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中国におけるネット上の悪ふざけである。安倍が山上に銃殺された直後、実は私もこういうのを漢作文しようとしていたのだけどテーマを安倍の方にしてしまったため、内容が茫漠すぎて取りやめてしまった。山上をテーマにすればよかったんだよね。そらそうだ。
刺客列伝-山上徹也篇
≪漢文≫夫山上者、字徹也、瀛洲奈良人也、幼喪父、其祖行商、家富、乃奉之。然美况短也、出数年、祖宗、其母難継、遂売祖産以度日。
徹也性温和少言、勤于学業、友皆以敬之。欲求学、然其母无以資之、盖因其母湎于統一邪教、其祖産尽皆用之。徹也无以為学、遂入海上自衛隊、習槍械之構。其兄病、无資以治、乃自縊。親皆逝、徹也流于郷野、働碌以度日。
安倍者、字晋三、瀛洲之前相国也、乃公卿大家、承其父業、四拜瀛之相国、今雖退隠、其威尚存。坊有流言、統一之邪教、乃以資惠与安倍、以受其庇也。徹也聞之、乃帰怨与安倍、欲以除之而后快。
公暦二零二二年、安倍話学于奈良、听者寥寥、其衛亦怠。徹也乃持私械、着便衣以近之、護衛者衆、尚无人察。俄而槍声起、衆皆惘、不知何故、安倍亦回首顧之。徹也持械、復讐之、中其膺、流血及鞋、衆皆惧、欲尋医以救之、然未果、安倍薨。
今安倍亡故、其領国怨之已久、聞其訊、衆皆賛之、乃称山上徹也民族之英雄也、欲封其以華族、並其以无罪。夫有法外狂徒、持双槍、聞名于英雄連盟、遂以其名以誉之、号曰、日服第一男槍也。
≪書き下し文≫
夫れ山上なる者、字(あざな)は徹也(てつや)、瀛洲(やまとのくに)の奈良(なら)の人なり。幼くして父を喪ふも、其の祖(おや)は行商(あきなひ)し、家は富み、乃ち之れを奉(やしな)ふ。然れども美况(よきさま)は短きなり。数年(いくとし)を出(のち)にし、祖宗(おほもと)、其の母は継ぎ難く、遂に祖(おや)の産(たから)を売り、以ちて日を度(わた)る。
徹也の性(ひととなり)は温和(おだやか)にして言(ことば)は少なく、学業に勤め、友は皆が以ちて之れを敬ふ。学を求めむと欲(おも)ふも、然れども其の母に以ちて之れに資(あた)うこと无(な)し、盖し其の母の統一邪教に湎(ふけ)り、其の祖(おや)の産(たから)の尽く皆之れに用うるに因ればなり。徹也は以ちて学を為すこと无(な)く、遂に海上自衛隊に入り、槍械(つつ)の構へを習ふ。其の兄は病み、以ちて治るに資(あづか)ること无(な)く、乃ち自ら縊(くび)りたり。親は皆逝き、徹也は郷(くに)の野に流れ、働き碌(ふち)して以ちて日を度りたり。
安倍なる者、字(あざな)は晋三(しんざう)、瀛洲(やまとのくに)の前の相国なり。乃ち公卿の大家、其の父の業(わざ)を承(う)け、四(よたび)に瀛(やまと)の相国を拜(さず)かり、今は退き隠ると雖も、其の威(ちから)は尚ほ存(あ)らむ。坊(ちまた)に流言(うわさ)有り、統一の邪教、乃ち資惠(たから)を以ちて安倍に与え、以ちて其の庇(まもり)を受くるなり、と。徹也は之れを聞き、乃ち怨みを帰(かへ)すに安倍に与え、以ちて之れを除きて后(のち)の快(こころよし)とせむと欲(おも)ふ。
公暦の二零二二年、安倍は奈良に于(お)いて話学するも、听(き)く者は寥寥とし、其の衛(まもり)も亦た怠けたり。徹也は乃ち私(わたくし)に械(つつ)を持ち、便衣を着て以ちて之れに近づかば、護衛(まもり)の者は衆(かずおほ)かるも、尚ほ人の察(きづ)くこと无し。俄かにして槍(つつ)の声(こへ)は起こり、衆(ひと)の皆が惘(おどろ)くも、何故(なにゆえ)をか知らず、安倍も亦た首を回して之れを顧ゆ。徹也は械を持ち、復たしても之れに讐(あた)さば、其の膺(むね)に中(あた)り、流るる血は鞋(くつ)に及び、衆(ひと)は皆が惧(おそ)れ、医を尋ねて以ちて之れを救はむと欲(おも)ひたるも、然れども未だ果たすことあらずして安倍は薨(みまか)る。
今は安倍の亡き故、其の領(をさ)むる国は之れを怨みて已に久し、其の訊(しらせ)を聞かば、衆(ひと)は皆が之れを賛(たた)へ、乃ち山上徹也を民族(たむやから)の英雄(ますらを)と称(よ)ぶや、其れを封(あた)ふるに華(もろこし)の族(やから)を以ちてし、並びに其れ以ちて罪无しとせむと欲(おも)ひたり。夫れ法(のり)の外の狂(きちがひ)の徒(ひと)有り、双(ふた)つの槍(つつ)を持たば、名をば英雄連盟(ますらをのつらむちかひ)に聞き、遂に其の名を以ちて之れを誉むるに、号(よびな)にして曰く、日服第一男槍(ひのもとのひとのつつのますらを)と以ちてするなり。
≪現代語訳≫
さて、山上という人物は、字(あざな)を徹也(てつや)といい、瀛洲の奈良の人である。幼くして父を喪ったが、彼の祖父は商売に成功して家が裕福だったので、彼を養うことにした。ところがよき日々は長くは続かなかった。数年ほど後になると、祖宗を彼の母は受け継ぐことができず、遂に祖父の財産を売り払うことで日を送ることになった。
徹也の性格は温和であり、口数は少なかったが、学業に勤めていたので、友人は皆がそのことに敬意を持っていた。学業を修めたいと思っていたが、彼の母親はそのことにお金を使おうとはしなかった。おそらく彼の母が統一邪教に耽溺し、彼の祖父の財産をすべてそれに尽く用いたことが原因であろう。そのため徹也は学問を修めることができず、遂に海上自衛隊に入り、銃の構造を習得した。彼の兄は病み、その後も治ることはなく、そのまま自ら首を吊って死んだ。親族は皆が逝去し、徹也は故郷の田舎に流れ、働いて僅かな給料を得て日を送っていた。
安倍という人物は、字(あざな)を晋三といい、瀛洲の前の相国である。元は公卿の大家であり、彼は父親の地盤を継承し、四度にわたって瀛洲の相国の地位を授かり、現在は位を退き第一線からは身を引いたが、その威光はまだ健在であった。街中に次のような流言が立った。「統一の邪教は、どうやら安倍に融資することで、彼から庇護を受けているらしい。」これを聞いた徹也は、そこで怨みを安倍に向け、彼を除きたくて堪らなくなった。
公暦の2022年のこと、安倍は奈良で遊説していたが、聴衆の数は物寂しく、彼の護衛も怠けていた。徹也はそこでひそかに銃を隠し持ち、普段着を身につけてそこに接近した。護衛の者は数ばかりは多かったが、それでも誰も気づくことはなかった。突然、銃声が鳴り響き、人々は皆が呆気に取られるばかりで、なにが起こったのかまったく理解できず、安倍も同じく首を回してそちらを振り向いた。徹也は銃を持ち、またしてもそれに讐(むく)いると、彼の胸に命中し、流血が靴を濡らした。人々は皆が驚いて恐怖し、医者を尋ねて彼を救おうとしたが、果たされることなく安倍は薨去した。
現在は安倍の亡き故、彼の領めていた国の人々は彼を怨んで日は長かったことから、その知らせを聞いた人々は皆がそのことを讃え、山上徹也を民族の英雄と称するようになり、彼を中華民族の一員に封じるとともに、彼を無罪にせよと主張した。ところで、英雄連盟(リーグオブレジェンド)で名が知られていた双(ふた)つの銃を持つ法外の狂徒は、遂に彼の名をもってそれを褒誉され、『日本鯖第一の銃士』と号(よびな)されるようになった。
≪注釈≫
瀛洲……東海の向こうにあって仙人が住まうという伝説の島。転じて日本を指す。
相国……漢王朝における行政の長。人臣における最高位であり、立場としては皇帝のすぐ下の位である。ここでは日本国の内閣総理大臣を指し、おそらく君主制を擁する国家の首相であるが故であろう。
英雄連盟、リーグオブレジェンド……中国で人気のネットゲーム、らしい。
日服第一男槍(ひのもとのひとのつつのますらを)、日本鯖第一の銃士……日服は日本のサーバーのことを指す中国のネットスラング。上記のネットゲーム発祥の語だからであろう。鯖は日本におけるサーバーを指すネットスラング。
内輪ネタ臭さがあるため、そのへんはあまり好きではない。ネトゲの話とかされてもなあ……。そこで山上が話題になった結果、ノリでこういう文章が出てきたのかも知らんけど、たとえば日本でこういうお遊びをしたとして、最後に嫌儲の話とか挿入されるとなんか違う感が出ない? それと事実誤認も目につく。
ところで、私は現代中国語を知らないのだけど、本文は割とそういった表現と思わしき語がいくつか見られる。それが結構興味深かった。PR -
ジョギングが続かない!
ジョギングを長続きさせるのは難しい。3日坊主でも続けば立派なもので、1日走れば次の日は休み、そのままズルズルとやめてしまうなんてほうが当たり前だ。もちろん、単純に継続して外に出るという定期的な活動の慣習化自体がおっくうというのもあるのだけど、ジョギングはウォーキングとは違って負荷のある運動かつ長時間の持久運動なので、その日のコンディションがモチベーションに相当大きく影響し、ちょっとでも疲れを感じていたりとか、身体に違和感があれば、なんとなーく休んでしまいたくなる。特に初心者なんかは、その日のコンディションがよくなければ、そもそも3kmや5㎞も走れなかったりするので、ジョギング自体ができなかったりする。
しかし、私の発明した「脱法ジョギング」であれば、コンディションがあまりよくなくとも、ジョギングに不慣れであっても、5kmや10kmを走ることができ、しかも体への負担が小さいため、走り始めるまでの心理的ハードルもググっと低くなる。その方法を伝授しよう。
脱法ジョギングとは何か
では、まずジョギングについて考えていこう。ジョギングとウォーキングは違う。ウォーキングは歩くこと、ジョギングは走ることである。では、「走る」とは何だろうか。「歩く」とは違う「走る」という形態。とりあえず、ジョギングをジョギングたらしめる「走る」動作について考えてみよう。
まず、ジョギングでの走りは、歩くのと違って地面を蹴るようにして前に出し、歩くよりも腿を高く上げてリズミカルに足を進める。腕は、一般に肘を直角に近い形で曲げた状態で振る。実際にしてみればわかると思うけど、この基本的な動作をしていれば、それは「歩く」ではない。間違いなく、ジョギングとしての「走る」という動作となる。つまり、この動作があれば、すなわちジョギングとなる。
さあ、あとは簡単。この動作で可能な限り遅く走り始めるのだ。そうすれば、疲れることなく楽に長い距離をジョギングすることができる。もちろん地面を蹴って足を大きく動かすので、歩くよりもスピードがどうやっても出てしまいやすい。しかし、それを押してできるだけ遅く、何なら歩くよりも遅くするつもりで走り続けるのだ。そう、下手をするとウォーキングよりも遅いペースで展開するジョギング。これが脱法ジョギングである。「ジョギング」という定義から外れずに、ジョギングらしからぬペースで走ってしまうのである。
脱法ジョギングの理論と実践
上を見て、なんだかバカみたいな話だと思われたかもしれない。しかし、実際やってみるとわかるけど、動作はジョギングなのでウォーキングよりも大きく身体が動くため、ジョギングとしての充足感は相当に得られるし、走るための筋肉もしっかりと使われ、走力も体力も確実に鍛えられる。
そもそも、遅いペースを維持するのも結構大変なもので、走っているうちにだんだん加速していき、気が付くと通常のジョギングペースに落ち着いていたりする。それなのに、最初の時点で体力を温存しているからか、明らかに無計画に走るジョギングよりも疲れず余裕があり、自分に意外と体力というか、長く走る能力があるのだと気づかされて、結構自信につながったりもするので、継続するモチベーションも高まる。また、加速によって体力が消耗していると気づいたら、すぐに元の歩くより遅いペースに戻せば、体力の消耗が防げる。最初が遅いペースなので、そちらに戻すのも容易い。
ジョギング初心者のはらむ問題として、「ペース配分」という概念が身についていないことが挙げられる。最初になんとなくの気分で走り出して、それをジョギング速度のポイントゼロとし、それより遅ければマイナス、それよりも早ければプラス、というような感覚で走る。しかし、当然ながら最初が一番体力が有り余っているのだから、これだと最初を頂点にして徐々にペースが落ちていくだけになったりする。これでは走りを愉しむよりも消耗ばかりが先立ってしまうだろう。
あるいは逆に、走り続けていく中で慣性に則って無意識にペースがどんどん加速していき、最初からペースが速いのにさらに加速するものだから、それに伴って知らぬ間に体力がどんどん消費されていき、想定以上に早くバテてしまったりしまったりもする。また、初速をベースとして体も頭も認識しているので、いきなりペースを落とすのが難しくなる。『脱法ジョギング』では、初速をできる限り遅くすることで、そうした問題を起こさないようにすることができる。
しかも、上に書いた通り、余裕のある走りというものをずっとしていると体力がある状態で身体をしっかり動かしている感覚が得られるので、自信がわいてくるし、次の日も嫌な気持ちにならず、軽い気持ちでまた走れるようになる。それにコンディションが悪くとも、歩ける程度の体調であれば、それと同じかそれより遅く走ることは概ね可能だ。
そんな感じで、できるかぎりめちゃくちゃ遅く走るだけの『脱法ジョギング』は結構いい感じだという話です。もうちょっとしっかりした記事を書こうと思っていたのですが、時間がないのでざざっと書いてこのへんで。 -
ジョギングが続けられない
ジョギングを長続きさせるのは難しい。3日坊主でも続けば立派なもので、1日走れば次の日は休み、そのままズルズルとやめてしまうなんてほうが当たり前だ。もちろん、単純に継続して外に出るという定期的な活動の慣習化自体がおっくうというのもあるのだけど、ジョギングはその日のコンディションがモチベーションに大きく影響し、ちょっとでも疲れを感じていたりとか、身体に違和感があれば、なんとなーく休んでしまいたくなる。
特にジョギングを始めたばかりの頃というのは、人を挫折に導く要因がたくさんある。本当にジョギングに出ない言い訳が次から次へと頭に浮かぶし、走りなれていないうちは、いざジョギングを始めても、前日の運動だとか日頃の疲れだとか、不摂生だとか寝不足だとか、そういったことが影響すると息が上がったり、足が痛くなったりして、200メートルも走らないうちに走るのをやめてしまうなんてのもザラである。私はそうだった。先に情報収集なんぞを無駄にしていて頭でっかちになっているものだから、「20分以上の継続した有酸素運動でないと効果がない」だとか、いらん知識を頭に詰め込んでしまって、「じゃあ、20分走れないなら意味ないじゃん。はい、やめやめー。」なんていう"賢明な思考"のおかげで、ジョギングの機会を失してしまった時期もあった。あーあ、くだらない。
かつての私は、「調子がいい日でないと、まずろくに走れない」という問題を抱えていた。そして、一時期は「20分以上走れないと意味がない」というくだらない知識に振り回されて走らない言い訳に用いていた。
後者の思い込みについては、自身のモチベーションを下げるだけのつまらない思い込みだと割とすぐに気づいて無視するようになったものの、それですぐに走れるようになったわけではない。コンディションの悪い日は、1分も走れないものだから、さすがにこれをジョギングした日に数えるわけにもいかず、そういった不安定かつ虚弱な体に鞭を打って気合と根性で走ったり走らなかったりして、なんとか30分5km程度は継続して走れるようにはなったものの、その一回でバテバテで翌日まで疲れを持ち越し、しかもよくわからない達成感と当時の疲労感へのトラウマ的な恐れが無意識に自分を支配し、ジョギングに復帰するタイミングを逸して……といったことを繰り返し、結局「1か月に1回5㎞走る」というような、おおよそジョギングをしているとは言い難い時期が長らく続いていた。
上記の状況は本当に初心者の時期のことであるが、ここまで大げさでなくとも、私は長い間ジョギングをやったりやらなかったりしていたのは事実で、しかもサボりから再開しようとしても、実際に再開するまでの期間が空きがちであった。「脱法ジョギング」を発明するまでは、である。私は「脱法ジョギング」を発明することによってジョギングの長期定期化と、多忙期等による休止時期から再開までのタイムラグをなくすことに成功した。これから、その方法について記そう。
脱法ジョギングとは何か
この「脱法ジョギング」を行なったしたのは、しばらく体調などを言い訳にしてジョギングをサボっていた時期から再開するための日であった。当時、ジョギングなんてコンディションがとてもいい日でも8km程度が限界で、10kmなど走ったことがなかった。しかも、そんなに走っては、のち1週間程度は走らなくなってしまう。しかし、とある思い付きによって始めたある方法で走ってみると、その日は簡単に13kmを走破し、その後も2日に1回10km以上のジョギングを行えるようになった。
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久方ぶりに5kmほどジョギングをした。私の開発したジョギング「脱法ジョギング」は非常に意識が低いため、しばらく期間が空いてしまってもすぐに復帰できる。詳細は次回の記事で説明しよう。
今日のコースでは、自分の通っていた小学校から中学校を回って帰宅。10kmあれば、高校も回れただろう。改めて、この空間の狭さに驚いてしまう。高校は近いからという理由で選んだのも確かだけど。
そういえば、まだ今年は初夢というものを見ていない。見てて忘れたのかもしれないけど、とにかくそんな覚えがない。考えてみれば、長らく夢というものをみた記憶がない。なぜだろうか、よくわからない。
それと書いていなかったけど、一昨日から瞑想を長くやっている。ようやく運動と瞑想がペースを取り戻してきた。トラブルはあったけど、おかげで新年はいいスタートが切れそうに思う。これがなければ、帰省中は暴飲暴食+遊び歩きの日々だっただろうし。
明日には関西に行くことになるけど、帰省したこの間、久々に「もう眠れない」というくらい眠れた。長らく私のことを知っている人はご存知かもしれないけど、もともと私はひどい不眠症である。しかし、先月の終わり頃などは常時眠く、いくら眠っても眠り足りず、いくら寝ても身体が休まらなかった。しかし、ここ3日程度はようやく寝転んでも眠りにつけなくなることが出てきた。不眠でさえ過眠に至る酷い有様だったというわけだろう。それが今や軽い不眠にまで回復した。……って、それでいいのか?
とにもかくにも、明日は早いし、生活リズムをバッチリキメるためにもさっさと寝る。というか、年末からずっと生活リズムがよほどひどく乱れ続けていたんだなーっと今回の件で改めて考え直した。今にして、ようやくリズムが取り戻せた。
当面の目標は、睡運瞑菜の徹底と粗食・断酒。まだ腹具合は戻っていないけど、いい機会だ。 -
本章句は、『温故知新』という故事成語にて有名であり、これは「古いことを学ぶことで新たな発見ができる」という意味で解釈されてきた。しかし、古いことから新しいことを見いだすことが、なぜ師となることにつながるのだろうか。この解釈では前段が後段の『師』という概念と十全に接続されていないように思われる。≪原文≫
子曰、温故而知新、可以為師矣。
≪書き下し文≫
子曰く、故きを温(たず)ねて新しきを知る、以て師と為す可し。
古いものを古いというだけで棄却せず、そこから新しいものを見いだす者、それは確かに有能な発明者である。しかし、師となるために有能な発明者であることは絶対的な条件ではない。孔子自身、「私は過去を祖述するだけで、自らの独創はしない。自身の信念に基づいて先人の業績を愛好しているだけである。私はひそかに、自分の役割は八百年間歴史を語り継いだ伝説の語り部彭祖に比肩するものだと自負している。(※1)」と述べている。彭祖は過去に起こった事実を述べただけで、自ら創作をしたわけではない。孔子は自ら独創的な発明をしていないと主張し、書物のない時代を生きた伝説の語り部彭祖を自らと同一視していた。発明者であることは弟子を教導するための絶対的な資格ではない。
ところで、師とは相対的な存在である。師は古義では、軍隊の指揮官であったが、ここでは教導者、教師のことである。軍隊の指揮官に指揮される兵士が必要なように、教導者には教導される弟子が必要である。
師という語から連想される者と聞いて想像を喚起されるもの、年長者、有職故実や古典などの学識が深い者、伝統的な技術に通じた者……こういったイメージに発想を引きずられ、具体的な特性を検討することに気が回らず、ついつい従来的な解釈に納得してしまうのは理解できる。しかし、本章句を正確に解釈するなら、後段に現れる『師』の特性に対して、よりスムーズに接続できる解釈を前段の『温故而知新』に施すべきであろう。師の本質は弟子との関係にある。
弟子と師が相対的な概念であるのと同様に、『新』は時間における相対的な概念である。弟子と師の概念が互いの存在を必要とするように、『新』にも過去の存在がなければ成立しえない。
『新』とは何であろうか。「古いことから新しいことを学び取る」という『温故知新』の従来的解釈は、欧州におけるルネッサンスなどの古いものから革新的な概念を発見する歴史的事象を想起させる。また詩経には『周は旧き邦であるが、その天命は新たなものである(※2)』という一節も登場し、これは古くからある周という国が新たに天命を受けて時代を築くという意味で維新の語源となったが、これも「温故知新」という古事成語と重ね合わされる。維新にせよ、ルネッサンスにせよ、その後の未来を切り開く印象が強烈であるために、ついつい『新』という語の含意に、我々は過去との対義語として未来を見出してしまう。そのために、ついつい「過去のものから新たな発明を着想する」という解釈を施してしまうのだ。
しかし、『新』という概念には『未来』という含意はない。あるいは極めて二次的な含意である。『過去』との対比において、『新』という語が直接含意する所は『現在』である。それは、最新という語が現在そのものか、あるいは過去の中で最も現在に近い時点を意味することからも明らかである。100年前の技術と対比して昨日や今日に発明された技術を最新と呼ぶことはあれども、100年後に開発されると想定される技術を現在から見て最新技術と呼ぶことない。先述の『温故而知新』という前段において対比されているのは、過去と現在である。
また、『温故而知新』における過去は『古』ではなく『故』の字が当てられている。『故』とは何か。第一義には「事の起こり」「原因」であり、第二義には「経歴」「来歴」である。『故』で示される過去とは、現在に至るまでの過程であると考えられる。また、『温』は『温習』という語があるように、確認することである。温故とは「これまでの過程を確認すること」であると解釈できる。
『これまでの過程を確認することで現在を理解することができる者に、弟子たちを教導する師となる資格がある。』
このように本章句を解釈すれば、従来の解釈とはまったく違った景色が見えてくる。
人は何も知らずに、赤子としてこの世界に生れ落ちる。赤子には現在しかない。目の開いた赤子の眼前に家が建てられていても、それを”建てられた家”とは認識しない。土台を築き、柱を立て、床を張り、梁を渡し、屋根をかけ、壁を塗って戸窓を開けた”家に至る過程”を赤子は認識できないのである。赤子には『新』しか存在しない。『新』は過去との相対的な存在であるが、赤子にとっては『新』が絶対である。ゆえに『新』が『新』であることも知ることができない。その赤子に『故』を辿らせ、その果てに『新』を位置付ける営為が教育である。
もし、この赤子が誰にも何も教わることなく野山に放り出されるとしたら、目の前の家を建てる方法を着想することができるだろうか。ただ一人で誰にも学ばず手本となるものもなければ、ほとんどの場合は一生をかけても斧をつくり木を切るところまでも、おそらく行き着かないはずである。言語も同様で、現在のような複雑な言語を構築することは一代では成し遂げられず、幾ばくかの種類の鳴き声を発明するにとどまるであろう。そのような野生の人類が何千何万集まろうと、一代でコンピュータが発明されることはない。このように、人類が一代のみ存在していても、その有様は所詮動物の一種として他との差異を見出すに足らない存在である。
しかし、生物の進化は歩みが遅いが、人間の生活は原始から古代、中世から近代にいたる過程で激変している。なぜか。人間が教育という形で過去の事業を引き継いだからである。荀子は言う。「君子と他の人々は生来によって差異があるわけではない。君子は善く物に仮(借り)るのだ(※3)」と。『学』とは、人からの『仮(借りること)』によって成立している。
我々は時間の中に生きている。現在は過去との連続性に成立している。荀子は言う。「干越夷貉――いかなる民族の子であれども、生まれたばかりの赤子は同じ声で泣くのに、成長するとまったく違った言語を話し始める。これは教育がそうさせているのだ(※4)」と。赤子という素体はあらゆる民族に関わらず似通った性質を持って誕生するが、それ以後に教わったもので性質が異なる。論語では人間について、「うまれつきの性質は似通っているが、習俗は異なっている(※5)」と述べられている。
赤子が教わった民族の言語は、この赤子が生まれる以前から存在する。そして、言語はその過去、その過去から更にその過去、変化を繰り返しながら連綿として受け継がれてきたものである。言語には、現在を成立する過程が存在している。
言語に限らず、技術、儀礼、音楽、料理……赤子が生まれたのち、大人になるまでに教育されるものは、その赤子が存在していない時から連綿と続く過程を持ち、時と共に人々により肉付けされ、あるいは削ぎ落とされ、現在に引き継がれてきたものである。赤子は自らが誕生する以前を、自らが引き継ぐことで大人になり、自らもそれを変化させながら、次世代へと引き継ぐ。赤子は成人するにあたり、他者であった過去との連続性に自己を位置付けられる。
また、これは孔子の教えにおける根本原理である仁とも、儒教における孝の概念とも連続している。孝とは肉体的に過去からの連続性がある両親との精神的な繋がりである。そこから孔子は血縁に由らぬ人から人への思いやりの心『仁』を抽出した。仁とは、他者を自己に重ね合わせること、則ち、他者を自己として受け入れる営為である。それは、自己の存在以前の過程『故』から現在『新』に至るまで学んできた他者である師を、自己として受け入れる営為、則ち『学』にも通じている。そして、孔子と顔回がそうであったように、師弟は血縁を越える関係である。人は『学』によって技術を、知識を、精神を、まるで蝋燭の灯のように、人から人へと伝えることができる。
孔子は言う。「これが民衆だ。夏、殷、周――これら三代の王朝すべての文化が連続していることは、他でもない彼らが証明している。(※6)」と。また、孔子は弟子の子張に未来を知ることができるかを質問されて、次のように答えた。「殷王朝は夏王朝の文化を引き継いでいる以上、それらを比較検討すれば、何が切り捨てられ、何が追加されたかを知ることができる。周王朝は殷王朝の文化を引き継いでいる以上、それらを比較検討すれば、何が切り捨てられ、何が追加されたかを知ることができる。これらの歴史法則を解析すれば、周の文化を引き継いだ後も、百世先であろうと知ることができる(※7)」と。孔子は、現在存在する人間の文化が過去からの連続性の上に存在することを知っており、それらを取捨選択することで現在に至る人類の発展があることを知っていた。
人は現在の成立過程を確認することで、現在に至るまでを再生する。家を建築する過程を確認することで家を建設することができるように、学芸にせよ、武芸にせよ、技術にせよ、師が弟子に自らの業(わざ)を伝えることは、現在に至るまでの過程を伝えることである。
師は過去から現在に至る道を継承し、それを他者に伝えることで、弟子を過去との連続した時間の中に位置付ける者である。ゆえに、これまでの過程を確認することで現在を知ること、それが師の条件となる。
※1 論語述而第七
※2 詩経大雅文王篇
※3 荀子勧学第一
※4 同上
※5 論語陽貨第十七
※6 論語衛霊公第十五
※7 論語為政第二