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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

html漢文ルビ変換ツール


 ここ数日、ホームページの更新が急激にラクになっている。AIにホームページ用にhtmiのフリガナを振ってくれるソフトを作成させたからだ。これでガンダムのスピードは倍にはならないけど、これでホームページのページ作成作業の手間は激減する。これまでの労苦はなんだったんだってくらい本当にラクになっている。マジでこれまでホームページ更新の障壁になっていた最大級の要因のひとつがこの手間だったので。

 どうせワンボタンでポンと作成できたものだし、せっかくだから漢文翻訳ホームページを作成したい諸君のためにホームページで使用できるようにした。諸君らも漢文を読み、書き下し、翻訳し、そして自らホームページを作成してアップしなさい。そして私のところに報告してもらえるとうれしい。

焚巣館 -漢文ルビ変換ツール-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/tool/ruby.html

 ところでAI生成そのもので書き下し文のルビ打ちを何度も試みてはハルシネーションしまくってまともに機能しなかったので何度もガッカリしたのだけど、ツールの生成なら一瞬。こういう点で生成AIとは人力の出来損ないであって、ミスの生じうる繰り返しの作業をさせるより、繰り返し作業をミスなくおこなえるプログラムを一気に生成させる方がよいという、そんなイメージ。

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聖書に分註! フヒヒヒヒヒ!!

焚巣館 -聖経 創世記 第四章 該隱盛怒 該隱(カイン)ノ盛(サカ)リタル怒リ-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/seikyou/01souseiki/04kain_seido.html

 本日の更新。有名なカインとアベルの逸話である。みんなはこの二人の名をどこで知っただろうか? 私はファイアーエムブレムである。

 本文ではカインの名前について分註に「該隱譯卽得也」とある。カインの語義は「ゲットだぜ!」だったというのであるが、あれ? そうだっけ? そんなことを書いてあった覚えがないため共同新訳を確認すると、

1さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。

https://www.bible.com/ja/bible/1819/GEN.4.%2525E6%252596%2525B0%2525E5%252585%2525B1%2525E5%252590%25258C%2525E8%2525A8%2525B3

 ……とある。というわけで、どうやらこちらに分註の内容は付されていないらしい。というわけで、英語のキングジェームズ版を確認。

1And Adam knew Eve his wife; and she conceived, and bare Cain, and said, I have gotten a man from the LORD.

https://www.bible.com/ja/bible/1/GEN.4.KJV

訳:そしてアダムはエヴァを知った。こうして彼女は妊娠し、そしてカインを産んで言った。「私は主から男児をたまわった。」

 こちらも共同新訳と同様である。こうなれば現在の中国語訳本を確認したくなってくる。2019年の新訳らしいものがあったので、これを用いる。

 亞當 跟他妻子 夏娃 同房,她懷孕,生了一個兒子。她說:「由於上主的幫助,我得了一個兒子。」她就給他取名 該隱 。

創世記 4:1
https://www.bible.com/ja/bible/3283/GEN.4.1

書き下し:亞當アダム妻子つま夏娃エヴァと房を同じくし、懷孕はらみ、一個ひとり兒子ちのみごを生みり。いはく、上主かみ幫助たすけに由りて我は一個ひとり兒子ちのみご得了えたり、と。すなはに名を該隱と取れり。

 やはりこちらにも分註はない。では、本当にカインが「得る」を意味するのか検索すると出てくるのがこちら。

カインとアベル 2011年9月18日 日曜 夕方の礼拝 羽生市の教会
https://rcj.gr.jp/hanyueikou/message/detail.php?id=370

 彼女は身ごもってカインを生むのでありますが、カインという名前はエバの言葉、「わたしは主によって男子を得た」の「得た」カーナーに由来します。カインという名前は「得る、獲得する」を意味するカーナーを語源とするのです。

 というわけで、分註は代表訳本の訳者が気を利かせて付したものなのであろう。こういう三国史記やら古事記やらで見られるような原語の語義を確認する分註が掲載されているのを見ると、いやあ心躍るわえ。本章には終盤にも、「或曰蓋人是始稱爲耶和華之民云」という分註がある。「あるふみいはく」だ! 「あるふみいはく」! 出たよこれ~。日本書紀や三国史記に幾度となく登場した、あの「一曰」! 「或曰」! 「一書曰」! しかも「蓋し」! 先人においても遠い過去のことは推測するしかなく、そこで断定を避ける慎重な姿勢! テンションぶち上がりの脳汁ドバドバである。フヒヒ。

 ところで、さまようカインを殺そうとする者とは誰であろうか。最初にアダムとイブしか人類がいないのなら、その長子であるカインがそんな目に遭うとは考え難い。獣に殺されるということだろうか? そんなニュアンスとは取れないけど……。そして、アダムとイブから離れたカインの子孫は誰との間に生まれたのだろうか。どうにもアダムとイブ以外の人類が既に地上世界にいたのではないかと感じられる。これは今回の翻訳を通じてではなく、聖書を通読する以前から有している知識で昔から感じていたことだったし、どうせ聖書二千年の歴史の中で億兆と突っ込まれていることであろうから、自分からいちいち深く考察するつもりはないけど。

反逆のイブ

焚巣館 -聖経 第三章 能別善惡 能ク善惡ヲ別ツ-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/seikyou/01souseiki/03noubetsu_zenaku.html

 本日更新。創世記の第三章。蛇の誘惑とアダムとイブの楽園追放、いわゆるパラダイス・ロストのエピソードである。このあたりは日本語訳でも馴染み深く、序盤ゆえに何度も読んできたはずであるが、自ら翻訳に挑むとやはり印象が変わる。

 もちろん、邪気眼である俺様が聖書の蛇を好むことは言うまでもない。わくわくしながらセリフを訳し、口調にもこだわった。「――上帝とそっくりそのままになってしまうことを、上帝はご存じなのさ。」という蛇の誘惑、これは後に上帝自身の言葉によって正しいことが明らかになる。そもそも、アダムとイヴは死んでいないし、ここで蛇はなにひとつ嘘をついていない。蛇の言葉はすべて事実である。むしろ嘘をついたのは上帝だけじゃないか? とすら思えてくるが、上帝は「『食べてはならぬ。もぎ取ってはならぬ。死に陥ることを恐れよ(共同新訳では、「死んではいけないから」)」と禁じているだけで、食べたら(直ちに)死ぬと断言したわけではない。なので、上帝の言ったことも噓とまでは言い切れない。それを踏まえてみれば、蛇が最初に「上帝は本当に語ったのかね? 『食べてはならぬぞ』という言葉を。」と尋ねたことは、実に巧みな弁舌だというほかない。

 さて、ここでのイブは一般におろかな女として語られがちだ。蛇に騙されて人類がエデンを追放される元凶となった女である、と。伝統的には、だから女はおろかなのだとして女性を蔑視する根拠に用いられてきたし、一方でこれを批判する男女平等主義からは、女性蔑視のためにこのような描写を聖書がこしらえたのだと主張される。私自身、これまでなんとなくイブが蛇にそそのかされて実を食べた描写を単純に男尊女卑の反映だと受け取っていた。確かに前章でのイブはアダムの肋骨から創造された「男性の一部」であり(取之脇骨成女)、本章でもイブの罪によって女性は男性の従属者となることが上帝から宣告されるのだ(夫爲爾綱)。

 しかしながら、イブが知恵の実、本文でいうところの善悪分別の実を食べた理由は、果たして世に言われるような「女のおろかしさ故に蛇に騙されたこと」なのだろうか。

 まず第一に――これは前述の内容とも重複するが――イブは事実に基づいた判断しかしていない。たとえば蛇が「上帝は人間を愛しておられる。ゆえに『この実を食べてよい』と伝えるように私に命じられたのだ。」などとイブに吹き込んでいたなら、それこそ「おろかな女が蛇に騙された」と言って差し支えないかもしれない。しかし、事実がこれと異なる点は、一般に驚くほど見過ごされている。

 第二に、イブは何を求めて善悪分別の実を食べたのか、という問題である。たとえば蛇がこのように誘惑していればどうか。

「ひとたびその実をお前さんが口に含めば、鼻腔を抜ける芳香はこれまで口にしたいかなる果実をも凌駕し、お前さんの舌に触れた瞬間、世界のあまねく美味も泥を噛むに等しく成り下がるだろうね。」

 このように美食の快をもって蛇が誘惑していれば、これが事実であってもそうでなくとも、これに応じて上帝の命に背いたイブは、おろかと言って差し支えない。しかし、イブが求めたものは何であったか。蛇が提示したものは何であったか。それは善悪の分別ができること(能辨善惡)である。そしてそれは、蛇の言葉によれば、「上帝とそっくりそのままになってしまうこと(彷彿上帝)」に他ならない。イブが求めたのは単なる果実の甘美ではなく、上帝(神、天主、エホバ)と等しき能力を手に入れることだったのだ。並々ならぬ野心の発露である。果たしてこれをおろかであると断じることができようか?

 もちろん、これをもってしてもイブをおろかしさゆえに蛇にたぶらかされたのだと論じることは可能である。上帝によって土から創造された塵に等しき身でありながら、その分際をわきまえず、創造主と並ぶ存在たらんとして野心と好奇心に身を焦がし、上帝の定めた絶対の法を犯したイブ。彼女はやはり大罪人であり、その所業はおろかしきこと甚だしいものである、と。これはこれで筋の通った議論であり、なんとなれば私はこれを一理あるとさえ思う。

 しかしながら、そのように断じた時点で、もはや「女は無知でおろかでのろまで男が庇護せねばなにもできぬ。ゆえに女は男に従属せねばならぬのだ。」とし、その根拠に聖書の本章を持ち出すことはできなくなる。そのおろかしさは、天に届かんとして建てられたバベルの塔のごとく、知性の火を盗み取ったプロメテウスのごとく、真理を曲げること能わずに獄へ繋がれたガリレオのごとく語られなくてはならない。真実を知ることの災厄と引き換えに神々への従属から人間を解放したパンドラを罵るのであれば、エジプトでの奴隷時代を懐かしむ者たちと共にモーセを罵るがよい。イブは自らのおろかしさゆえに無自覚のまま蛇に騙された憐れな愚者ではない。自らの意思で自立を求めた自覚的な反逆者なのだ。

 楽園追放が自由と解放の物語と解釈であることは私でさえ気づくほど自明にことであって、これは今回の翻訳を通じた調査で初めて知ったことであるが、どうやらロシアの無政府主義者ミハイル・バクーニンも、神話における蛇(サタン)の役割に注目し、『神と国家』において、次のようにサタンの自由への反逆を顕彰したようである。

The Project Gutenberg eBook of God and the State, by Mikhail Aleksandrovich Bakunin
https://www.gutenberg.org/cache/epub/36568/pg36568-images.html

「彼(エホバ)は、知恵の樹の実に触れることを彼らに明確に禁じた。したがって彼は、自己に対するいかなる理解も欠いた人間が、永遠の神、すなわちその創造主にして主人の前で、永遠に四つ這いの獣のままでいることを望んだのである。」

「サタン、永遠の反逆者、最初の自由思想家、そして世界の解放者。彼は、人間にその獣じみた無知と従順を恥じさせる。彼は人間を解放し、不服従を促して知恵の実を食べさせることによって、人間の額に自由と人間性の刻印を押すのである。」

 しかしながら、同書をどれだけ確認しても、イブはアダムの付帯物として「アダムとイブ(Adam and Eve)」という形でしか言及されていなかった。ところが聖書の本文では、なぜ善悪分別の実を食べたのかという上帝の問いに対し、アダムが蛇について触れず、実行犯がイブであり、この状況をつくりあげたのが他ならぬ上帝であると弁明したのに対し(爾以婦賜我、與我爲偶、婦予我菓、而我食之)、イブは蛇との直接的な交渉が存在したことを認めている(蛇誘我食之耶)。これはイブこそが上帝と並ぶ存在になりたいと最初に願って罪を犯した最初の人間であることを示す、小さいが確たる差異のはずである。バクーニンのみならず、サタンの顕彰やアダムとイブの楽園追放を解放の物語とする解釈は世にあふれているが、人間における最初の反逆者がアダムではなくイブであったこと、ひいてはその役割が男性ではなく女性であった事実だけは常に無視されている。

 この事実に目を向け、ふたたび検討することには、価値があるかもしれない。

これからについて

 今後の予定としては、とりあえず漢訳聖書の創世記を11章のバベルの塔のエピソードまで掲載してから一旦停止。訳はもう少し先までやっているのだけど、アブラハムが登場する直前ということでキリがいいので。ここまでがキリスト教における具体的な教義以前の世界観みたいな感じ?

 で、翻訳のストックはアホみたいにたくさんあるので、そちらの掲載に集中。それもあちこちに浮気はしない。漢訳聖書創世記11章の次は、すでにブログにも訳を掲載している仏教の律蔵の訳を冒頭の悟りを開いたところから最初の弟子をとる初転法輪まで。なんといっても仏教の開祖たるゴータマ・ブッダ自身の伝記ともいうべき内容である。諸宗派共通の内容であり、仏教を顧みる上で基礎中の基礎、教義や解釈の前提となる一種の土台だ。

 という風に、キリスト教と仏教という現代宗教の二大巨頭における土台が漢文訳から学べるというところまで整えたところで、これまで何度もやるやる言って全然やっていない論語注疏を掲載することにする。言うてもうちのホームページは漢語圏の典籍が中心であり、俺の興味もそちらが第一なので、やはり土着の漢籍こそ本分のはずである。その中でも第一はなんといっても論語だ。最上至極宇宙第一の書である。論語注疏は一年以上かかるかもしれないけど、特別なにかない限りは浮気はしない。さっさと掲載する。なぜなら本ホームページの土台であり背骨となるべき典籍だからだ。

 優先順位を決めて完遂する姿勢は、仕事のみならず趣味の場でも貫くべきである。というのも、趣味だからいい加減でいいと甘えていると、ふとした瞬間に仕事の場でも甘えが表に出てしまう。そういうことを仕事でさんざん自覚させられているため、ホームページの更新も最低限しっかりと筋を通して取り組んでいくことにする。読んでいる人も多くないホームページなんだけども。

ホームページに聖経(漢訳聖書)創世記の第二章(摶土為人)の訳を追加

焚巣館 -聖経-摶土為人 土ヲ摶(コネ)テ人ト為ス
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/seikyou/01souseiki/02tando_ijin.html

 更新。

 前章では「上帝」とのみ表記されていた創造主であるが、今回は「耶和華」という語が登場する。日本語版共同新訳を確認すると「主なる神」とされているが、我ら邪気眼にはおなじみYHVH、ヤハウェである。本文の現代語訳では一般的な日本の音訳の中から中国語における漢字の音に近いと思われた「エホバ」をルビとして振っている。つまり、ここで初めて上帝(神、天主)が個体らしき存在で登場するのだ。さあ面白くなってきた!

 さて、これまでブログや各ソーシャルメディアに先行して掲載していたものでは、耶和華等の音写の固有名詞には書き下し文で読み仮名をふってはいなかった。しかし、せっかく聖書を書き下すのだから、なにかしてみよう……ということで、当初は試しに伝統的な漢字の音読みを踏まえた読みがなを音写された語につけてみることにしたのである。

 たとえば、耶蘇(イエス)の一般的な音読みは「やそ」であるが、これは「イエス」や「ジーザス」から遠い。しかし、これは私も蓋蘇文の読みを調べる際に初めて知ったのだけど、実は蘇には「ス」という音読みもある。よって、耶蘇は「やす」とも読めるのである。そして"y"は"イ"の音なので、ヤスとは「いあす」であり、かなり「イエス」に近いイメージになるわけだ。……ただ、「やす」という字面があまりにマヌケだしポートピアなので、今度は「耶」に注目してみると、こちらの音読みには「や」以外に「しや」「じや」がある。やはりy音とj音は転じやすく、その形跡は日本語にも見て取れる。「じやす」であれば、これは「ジーザス」に近く、「やす」のようなマヌケさもない。ちなみに古事記を見れば、「斯麻能佐岐耶岐(しまのさきざき)」とあるように、耶に「ざ」を当てている。つまり「ざす」と仮名を振ることもできる。

 ……というふうに各固有名詞にかなを振っていた。亞当(あたう)、埃田(あいでん)、比遜(ひそん)、哈腓拉(はびらつ)、其訓(ぎほん)、古實(くしつ)、希底結(ひていけつ)、亞述(あしゅつ)、百辣(はくらつ)、夏娃(げわ)、該隱(かいん)、亞伯(あばく)、挪得(のとく)、以諾(いなく)、以臘(いらふ)、米戶雅利(めほやりつ)、馬土撒利(まとさちりつ)、拉麥(らもく)、亞大(あだい)、洗拉(せいら)、雅八(やはつ)、猶八(ゆはつ)、土八該隱(どばつかいん)、拿馬(なま)、設(せつ)……挪亞(のあ)、巴別(ばべつ)、羅得(ろとく)、亞伯蘭(あばくらむ)、撒勑(さつらい)……とまあ、マイナーな音読みなどを探して(たとえば羅を「ろ」と読むのは、祭事に用いるソリが修羅と書いて「しゅろ」と読ませるものに由来するし、戶を「ほ」と読むのも限定的で、宍戸を「ししほ」と読むことを発見して採用した等。)ずいぶんといろいろ考えてはみたのだけど、なんというか、手間がやたらとかかる割にイマイチすべてをそうする意味も感じないし、すべてがしっくりくるものばかりではないし。なにより一番最初の固有名詞である『耶和華』にしっくりくる読みができない。「やわくわ」? 「ざわくわ」? 「しえおくわ」? 「しえおくわ」? 華を「は」か「わ」と読む方法はないかと検索するも、なかなか見つからず、どんどんモチベが落ちてきた。

 俺がやりたかったことってこういうのだっけ? と自分で疑問に思いつつ、いろいろ検索していると芥川龍之介の『奉教人の死』にイエス・キリストが『ぜす・きりしと』と表記されていた。

 そう。俺がやりたいのはこういうのだ。

 で、実際に『ぜす・きりしと』が漢字の『耶蘇』の読みとして使われているかを検索してみると、明治初頭に記された『南蛮広記』に耶蘇基督を『ぜすきりしと』と読み、さらには「Euangelho(福音)」の読みを「ゑばんぜりよ」としている。そう、これこれ! 俺の求めているのはこういうのだよ!

 翻って自分が辞書やらなんやらのそれっぽい読みを雑に当てはめるだけの作業で振った仮名のなんと不毛なこと。これ、たぶん歴史的な仮名の音韻をちゃんとつかんで身体化した上でやれば、面白いことになるかもしれないけど、私はその任に堪えない。

 で、同時代に既に存在するよさげなものだけは拾ってそちらを用いようと思い、代表訳本や上記『南蛮広記』と近い時代の日本語版聖書ということで、『訓点聖書』という、漢訳聖書に返り点やフリガナを振ったものを発見したのでこれを参照することにした。そちらを見ると「エホバ」とか「アダム」とか、すでに割と現代にもつながる完成されたフリガナがカタカナでふられている。うーん、当初の目的からするとパッとしないけど、とりあえずこれでいいか……というわけで、書き下し文にはこの訓点聖書に基づく読みが付されている。

 漢字から音を書き起こすことにも意味はあると思っていて、たとえばパレスチナの漢語「巴勒斯坦」を仮名にすると「ぱろくしたん」になる。まずもってこの字面がいいのだけど、それだけでなく「Palestine(パレスタイン)」という一般的な英語読みに近いことから、この作業によってこうした音を日本語として包摂しながら受け入れることができるようになる。先ほど述べたyとjの音韻の変化に関する考察の材料とか、マイナーな音読みや万葉仮名のこともそうなんだけど、こうやって言語を立体的に受け取るのにいい機会かな、と思っていたのに、今回はとりあえず挫折ということで。

 それにしても古實が「エテオピア」で、亞述が「アツシリヤ」だなんて、全然音訳じゃない。なんなら自分が現代語訳のルビを振るにあたって主に参考にしている共同新訳の方が漢語に近く、こちらの方が意訳的である。なんかもうコンセプト全然変わっちゃっているのだけど、とりあえずこれで通しちゃう。ちなみに、すべてひらがなにしようかとも考えたけど、すでにカタカナで記されているものをそう書き換えるのはさすがにあざといと感じてカタカナにしている。「あつしりや」とか「えておぴあ」とか、確かに邪気眼としては心ときめくものがあるのだけど。