の麨子及び蜜丸を受け、我等を使(し)て長夜に于いて其の利益、安樂を得させしめむことを、と。
時に世尊の心は思念(おもひ)を生ぜり。諸(もろもろ)の如來は手を以(もち)ゆことなく受く。我は當に何の器を以ちてか麨子、蜜丸を受けむか、と。時に四大天王有り、心を以ちて世尊の念(こころ)の處(ところ)に知らしむ。分かれて四方(よも)從(よ)り世尊に四つの石鉢を獻(たてまつ)らむと來たりて曰く、世尊よ、請ふ、此の器を以ちて麨子、蜜丸を受けむことを、と。世尊は此の新たな石鉢を受け、麨子、蜜丸を受けて食らへり。
時に多富沙と婆梨迦の二(ふたり)の商人(あきひと)は世尊の洗鉢及び手を見た已(のち)、頭面を以ちて世尊の足に禮(ゐや)まひ、世尊に白(まを)して曰く、我等は此に于いて世尊と法に歸依せり。願はくば世尊の我等を容(い)れて今日從(よ)り起こし、命の終はり止まるに至るまで優婆塞と為さむことを、と。彼等は世間に于いて、初めて二(ふたたび)の歸依を唱へて優婆塞と為らむ。
仏陀が悟りを開いたのちに初めて在家の信徒「優婆塞(ウパーサカ)」を獲得するお話。四方から四天王が総出で現れてお供え物のクッキーとキャンディを受け取るための石鉢を渡すさまが大袈裟で訳しながらめっちゃ笑ってしまった。
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過去に訳した漢籍を少しずつ掲載していく。律蔵 大品第一
大犍度【現代語訳】
その時に仏世尊は初めて現等覚を完成し、優樓頻螺(ウルヴィーラ)村の尼連禅(ファルグ)河の邊(ほとり)の菩提樹の下に止(とど)まっていた。時に世尊は菩提樹の下にて一度、跏趺を結んで坐することにした。坐して七日の解脱の楽しみを享受していた。
時に世尊はこの夜の初分、縁起順逆の作意について言った。
「無明は行為に起縁する。行為は認識に起縁する。認識は人間を構成する身体と精神に起縁する。人間を構成する身体と精神は六つの感覚器官に起縁する。六つの感覚器官は接触に起縁する。接触は感受に起縁する。感受は愛惜に起縁する。愛惜は執着に起縁する。執着は所有に起縁する。所有は生に起縁する。生は老い、死、哀愁、憂悲、苦しみ、悩みに起縁するものだ。かくのごとくあって一切の苦蘊を集め起こすことになる。そして無明が滅び尽きれば、行為も滅び、行為が滅べば認識も滅ぶ。認識が滅べば人間を構成する身体と精神も滅び、人間を構成する身体と精神が滅べば六つの感覚器官も滅ぶ。六つの感覚器官が滅びれば接触も滅び、接触が滅びれば感受も滅ぶ。感受が滅びれば愛惜も滅ぶ。愛惜が亡びれば執着も滅びる。執着が滅びれば所有も滅び、所有が滅びれば生も滅ぶのだ。生が滅びれば老いも死も哀愁も憂悲も苦も悩みも滅ぶ。――かくのごとくして一切の苦蘊を滅ぼし尽くすのだ。」
時に世尊はこの義を了知し、そこでこの時に自ら唱頌した。
行に努める静慮たる婆羅門よ。
かくのごとき諸法を顕現させた者は、
因を有する諸法の故を了知した。
これを滅ぼせば一切の疑惑は尽きるのだ。時に世尊はこの夜の中分、縁起順逆の作意について言った。
「無明は行為に起縁する。行為は認識に起縁する。認識は人間を構成する身体と精神に起縁する……(中略)……かくのごとくあって一切の苦蘊を集め起こすことになる。……(中略)……滅ぼし尽くすのだ……(後略)。
時に世尊はこの義を了知し、そこでこの時に自ら唱頌した。
行に努める静慮たる婆羅門よ。
かくのごとき諸法を顕現させた者は、
あらゆる縁故を滅ぼし尽くすことを了知した。
これを滅ぼせば一切の疑惑は尽きるのだ。時に世尊はこの夜の後分、縁起順逆の作意について言った。
「無明は行為に起縁する。行為は認識に起縁する。……(中略)……かくのごとくあって一切の苦蘊を集め起こすことになる。……(中略)……滅ぼし尽くすのだ……(後略)。
時に世尊はこの義を了知し、そこでこの時に自ら唱頌した。
行に努める静慮たる婆羅門よ。
かくのごとき諸法を顕現させた者、
すなわち彼が端然と立って魔軍を破るさまは、
虚空を照らす日輪のごとし。【漢文】
爾時佛世尊初成現等覺、止優樓頻螺村、尼連禪河邊菩提樹下。時世尊于菩提樹下、一度結跏趺坐、坐受七日解脫樂。
時、世尊是夜初分、于緣起順逆作意。謂、無明緣行、行緣識、識緣名色、名色緣六處、六處緣觸、觸緣受、受緣愛、愛緣取、取緣有、有緣生、生緣老、死、愁、憂悲、苦、惱。如是集起一切苦蘊。又無明滅盡、則行滅、行滅則識滅、識滅則名色滅、名色滅則六處滅、六處滅則觸滅、觸滅則受滅、受滅則愛滅、愛滅則取滅、取滅則有滅、有滅則生滅、生滅則老、死、愁、憂悲、苦、惱滅。如是滅盡一切苦蘊。
時、世尊了知此義、即于此時自唱頌曰、
力行靜慮婆羅門
若是顯現諸法者
了知有因諸法故
滅彼一切疑惑盡時、世尊其夜中分、于緣起順逆作意。謂、無明緣行、行緣識、識緣名色……乃至……如是集起一切苦蘊……乃至滅盡……。
時、世尊了知此義、即于此時自唱頌曰、
力行靜慮婆羅門
若是顯現諸法者
了知滅盡諸緣故
滅彼一切疑惑盡時、世尊其夜後分、于緣起順逆作意。謂、無明緣行、行緣識……乃至……如是集起一切苦蘊。……乃至滅盡……。
時、世尊了知此義、即于此時自唱頌曰、
力行靜慮婆羅門
若是顯現諸法者
則彼端立破魔軍
猶如照虛空日輪【書き下し文】
爾る時に佛世尊は初めて現等覺を成し、優樓頻螺村の尼連禪河の邊(ほとり)の菩提樹の下に止(とど)む。時に世尊は菩提樹の下に于いて、一度(ひとたび)跏趺を結びて坐(ま)し、坐(ま)して七日の解脫の樂しみを受く。
時に世尊は是の夜の初分、緣起順逆作意に于いて謂へり。無明は行に緣(よ)り、行は識に緣(よ)り、識は名色に緣(よ)り、名色は六處に緣(よ)り、六處は觸に緣(よ)り、觸は受に緣(よ)り、受は愛に緣(よ)り、愛は取に緣(よ)り、取は有に緣(よ)り、有は生に緣(よ)り、生は老、死、愁、憂悲、苦、惱に緣(よ)れり。是くの如くして一切の苦蘊を集め起こせり。又た無明は滅び盡かば、則ち行も滅び、行滅ぶれば則ち識も滅べり。識滅ぶれば則ち名色も滅び、名色滅ぶれば則ち六處も滅べり。六處滅ぶれば則ち觸も滅び、觸滅ぶれば則ち受も滅べり。受滅ぶれば則ち愛も滅び、愛滅ぶれば則ち取も滅べり。取滅ぶれば則ち有も滅び、有滅ぶれば則ち生も滅べり。生滅ぶれば則ち老、死、愁、憂悲、苦、惱も滅びたり。是くの如くして一切の苦蘊を滅び盡くせり。
時に世尊は此の義(ことはり)を了知(さと)り、即ち此の時に于いて自ら唱頌して曰く、
行に力(つと)めて靜慮したる婆羅門よ
是くの若(ごと)き諸法を顯現(あらは)す者
因を有(も)つ諸法の故を了知(さと)らむ
彼を滅ぼさば一切の疑惑(うたがひ)は盡きたり時に世尊は其の夜の中分、緣起順逆の作意に于いて謂へり。無明は行に緣り、行は識に緣り、識は名色に緣り……乃至(ないし)……是くの如く一切の苦蘊を集め起こし……乃至(ないし)滅ぼし盡くし……。
時に世尊は此の義(ことはり)を了知(さと)り、即ち此の時に于いて自ら唱頌して曰く、
行に力(つと)めて靜慮したる婆羅門よ
是くの若(ごと)き諸法を顯現(あらは)す者
諸(もろもろ)の緣故(ゆゑ)を滅ぼし盡くすを了知(さと)らむ
彼を滅ぼさば一切の疑惑(うたがひ)は盡きたり時に世尊は其の夜の後分、緣起順逆の作意に于いて謂へり。無明は行に緣り、行は識に緣り……乃至(ないし)……是くの如く一切の苦蘊を集め起こす。……乃至(ないし)滅ぼし盡くし……。
時に世尊は此の義(ことはり)を了知(さと)り、即ち此の時に于いて自ら唱頌して曰く、
行に力(つと)めて靜慮したる婆羅門よ
是くの若(ごと)き諸法を顯現(あらは)す者
則ち彼の端立して魔軍を破ること
猶ほ虛空を照らす日輪の如し三蔵のひとつ『律蔵』における大品第一の大犍度から。仏陀が最初に悟りを開いた際の描写。仏教における悟りとは何かを仏陀の言葉として最もわかりやすく記した古典と言えるんじゃなかろうか。
実は大犍度を訳そうとしたきっかけは、ウパカという人物に仏陀が初めての説法をして失敗する際の描写が面白いので、それに該当する漢訳仏典を訳そうとしたのがはじまり。なので、このあたりをやくすつもりはなかったのだけど、せっかくだからとついでに訳してみたもの。実は結構「ふざけた」訳を他のものだとしているのだけど、ここはさすがに私も仏教徒だし、仏陀直々の悟りに関する最初の教えということで、おかしな訳にならないよう慎重に、かつ他の専門家が既に訳しているだろうからと自分なりにしっかり仏教用語を現代日本語に訳すようにと真面目に努めてみた。さすがに畏れ多いと思う感覚は私にもあった模様。
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When I was young
昨日、友人と少し話題になったのを思い出してカーペンターズの"Yesterday Once More"の歌詞を眺めていた。その話の時に私はこの曲について、英文も音もすんごいシンプルだと評していて、それはそうなんだけど、ざっと見てみると最後のところ……"It's yesterday once more"ってなに? そういや"It's yesterday once more"だったなー、となんだか引っかかってしまった。つまり「それこそが昨日の再来だ!(ババーン!)」みたいな。もちろん、こんなしっとりとした曲にそんな訳はおかしいのだけど、じゃあニュアンスをつかんだ日本語訳として何が適切なのかを考え込んでしまった。結構これ難しいなって。
私の若かりし日のこと、I'd listen to the radio
ラジオを聴こうとして、Waitin' for my favorite songs
お気に入りの歌を待ちつづけていたものだった。
When they played I'd sing along
演奏が始まれば合わせて歌う。It made me smile
笑顔を浮かべながら。
Those were such happy times
あまりにしあわせな時間だった。And not so long ago
そんなに時は過ぎていないのに、How I wondered where they'd gone
どこへいってしまったのかとても不思議。
But they're back again
でもそれが帰ってきた。Just like a long lost friend
ちょうど長らく会っていなかった友達のような、All the songs I loved so well
私があまりに愛したあらゆる歌が!
Every sha-la-la-la
あらゆる流れるような歌声が、Every wo-wo-wo
あらゆる歌の高揚が、Still shines
まだ輝いている。
Every shing-a-ling-a-ling
あらゆるはずむような歌声が、That they're starting to sing's
それらの歌の始まりが、So fine
すんなりと心に入ってくる。
When they get to the part
それらが佳境に入る時、Where he's breakin' her heart
彼が彼女の心を傷つけるところ、It can really make me cry
それがひどく私に涙させる。Just like before
あの頃と何も変わらない。
It's yesterday once more
去りし日がまたここに。
Lookin' back on how it was
その頃がどうだったのか振り返ってみると、In years gone by
何年も昔のことだった。
And the good times that I had
私の過ごした善き日々が、Makes today seem rather sad
今日を哀しいものにしてしまう。So much has changed
いろんなことがあまりに変わってしまった。
It was songs of love that
愛の歌をI would sing to them
彼らに向けて歌おうとして、And I'd memorize each word
歌詞を一言ずつ覚えたこともあった。
Those old melodies
そんな古い旋律が、Still sound so good to me
今の私にもまだ美しく響く。As they melt the years away
過ぎ去った年月を融かしていくように。
Every sha-la-la-la
どんな流れるような歌声もEvery wo-wo-wo
どんな高揚もStill shines
いつまでも輝いている。
Every shing-a-ling-a-ling
あらゆるはずむような歌声が、That they're starting to sing's
それらの歌の始まりが、So fine
すんなりと心に入ってくる。
All my best memories
すべてが私の最高の思い出。Come back clearly to me
はっきりと思い出せる。Some can even make me cry
中には泣きたくなるようなものもあるけど、Just like before
あの頃と何も変わらない。
It's yesterday once more
去りし日がまたここに。ってなわけで、うーーん、と少し頭をひねって思いついたのが表題。これでいいかな、と思ったので思い切って全文を訳してみた。百千と聴いたはずの曲で、当然ながら訳詞も読んだはずなのだけど自分で訳してみると「あー、こういうことを謡っている歌詞だったのかー」と思うなど。
最初は論語にある「逝く者はかくのごときか、昼夜を舎かず」よろしく、「二度と戻らない」という含意の「逝」の字を用い、「逝きし日がまたここに」にして「二度と帰らないはずの日が帰ってきた!」みたいにしようとしていたんだけど、今どき「逝」なんて「逝去」や「急逝」なんていう死をあらわすドキツイ語としてしか用いられていないのでギョッとするかなー、と思い「去りし日」に改めた。全文を読むと歌詞は「古い友人に再開した」みたいな表現なんだから死と再生なんて重すぎる! 改めてよかった。
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毎日ブログを更新するとうそぶきながら、結局2日1回更新ペースになってきている。で、それも怪しくなりそうなので手抜き更新で心理的なペースを戻す。忙しいといえば忙しいんだけど、それが更新できなかった主な要因でないことはわかっている。では何が要因か。手抜き更新をしなくなったことだ。
というのも、ブログを書くネタはいくつかあるし、実は途中まで書いてなげている下書き記事がふたつある。これらは結構テーマがしっかりした記事で、それゆえにしっかりまとめようという意識が強くなりすぎてまったく完成せずに投げてしまったわけである。つまり書く暇がないのではなく、単に入れ込み過ぎだ。これはよくない。ブログの更新を持続するにはしょーもない記事でも継続して書くべきだ。なのでこの記事を書いているのだ。しょーもない記事を。中身のない、何の意味もない、何の価値もない。しょーもない記事をここに今まさに書いているわけだ。
そういえばこれまで「入れ込み過ぎ」という表現を私は何度もネット上で当たり前に使ってきた。これ、よくよく考えたら競馬用語だし、何の注釈もなく用いるべき言葉じゃない気がする。本来の意味はJRA競馬用語辞典によれば、「競走馬がレース前に興奮しすぎて成果が出せないこと」となっている。これを私は「肩に力が入りすぎ」とかと同様に、やるぞという気持ちが変に先走ってうまく始めることができなかったりとか、完成させることのできない状態の表現として用いてきた。……って、よくよく考えてみると競馬用語の援用としても意味がビミョーに変容している気がしてきた。つまり誰もわからない、私が勝手に使っているだけの言葉だ。なんでこれまでこんな言葉を平然と使っていたのだろう、私は。
競馬趣味のない私がなぜこんな表現を用いるようになったのか。記憶を遡ってみよう。確か子供の頃に読んだ競馬漫画『蒼き神話マルス』にこの表現が登場し、そこで覚えてそのまま今でも使っている……という経緯だったはずだ。で、子供って今より言葉の意味とか結構曖昧なまま使ってしまうことが多いから、自分の中で変容した意味を含めて定着したような気がする。いや、漫画内で「レースに勝とうという気持ちが強すぎて興奮しすぎてしまっている」みたいな感じのニュアンスを込めて「入れ込み過ぎ」という言葉が用いられていたから、そういう認識のままそういう言葉を使っていたような気もしてきた。イマイチ思い出せない。
そもそも『蒼き神話マルス』がどんな漫画だったのか、どうやってもまったく思い出せない。なので当該のシーンの流れもまったく思い出せない。検証するのも面倒くさい。これまでなんとなく通じちゃうか、もしくは無視しても話が通じちゃうからか、このようにしてそのままずーっとこの言葉の問題が自分の中で放置されてきたようである。うーん。まあいいや、今後とも使っちゃおう。いいや、別に。
ところで、過去に私は『宇宙兄弟』と『度胸星』を同じ時期に読んでいたために、宇宙飛行士の試験の展開について自分の中でかなり記憶が大きく混同されてしまっていたことがある。で、『蒼き神話マルス』の記憶についても、なんとなくどこかで『みどりのマキバオー』や『じゃじゃ馬グルーミン★UP』といった競馬漫画の記憶に混入されてそうな気がしている。もしかしたら『蒼き神話マルス』から流入される形で、それら二作の存在しない展開が私の記憶の中に存在しているかも……と少し気になった。
手抜き記事なので特にオチもなくおしまい。
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とあるきっかけがあって、不義理をしていた人たちに電話等であいさつをしてきた。過去に一緒にいろいろと活動などをしてきた人たちだ。胸のつかえが取れたようでスッキリした。いや、不義理をしておいてあいさつ回りをしただけでスッキリするのもどうかと自分で思うのだけど、とりあえず一歩が踏み出せた、ということで。また会ってくれるとか、今後の話をまたしてくれるとか、そんな返事ばかりでうれしかった。これから詫び行脚だー!!!!
詫びた先のみなさんは本当にやさしかった。まあ、呆れられているだけだろう、とは思うけど。それでも。もう本当に申し訳ないとしか言いようのないことではあるけど、恩がありながら仇で返し、何もしていない。それにしても電話口で「活躍は聞いていますよ」と言われたんだけど、どんな風に噂が立っているのやら……。仕事の関係みたいだけど。うひー、仕事も力不足で何もできずみんなに助けられてばかりだよー!!
これに限らず、ここのところ本当に私は諸々のことで人に恵まれすぎていると思う。いろんな方に恩がありすぎる。そして、それをまったく返せていない。しかし恩を負債だと考えてしまうと逆に何もできなくなるし、義務感と無力感に押しつぶされそうになる。恩は返せないもの。そう思った方がよい。人への感謝をもって何か返せる機会が得られれば、そこにまた感謝する。そのようにして生きるしかないのだろう。今後は恩は返せずとも不義理はすまいと思う。
不義理は負債であっても恩は負債にしてはならない。自分のような小人物でも感謝されることがある。仕事の関係では特に増えてきた。しかし、そこに何かの恩返しを求めているかといえばそんなわけはない。仕事に至っては、そうであってはならないものだ。むしろ相手が何かの世話などに申し訳ない等と考えているようであれば、「仕事だ」「勝手にやっていることだ」と言う。年下なら「私は先輩に恩を受けてきたから年下のあなたに返した。あなたが恩を返したいと思うなら後輩に対してしてほしい」と言う。実際にそう思っているし、相手がそんな風だとこっちだってやりづらい。なんなら自分の主体性を否定されているようで時に不快ですらある。こうやって考えてみると、あらゆる恩を返さなければならないという義務感に囚われるのは、与える側に回ろうとする傲慢さではないか。かつての自分は間違いなくそうだったと思う。つらつらと思うに、そのような感じ。
彼らと話しながら、自分の過去の未熟さが今ならわかる。本当に未熟だった。彼らに連絡を取った理由のもうひとつは新たなことを始めたい、過去のリスタートをしたいからだ。詫びた相手の一人は「ちょうどリスタートの機会だと自分で思っていた」と話してくれた。まあ、これも天命なのかもしれない。恩が返せるかもしれないし返せないかもしれない。先のことはわからない。
まとまりのない話ではあったが、恩とか仇とかはひとまず置いて、自分の一緒に何かをしたい、そう思えるような人間でありたいなー、と思っている。