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久方ぶりに5kmほどジョギングをした。私の開発したジョギング「脱法ジョギング」は非常に意識が低いため、しばらく期間が空いてしまってもすぐに復帰できる。詳細は次回の記事で説明しよう。
今日のコースでは、自分の通っていた小学校から中学校を回って帰宅。10kmあれば、高校も回れただろう。改めて、この空間の狭さに驚いてしまう。高校は近いからという理由で選んだのも確かだけど。
そういえば、まだ今年は初夢というものを見ていない。見てて忘れたのかもしれないけど、とにかくそんな覚えがない。考えてみれば、長らく夢というものをみた記憶がない。なぜだろうか、よくわからない。
それと書いていなかったけど、一昨日から瞑想を長くやっている。ようやく運動と瞑想がペースを取り戻してきた。トラブルはあったけど、おかげで新年はいいスタートが切れそうに思う。これがなければ、帰省中は暴飲暴食+遊び歩きの日々だっただろうし。
明日には関西に行くことになるけど、帰省したこの間、久々に「もう眠れない」というくらい眠れた。長らく私のことを知っている人はご存知かもしれないけど、もともと私はひどい不眠症である。しかし、先月の終わり頃などは常時眠く、いくら眠っても眠り足りず、いくら寝ても身体が休まらなかった。しかし、ここ3日程度はようやく寝転んでも眠りにつけなくなることが出てきた。不眠でさえ過眠に至る酷い有様だったというわけだろう。それが今や軽い不眠にまで回復した。……って、それでいいのか?
とにもかくにも、明日は早いし、生活リズムをバッチリキメるためにもさっさと寝る。というか、年末からずっと生活リズムがよほどひどく乱れ続けていたんだなーっと今回の件で改めて考え直した。今にして、ようやくリズムが取り戻せた。
当面の目標は、睡運瞑菜の徹底と粗食・断酒。まだ腹具合は戻っていないけど、いい機会だ。PR -
本章句は、『温故知新』という故事成語にて有名であり、これは「古いことを学ぶことで新たな発見ができる」という意味で解釈されてきた。しかし、古いことから新しいことを見いだすことが、なぜ師となることにつながるのだろうか。この解釈では前段が後段の『師』という概念と十全に接続されていないように思われる。≪原文≫
子曰、温故而知新、可以為師矣。
≪書き下し文≫
子曰く、故きを温(たず)ねて新しきを知る、以て師と為す可し。
古いものを古いというだけで棄却せず、そこから新しいものを見いだす者、それは確かに有能な発明者である。しかし、師となるために有能な発明者であることは絶対的な条件ではない。孔子自身、「私は過去を祖述するだけで、自らの独創はしない。自身の信念に基づいて先人の業績を愛好しているだけである。私はひそかに、自分の役割は八百年間歴史を語り継いだ伝説の語り部彭祖に比肩するものだと自負している。(※1)」と述べている。彭祖は過去に起こった事実を述べただけで、自ら創作をしたわけではない。孔子は自ら独創的な発明をしていないと主張し、書物のない時代を生きた伝説の語り部彭祖を自らと同一視していた。発明者であることは弟子を教導するための絶対的な資格ではない。
ところで、師とは相対的な存在である。師は古義では、軍隊の指揮官であったが、ここでは教導者、教師のことである。軍隊の指揮官に指揮される兵士が必要なように、教導者には教導される弟子が必要である。
師という語から連想される者と聞いて想像を喚起されるもの、年長者、有職故実や古典などの学識が深い者、伝統的な技術に通じた者……こういったイメージに発想を引きずられ、具体的な特性を検討することに気が回らず、ついつい従来的な解釈に納得してしまうのは理解できる。しかし、本章句を正確に解釈するなら、後段に現れる『師』の特性に対して、よりスムーズに接続できる解釈を前段の『温故而知新』に施すべきであろう。師の本質は弟子との関係にある。
弟子と師が相対的な概念であるのと同様に、『新』は時間における相対的な概念である。弟子と師の概念が互いの存在を必要とするように、『新』にも過去の存在がなければ成立しえない。
『新』とは何であろうか。「古いことから新しいことを学び取る」という『温故知新』の従来的解釈は、欧州におけるルネッサンスなどの古いものから革新的な概念を発見する歴史的事象を想起させる。また詩経には『周は旧き邦であるが、その天命は新たなものである(※2)』という一節も登場し、これは古くからある周という国が新たに天命を受けて時代を築くという意味で維新の語源となったが、これも「温故知新」という古事成語と重ね合わされる。維新にせよ、ルネッサンスにせよ、その後の未来を切り開く印象が強烈であるために、ついつい『新』という語の含意に、我々は過去との対義語として未来を見出してしまう。そのために、ついつい「過去のものから新たな発明を着想する」という解釈を施してしまうのだ。
しかし、『新』という概念には『未来』という含意はない。あるいは極めて二次的な含意である。『過去』との対比において、『新』という語が直接含意する所は『現在』である。それは、最新という語が現在そのものか、あるいは過去の中で最も現在に近い時点を意味することからも明らかである。100年前の技術と対比して昨日や今日に発明された技術を最新と呼ぶことはあれども、100年後に開発されると想定される技術を現在から見て最新技術と呼ぶことない。先述の『温故而知新』という前段において対比されているのは、過去と現在である。
また、『温故而知新』における過去は『古』ではなく『故』の字が当てられている。『故』とは何か。第一義には「事の起こり」「原因」であり、第二義には「経歴」「来歴」である。『故』で示される過去とは、現在に至るまでの過程であると考えられる。また、『温』は『温習』という語があるように、確認することである。温故とは「これまでの過程を確認すること」であると解釈できる。
『これまでの過程を確認することで現在を理解することができる者に、弟子たちを教導する師となる資格がある。』
このように本章句を解釈すれば、従来の解釈とはまったく違った景色が見えてくる。
人は何も知らずに、赤子としてこの世界に生れ落ちる。赤子には現在しかない。目の開いた赤子の眼前に家が建てられていても、それを”建てられた家”とは認識しない。土台を築き、柱を立て、床を張り、梁を渡し、屋根をかけ、壁を塗って戸窓を開けた”家に至る過程”を赤子は認識できないのである。赤子には『新』しか存在しない。『新』は過去との相対的な存在であるが、赤子にとっては『新』が絶対である。ゆえに『新』が『新』であることも知ることができない。その赤子に『故』を辿らせ、その果てに『新』を位置付ける営為が教育である。
もし、この赤子が誰にも何も教わることなく野山に放り出されるとしたら、目の前の家を建てる方法を着想することができるだろうか。ただ一人で誰にも学ばず手本となるものもなければ、ほとんどの場合は一生をかけても斧をつくり木を切るところまでも、おそらく行き着かないはずである。言語も同様で、現在のような複雑な言語を構築することは一代では成し遂げられず、幾ばくかの種類の鳴き声を発明するにとどまるであろう。そのような野生の人類が何千何万集まろうと、一代でコンピュータが発明されることはない。このように、人類が一代のみ存在していても、その有様は所詮動物の一種として他との差異を見出すに足らない存在である。
しかし、生物の進化は歩みが遅いが、人間の生活は原始から古代、中世から近代にいたる過程で激変している。なぜか。人間が教育という形で過去の事業を引き継いだからである。荀子は言う。「君子と他の人々は生来によって差異があるわけではない。君子は善く物に仮(借り)るのだ(※3)」と。『学』とは、人からの『仮(借りること)』によって成立している。
我々は時間の中に生きている。現在は過去との連続性に成立している。荀子は言う。「干越夷貉――いかなる民族の子であれども、生まれたばかりの赤子は同じ声で泣くのに、成長するとまったく違った言語を話し始める。これは教育がそうさせているのだ(※4)」と。赤子という素体はあらゆる民族に関わらず似通った性質を持って誕生するが、それ以後に教わったもので性質が異なる。論語では人間について、「うまれつきの性質は似通っているが、習俗は異なっている(※5)」と述べられている。
赤子が教わった民族の言語は、この赤子が生まれる以前から存在する。そして、言語はその過去、その過去から更にその過去、変化を繰り返しながら連綿として受け継がれてきたものである。言語には、現在を成立する過程が存在している。
言語に限らず、技術、儀礼、音楽、料理……赤子が生まれたのち、大人になるまでに教育されるものは、その赤子が存在していない時から連綿と続く過程を持ち、時と共に人々により肉付けされ、あるいは削ぎ落とされ、現在に引き継がれてきたものである。赤子は自らが誕生する以前を、自らが引き継ぐことで大人になり、自らもそれを変化させながら、次世代へと引き継ぐ。赤子は成人するにあたり、他者であった過去との連続性に自己を位置付けられる。
また、これは孔子の教えにおける根本原理である仁とも、儒教における孝の概念とも連続している。孝とは肉体的に過去からの連続性がある両親との精神的な繋がりである。そこから孔子は血縁に由らぬ人から人への思いやりの心『仁』を抽出した。仁とは、他者を自己に重ね合わせること、則ち、他者を自己として受け入れる営為である。それは、自己の存在以前の過程『故』から現在『新』に至るまで学んできた他者である師を、自己として受け入れる営為、則ち『学』にも通じている。そして、孔子と顔回がそうであったように、師弟は血縁を越える関係である。人は『学』によって技術を、知識を、精神を、まるで蝋燭の灯のように、人から人へと伝えることができる。
孔子は言う。「これが民衆だ。夏、殷、周――これら三代の王朝すべての文化が連続していることは、他でもない彼らが証明している。(※6)」と。また、孔子は弟子の子張に未来を知ることができるかを質問されて、次のように答えた。「殷王朝は夏王朝の文化を引き継いでいる以上、それらを比較検討すれば、何が切り捨てられ、何が追加されたかを知ることができる。周王朝は殷王朝の文化を引き継いでいる以上、それらを比較検討すれば、何が切り捨てられ、何が追加されたかを知ることができる。これらの歴史法則を解析すれば、周の文化を引き継いだ後も、百世先であろうと知ることができる(※7)」と。孔子は、現在存在する人間の文化が過去からの連続性の上に存在することを知っており、それらを取捨選択することで現在に至る人類の発展があることを知っていた。
人は現在の成立過程を確認することで、現在に至るまでを再生する。家を建築する過程を確認することで家を建設することができるように、学芸にせよ、武芸にせよ、技術にせよ、師が弟子に自らの業(わざ)を伝えることは、現在に至るまでの過程を伝えることである。
師は過去から現在に至る道を継承し、それを他者に伝えることで、弟子を過去との連続した時間の中に位置付ける者である。ゆえに、これまでの過程を確認することで現在を知ること、それが師の条件となる。
※1 論語述而第七
※2 詩経大雅文王篇
※3 荀子勧学第一
※4 同上
※5 論語陽貨第十七
※6 論語衛霊公第十五
※7 論語為政第二 -
こういう基本事項が一切省みられないから話が混沌とする。
これとか、仮に、 #男だけの街 や、 #女だけの街 が本当に出来たなら、俺ならそこにミサイルブチ込むわ。
だって今までの人類の歴史や努力を、楽したいから、という理由で全否定しているようなものだもの。街そのものが侮辱行為の塊よ。
— 天狗の国からやってきたアゴニィ (@IfybcA) 2020年1月14日
これとか。https://t.co/Dky2e3ShWg それを何と言うか知ってるか♪「ホモソーシャル」って言うんだぜ(笑)そ、君達フェミが「根絶してやる絶対破壊してやる許されざる悪だ!」って言って来た奴。そしてそれを真に受けた戦後日本はホモソを解体しちゃって結果こういうオジサン達が孤立するようになった訳よ。
— MAXIMAM357@RIGHT OF MGTOW (@Maximam357A2) 2020年1月12日
先の人はこういう謝罪文を出したようだけど、ホモソーシャルとはなんぞ、という基本事項をちゃんとおさらいした方がよいのではないかと思う。二番目に挙げたアンチフェミのゴミみたいな言いがかりはひでーなーと思うけど、同時にホモソーシャルのなにが問題なのかについて、Twitterなんかでは順序だてて論じられているところを私は見たことがない。もしかしたらあったかもしれないが、小難しい専門用語が並んでたり、難解な言い回しで書かれてて、私には理解できなかったからスルーして記憶から消えてるような気がする。そんな状況だから、こういうアホらしい話が登場する側面はあるだろう。https://t.co/5Iv5h0IWBY pic.twitter.com/XmsvpT9bQN
— 天狗の国からやってきたアゴニィ (@IfybcA) 2020年1月15日
簡素なものでは、ホモソーシャルについては「男性同士の結びつき(同性同士の結びつき)」という説明しかされない。これでは、「男同士のコミュニティの何が悪いんだよ」という反応が出るのは当たり前である。そして、逆転させれば上のような「男だけのコミュニティはホモソーシャルなのでミサイルを撃ち込むべき」だの「男同士で支えあえと言うのはお前たちの批判したホモソーシャルだ」などという勘違いやくだらない煽りが生まれる。
というわけで、このへんをちょっと整理しておく。
言うまでもないと思うのだけど、ホモソーシャルの問題は基本的に同性間の友情や愛情そのものではない。同性間で友情や愛情があることのなにが悪いのか。なにも悪いことなどない。そんなことは当たり前の話だろう。
では、問題となるホモソーシャルとはなにか。ホモソーシャルの根本的な問題点は、「女性を道具として介在させる男性同士の関係」である。これは男だけを社会の構成員として人間扱いし、女を財産、道具として扱うことに他ならないからだ。これだけだとわかりづらいと思うので、説明を続ける。
これに関しては、はっきり言ってWikipediaの出来が良くない。もちろん、私は専門知識なんぞまったくないので、これを編集することもできないのだけど。
これ、読んで理解できる人いるの? 私くらいじゃないか、一切前提知識なしでこれを読んでホモソーシャルとはなにかを理解できる人。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A2%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB
ホモソーシャル (英: homosocial) とは、恋愛または性的な意味を持たない、同性間の結びつきや関係性を意味する社会学の用語。友情や師弟関係、メンターシップ、その他がこれに該当する。対義語であるヘテロソーシャルは異性との同様な関係を指す。2人以上の人間が結ぶ関係は、ホモソーシャル(同性と)、ヘテロソーシャル(異性と)、バイソーシャル(両性と)のいずれかでありうる。
ホモソーシャルという言葉は、イヴ・セジウィックによる「男性のホモソーシャル(同性間の結びつき)への欲望」という議論によって普及した[1]。それよりも早い1976年に、ジーン・リップマン=ブルーメン(英語版)が性的な意味ではなく、社会的な意味での、同性の仲間への選好をホモソーシャリティ(homosociality)と定義している[2]。
男性間のホモソーシャルは体育会系などで顕著に見られる緊密な絆で、しばしばミソジニーあるいはホモフォビアが伴う。ホモソーシャルな関係によって、強制的に異性を愛すること、そして女性の家事労働に頼ることが前提として成り立っている家父長制が構成される。
ホモソーシャルの概念を提唱した、アメリカのジェンダー研究者のイヴ・セジウィックは、「二人の男が同じ一人の女を愛している時、いつもその二人の男は、自分たちの欲望の対象だと思っている当の女のことを気にかける以上に、はるかに互いが互いを気にかけている」ことを指摘した。
なお、研究者の中には、この概念を女性同士の関係にも適用し、「女性のホモソーシャル」を論じる者もいる。東園子は、やおい・ボーイズラブを好む女性オタク(いわゆる腐女子)や演者は女性だけで構成されている宝塚歌劇団のファンの女性の間でホモソーシャルな絆がみられると論じている[3][4]。
近年、ホモソーシャルは男性と男性の繋がりだと誤認されがちだが、女性と女性の繋がりもホモソーシャルとなる。さらに言えばホモという言葉も同性という意味である。
これだけでは、単純に「同性間の結びつき」としか読み取れないだろう。これだけ読んで、ホモソーシャルのなにが問題かわかる人がいるのだろうか。いたらすごいと思う。ホモソーシャル (英: homosocial) とは、恋愛または性的な意味を持たない、同性間の結びつきや関係性を意味する社会学の用語。友情や師弟関係、メンターシップ、その他がこれに該当する。対義語であるヘテロソーシャルは異性との同様な関係を指す。2人以上の人間が結ぶ関係は、ホモソーシャル(同性と)、ヘテロソーシャル(異性と)、バイソーシャル(両性と)のいずれかでありうる。
ここもそうだ。これだけ読んでピンとくる人がどれだけいるのか。ホモフォビアだとか、女性の家事労働に頼るとか、それが問題であることはわかっても、それと同性間の結びつきとの関係がイマイチわからない。男性間のホモソーシャルは体育会系などで顕著に見られる緊密な絆で、しばしばミソジニーあるいはホモフォビアが伴う。ホモソーシャルな関係によって、強制的に異性を愛すること、そして女性の家事労働に頼ることが前提として成り立っている家父長制が構成される。
これを読んだ段階で私はすぐにピンと来た。でも、たいていの人はピンとこないと思う。ホモソーシャルの概念を提唱した、アメリカのジェンダー研究者のイヴ・セジウィックは、「二人の男が同じ一人の女を愛している時、いつもその二人の男は、自分たちの欲望の対象だと思っている当の女のことを気にかける以上に、はるかに互いが互いを気にかけている」ことを指摘した。
「二人の男が同じ一人の女を愛している時、いつもその二人の男は、自分たちの欲望の対象だと思っている当の女のことを気にかける以上に、はるかに互いが互いを気にかけている」
これが一番顕著なのは処女厨の男である。処女厨が意識しているのは、言うまでもなく女性の身体的特徴としての(たとえば処女膜だとか)処女ではない。他の男の存在である。他の女に先を越されたことへの劣等感が処女厨の男を支配しており、あるいは先に処女を「いただいた」男が後の男に対して優越感を持つこと、そこにホモソーシャルにおける女性差別の問題がある。この恋愛関係はその実、男性は女性自身を見ておらず、その先にある男性を見ている。この関係は男同士の関係に女が道具として介在しているだけなのだ。ここでの女は人ではなくモノ、財産なのである。
財産がそうであるように、ホモソーシャルにおいては、女の奪い合いがあれば、女の分かち合いもある。
例えば戦国武将の政略結婚を思い浮かべればいい。貴族同士の男性社会において、和睦や同盟の証として娘を相手に差し出す。物語においても、ある男が自分の気に入った若い男に対して、自分の娘を差し出す類型は多い。エロ漫画などにおいても、強姦や輪姦を通じて、男同士が絆を深める描写はよく見られる。部族の長はハーレムの女を部下の男に貸したり与えたりすることで、御恩と奉公の関係を構築する。これらは女という道具、財産を共有することで男同士の関係を深めることに他ならない。
たとえば、軍隊などをホモソーシャルの例として挙げる人は多いが、単純に男だらけのコミュニティだからフェミニズムにおいて問題になるのではない。たとえば、映画『フルメタル・ジャケット』のハートマンや訓練生の間で問題とすべきホモソーシャリティが現れているのは、訓練生とハートマンとの師弟関係や訓練生同士の義兄弟的な関係そのものではなく、ハートマンの「気に入った、家に来て妹をファックしていいぞ」といったセリフに表れている。「認めた男との間で、その絆を確認するために身内の女性を差し出す」という行為、ここに女性蔑視が存在しているのだ。だからホモソーシャルはフェミニズムにおいて問題視される。
ホモソーシャルの問題点は「男性間の結びつきばかりで、女性が介在していないこと」ではない。「男性間の結びつきに女性を道具として介在させること」が問題なのである。
ホモソーシャルはフェミニストによる糾弾はやたら多いのに、なにが問題かはイマイチ不透明で、外から見るとよくわからない。私も理解するまでが結構大変だったし、私が大変に思うということは、ほとんどの人には非常に困難かつ、そういったことを考えたり調べたりする気力も起こらないものだと思う。一度理解してしまえば簡単なのに。
だから冒頭のような「男だけのコミュニティを嫌悪する男がフェミニズムを利用する」だとか、「男だけのコミュニティや男の友情をホモソーシャルだと糾弾するフェミがいるぞーと騒ぎ立てるアンチフェミが現れて、フェミニストに対してただの矛盾した我儘とのレッテルを貼る」だとか、そういったおかしな話をする連中が現れる。別にそいつらを説得すべきとかそんなことを言うつもりもないけど、それらの批判が的外れであることについては、対外的に説明できた方がいいような気がする。 -
いま、お前みたいな者が幸せになってはいけない、お前は性犯罪者予備軍だ、お前は怠惰で中途半端な人間だ、お前はいるだけで空気を乱して迷惑だ、と頭のなかでぐるぐるしてるんだがどうしたらいい?
— うちゅうじん( ●.●)ノ~~ (@jimmynicol88888) 2019年11月10日
なんとなく「睡眠運動瞑想野菜」で検索していたら、恐ろしいツイートを見つけてしまった。ただただ私は哀しい。あまりに哀れな人だ。なぜなら、彼は普段、ここで書かれるような妄念と同様の内容で他人に攻撃ばかりをしている人だからである。
彼が普段、人を見下したり、いつも上から目線で他罰的にふるまっているのは、これが理由なのだろう。あるいは、人を見下したり、上から目線で他罰的にふるまったりしているからこのようになってしまったのかもしれない。
いずれにせよ、彼は病魔に侵されている。事実、彼が他人を責めるツイートは、いつも自傷行為のようであったし、時に責めたあとで自らと相手を重ね合わせてひく場面が何度もあった。私はようやく、彼に対して持っていた違和感に合点がいった。
この苦しみを軽減させるのは簡単である。あらゆる人に幸せになる権利があることを認めればいい。どんな悪人にも幸福になる権利はあるのだ。それを認めるだけで、簡単にこのような空虚な自責心から解放される。
私はこのようなことで悩むことはまったくない。なぜなら、いかなる悪人にも幸福になる権利があると信じているからである。自分が最も嫌悪感を催すような人間に対して、その人の幸福を私は心から願っている。だからこの人のように惑わされることがない。
私のことを嫌っている人や私が嫌っている人が、どうか幸せであってほしい、私はそう心から願っている。彼は嫌いな人や悪人の不幸を願っているのだろう。だからこうなるのである。こうなると自分が善良だと思わないとやっていけなくなり、自らの善性を確認するために他罰的になり、また自らを苦しめる。まさにこの男は無惨な亡者だ。
試しに毎日、自分の嫌いな人を思い浮かべ、どうかこの人が幸せでありますようにと10分間祈るがよい。それを毎日続ければ、他人を上から目線で責めたり、見下したりすることが少なくなり、自分に対しても寛容になるであろう。おそらくこのような人は、心からそれを唱え続ければ涙があふれてくるはずである。
近頃は自己肯定感という言葉が流行しているが、この言葉に振り回されてはならない。他人を肯定すれば、自然と自己を肯定することになる。
どうかこの人に幸福が訪れますように。自らを悪人であるとみなして自己を放棄することなく、幸福でありますように。 -
最近は辛ラーメンばかり食べてたんですが、地味に高いんだよなー、お金ないしどうしようかなー、というわけで、今回は安いインスタントラーメンを買って食べます。
で、買ったのがこちら。明星の評判屋とんこつ味。5袋で175円です。辛ラーメンだと360円。半額以下。
中の袋も安そうな感じ。まあ、安いだけあって味もそれなりです。
では、早速つくりましょう。
とはいえ、インスタントラーメンというのは、名前の通りお手軽簡単ジャンクフードなんで、沸騰した湯にドボンと入れたら終了。後は待つだけ。
麺を茹でた湯を捨てて、サラダ油やごま油を混ぜるとヘルシーだとか、さっぱりしておいしくなるとか、そういうこだわりの調法みたいなのもありますけど、それだったらインスタントじゃない中華そば買ったらいいんでないの、と私は思ってしまう。手軽でジャンクなのがいいんじゃあないか。あくまで個人的な好みですが、生麺の麺職人やラ王より、うまかっちゃんの方が好きです。
ただ、やっぱりせっかくの食事なんだし、野菜も少しくらい摂取しないとなー、と思ったりはするし、パッケージにも「お好みで肉・野菜などを加えますといっそうおいしく召し上がれます」とある。野菜を加えるのはメーカーも推奨する作法。なので、3分の待ち時間に、ちょっぴりラーメンに足すための野菜を用意しよう。ちょい足しというやつだ。
まずはこちら。
インスタントラーメン定番のもやし。昔はよく、そのままインスタント麺を作る鍋に放り込んでました。これだけで21円です。
次にこちら。
これまた定番のねぎ。3袋で108円なので、これで36円。
続いてこちら。
小松菜、にんじん、たまねぎ。小松菜は75円で3束だったので、これで25円。にんじんとたまねぎは3つで102円だったので、それぞれ34円です。ここまでの野菜を全部合わせると、144円ですね。ラーメン本体は35円ですので、合計179円。
にんじんと玉ねぎは炒めて入れます。
というか、めんどくさいからねぎももやしも小松菜も全部炒める。
完成が近づいてまいりました。
ちなみに、スープの素は半分くらい残して野菜に入れました。たかだかインスタント麺にのっけるだけの野菜に対して別の味付けをわざわざするのもなんだし、それだと塩分摂りすぎるし。
器に入れて……
野菜を乗せる!
完成!!
なんで全部野菜つかっちゃうかって、切り刻んだの残したら管理しきれなくて腐らせちゃうから。全部一回で使い切って全部食べちゃうのが私の場合は一番経済的。ちなみに、今回使った野菜は全部で766gです。
おしまい。
あとはバナナとか食べてるんで、これ一食+αの300円くらいで一日野菜果物あわせて1㎏くらい。