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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

天地否(万物の停滞と終焉、その後)
天地否の卦 | 鍼灸治療家集団,一鍼堂
【現代語訳】

天地否(天と地の分離)
 『否』とは、他者との分離である。君子の正しい行いは成功しない。失われるものは大きく、手に入るものは少ない。

彖伝
 「『否』とは、他者との分離である。君子の正しい行いは成功しない。失われるものは大きく、手に入るものは少ない。」とはどういうことか。天と地が交錯しなければ、万物は通じ合うことがない。上と下が交錯しなければ、天下に国家は成立しない。内が陰で外が陽、内が柔で外が剛であることは、内面が小人なのに外面が君子という状態にある。小人の道ばかりが続き、君子の道は消失する。

 初六(初の陰)、茅を抜いて食べようとすると、それらの根の繋がったものが一度に抜ける。正しい行いにとって吉。うまくゆく。
 六二、上位の者から寵愛を受ける。小人にとっては吉であり、大人にとっては『否』だが、うまくゆく。
 六三、恥辱を受ける。
 九四、天命があれば咎を免れるが、同類の仲間は安寧な状態から離れる。
 九五、『否』である。大人にとっては吉。「さあ、滅亡だ、滅亡の時だ♪ 根元のしっかりとした桑の木に身を括ろうではないか♪」
 上九、『否』が傾けられるので、最初は『否』であるが、後に喜びとなる。

象伝
 天地が交錯しない『否』には、君子は徳をあまり表に出さず、難事を避け、繁栄して富を得るようなことをしてはならない。
 「茅を抜く。正しい行いにとって吉。うまくゆく」とは、まだ君主に志があることを示す。
 「大人にとって『否』である。うまくゆく。」とは、多数の者を乱さないようにせよ、と示している。
 「恥辱を受ける」とは、地位が正当ではないことを示す。
 「天命があれば、咎を免れる」とは、目的が達成できることを示す。
 「大人にとっては吉」とは、地位が正当な形になることを示す。
 『否』が終焉するから、「否が傾けられる」と表現されている。いつまでも『否』の続くことがあり得るだろうか?

【原文】
天地否
 否之匪人、不利君子貞、大往小來。

彖曰、
 否之匪人、不利君子貞、大往小來。則是天地不交而萬物不通也、上下不交而天下无邦也。內陰而外陽、內柔而外剛、內小人而外君子、小人道長、君子道消也。

 初六、拔茅茹以其彙、貞吉。亨。
 六二、包承、小人吉、大人否。亨。
 六三、包羞。
 九四、有命、无咎、疇離祉。
 九五、休否、大人吉。其亡其亡、繫于苞桑。
 上九、傾否、先否後喜。

象曰、
 天地不交、否、君子以儉德辟難、不可榮以祿。
 拔茅貞吉、志在君也。
 大人否、亨。不亂羣也。
 包羞、位不當也。
 有命无咎、志行也。
 大人之吉、位正當也。
 否終則傾、何可長也。

【書き下し文】

天地否
 否は之れ人に匪(あら)じ。君子の貞(さだ)しきに不利(よろしからず)、大いに往きて小さく來たらむ。

彖曰、
 否は之れ人に匪(あら)ず、君子の貞(さだ)しきに不利(よろしからず)、大いに往きて小さく來たる。則ち是れ天地(あめつち)の交(まぢ)はらざれば、而(すなは)ち萬(よろづ)の物は通らざるなり。上下(かみしも)の交(まぢ)らざれば、而(すなは)ち天下(あめのした)に邦(くに)は无し。內に陰にして外に陽、內に柔にして外に剛なるは、內は小人にして外は君子、小人の道は長け、君子の道は消ゆるなり。

 初六、茅を拔きて茹(くら)ふに其の彙を以ちてす。貞(さだ)しきに吉(よろ)し。亨(とほ)る。
 六二、承(さいはひ)を包(う)く。小人に吉(よろ)しく、大人には否(さにあら)ざるも、亨(とほ)る。
 六三、羞(はぢ)を包(う)く。
 九四、命(みこと)有らば、咎无かりけるも、疇(ともがら)は祉(さいはひ)を離る。
 九五、否、大人(きみひと)に吉(よろ)し。其れ亡(ほろ)びなむ、其れ亡(それ)びなむ、と苞桑に繫がむ。
 上九、否を傾け、先は否なるも後に喜びあり。

象曰、
 天地(あめつち)の交(まぢ)らずの否は、君子は德を儉(みさを)するを以ちて難を辟け、榮へて以ちて祿する可からず。
 茅(ちがや)を拔き、貞(さだ)しきに吉(よろ)し、志は君に在りなむ。
 大人(きみひと)に否なるも、亨(とほ)る。羣(もろひと)を亂さざるなり。
 羞(はぢ)を包(う)くは、位(くらひ)の當たらざるなり。
 命(みこと)有りて咎无く、志は行はるるなり。
 大人の吉(よろ)しきは、位(くらひ)の正に當るなり。
 否は終はらば則ち傾き、何ぞ長らかる可きなるか。

 これは停滞と崩壊、万物の終焉と死を示す卦であるが、個人的には好きな卦である。もちろん、私は停滞や破滅を好んでいるわけではないので、この卦が占いで自分にあたったらうれしいとかいう話ではない。中国思想の根本のひとつをよく現したものだから読んでいて好きなのである。

 この卦は、天がすべて陽であり、地がすべて陰である。卦の形は整然としている。天とは陽の象徴であり、地とは陰の象徴である。中国思想における天地開闢は混沌から陽と陰の気が生まれ、陽が天に、陰が地を形成するところから始まる。万物が二つに分かれ、すべてに分別が生まれる。

 中国思想において、こうした類比は人間の尊卑にも援用される。易経の繋辞上伝にも「天は尊く、地は卑しく、乾坤は定まる。」とあり、一般論として尊い者が天、つまり上位に、賤しい者が地、つまり下位に集まるのが自然であり、またあるべき様であるとされる。ということは、尊さ、高さ、広大を象徴する陽が天に、卑しさ、低さ、矮小を象徴する地に集まり、程度のよい者が高位に就き、程度の低い者が下位に服するのは、秩序に則ったあるべき姿のはずという前提が存在し、ステレオタイプな「中華思想」「儒教」への偏見において、これは最も好ましい完成された人間社会のようにも考えられることだろう。ところが、それが図表に示される天地否は、天と地の完全な分離であるが故に、万物の停滞と終焉を示す卦として示されているのである。これこそが中国思想の妙であり、その根幹のひとつである『易』の面白さなのだ。

 今回の訳では、「否之匪人」を「『否』とは、他者との分離である。」としてある。人を他者と訳した。最初は、「人間の否定」とか「人間性の否定」とか訳そうとしていたのだけど、やはりここでの訳は「他者」が適切であろうと思う。というのも、「人」の原義は「己」の対義語であり、「他者」を意味するのだ。

 「人」を「他者(自分以外の人)」とする語法は、論語にも頻出する。たとえば、「君子は諸れを己に求め、小人は諸れを人に求む(立派な人物は自己に原因を求めるが、しょうもない人物は他者に原因を求める。)」とか「人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患うるなり(他人が自分のことを理解してくれないことは心配していない。他人を理解していないことが心配なのだ。)」とかいう孔子の言葉は、「己」を「自己」の意、「人」を「他者(自分以外の人格)」の意で用いている。ここで「人」を人間一般と解するとよくわからなくなってしまうだろう。「人」を人間一般に用いる語法は、孔子の言葉にもみられるし、以後に発生しているため、孔子と同時代の思想的潮流、もしかすれば孔子本人が史上に初めて普遍的な「人間」を発見したのかもしれない。だからこそ、孟子や荀子は性善説や性悪説という形で、人間普遍の共通性を探し求めた。

 それはさておき、易経は、孔子以前の書とされているし、そうでなくとも孔子から200年は下らない時期に発生した非常に古い典籍であることは間違いない。そして、天と地が完全に分離する『天地否』の卦は、まさしく自己と異なる他者との間に完全な断絶が生まれた卦であり、他者の否定による停滞を示している。本文の伝にも「天と地が交錯しなければ、万物は通じ合うことがない。上と下が交錯しなければ、天下に国家は成立しない。(則是天地不交而萬物不通也、上下不交而天下无邦也。)」とあり、解釈は人それぞれあろうが、少なくとも伝において、天と地や上下の交わりがない状態を否としている点は疑いようがない。よって、ここでの『人』も天にとっての地、地にとっての天、つまり異質な他者と解すべきだ考え、このような訳となった。この点を意識すれば、これがよいのではないだろうか。

 天と地が秩序立ち、陰陽があるべきところに置かれた完全なる世界は、他者との交感が失われた状態であり、ゆえに腐敗し、死に向かう。ゆえに停滞と終焉を意味するのだ。人間とは、天地の和合によって生じるとされる。実は尊い天と卑しい地とが完全に分離した状態は、人の自然ではない。この両面が和合してこそ、人なのである。そういう意味では、「人の否定」「人間性の否定」という解釈も通用しないわけではない。尊い部分も卑しい部分も、一人の人間には確実に存在し、それが和合してこそ人間性であり、社会もまた、尊さと卑しさを他者だからと切り離した時に腐敗を始める。易経はどうしても身分制度を前提としているような内容が含まれているから引っ掛かりは私も感じるのだけど、このように解体してみれば、やはり示唆に富むものだと思う。


 というわけで、易における完全なる状態は、変化が存在しないから、天地否の卦は停滞と終焉を示す滅亡と死の暗示なんですよ。この視点、ホントすごくないですか? 私の嗜好の問題かもしれないけど。で、ここには易という書名も反映されている。『易』とは『変易』のこと。つまり『変化』なわけです。

 中国古典について、英語というのは結構ニクい訳をしてくれるもので、たとえば論語は「The Analects」とか「Analects」とか訳されるけど、これは「The Book」とか「Book」が聖書を指すことに準えて訳出で、「analect」というのは「語録」を意味し、The AnalectsとかAnalectsというのは、聖書がそうであるように、わざわざ名を言うまでもない第一の、唯一絶対の語録ということ。なかなか小粋な訳である。他にも孫子は英語で「art of war(戦争の教養、戦争の芸術)」と訳される。これまたニクい。で、易経はどう訳されているかというと、「Book of change(変化の書、変化の経典)」である。これは直訳のようで、やはり易経の本質をよくつかんでいる。易とは、変化である。常に変化し続ける世界を解釈したものである……というわけ。

 秩序の完成された状態とは、変化(易)のない状態である。だから、停滞を意味し、決して良い状態ではない。むしろ腐敗が進行し、危険な状態である。これが天地否の意するところだろう。易経繋辞上伝には「生生之謂易」という一節がある。これは一般に、「生き生きとすることが易である。」とか「生が生まれることが易である。」といった解釈を為されるが、私は論語の「賢賢易色」の賢賢が「賢者を賢者とする」と解釈されることから、その語法に倣って「生を生と同定するものが変化(易)である」と解釈する。そして、常に変化をするからこそ、停滞と終焉を示す天地否の卦も、最後の上九も「『否』が終焉するから、「否が傾けられる」と表現されている。いつまでも『否』の続くことがあり得るだろうか?」と説明されているのだ。時は停滞の間にも容赦なく流れる。ゆえに停滞もいつかは終わりを迎える。

 『生』とは、生命の意味であるとともに存在の意である。時間を有する現世に存在するあらゆる物質は、まったく固定されていない。その中でも特に生命は、代謝を繰り返し、絶えず変化を続けている。生とは変化であり、変化がなければ、たとえ完成されていたとしても、むしろ完成されているからこそ、それは死でしかなく、矛盾とともに崩壊を迎えるのだ。それを示すのが、この卦である。


 

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