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いま携帯の電池が切れてタッチペンでタブレットの画面キーボードをポチポチしながらブログを書いている。
充電コネクタの接触がクソ悪くてろくに充電ができない状態だけど修理ができない。
iPhoneなんて二度と買わない。
書くのめんどいから今日はこれだけ。PR -
カゲロウの羽のような、 清らかで可憐な衣裳。 心が憂鬱に沈んでいるなら、 私のそばにいてほしい。
カゲロウの翼のような、 色鮮やかな衣服。 心が憂鬱に沈んでいるなら、 私のそばで休んでほしい。
羽化したばかりのカゲロウのような、 真っ白な麻の衣は雪みたい。 心が憂鬱に沈んでいるなら、 私のそばで眠ってほしい。
蜉蝣之羽 衣裳楚楚
心之憂矣 於我歸處蜉蝣之翼 采采衣服
心之憂矣 於我歸息蜉蝣掘閱 麻衣如雪
心之憂矣 於我歸說蜉蝣(かげろふ)の羽、
衣裳(ころも)は楚楚(きらびやか)
心之れ憂(うれひ)あるや
我に於いて歸り處(を)らん蜉蝣(かげろふ)の翼
采采(いろどり)ある衣服(ころも)
心之れ憂(うれひ)あるや
我に於いて歸り息(やす)まらん蜉蝣の掘り閱(み)せ
麻の衣は雪の如し
心之れ憂(うれひ)あるや
我に於いてや歸り說(やど)らん伝統的には贅沢批判の詩。……ということなんだけど素直に読んだら恋愛か夫婦の詩である。売春宿の客引きという解釈も出来そう。その日に羽化してその日に死ぬカゲロウが「一夜限り」の暗喩とかそんなの。思い付きではあるけどふざけているわけではなく、詩経には他にあからさまな売春の客引きの詩があるのは有名。貴族の家庭の外にある愛人の詩と見るのも面白いかもしれない。 外で戦う男を待つ女が「私のところで休んで」みたいなことを言う詩や物語は枚挙にいとまがない。陳腐と言っていい。それもそのはず2500年前からあったのだから。中国すごい。
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というわけで共通テストを来年度に受けることになったわけだけど、なにから始めようか。時間はたっぷりあるし、今の知識でそこそこイケるはずだからそこまで根を詰めてやる必要はないけど、とはいえ私にも日常の生活があるのだから今から早めに計画を立てておこう。
うーん、問題集をシコシコ解くとか? もちろんどこかのタイミングでは教科によって一定必要になるとは思うけど、あんまりそういうやり方は気が進まない。今さらそんなことしたくない。それに世界史は範囲を確認しながらやる必要もあるけど、英語はそういうのしなくても好きにやっていたら勝手に受験レベルのことなんてできるようになるんじゃないかと勝手に思っている。漢文がそうだったので。
というわけで、私が英語の教材に選ぶのは聖書である。聖書の文章をガンガン丸暗記していくというストロングスタイルで基礎を固めることにしたい。
なぜ聖書? ……というのは、ひとつに私が単純に思想や宗教の趣味者なので、聖書の原文とまではいかずとも英訳版の聖書を少しくらい覚えておきたいからだ。漢文についてはもう論語の書き下し文くらいは結構全編覚えちゃっているし、もう完全には覚えていないけど実は過去に漢文自体も学而編だけは一度すべて頭に入れたことがある。次は聖書としゃれこむかー、というわけ。
もちろん趣味だけが理由ではない。次の要因としては、英語は耳から同時に覚えると定着しやすい、というのがある。文章が頭に浮かばなくても音が頭に浮かべば、それに合わせて単語や英文も頭の中で構築できる。そして復習も簡単になる。英語を聴きながら文章を頭に浮かべたりとか、文章を読みながら一緒にそれを口にすればオーケーだ。
これは若かりし日の私が英語の学習で用いた手法でもある。Duo3.0という英語教材を私はかつて用いていた。これはいろは歌をヒントに550の英文に重複なく1600の英単語と1000の熟語を盛り込んで一冊にまとめたもので、それらの英文を覚えるだけで具体的な用法を含めてそれらも包括的に覚えることができるわけだ。そして私がこの教材でもっとも重要だと考えているのが「Duo3.0復習用」という別売りの音声CDだ。これは本書の日本語訳を省いて英文音源のみを収録したもので、ちょうど1時間で1冊中の英文をまるまる読み上げてくれる。つまり英文と訳をざっくり暗記しておけば、CDを1時間聞きながら本をざっと読むだけで英単語帳1冊を完璧に復讐することができるわけである。しかも最初に言った通り視覚と聴覚の両方から記憶を定着させることができる。これは非常にすぐれた教材だと今でも思っている。ちなみに私は過去に2週間程度のお勉強で文系3科目の模試の偏差値を36から72までぶち上げたことがあるのだけど、この時に英語で使用した唯一の教材がDuo3.0であった。
そして恐らくはこのDuo3.0と同じ特長をもって英語の学習に利用できるのが聖書なのである。実は聖書には多数のスマホ用アプリがあり、さまざまなバーションの各国語の聖書の全文が収録されている。これがなんと無料! その上、アプリには音声朗読機能まで付属しているのだ。イケボ英語話者のみなさまの朗読で耳から聖書を聴くことができる。これに合わせて英文を読み、声が出せるなら諳んじれば、自然と英語が身につくという寸法だ。これのなにがいいってシコシコと机についてオベンキョーなんてあんまりせずに済むことよね。あんな高ストレスなこと余暇でしたくない!
このように、無料! ラク! ためになる! という、入試という目的のための効率をやや度外視すれば、こんなによい手段はない。ちなみに同じ観点からThe Beatles等の洋楽で英語を覚えるのも定番で、それはそれでいいと思うし私はもともとパンクスなだけあって洋ロックは好きなのだけど、私の場合だと発音が聞き取りづらく感じたのでパス。歌だと発声にクセもあるし、楽器の音も邪魔になる。やるなら余力でやるつもり。
というわけで、昨日から聖書を創世記の冒頭から一節ずつ暗記するところから始めたのだけど、2024年12月2日から共通テストの約1週間前の2026年1月10日までは405日。そして創世記16章のハガルとイシュマエルの話が終わるまでで398節……というあたりで終わってしまう。あれー、計算してみるとなんだか中途半端……。てか上の音声復習法は最初に一気に覚えて復習するのが音声学習の利点なので、1日1節だと利点を消しちゃうなあ、と後から気付く。うーん、どうしよう。1週間で1章やれば1年間で概ね全50章の創世記をやり切れるので、これくらいのペースでやった方がいいか……とかも考えたんだけど、そもそも聖書だけで1年を通しちゃうと仮に有効なやり方でないと判断した際とかに途中離脱しても歯切れが悪い思いをしちゃうし、うーーーーーーーーん、どうしよう……と考えてみると、そもそも創世記より短くて内容もスッキリ終わる福音書を用いた方がいいんじゃないかと思った。達成感もモチベーションコントロールには大事な要素だし。
というわけで、一旦は創世記の半分以下の章数であるヨハネによる福音書全21章を1週間に1章ずつ……では遅いので1週間に2章ずつ覚えるつもりで様子を見ることにする。今週は1章だけにして耳を揃える。終わるのは2月半ばかな。ヨハネによる福音書だけでも英語で暗唱できたらかっこよくない?
ちなみにDuo3.0をガリガリやっていた時は45セクションのうち1日15セクションで3日で一気に覚えて復習しまくるスタイルで、ずっと1日16時間とかやっていたのだけど、いま調べたら1セクションが10強程度の英文だったので、1日150文を覚えていたことになる。ヨハネによる福音書は1章が30~60節程度で1節が1文から2文。なので2章で1セクションよりいくらか多い。ただし聖書はDuo3.0のような単語帳とは色彩が違うので重複表現なども多いし、私も当時よりは単語等を知っているため、だいたい聖書1週間の負担がDuo3.0の1日分と見なし、16時間を週7日で割ると1日2時間弱。日常においては決して短い時間ではないなあ……。ま、考えても仕方ないので1回やってみて考えることにしよう。ところでさっき調べてみたら聖書の節の数は31,000を超えるらしく、1日1節ずつだと100年弱かかるらしい。やば。
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ノリで文系三科目の共通テスト(共通一次、センター試験の後裔)を来年度に受けることにした。そもそも年始の土日はいろいろ仕事の用が入りがちなのに当日に受けられるのか? という別の不安もあるのだけど、それはその時の出たとこ勝負でいいや。最悪の場合は仕事を優先することになるかもしれないけども、いちおう可能な限り今から用は空けておく。翌日の新聞とかで解いても同じっちゃ同じなんだけど、せっかくだからモチベーションを高めるために受けるつもりでやってみよう。自分も思想や宗教の趣味者かつ時事に関わる仕事に就いているので、しっかりした世界史の知識はほしかった。自分の経験で言えば朝鮮の古代史である三国史記をすべて読んだだけで近代朝鮮史の見方までガラッと変わった。もちろん史書の原著を読むのと教科書レベルのお勉強ではまったく深度が違うけど、歴史背景を知るのは大切だと思ったわけである。これまで私のTwitterアカウントがたまに歴史系アカウントと見られていたこともあったけど、実際に論じていたのは宗教と思想が主で歴史はそのための予備知識でしかなく、あとは政治に関する問題意識からある程度は知っているだけ。他分野の必要に応じて獲得した知識のためそれぞれが細切れになっているところがあり、前から文化圏を跨いだ時系列など結構あやしい自覚はあった。だけど今さら中学だの高校だのの世界史をやるのもなー……と思っていたりもして、手につかなかったわけである。
それに仕事で英語も使うけどノリですべて処理しているため結構粗があるし、読むのに引っかかりが結構ある。あと漢文の翻訳をしていると、やはり翻訳それ自体に内在する問題が目についてくる。するとラテン語やドイツ語、フランス語といった原著は無理でも、せめて周辺言語である英語でくらいは西洋の思想書を読みたい気持ちが湧いている。だけど漢文に比べてモチベーションが湧かず、集中してやる機会をなんとなく逸していた。
なので高校の文系三科目の総ざらいくらいはしておきたいと前から思っていたところで、他所で入試に関する話題があったので、思い切って受験してみようかな、と。受験社会はカスだと思っているけど、科目ごとのカリキュラムの構成自体は指標として悪くないと私も一定の評価はしている。特に英語はまだ乱読すれば身につくし資格試験も豊富だけど、興味のない分野を含めての世界史全体のことはなかなかこういう機会でもないとねえ……。
私は大学に入る気がないし、仕事もあるから仮に入学しても通うことはできない。それにいい歳こいたおっさんなので、今さら受験生みたいなお勉強をベタにするつもりはなく、その上でケアレスミスを除いて全教科満点を取れるくらいにはしておきたい。漢文翻訳のサイトを運営しているので古文と漢文は一切なにもしなくてもほぼ満点を今からでも取れるだろうし、英語も仕事で使うから今すぐにでもそこそこはいけるはず……たぶん。知らんけど。世界史は高校の範囲がよくわからないけど、今の知識量ならイチからやるという話にはならないと思う。
ところで最初は早稲田大学の入試を受けてみようと思っていたのだけど、仮に私が受かっちゃうと入学辞退した際に補欠合格になった人が入学金数十万円を金ドブしてしまうと聞いてやめることにした。これでも過去の最高裁判決でマシになった方で、それまでいわゆる滑り止め大学にはすべて入学金と初年度前期の学費を納めるのが通例だったとか。ひええ。冷やかし受験をしようとしていた私がいうのもなんだけどもイビツだよねえ、受験界のシステムって。じゃあ仮に本気の受験だったとして「滑り止め」を蹴ることによる他人の経済的損失は必然と片付けられて看過されていいのって話で。で、実際には私大入試なんて「滑り止め」なんて言いつつも「力試し」「受験に慣れるため」とかでいくつもの大学に合格していくつもの大学を蹴るなんていくらでもあるわけで、冷やかし受験とそれ以外の受験に明確な境界なんてない。そもそもまず受験料が高い。3万5000円て。そのお金でみんなおいしいもの食べた方がいいよ。
こういうシステムを見るに今の受験文化なんて豊かだった時代の日本社会の遺物よね。かといって大学無償化の議論にもぜんぜん乗れない……という無償化の問題点は過去に何度も説明しているから省く。むかし受験や大学の制度や社会的な位置づけの問題についてもっと熱っぽく批判していたことは古くからの読者には周知の事実だけど、もはや必然としてこのような腐敗したシステムは瓦解するであろうから、その手の話を自分からわざわざするモチベーションも低くなっている。そんな斜陽世界の試験を今さら受けてみようってわけ。その方が肩の力が抜けるからいい塩梅だ。
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詩経 鄭風
將仲子(あなたにお願い)【現代語訳】
お願い。
私の村に入ってこないで。
私の村のカワヤナギの樹を折らないで。
あなたを愛していないわけじゃない。
お父さんやお母さんが怖いから。
あなたが愛おしいのは本当だけど、
お父さんとお母さんの言葉が、
同じくらい怖いのも本当だから。お願い。
私の家の垣根をこえないで。
私の家の桑の樹を折らないで。
あなたを愛していないわけじゃない。
私のお兄さんたちが怖いから。
あなたが愛おしいのは本当だけど、
お兄さんたちの言葉が、
同じくらい怖いのも本当だから。お願い。
私の家の中庭に入ってこないで。
私の植えたマユミの樹を折らないで。
あなたを愛していないわけじゃない。
人のうわさが怖いから。
あなたが愛おしいのは本当だけど、
人にうわさをされるのが、
同じくらい怖いのも本当だから。【漢文】
將仲子兮 無踰我里
無折我樹杞
豈敢愛之 畏我父母
仲可懷也
父母之言 亦可畏也將仲子兮 無踰我墻
無折我樹桑
豈敢愛之 畏我諸兄
仲可懷也
諸兄之言 亦可畏也將仲子兮 無踰我園
無折我樹檀
豈敢愛之 畏人之多言
仲可懷也
人之多言 亦可畏也【書き下し文】
將(ねが)はくば仲子よ
我が里を踰ゆること無かれ
我が樹の杞を折ること無かれ
豈に敢て之れを愛まん
畏るるは我が父母たり
仲は懷く可きなり
父母の言も
亦た畏るる可きなり將(ねが)はくば仲子よ
我が墻を踰ゆる無かれ
我が樹の桑を折る無かれ
豈に敢て之れを愛(をし)まん
畏るるは我が諸兄なり
仲よ懷く可きなり
諸兄の言も
亦た畏るる可きなり將(ねが)はくば仲子よ
我が園を踰ゆる無かれ
我が樹の檀を折る無かれ。
豈に敢て之れを愛(をし)まん
畏るるは人の多言(うはさ)なり。
仲は懷く可きなり
人の多言(うはさ)も
亦た畏るる可きなり紀元前からの伝統的には鄭の荘公という領主が弟と権力を争って「俺の邸宅に入ってくるな!」とブチ切れたことを風刺した詩とされる。本当か? 「はあ、昔の人が言うならそうなんですかね……」という感じで聞き流すのも可。私は聞き流す。この詩に描かれるような、自然に生じる女性の感情のゆらぎ、それに対する自身の戸惑いやためらいといったものは普遍的な恋心のテーマなので、普通にそのまま読めばいいんじゃないかな、と思う。
ところで、こちらの詩を掲載した別サイトの解説を読むと「自分を求めてやってくる男に、乙女が答えた歌だ。乙女は男が恋しいのはもちろんだが、父母や兄弟たち、近所の噂も気になるから、そんなにあからさまに振舞わないでほしいと、男に向かって懇願しているのである。」とあるんだけど、それは表層的というか、変に道徳的と言うか、言っちゃあなんだけどズレているんじゃないかなあ、と思う。もちろん木を折るモチーフには恐怖の存在を示している。それは男性という存在への恐怖、日常が破壊されることへの恐怖もあろうが、同時にそこに強く惹かれ、その想いが強くなる自身の心情への恐怖も含まれていよう。それは詩が進むにつれて場所は村(里)→垣根(墻)→庭(園)と距離が近づき、もう一方で女性側のためらいというか、ある種の「言い訳」も両親(父母)→兄たち(諸兄)→地域の他人(人)、と遠ざかりながら外に広がっていることからわかる。理屈から言えば村と地域の他人、家の垣根と兄たち、中庭と両親の方が平仄がとれるはず。なのになぜ逆の構成なのか。この特徴を感じ取れないのは朴念仁が過ぎる。嫌よ嫌よも好きのうちってな女性の誘い受け……というのはさすがに品がなさすぎるし逆方向に一面的すぎるけれども、実際には女性とその男性との関係の距離は徐々に近づき、そこで恐怖と共に「同じくらい」の女性側の期待感も膨らんでいることが見えてくる。日常の破壊への恐怖は変革への期待と表裏である。
そこらへんちゃんと拾わないとダメよー、と思っちゃう。とにもかくにも、いかなる解釈を施すにせよ、原初の恋愛詩としてくどくもなく、多層的で解釈の幅を持たせる、とてもよい詩だと思う。