-
焚巣館 -共産党宣言-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/kyousantou_sengen/main.html本日の更新。漢籍置場に共産党宣言のコーナーを設けて序文の訳を掲載した。過去にブログ上で訳していたものの転載である。ちなみにカテゴリは『近代革命』とした。近代中国の国歌等やフェミニズムに関する漢籍もこれから入れていく予定。
既に前回の記事で大略は述べたので、ここでは訳に関する諸々のお話。
まず気になったのが権利という語が権力と同義として用いられていること。ここはブログ旧版から訳を変更したところで、「昔歐洲之又權利者、欲施禁止之策、乃加入神聖同盟」を私は「昔て歐洲の權利を又ちたる者は、禁止の策を施さむと欲すれば、乃ち神聖なる同盟に加入(くは)はること」と書き下したわけだけれども、これどう見ても権利に該当する概念は権力だよなあ……ってことで、今回は「かつて欧州の権力を手にする者たちは、禁止の策を施そうとし、神聖なる同盟に加入した」と訳した。ちなみに幸徳秋水・堺利明版の共産党宣言の日本語訳では、「古いヨーロッパのあらゆる權力は、この怪物を退治するために、神聖同盟を結んでゐる」としている。ちなみに、こちらの方が古い訳で漢訳版はこれを参考にしていることから、先行する日本語訳版で権力とされていた部分を漢訳版で権利と訳し直したということになる。で、私はドイツ語は読めないので英語版の共産党宣言(The Communist Manifesto)から見てみると、「All the Powers of old Europe have entered into a holy alliance to exorcise this spectre(あらゆる古い欧州の権力者たちは、この悪霊を祓うために神聖なる同盟を結んだ。)」とある。英文では"Powers"、つまり今日流の訳では権力者たち……ということになろう。ストレートな語である。
で、本文には「共產主義者、致使歐州權利各階級、認為有勢力之一派」にも「權利(権利)」という語が登場する。私は「共産主義者は、欧州の權利者たる各階級に、勢力の一派として認めさせるまでに至っていること。」と書き下した。そして、ここも堺・幸徳版ではやはり「共産主義はあらゆるヨーロッパの權力者から、既に一個の勢力として認識されてゐること。」となっており「権利」の語が当てられている。やはり堺・幸徳は「権力」と訳している。
では、英語版はどうだろう。当該部は「Communism is already acknowledged by all European Powers to be itself a Power.(共産主義はもはやあらゆる"European Powers"からそれ自体が"a Power"と見なされている。)」となっている。……うん? これは少しひねりの利いた文章だ。()内の日本語訳は(Power)の概念にかかる部分を英語のままにしておいたが、ここでの"European Powers"は"欧州の権力者たち"とは少し違うように見える。そして、重複する形で「(a) Power」の語が用いられている。これはどういうことか。
漢訳版では「European Powers」を「歐州權利各階級」とし、日本語版では「あらゆるヨーロッパの權力者」としており、「a Power」を漢訳版では「勢力之一派」とし、日本語版では「勢力の一派」としているが、どうだろうか。原文……ではないが、これは英文版にあるニュアンスを十分に伝えていないと思われる。ここで示されているのは、共産主義者が"Power"として欧州の"Powers"と同列に並んだのだと示す文章であろう。
さて、今回のような「敢えての重訳」をする際に気しているのが、漢訳版ではどの程度、どのようにニュアンスを伝えているのか、逆にどの程度ニュアンスを伝えていないのか、こうした点を反映させることになる。英語版を確認しないとわからないようなニュアンスについては、漢訳版では伝えられていないのだから、訳にそのニュアンスを組み込んだりはしない。では、権利と権力という語の差異についてはどうか。本文の漢語をどの程度まで現代日本語の訳文に反映させるかに当たって、最初のブログ版は権利を権力と訳さないことを選択し、今回のホームページ版では訳すことを選択した。まあ、そういう諸々を訳す時に考えたり考えなかったりしているわけである。
他に訳していて気になった点としては、在野の政党の対義語が在朝の政党であることとか。現在だと野党と与党と呼ばれるわけだけど、これに従うと野党と朝党ということになる。朝党!
とまあ、漢語の書き下しや翻訳というのはたいへん面白いものなので、ぜひぜひみなさん挑戦してください。
PR -
焚巣館 -潜夫論 巻一 讃学第一-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/senpuron/01/01_sangaku.html本日の更新。本文は一昨年くらいに訳していたものだったはず……で、付記はほとんど新たに書き起こしたもの。注記も新しいもの。
なんだか付記が批判ばっかりになっちゃっているから読む気を削ぐかなとか思って省くか検討中……。それと翻訳ってそんなに時間かからないんだけど、付記は時間かかっちゃうから更新が滞るのもなんだかなって。次回からなくすかも。
付記に書いていない点として、注記について。
古の聖王との師弟関係について、本書以外に記録のないものが多く、中には本書以外の漢籍での登場が確認できない人物も多い。伊尹とか太公望とか老子みたいな有名どころが並んでいるから他についても「そんなもんなんだなー」と思って流し読みしていたわけだけど、他の漢籍に名前すら登場しない人物が何人も紛れ込んでいるとは……。
この中でも面白かったのは墨如で、漢籍には登場が見られないけど、どうやら孤竹国の始祖とされる墨胎の祖先とする伝説があるらしい。伝説ってもなあ、どこから出てきたものなのやら。
で、なんで他にどこにも載っていないような人物を王符が知っていたのかといえば順番が逆で、彼は2世紀の人なので当時の知られていた伝承なんて書籍としてまったく現存していないのはある意味では当たり前のことである。中国のことは超大昔のことがあまりに当たり前のように記録されているからかえってわからなくなってしまうけども、そんな大昔のことなんて通常はわからなくて当然なのだ。やっぱり中国ってスゴイねってお話でした。
-
焚巣館 -潜夫論 後漢書王符伝・後漢三賢王符讃-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/senpuron/gokanjo_oufuden.html本日の更新。訳したのは去年の正月とかだったんだけども……。
潜夫論の序文の代替として後漢書の王符伝と後漢三賢讃の王符についての節を掲載する。
私が漢文を訳し始めたきっかけのひとつが潜夫論を読みたかったからだったはずなのだけど、ろくに手がつけられていないし、本文もまだ第二篇まで訳していない。そもそも私は三国史記以外ろくに最後まで訳していないわけだけども。いちおう孝経は全訳してあるんだけど、これも去年の正月に訳したまま更新していない。
とりあえず論語注疏と潜夫論は先に訳を済ませておいた方がいいのだろうけども、訳を再開するために読み直してみるに、どうにも潜夫論には興味を失っていて……。ぶっちゃけ孟子や荀子と比較して単純にイマイチできがよろしくないというか。
-
『修羅の国』というネットスラングがある。これは暴力が野放図にされ、力のみが支配する無秩序な地域の譬喩、特に福岡県を指す。
福岡県にはヤクザの本部が5つも存在し、その中の工藤会は機関銃や手榴弾を所有する武闘派であることから、現在の日本では珍しい銃撃事件が数多く発生しており、住民生活は脅かされ、やくざの襲撃によって町長が射殺される事件なども発生している。そのため警察も対策専門部署を用意して100人以上の監視員を24時間体制で動員し、手榴弾の発見に10万円の懸賞金をかける等の他の地域では見られないような対策を取っており、更には銃の流出もよくあるためヤクザならざる中学校教員までもが拳銃所持で逮捕される事件が発生する等、このような惨状から修羅の国と呼ばれているわけである。要は武闘派のヤクザが暴れているから、それを誇張して「修羅の国」と呼んでいるわけだ。そこから発展して、現在のように「修羅の国」は無秩序な暴力を表現した呼称となった。
思わぬ糞リプに興奮 大体ツイッターは匿名有象無象の修羅の国なので、無秩序に攻撃を受ける 民度が低いこともあり、スイッチを切り替えないと生きていけない とにかく、言ったきり、草逃げが多く、仮に分別のある相手であっても相手の立場を見切って140文字で適切にリプするのは至難の業
— 泣く子も踊る病弱子育て "芳ばしい" 忍者 (@zabehabiah) November 16, 2022テロリスト
— 兎団Ⅳ No.17 mira melon (@melon_mira) June 11, 2020
テロ行為だ
許されない
日本も外国並みに・・・
陛下 悠仁親王 皇族の方々の
警護をもっと
政府は早く法整備を
日本を無秩序の修羅の国に
してはいけない下足箱からロッカーから寝床、はたまた帰りのバスまで全てが無秩序な場所取りから始まる修羅の国でした。最悪。
— カルメン (@carmen_i) September 23, 2019Twitterなんか見るんじゃなかった 此処は地獄の一丁目 無秩序な暴力に支配された修羅の国
— 毒男 (@from_DQOz) February 12, 2019ネット上では無秩序の象徴として修羅の国を持ち出す例が絶えない。日本のネット上では、なにやらヤクザが銃撃戦をやらかせば、やれこの県は修羅の国だ、暴走族や半グレが集団暴行事件を起こせば、やれこの市は修羅の国だと騒ぎ立て、修羅の国だと表現される。
確かに修羅の国は、作中では武の掟によって統治され、男子の生存率は1%と語られており、極めて危険な国家であることは間違いない。男子の生存率は1%て。
しかし、である。作中の修羅の国には半グレやヤクザのような国家とは別の独立した暴力組織などあっただろうか? ない。あるはずがない。作中のジード一派やジャッカル一派のような野盗集団が修羅の国に存在できるかと言えば、できないのである。そんなものが国内に存在していたら、あっという間に殲滅されてしまうからだ。
また、作中には赤鯱という海賊が登場し、やくざ者の武装集団を結成して近海を襲っているが、かつて100人の海賊を率いて修羅の国に赴いた際には、沿岸の警備を担当していた修羅の国の下級戦闘員であった子供ひとりにあっさりと蹴散らされている。男子の生存率1%の過酷な訓練は伊達ではない。赤鯱自身も腕と脚を一本ずつ失い、自らの息子まで置いて逃げることになってしまったため、彼らは以後に修羅の国に近寄ろうとはしなかった。このように、修羅の国には外部から暴力集団が侵入することもできない。
子供の下級戦士でさえこの実力! というのが修羅の国の触れ込みだった。……当初は。よって、国家とは別の暴力集団が5つも国内に存在する余地は修羅の国にはないし、作中にも存在していない。複数のヤクザ組織が相争い、警察にも手に負えないような地域の譬喩として、修羅の国はまったくふさわしくないだろう。
これはおそらく先行して存在した同作由来のネットスラングの「モヒカンヒャッハー」と混同されて用いられているからである。こちらは作中において、無秩序な荒野を通りかかる通行人や、秩序を形成しつつある村落を襲撃し、村人を次々と殺す無法者の野盗集団、それらが人に襲いかかる際にあげる奇声に由来した表現したものであり、これなら確かに福岡県の様態の表現としてふさわしい。
しかし、こうした野盗は第一部の、特に前半における主要な敵キャラクターであって、第二部の修羅の国には登場しない。理由は上記のとおり、修羅の国では一種の『警察』や『軍隊』に絶滅させられるからだ。
あくまで北斗の拳におけるモヒカンの野盗は、体制と秩序を失った世界における無秩序な暴力の象徴である。こうした状況の表現として、当初は「モヒカンヒャッハー」が用いられたが、これは状況の形容であって地域を形容するスラングではない。そこで地域を指して揶揄するために持ち出されたのが「修羅の国」という表現であろう。名前にインパクトがあるし、モヒカンヒャッハーと同じ作品に由来する国名(地域名)であり、確かに同じく暴力によって一般人を虐げる存在ではあるので、雑に混同されて用いられてしまっているのだろう。事実、「モヒカンヒャッハー」と「修羅の国」は、同じ状況の表現において並列して用いられる場合も多い。
いい緊張感で集中できるかと思ったらガバ祭りでしたw
— つよん@暗影 (@24nGRISSER) December 26, 2020
緊張やばい
修羅の国ですよ!トゲトゲベストきたモヒカンヒャッハーな人達だらけです!交番の掲示板で見かけたけど、クロスボウ使う奴なんて、世紀末のモヒカンヒャッハー!位しかいないだろ。
— たくろー (@b_tairyu) May 1, 2022
流石、修羅の国 福岡。 pic.twitter.com/kly7u9h9ZMしかし、作中での修羅の国は決して無秩序な社会ではない。むしろ過剰なまでに秩序立った社会である。
修羅の国のみなさんが謎の組体操をするイメージ図は、上下関係に基づく秩序ある身分社会の証左。まずこの国には、羅将という国家の首長の下に郡将という地域の首長が配置されており、制度的な統治機構を有している。つまり、修羅の国は明確な領土を有し、それを支配する紛れもない国家である。そして、国内で人々を虐げる存在は、あくまで体制に公認された『修羅』と呼ばれる特権階級なのである。修羅は国の体制内の存在なのだ。言ってしまえば、修羅は公務員であり、あるいは貴族である。
そして、なにより修羅の国の支配体制を鑑みるために重要なのは、『ボロ』という賤民の存在である。修羅になれなかった者や落ちこぼれた者は、『ボロ』に身分を落とされ、一生を賤民として過ごさねばならない。ボロとなった者は、全身をボロ布で覆い、場合によって足の腱を切られ、国内の雑務に使役されながら公然と差別される存在である。ここに修羅の国の成熟した統治システムの存在を読み取らなくてはならない。この「ボロ」のような明確に示された社会制度的かつ文化的に規定された身分としての賤民は、北斗の拳の第一部には、まったく見られない要素である。
また、漫画というメディアは、絵的から描写の意図を読み取ることが重要である。秩序のない世界から始まる北斗の拳において、登場人物は概ね動きやすいTシャツと短パンや、頑丈かつ邪魔にならないジーンズや皮かデニムのジャケットを着用し、あるいは肩パットや鎧のようなもので武装しているが、ボロはダボダボのローブのようにボロ布を纏っている。これは秩序において戦闘からかけ離れた内務の担当者であることや、反乱を起こさぬように抑圧された存在であることが示されている。また、不具者やそれに類する存在であることを示すように腰が曲がり、ひとりの人格を有さないものとして扱われていることを示すように、ガスマスクで顔が覆い隠されている。こうした描写から、彼らが異質な存在だと読者に強く印象を与えるとともに、作中の意図として、制度によって公認された賤民という、これまでなかった役割を有する存在だと示されるのだ。
そして、特権階級の修羅にも等級がある。まず、12歳以上の男子は国家が定めた修練場で特訓と死闘を繰り広げる。しかも、まだ彼らには個人の名が与えられず、仮面をつけることが義務付けられる。これはつまり、彼らが半人前、人間未満として扱われていることを社会的に位置づける文化である。こうして15歳までに100回の死闘を勝ち抜くと、ようやく修練場を抜けて正式に修羅となることができるものの、まだ彼らは仮面をつけたまま、名前を許されることなく治安維持部隊などに編入される。ここで更なる成果を挙げた者だけが、仮面を外し、名を得ることが許される。また、結婚も更なる死闘を勝ち抜いた修羅に与えられた特権であり、配偶者は国から進呈される。よって、女性は結婚と出産のための道具に過ぎない。この過程で死闘に敗れながら命は保った者等がボロになる。
このように「ボロ」「仮面」という国家が制定した服飾や「名」という社会関係上の「称号」という文化的社会的スティグマによって人の上下尊卑と栄辱は視覚的にも社会関係においても可視化され、人の尊厳を体制に公然と組み込み、国家の存在そのものをも正当化するのが修羅の国である。修羅は街で女性を取り上げ、あるいは反乱を企てたボロを惨殺し、後半では反乱の鎮圧のために村ひとつを丸ごと処刑する。これは民衆を虐げるという意味では野盗と同じであるが、これらはあくまで領域国家の公務員による国内の社会治安の維持活動や貴族の儀礼と特権なのだ。
おそらく、修羅の国のモデルのひとつとなっているのは、古代ギリシャの都市国家スパルタであろう。ギリシャには市民と賤民の別があり、スパルタにおける賤民は永遠に市民となることはない。市民から生まれた新生児は政府に公認された役人に見定められ、虚弱な者は山に遺棄される。成長して7歳になると家庭から取り上げて政府主導で共同生活を送らせ、12歳以上になると軍事調練が始まる。軍人としての勇猛さを示す行為として、彼らに対して賤民に対する暴力や盗みが、むしろ奨励された。18歳で国家の承認を得て正式に市民となるが、従軍が義務付けられ、そこで臆病な態度を見せれば、髭の半分を刈られた状態で生活することを強制され、あらゆる共同体から追放される。まさしく修羅の国であるが、スパルタもまた、古代世界においては非常に高度な文明を有しており、治安維持に長けた極めて秩序立った都市国家だった。賤民が反乱を企てているという噂があれば、それだけで処刑部隊を送り込んで虐殺し、国家が成熟すればするほど、賤民への弾圧は苛烈になっていった。暴力の支配と序列によって秩序を形成したのである。
これに近いイメージの社会を近代から探すなら、それは福岡県よりもイタリアにおいて治安警察に強権を付与し、マフィアを根絶したムッソリーニのファシズム党だろう。あるいは、優れた者だけが生き、弱き者は死ぬか隷属すべきだとする修羅の国の在り方は、ナチス政権の優生思想とも近似している。作中でもボロの間で救世主『ラオウ』の到来とともに解放されるとする信仰の存在が描かれており、これはおそらくナチスに弾圧されたユダヤのメシア信仰がモデルであろうから、修羅の国のモデルにはナチス体制が含まれているのかもしれない。また、ヤクザよりもそれを「疑わしきは罰する」という形で罪に問える暴対法の方が修羅の国に遥かに近い。
修羅の国の正体とは、体制なき無秩序や体制外の暴力集団によって危険に陥った国家ではない。苛烈な序列を形成することで、強権的な治安維持を行ないながら、無秩序な世界における暴力集団以上の抑圧と収奪を生み出した国家なのである。
北斗の拳の修羅の国編において描かれていることのひとつは、この苛烈な秩序による暴力と収奪への抵抗である。そして、第一部と比較して評判のよろしからぬ第二部自体、意図してかせずにか、このテーマが冒頭から一貫して描かれているのである。このシリーズでは、それについて論じよう。
あ、一つだけ言っておくと、テロリスト
— 兎団Ⅳ No.17 mira melon (@melon_mira) June 11, 2020
テロ行為だ
許されない
日本も外国並みに・・・
陛下 悠仁親王 皇族の方々の
警護をもっと
政府は早く法整備を
日本を無秩序の修羅の国に
してはいけない
お前の考え方がよほど修羅の国に近いぞ。 -
与謝郡の日置里。この里に筒川村がある。ここに住んでいた人夫こそ、日下部首等の先祖である。名は筒川島子という。その容姿はたいへん美しく、他にないほど風流であった。だから彼は水江浦島子と呼ばれるのだ。これはかつての宰であった伊預部馬養連の記録と相違がないので、あらましだけを述べることにしよう。
長谷の朝倉宮にいらっしゃった天皇(雄略天皇)が統治されていた時代、島子は独り小船に乗って海の真ん中に漕ぎ出して釣りをしていた。三日三晩を経ても一匹の魚さえ釣れなかったのに、不意に五色の亀が釣れた。なんとも不思議なものが釣れたと思って船の上に置き、そのままさっさと寝てしまうと、いきなり亀が女性となった。その容貌は麗しく、他に比べることができないほどである。
浦嶋子が「ここは人が住むところからはるか遠い海原だというのに、どこから人がいきなりやってきたというのか」と質問すると、その娘は微咲を浮かべて答えた。「風流な殿方様が、独りで蒼い海の真ん中にいるんですもの。お近づきになってお話ししたいと思って我慢できず、風と雲に乗って、ここまで来ちゃいました。」と言った。島子はまた質問した。「風と雲とは、どこから来たのだ。」と言うと、娘は「天の上のある仙人の住む場所です。どうか信じてください。お話しして仲よくなりましょう。」と答えた。そこで島子は、神女であることを理解し、畏敬の念を心に懐いたが、まだ疑う心も残っていた。ところが娘が「ふつつか者ではございますが、私の胸の内をお伝えします。天と地の終焉の時を迎え、太陽と月とが消滅するまで続く、永遠のご縁を結びたいのです。さあさあ、あなた様のお気持ちはいかが? 早く答えてください!」と語りかけてきたので、島子も「もはや言葉などいりません。私だって、あなたを愛する気持ちはずっと変わりませんよ。」と答えた。すると娘は言った。「ねえ、あなた。オールを漕いでちょうだい。蓬山に行きましょう。」島子は言葉通りに船を漕ごうとしたが、娘は島子を眠らせた。
意識を失っている間に、いつの間にか海の中の大きな島にたどり着いていた。その地面はまるで宝玉が敷き詰められたように美しく、闕台は太陽の光を受け、楼堂は光り輝いていた。見たことも聞いたこともない場所である。二人は手を結んでゆっくりと歩きだし、大きな門を構えた家の前までたどり着いた。娘は「あなた、ちょっとここで待ってて。」と言って、門を開いて中に入っていった。すると七人の子供が来て、「この人が亀姫の夫かぁ。」と口々に言い合った。今度は八人の子供が来て、またもや「この人が亀姫の夫かぁ。」と口々に言い合った。その時はじめて、娘の名が『亀姫』だと知った。そこで娘が出で来ると、島子は先ほどの子供たちのことを告げた。娘は「その七人の子供は昴星(プレアデス星団)、その八人の子供は畢星(ヒアデス星団)。あなた、そんなの当たり前じゃないの。」と言って、そのまま島子より前を歩いて手を引っ張り、家の中に入った。
娘の父母はともに大歓迎、拱手して丁寧にあいさつをした。そして人間界と仙界の違いを説明し、人と神とが偶然にも巡り合えた奇跡の喜びを熱く語った。そこで百品のおいしい料理を薦め、兄弟姉妹等が杯を挙げて酒を杯に注ぎ合い、隣の里の幼女たちも晴れ晴れとした顔で一緒に遊んだ。仙人の歌は声が透き通り、神の舞は妖艶で、その歓宴は、すべてが人間界の一万倍以上のものであった。そこで日が暮れたことにも気づかなかったが、夕暮れ時になると仙人たちは少しずつその場から退席し、ついに娘と島子だけがその場に残された。肩を並べ、袖を手に取り合い、夫婦の理を成した。こうして島子が故郷を離れて仙都で遊ぶこと、既に三歳が経った。
そこで急に故郷を懐かしむ気持ちが沸き上がり、独り両親のことが恋しくなった。こうして悲しみが頻繁に心に立ち現れるようになり、日に日に悲しい気持ちは増していった。娘が「最近、あなたの顔を見ていると、いつもと何か違うみたい。ねえ、なにかしたいことがあるなら聞かせて。」と質問すると、島子は答えた。「孔子の言う「小人物は故郷を懐かしむ」とか、礼記にある「死にゆく狐は故郷の丘に首を向ける」とかいった言葉は、僕は嘘だと思っていた。だけど今はこれが本当なのだと思う。」娘が「故郷に帰りたいってこと?」と問うと、島子は「僕は親族や故郷を離れて、遠い神仙の世界に入った。恋焦がれる気持ちに堪えられない。だから軽々しくも自分の気持ちを口にしてしまった。どうかしばらくの間、故郷に帰って両親の顔を見させてほしい。」と言った。娘は涙をぬぐいながら嘆いた。「意志は鉄や石のように固く、一緒に永遠を共にしようと約束したのに、なぜ故郷に恋い焦がれて、永遠を一瞬のうちに捨てようと言うのですか!」その後、互いに手をつなぎながら、あたりを散歩し、一緒に話をしながら、声を上げて泣いた。ついに袂を別って岐路につくことになった。そこで娘の両親や親族も一緒に別れを惜しみながら送り出した。
娘は玉匣を手に取って、島子に授けて言った。「あなた、最後までふつつか者の私を忘れないで。もし私のことが恋しくなったら、この匣を堅く握って。だけど、これを開かないでほしいの。」と言った。お互いに別れを告げて船に乗ったその時、娘は島子を眠らせた。
意識を失っている間に島子は故郷の筒川村に着いた。ところが村を眺めてみても、人も物もまったく様変わりしており、何が何だかかわからない。そこで村人に「水の江の浦島子の家族は、今どこにいるのだろうか?」と質問した。村人は答えた。
「お前さんはどこの人かね。ずいぶんと遠い昔の人のことを聞かれるもんだ。俺も聞いたことがある。古老たちが代々口から口に伝えてきたお話だがね、『かつて水の江の浦島子という男がいて、独りで蒼い海の向こうに漕ぎ出したが、それから二度と帰って来なかった』……ってな。今から三百年以上も前のことだぞ。なぜ唐突にそんなことを聞くのかね。」
こうして茫然自失としたまま虚ろな気持ちで村を回り歩いたが、一人の親族とも会うことはできないまま、十日が過ぎてしまった。そこで玉匣を撫で、神女のことを思いだして感傷に耽った。ところが島子は、かつての約束を忘れ、おもむろに玉匣を開いてしまうと、そのまま瞬く間に『芳蘭の体』は、風と雲とに乗って蒼天の彼方に飛び去った。
そこで島子は、約束を破ったから、もう二度と神女の元に帰れないのだと理解し、首を落として立ちつくし、涙に咽びながら歩くことしかできなかった。しばらくして涙を拭い、歌った。
「永遠の世界(常世)の岸辺に向けて雲が流れる。水の江の浦島子の言葉を届けるために。」
神女は、遥か遠くから美しい声を飛ばして歌った。
「小さな国(倭)に向けて風が吹き上げ、雲は二つに別れてしまった。あなたが去った後も、私は忘れない。」
島子はまた恋焦がれる心に堪えず、歌った。
「あなたに恋い焦がれて夜を過ごし、朝日の光と共に戸を開けると、永遠の世界(常世)の浜の波の音が聞こえてくる。」
浦嶋子の説話は、シリーズ『月読は常世の国の王となる』の重要な鍵となる説話なので、これから何度も引用することが予測されるため、先に全訳して独立した記事として掲載することにした。古文の翻訳は不慣れなので、漢文よりもさらに拙いと思うがご容赦を。それと意訳が多い。
浦島太郎とは、奇妙な物語である。助けた亀に連れられて竜宮城に行き、美しいお姫様と結婚し、そこで楽しい宴が開かれ、浦島太郎はもてなされる……ここまでの話の構造は、「傘子地蔵」等に代表される報恩説話と呼ばれる類型に近い。よいことをすればよい報いがあるという、世界的によく見られる物語の様式であるが、日本の場合は特に仏教の因果応報の思想に基づいて説明される。
ところが、なぜか最後に浦島太郎は帰る故郷を失い、老母とも会うことはできず、孤独に陥ってしまう。しかも、お姫様から「開いてはならぬ」と警告されつつ手渡された玉手箱を開いてしまうと、自らも若々しい身体を失って老化してしまう。善人の浦島太郎が、なぜこのようなひどい目に合わないといけないのか。まことに理不尽であるし、なんらかの教育的価値を有する寓話にも思えない。報恩説話の中には「鶴の恩返し」のように、何らかの存在を助けた善良な人が、恩返しに来たその存在との約束を破ってしまい、その悪因によって善因の報いを失ってしまうという話も存在し、浦島太郎が瑞々しい若い肉体を失ってしまった原因は、確かに姫との約束を破ってしまったことにある。しかし、故郷も老母も喪った浦島太郎の孤独は、どうしようもなく浦島太郎に降りかかった災厄である。
その疑問は、原作となる浦島子の説話を確認すれば氷解する。浦島子はいじめられた亀を助けたのではない。釣りをしていると五色の奇妙な亀を釣り上げてしまい、それを船の上に置いていただけで、特に善行があったことが作中には記されていない。もともと浦島子の物語は報恩説話ではなく、異界の存在との邂逅を描いた悲劇の物語なのだ。話の類型としては、『竹取物語』に近い。
奈良時代から平安時代頃にかけて記された浦島子の説話が報恩説話の形式に改変され、「浦島太郎」の物語となったわけである。現存する浦島太郎物語の初出は、鎌倉時代末期以降に編纂された御伽草子集に収録されたもので、風土記からは500年の隔たりがある。
せっかくの幕間なので、ここで少し浦島子の説話についていくつかの補足を述べておこう。現代の絵本などの浦島太郎は、おおよそ亀と乙姫は別キャラクターであるが、浦島子の説話では姫は亀が変化した姿である。名前も亀姫である。これは鎌倉以降の古い御伽草子でも同様で、明治時代以降に明確な変化があったのを確認している。
また、御伽草子の浦島太郎物語では、この結末は報恩説話としてはあんまりだと思われたからだろうか。玉手箱を開けた浦島太郎は、おじいさんになった後で鶴になって飛び立ち、はるか仙界の亀と結婚し、鶴は千年、亀は万年というわけで、末長く幸せに暮らしたという。ハッピーエンドといえばハッピーエンドだけど、やや強引というか、不条理な話ではある。(私はなぜか感動したんだけど。)
ちなみに、一般に浦島太郎は釣りをして生計を立てていたとされるが、今回の丹後国風土記では明示されていない。しかし、三日三晩を船で過ごす遠洋漁業をしているあたり、こちらも内容が省かれているだけで、漁師だったと理解してよいはずである。
ところで、浦島太郎物語では、玉手箱を開けた浦島太郎はおじいさんになってしまうが、文中では『芳蘭の体』が飛んだ、と原文の表現を『』内に残して訳した。この『芳蘭の体』という部分は、解釈が分かれる。芳蘭は芳しい香りの蘭の花であるので、直訳的なものだと「箱の中から芳しい香りが立ち上った」とも解釈され、あるいはこれは箱に宿る霊的な本質が失われたという表現だとか、かつての思い出が遠く離れてしまったことのメタファーだとか、さまざまに解釈されて謎の多い語だとして議論がある。浦島太郎物語で浦島太郎がおじいさんとなるのは、『芳蘭の体』を若い頃の麗しい身体として解釈してのことであろう。
この説話は、異世界や神異との邂逅と別れを描き、しかも舞台が「えいえんのせかい」である等、あるいは情感や行間、雰囲気や理外の理に至るまでのさまざまな要素から、これを私は所謂『ゼロ年代エロゲ』と呼ばれる類型の祖先ともいうべきものだと感じているが、どうやら浦島子の説話は『リトルバスターズ!』のように全年齢版からエロゲ化された作品のようで、後の平安時代にアレンジされた『続浦島子伝』では、風土記版で仄めかされる程度の淡い描写であった浦島子と亀姫のセックスシーンに詳細な体位にまつわる描写がこれでもかと盛り込まれている。これは内容からして道教の陰陽思想に基づく表現ではあろうが、個人的には『kanon』のまこぴーのエロくらい情感を損なう存在だったので、最初にその部分を読んだ時は高速スキップした。