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先週、パソコンが(おそらくハードディスクから)ぶっ壊れたのでホームページのデータが消し飛んだ、かもしれない。データの復旧に向けてとりあえず修理店に渡しておいた。別にホームページから直接ダウンロードすれば大半は取り戻せるし、翻訳作業はGoogleドキュメントでやっているのでダメージは大したものではないのだけど、アップロードしていないデータがないわけではないし、めんどくさいのがそれがなになのか確認もできない点で、いろいろめんどくさい。最近なんだか仕事以外の何もかもが上手くいかないなあ……うーん。まあWindows10から11に代えたかったしOfficeも期限が切れて放置していたやつだから壊れるタイミングとしてはちょうどよかったと思う。新しいパソコンと出会えることをたのしみとするか。今後バックアップはこまめにとっておこう。
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とあることがあって先月末からブログの更新がほとんどできなかった。
ただ、ホームページの更新だけはほとんど毎日やっていたので、その間の更新記事を今さらひとつひとつ書くのは億劫……。しかし、個人的にせっかく論語の全章句にひとことコメントをする機会を逃したくない。それと現状のホームページ更新ペースだと毎回ブログ記事がホームページ更新記事になってしまうのだけど、実はブログの更新を休んでいたおかげで逆にブログ記事を書くモチベーションが生じていたりもする。この間にソーシャルメディアもかなり休んでいたことから、閲覧の慣習もなくなっていってしまっているため、やはりBlueskyだろうとなんだろうと関係なく、ソーシャルメディアよりブログに主軸を移したい。何度目の宣言だって感じだけども。
というわけで、今後は一週間分のホームページの更新記事をまとめて書くことにしようと思う。生活環境も変わることになりそうだし……。
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焚巣館 -三国史記 第二巻 阿達羅尼師今-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/sangokushiki/02kan/01atara.html本日すこしだけ修正した。十九年(西暦172年)二月の「二月、有事始祖廟。京都大疫」という記事について、元の訳は以下の通り。
二月、始祖廟になにかがあった。京都(みやこ)に大いに疫病があった。
「なにかがあった」ってなんだよ……。とはいえ、なにがあったかわからないのだからどうしようもない。漢文翻訳完全初心者の4年前の頃(いやー、ずいぶん経ったもんだなあ、ホント)のブログ記事でも「始祖廟での「事」というのはなにだろうか。有事ということは、いい意味ではないだろうが、よくわからない。」とすっとぼけたことを私は言っている。
で、これについてかなり前に似たような記述が春秋から見つかった。
有事于大廟。仲遂卒于垂。
敢えて直訳的にざっくりと訳せば、「大廟にて有事。仲遂が垂にて死亡」といったところ。これだけでは何が何だかさっぱりわからない。これについて最古級の注釈である左氏伝には次の通り書いてある。
「有事于大廟」について。襄仲が卒去したのに繹(正祭の翌日の小祭)を執り行うのは非礼である。(有事于大廟、襄仲卒而繹、非禮也。
これだけだとまだよくわからないが、人死にが出たのに大廟で「有事」したのが非礼だったという指摘がある。ぼんやりと言葉の趣旨の像が浮かび上がってきた。
これに対する更なる註釈として、唐代に完成した左伝正義を見ると、次のようにある。
"有事"とは"祭"である。仲遂が卒去したのは祭と同日であり、"有事"と省略して書いたのは、繹(小さな祭)を悪の発生源としたからである。(有事、祭也。仲遂卒、與祭同日。略書有事、爲繹張本。)
つまり有事とは祭祀のことだったわけである。人死にが出たのに大廟という厳正な場でお祭りをしたことが非礼だったという記録だと、少なくともそのように当時の春秋学では解釈されたわけである。ああ、スッキリ。
さて、三国史記の編纂は唐より後なので、当然ながら上記の解釈を前提に記されているわけである。これを踏まえて「二月、有事始祖廟。京都大疫」を私が訳すと、次のようになった。
二月、始祖廟にて行事を執り行ったが、京都(みやこ)に大いに疫病があった。
ここでは原文のニュアンスを残すため「"行事"を執り行った」と訳しておくが、本文の意図としては祭祀を暗示しておろう。また、春秋左氏伝の趣旨から見て、この記述は逆説であるから、本文の意図は「始祖廟で慰霊祭を執り行ったのに疫病があった」であったものだと解釈すべきように思う。というわけで、ここに記した内容と同様の趣旨の訳注もホームページに追記しておいた。
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焚巣館 -論語注疏 学而第一 曾子曰愼終追遠章-
本日の更新。曾参の言葉である。
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/rongochuso/01_gakuji/09ohaariwotsutsushimite.html為政者の徳に影響されて人民の営為も変化するという儒教の考えを「化」あるいは「教化」という。つってもこのブログでは何度も書いていることだけども。上下の道徳ですなあ、と批判的に見ることもできるし、為政者の責任を重く見て享楽放逸や暴虐無道を許容しないための政治倫理とも言える。親への孝と葬儀を重く見る姿勢は、儒教一般に通じるものであると同時に特に曾参にみられる傾向である。この手の話もおそらくブログでは過去に何度もしていると思う。
注疏には孝経に記されるような親への葬儀にかかる儀礼とその精神についてちらほらと記されている。ざっくり読んで「伝統儒教ってこんな感じなんだなー」と思うにはいい章句かもしれない。祖霊崇拝は天の存在と並んで為政者が自らより上位の存在を想定するという伝統儒教においては極めて重要な点である。そのへんは今度またふさわしい場で話しておきたい。
あんまり言うことがない。まあ地味な章句である。
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焚巣館 -論語注疏 学而第一 子曰君子不重則不威章-
18日の更新。孔子の言葉である。
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/rongochuso/01_gakuji/08kunshiomokarazareba.html注疏の内容は論語をフツーに読んでいて気になる点を解決する註がしっかりついていてなかなか興味深い。
私の書き下しは少し独特なので、一般的なものとしてとりあえず検索して目に付いたこちらから書き下し文を引用してみる。
子曰く、君子、重からざれば則ち威あらず。学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすることなかれ。過ちてば則ち改むるに憚る(はばかる)こと勿かれ。
「過ちて改むるに憚ることなかれ」は慣用句となっているし、それ以外の「学べば則ち固ならず」や「己に如かざる者を友とするなかれ」といったフレーズも割と有名であるから、論語を読んでいなくても知っている人はいるだろう。「己に如かざるものを友とするなかれ」は矛盾しているとよくツッコミを入れられるフレーズであるし逆に弁護する文章も世に多く、私もかこに諸々のことを漫慮したものである。ちなみに私は論語を読み始めた当初、「学べば則ち固ならず」というフレーズに感心したのをよく覚えている。つまり学とは、硬直的な思考になるためのものであってはならないのだ。
さて、論語の本章句について、他にも疑問点としてよく挙げられるものがある。それは、ひとつひとつのフレーズは教訓となっているのはわかるとして、全体にまとまりがあると感じられない点である。上記の訳をそのまま分解してみよう。
・重々しい雰囲気がなければ威厳がありません。
・学問をすれば頭が柔軟になります。
・『忠』と『信』の心を大切にして、自分とレベルがあわない者を友としてはいけません。
・過ちがあったのなら、それを改めることをためらってはいけません。これらの内容は、素直に読むと複数の教訓の雑多な詰め合わせのようにしか見えない。それぞれに繋がりを感じられないからだ。なぜ孔子はこのような発言をしたのか、あるいは別々に語った孔子の教訓を孔子の言行を記録するにあたってひとつにまとめたものなのか、さまざまに考察されることも多い。
して今回の注疏では、「一曰(一説には)」と前置きして「言人不能敦重、既無威嚴、學又不能堅固、識其義理。」と述べる。これを私は「人は親切誠実で人情に厚く、おごそかで重々しくなれなければ、威厳がないので学問についても同様に堅固にはできないが、その義理を知識とすることはできるのだと言っているとのこと。」と訳したが、つまりこれは雑多な教訓の寄せ集めに見える本文をひとつなぎの意味のある文章として解釈しているのだ。
……重厚な態度を取れない人は学問も堅固にできない。しかし義理、つまり言葉の意味を知識とすることだけはできる。この言葉にあるのは、知識と実態の乖離である。つまり理性と現世の乖離であり、言語と実在の乖離である。
学術が高度化する以前の論語は実践の学としての色彩が後世のそれよりも強い。もともと孔子の時代の儒学は操馬術や弓術を教科としていた。ところが漢王朝の時代に入り、次第に儒学は六経という文書を主として尊ぶようになり、時代と共にペーパーテストの科挙が現れ、理性を尊ぶ朱子学の台頭、その先には清代考証学というテキストの読解を主とする学問に発展した。学術は高度に、難解に、実証的に発展した一方で、身体性に基づく技術は徐々に薄まっていったわけである。論語は孔子という肉体ある人間を言葉のみ復活せしめ、あるいは行為の一部を言語によってのみ説明して遺したものであるから、この乖離は必然であったのだろう。講師の意図は計り知れぬが、こうした学術の発展に伴う変化が上掲のような論語の解釈を生んだものと感じられる。