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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

漢籍置場にフェミニズム漢詩『贈侯官林宗素女士』の訳を追加。
焚巣館 -贈侯官林宗素女士-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/zoukoukanrinsousojoshi/main.html

 本日の更新。

 以前ブログに訳を掲載したものの転載。フェミニズム漢詩である。

 この詩は林宗素という女性に贈られたもので、だから「侯官の林宗素女士に贈る(贈侯官林宗素女士)」と題されているわけである。で、林宗素は中華民国最初から共和党の党員として女性参政権を主張した人物だそうで、清朝期から既に上海の愛国女学校でフランス革命や帝政ロシアのニヒリズム運動について学んでいたらしい。さっき検索して得た知識なので自分でも何を言っているのかよくわからない。なんだ、愛国女学校って……。

 で、検索したらこちらの論文が出てきた。

20世紀初頭の上海に設立された愛国女学校と務本女塾
 序章では、先行研究の整理と本論文の課題が述べられている。まず著者は、中国における女子教育が「三従」 「四徳」 「三綱五常」といった儒教的な女性観に基づく伝統的な教育であったことを指摘し、次いでこの伝統的な女子教育観は、アヘン戦争以降に伝道のために入国したキリスト教の宣教師が設立した教会女学校によって徐々に変化させられ、 1898年5月に変法派の経元善によって上海に初めて近代的な女学校、 「中国女学堂」が設立されたことが述べられた。しかし、中国女学堂は変法運動の挫折によって2年も経たずに閉校を余儀なくされ、その意志を継承する形で1902年に愛国女学校と務本女塾が上海で創立された。こうした近代的な女子教育の展開に関する研究史を整理した上で、近代的な女子教育における民間の取り組みに関する研究が低調で不充分であること、また、女子教育の近代化における上海の先進性に鑑み、本論文では上海における民間の取り組み、特に愛国女学校と務本女塾を研究対象として設定することが述べられた。

 つまり変法運動(清末に興った西洋の政治制度を積極的に取り入れようと目指した改革運動)の流れから生じたものらしい。で、

 義和団事件後の拒俄運動・革命運動・愛国主義の高揚のなかで誕生した愛国女学校は、中国女学堂が目指した良妻賢母型の女性ではなく革命運動や女権運動に貢献できる女性の育成を目指し、特に察元培が経理・校長を務めた時期にその傾向が強かった。実際、愛国女学校で学んだ学生のなかから、 1911年の辛亥革命に参加した者も少なくなかった。

 熱い。血沸き肉躍るというやつである。なるほど、だからこの漢詩は勇ましい雰囲気の詩なのだと納得するし、注に掲載した秋瑾の詩も勇ましい所以の一端がわかろうというもの。このあたりの知識は私にまったくないのだけど興味深いところである。

 ところで務本女塾という塾名の務本は、論語の「君子務本(君子は根本を務める)」が由来だろう。これは論語だと孔子の弟子の有子が述べているが、前漢に著された説苑では孔子の言葉として引用されている。また、潜夫論の第二篇の名が務本第二となっており、明三代永楽帝が皇太子に渡した書の名が『務本之訓』である等、漢籍における頻出の表現である。

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