-
焚巣館 -韓非子 外儲説右上 季孫相魯-
本日の更新。過去にnoteへ投稿していたものを少し修正して掲載。韓非子に載る孔子と子路のエピソード。このふたりはキャラが立っているので対話が生き生きとしており訳していても愉しい。事実かどうかは知らない。ちなみに孔子家語にも類似のエピソードが掲載されている。
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/shiryou/kanpishi_gaichosetu_ujou_kisonsouro.html孔子の亡命のきっかけについては、史記では豚肉がもらえなかったからということになっている。知らない人が見たら奇妙に思うかもしれないけど、これは孔子の主君の魯公が政治を蔑ろにして祭祀での決まり事となっている豚肉を配布を怠ったことをきっかけに国を出たという話で、要は公務(それも臣下に食べ物を配るような賑恤にかかる問題)を蔑ろにしたことに対する失望というわけである。他にも論語だと魯公が隣国のはニートラップによって女色にうつつぬかしはじめたから亡命したとか、いろんな説がある。
PR -
焚巣館 -中華民国憲法-
本日の更新。中華民国憲法である。blueskyで投降したものを転載。
成立が1946年、公布が1947年とされているけど、起草は1936年とされる。だからというべきか、文体は中華人民共和国憲法と比べ、古い文語的表現……のはず。中国語はわかんないけど漢文として読むのは中華人民共和国憲法より遥かに容易い。
今回は総綱、つまり全体の根本的な理念、つまり憲法の精神を現わしているわけであるが、いやー、素晴らしい! 「民が所有し、民が統治し、民が享受する(民有民治民享)」がよい。民主国家の原則をとてもシンプルに表現している。とてもよい。
清の末期。西洋列強の衝撃を受けた清王朝は、否が応でも政治的な改革の必要に迫られることになった。その中で、康有為らを始めとする開明派の儒者は、中国の旧来の政体では中国を維持できないと考え、西洋の政治制度を積極的に取り入れるべしとの政治運動を推進した。これを変法運動という。その中のひとりに、梁啓超という儒者がいた。
梁啓超は当初、孟子の民本思想に基づいて民主制を説明していた。これは日本の中江兆民と軌を一にしている。孟子の思想を実践するためには、西洋の民主制を中国に取り入れる必要があるのだ、と。彼らの運動は遂に時の皇帝である光緒帝の協力を得るに至る。かくして立憲君主制に基づく民選議会の開催実現まであと一歩のところまで改革を進めることができたが、そこで西太后らのクーデターにより事態は一転、変法派の儒者たちは弾圧され、その中のひとり譚嗣同は処刑される。梁啓超はなんとか日本へ亡命する途を得た。
こうして日本に亡命した後、自らの学問を研鑽する中で梁啓超は、孟子には近代民主制における重大な視点が欠けていると考え始めた。それは人民の権利である。孟子は確かに人民に益する政治をすべきだと君主に説いてきたが、それは保民(人民の安全保障)や牧民(人民の養育)といった内容で会って人民の権利を論じたものではない。だから目的は違えど人民の主体性を侵犯する点では変わらないのだと梁啓超は考えるようになった。これは重大な指摘だ。明哲な梁啓超は、「儒教は"of the people by the people for the people"のうち、"of the people"と"for the people"は語れども、"by the people"を語らなかった点が欠点である」と述べている。
とはいえ、ここまでであれば、よくある儒教批判に過ぎない。しかしながら、一筋縄にはいかないのが梁啓超という人物、そこいらの西洋主義者が「孟子の保民思想は民の主体性を奪う」と、梁啓超と同じような主張をすれば、彼は猛然と反論を始める。「保民(人民の安全保障)を主張してはならないというのなら、虐民(人民への虐待)でも主張しろというのか? 孟子は説得の対象が君主だったから君主のすべきことを述べただけである。」と。更には自ら指摘した"儒教におけるby the peopleの欠如"についても、梁啓超自ら「それではギリシャの市民に限定された民主制がby the peopleといえるのか、欧州の議会政治・多数決政治や、近年のソビエトが真のby the peopleなのか。このようにby the peopleとは現在に至るまで実現を語ることは欧州諸国にもできていないのだ。実現できないことを軽々しく語らないのは、むしろ賢明である」と批判し、孟子の立場を擁護する。これもまた鋭い指摘である。奴隷制を前提とするギリシャの民主制が果たして民主制といえるか、代議制と多数決主義が真に民意を反映するのか、ソビエト連邦が真の民主性だなどと誰が言えようか。のちに梁啓超は第一次世界大戦後の欧州の荒廃を目の当たりにし、「欧州の代議制には弊害が存在し、これを孟子の民本思想が矯正できる」と主張し始め、議会政治の外における政治運動「全民政治」「国民運動」という非代議制の直接民主制の道を模索することになる。確かに孟子は「貴民軽君(人民を貴び、君主を軽む)」を主張し、人民への虐政を行なう為政者に対する革命を正当化する。孟子の民本思想は、単に民と隔絶した為政者のみを主体と見る思想だと捉えるのも無理があるのだ。梁啓超は思想の振れ幅の激しさが現在も批判されるが、これを私は思考の柔軟さと多面的な視点を有していたものだと好意的に評価したい。
さて、中華民国憲法に話を戻そう。好悪いずれに評するにせよ、梁啓超の弁に基づけば、伝統儒教とは、民を根本とする視点を有していながら、一方で民を国家の所有と統治の主体だと明確化はしなかったことになろう。だからこそ冒頭の「民が所有し、民が統治し、民が享受する(民有民治民享)」という言葉は意義深い。中国は前近代の伝統から歩を進めたわけである。実のところ、19世紀の西洋においても近代革命のほとんどは立憲君主制に基づくものか、あるいは植民地独立革命である。つまり民衆が自ら王を打倒するフランス革命式の市民革命を成し遂げた国家はほとんどない。中国は西洋のほとんどの国より早くに自らの手で王制を廃する革命を起こした国家なのである。国家の所有を民に帰する国家がどれほどあろうか? 孟子の革命論は民衆の主体性に国家を帰する論理に他ならないはずである。してみれば、もちろん憲法の条文は近代民主制の原則としての「民が所有し、民が統治し、民が享受する(民有民治民享)」を読むこともできるが、もう一方で三千年に及ぶ中国の民衆思想のひとつの結実として見ても、きわめて感慨深く思うのである。
-
焚巣館 -国民革命歌-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/kokuminkakumeika/main.html本日の更新。過去に1番をTwitterで訳し、3番までblueskyで訳した。それを転載して手直ししたもの。中華民国の国歌『国民革命歌』の歌詞である。
ホームページにも掲載した音楽のYoutube動画をブログにも貼り付けておく。曲はフレール・ジャック。要は『グーチョキパーでなにつくろう』の歌である。Twitterで流れてきたものを軽いネタのつもりのノリで書き下したのが初めであり、ちょっとした小品である。
書き下し文はかなり変えている。以下は訓読みの変更一覧。
列:ならびたる→つらぬ
強:つよき→たけき
閥:いへ→うから
努力:つとめはげむ→つとむ
聯合:つらぬりあふ→すだく -
焚巣館 -贈侯官林宗素女士-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/zoukoukanrinsousojoshi/main.html以前ブログに訳を掲載したものの転載。フェミニズム漢詩である。
この詩は林宗素という女性に贈られたもので、だから「侯官の林宗素女士に贈る(贈侯官林宗素女士)」と題されているわけである。で、林宗素は中華民国最初から共和党の党員として女性参政権を主張した人物だそうで、清朝期から既に上海の愛国女学校でフランス革命や帝政ロシアのニヒリズム運動について学んでいたらしい。さっき検索して得た知識なので自分でも何を言っているのかよくわからない。なんだ、愛国女学校って……。
で、検索したらこちらの論文が出てきた。
20世紀初頭の上海に設立された愛国女学校と務本女塾
序章では、先行研究の整理と本論文の課題が述べられている。まず著者は、中国における女子教育が「三従」 「四徳」 「三綱五常」といった儒教的な女性観に基づく伝統的な教育であったことを指摘し、次いでこの伝統的な女子教育観は、アヘン戦争以降に伝道のために入国したキリスト教の宣教師が設立した教会女学校によって徐々に変化させられ、 1898年5月に変法派の経元善によって上海に初めて近代的な女学校、 「中国女学堂」が設立されたことが述べられた。しかし、中国女学堂は変法運動の挫折によって2年も経たずに閉校を余儀なくされ、その意志を継承する形で1902年に愛国女学校と務本女塾が上海で創立された。こうした近代的な女子教育の展開に関する研究史を整理した上で、近代的な女子教育における民間の取り組みに関する研究が低調で不充分であること、また、女子教育の近代化における上海の先進性に鑑み、本論文では上海における民間の取り組み、特に愛国女学校と務本女塾を研究対象として設定することが述べられた。
つまり変法運動(清末に興った西洋の政治制度を積極的に取り入れようと目指した改革運動)の流れから生じたものらしい。で、
義和団事件後の拒俄運動・革命運動・愛国主義の高揚のなかで誕生した愛国女学校は、中国女学堂が目指した良妻賢母型の女性ではなく革命運動や女権運動に貢献できる女性の育成を目指し、特に察元培が経理・校長を務めた時期にその傾向が強かった。実際、愛国女学校で学んだ学生のなかから、 1911年の辛亥革命に参加した者も少なくなかった。
熱い。血沸き肉躍るというやつである。なるほど、だからこの漢詩は勇ましい雰囲気の詩なのだと納得するし、注に掲載した秋瑾の詩も勇ましい所以の一端がわかろうというもの。このあたりの知識は私にまったくないのだけど興味深いところである。
ところで務本女塾という塾名の務本は、論語の「君子務本(君子は根本を務める)」が由来だろう。これは論語だと孔子の弟子の有子が述べているが、前漢に著された説苑では孔子の言葉として引用されている。また、潜夫論の第二篇の名が務本第二となっており、明三代永楽帝が皇太子に渡した書の名が『務本之訓』である等、漢籍における頻出の表現である。
-
ホームページを立ち上げてから約4年間、ずっとメモ帳だけでコードを打ち込んでいたわけだけど、さすがにきつくなってきたのでVisualStudioCodeなるツールを導入してみた。
これがメモ帳。なんというかイメージ的には紙テープを目で読むような感覚に近い。ケロQの『モエかん』でそんなのあったね。(アレはアンドロイドが目視するんだけども。)で、今回VisualStudioCodeを導入したきっかけはcommon.cssという、要は複数ページ共通の形式を共有するためのシートを導入するにあたって全ページを書き換えることになり、もうメモ帳では無駄が多すぎると感じたからです。仕事もしているのに時間があんまりもう時間をかけたくない。時短のための導入である。で、おまちかねのVisualStudioCodeがこちら。
じゃじゃーん。なんというか、ちゃんとデジタルデバイスって感じがしてたいへんよろしい。メモ帳を使っているとデジタル機器しか使っていないはずなのに脳裏にアナログという語がちらついてしかたがなかった。で、せっかくこういうものを導入し、過去に編集したページを確認する機会ができたということで、ファビコンとリンクカードを設定することにした。ファビコンというのは
これまでホームページにファビコンを設定していなかった。
これが未設定時の汎用ファビコンである。
じゃじゃーん。こういうファビコンをつけてみた。焚巣館という名前の出典から火山旅という易の卦である。次にリンクカードというのは、ソーシャルメディアとかSNSとかでホームページのリンクを貼った際に出てくるアレ。
これまでホームページのリンクカードを設定していなかったので、リンクカードを精製してもこのような貧弱なものしかでなかったわけだけど、今回設定したことでこの通り。
いい感じである。リンクカードもファビコンもページごとにコードを貼り付けないといけないのでめんどくさいからやってなかったんだけど、VisualStudioCodeを導入するとすぐに作業が終わった。VisualStudioCodeさまさまである。
あ。ちなみにブログで書いてなかったけどblueskyやってます。よろしければご確認ください。あんまりつぶやいていませんが……。