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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

三国史記第二巻伐休王紀の訳を大幅修正して注を追記。
焚巣館 -三国史記 第二巻 伐休尼師今-https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/sangokushiki/02kan/02bakkyu.html 

 本日の更新。伐休王の記事である。昔脱解以来、二度目の昔氏の王ということになっている。これ以後はしばらく昔氏の王統が主流となる、

 三国史記の新羅王は初期の四王が別格で、それ以降はしばらく今ひとつ個人のエピソードに個性がない王が続く。今回もそういう感じの王である。しかし、大業な設定はそれなりに付いていることがあって、今回の伐休王は、「王は風と雲を占い、洪水と旱魃、その年の収穫が豊作か凶作かを予知し、また人の正邪がわかった。人は彼を聖と称した。」という設定が付与されている。やけにド派手な設定である。これだけ読むと四王にも匹敵するのでは、なんて思ってしまう。しかし、こうした説明に際しても初期四王の場合には、その伝説が詳細に語られ、そこには王自身のパーソナリティも示す描写が随所にちりばめられる。ところが、伐休王にはそれがない。本文の内容も特に四王より後の王と変わり映えはしない。なので、フツーに読んでいると地味な通常の王として処理せざるを得ない。

 とはいえ、特筆すべきは市井の人たちに「聖」と称されていたいう部分だろう。「聖」の概念は別格で、儒教というべきか、漢籍においては人間の到達できる限界となる至上の存在である(聖の上の概念は「神」である)。特に漢王朝による儒教の国教化以降は、究極的な人類の到達点としての色彩がどんどん強まり、たとえば朱子学において高く評価された孟子であっても、彼には亞聖(聖人には至らないけど近い存在)という称号しか与えられていない。これほど「聖」というものは軽々しく扱われない概念で、決して大きな功績が記されていない今回の王の記事との乖離には違和感がある。

 ちなみに三国史記でも、臣下による一種の敬語表現や、諡号あるいは人名といった名前に「聖」という語が用いられる王はいくらかいるものの、市井の人たちに「聖」だと評判されたことが記される王は、新羅の建国者とされる朴赫居世とその妻の閼英井のみである。三国史記でも「聖」は決して軽い概念ではない。やはり違和感がある。


 さて、今回の記事では、初めて金氏の人物が活躍する。その名は金仇道。『軍主』という新羅初の職位を受け、着任早々召文国を討伐し、続いて百済戦で二度に渡って勝利を収める。しかし、その後に百済との戦に敗北して左遷されてしまう……という役回り。こちらもパーソナリティ等の描写はない。

 金氏は後に新羅の王統を占有する氏族なので、もしかすると、その一族を初めて歴史の表舞台に引き上げたとされる王だから「聖」と称されているのかなー、とも思ったりはする。まあ、金仇道を左遷したのもこの王だし、どうなのだろう。遡って確認しても、三国史記上で初めて妻に金氏を迎えたのも伐休王なので、やはり金氏が初めて決定的に王族の圏内の存在として力を持ち始めたきっかけが伐休王だったから……というのが、要因としてあったんじゃないかなー、となんとなーく考えたりする。このあたりの記録における金氏と伐休王のバックストーリーのようなものは、古来ならもっと詳しく残っていたりしたのだろうか、なんて想像が膨らむ。


 ただ、注にも記した通り、金氏と昔氏の世代に違和感があり、このあたりはどのように処理されるべきなのかよくわからない。

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