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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

三国史記・新羅本紀・阿達羅尼師今
 三国史記を翻訳する。ブログ記事を書こうにも何も思い浮かばないからしかたない。まさか、「困ったときの三国史記」となるとは思わなかった。

≪原文≫
 阿達羅尼師今立。逸聖長子也。身長七尺、豐準有奇相。母朴氏、支所禮王之女。妃朴氏內禮夫人、祗摩王之女也。

≪書き下し文≫
 阿達羅尼師今立つ。逸聖の長子なり。身長は七尺、準(はなすじ)は豐かにして奇相有り。母は朴氏、支所禮王の女なり。妃は朴氏內禮夫人、祗摩王の女なり。

≪現代語訳≫
 新羅王に阿達羅尼師今が擁立された。身長は七尺、鼻筋は通っており、類まれなほど優れた人相であった。母親は支所禮王の娘である朴氏で、妃の內禮夫人も朴氏、こちらは祗摩王の娘である。



 阿達羅王立つ! 名前が男塾みたいだな……。あるいはふくしま政美とか、そっち系の絵が思い浮かぶ。身長七尺は高い、と思う。
 「豐準有奇相」は人相の話であり「蜂準長目(蜂のように通った鼻筋と切れ長の目)」という語があるように、ここでの「準」はおそらく鼻筋のことであると思い、そう訳した。書き下し文もそのように読み仮名をかっこ書きで入れてみた。これまで書き下し文に読み仮名つけたり、辞書に載っていないような読みをつけたりはしなかったんだけど、やっぱりこういうスタイルの方が書いていて愉しいし、自分で読んでていい感じだから、以後はこうしようかなー、と思う。書き下し文に作業感が出てきてしまうと飽きちゃうもんね。
 奇相の奇は「たぐいまれなほど素晴らしい」という意味です。日本だと奇人変人というと珍奇な連中のことだけど、今でも中国だと「奇人」というと「今どき素晴らしい珍しい人」という意味だとか。荘子でも奇人が賞賛されていましたね


というわけで、これは素直な賞賛と受け取っておこう。ただ、荘子はあんまり好きくない……。

 父親が逸聖ということは、その姓は朴氏であり、当人の姓も朴氏であろう。母親も朴氏、妃も朴氏。ということは、同族婚の連続である。しかも、妃の父親である祗摩王は先々代王であり、阿達羅の従兄弟にあたる。
 礼記曲礼上には「妻を取るには同姓を取らず。」とあり、また論語述而篇第七で「君呉に取る。同姓なるが為に、之れを呉孟子と謂ふ。君にして禮を知らば、孰か禮を知らざらん。」と巫馬期が言っているように、儒教において同姓婚は禁じられている。事実、韓国では1999年まで同姓婚を禁じていた。この頃の新羅では、王室に儒教の影響はなかった、あるいは小さかったと推測できる。
もちろん、たとえ儒教の影響がなかったとして、その教えは普遍の道であるから、その論理でもって当時の新羅王たちを評価するのも、当然のことである。

≪原文≫
 元年、三月。以繼元爲伊飡、委軍國政事。

≪書き下し文≫
 元年、三月。以て繼元を伊飡と爲し、軍國政事を委ぬ。

≪現代語訳≫
 元年、三月。繼元を伊飡に任命し、軍國政事を委任した。



≪原文≫
 二年、春正月。親祀始祖廟。大赦。以興宣爲一吉飡。

≪書き下し文≫
 二年、春正月。始祖廟を親祀す。大赦。以て興宣を一吉飡と爲す。

≪現代語訳≫
 二年、春正月。始祖廟を親祀し、大赦を出した。興宣を一吉飡に任命した。


 相変わらずのしっかりした儀礼と官僚制。

≪原文≫
 三年、夏四月。隕霜。開雞立嶺路。

≪書き下し文≫
 三年、夏四月。霜隕る。雞立嶺に路を開く。

≪現代語訳≫
 三年、夏四月。霜が降った。雞立嶺に道路をつくった。


 開雞立嶺路がずーっと読めずに苦悶していたんだけど、検索してたら雞立嶺という地名だと判明した。開雞って人かなー、とかいろいろ考えていたんだけど。

≪原文≫
 四年、春二月。始置甘勿馬山二縣。
 三月、巡幸長嶺鎭。勞戍卒、各賜征袍。

≪書き下し文≫
 四年、春二月。始めて甘勿馬山の二縣を置く。
 三月、長嶺鎭を巡幸す。戍卒を勞ひ、各の征袍を賜る。

≪現代語訳≫
 四年、春二月。初めて甘勿と馬山の二県を置いた。
 三月、長嶺鎭を巡幸した。その際、戍卒(国境警備兵)の労をねぎらい、それぞれに征袍(兵士の着用する綿入れ)を賜った。



 これは兵士としてはうれしい。戍卒を防人と訳そうかと思ったけどやめた。
 ところで、朝鮮半島は日本列島と比較して寒い。北方には白熊もいるし、現在ではロシアと隣接している。以前、岩波文庫で出版された朝鮮詩集という書籍を読んでいると、白熊と「青い目をした異人」という表現が登場し、近場のように思っていた朝鮮が、すごく遠く感じられたのは覚えている。

≪原文≫
 五年、春三月。開竹嶺。倭人來聘。
≪書き下し文≫
 五年、春三月。竹嶺を開く。倭人來聘す。
≪現代語訳≫
 五年、春三月。竹嶺を開墾した。倭人が來聘した。


 倭人が貢物をもって来朝したとのこと。上下関係があったのか、ただの貿易か何かなのか、よくわからない。

≪原文≫
 七年、夏四月。暴雨。閼川水溢、漂流人家、金城北門自毁。

≪書き下し文≫
 七年、夏四月。暴雨。閼川水溢れ、人家を漂流し、金城の北門自毁す。

≪現代語訳≫
 七年、夏四月。暴雨。閼川水が溢れ出し、人家を押し流し、金城の北門が自壊した。



≪原文≫
 八年、秋七月。蝗害穀。海魚多出死。

≪書き下し文≫
 八年、秋七月。蝗穀を害す。海魚出で死ぬもの多し。

≪現代語訳≫
 八年、秋七月。蝗が穀物を害した。海では魚が大量に死体を浮かべた。


 天災の記事。

≪原文≫
 九年、巡幸沙道城、勞戍卒。

≪書き下し文≫
 九年、沙道城を巡幸し、戍卒を勞ふ。

≪現代語訳≫
 九年、沙道城を巡幸し、戍卒の労をねぎらった。


 特に国境警備はつらい仕事であろう。百済本紀の記事などをよく見るに。(主に百済が加害者)

≪原文≫
 十一年、春二月。龍見京都。

≪書き下し文≫
 十一年、春二月。龍京都に見(あらわ)る。

≪現代語訳≫
 十一年、春二月。龍が京都に現れた。



≪原文≫
 十二年、冬十月。阿飡吉宣謀叛、發覺、懼誅亡入百濟。王移書求之、百濟不許。王怒出師伐之。百濟嬰城守不出、我軍粮盡乃歸。

≪書き下し文≫
 十二年、冬十月。阿飡吉宣叛を謀るも、發覺し、誅を懼れて百濟に亡入す。王は書を移して之れを求むるも、百濟は許さず。王怒り出師して之れを伐たんとす。百濟嬰城して守りて出でず、我が軍は粮を盡くして乃ち歸す。

≪現代語訳≫
 十二年、冬十月。阿飡の吉宣が叛乱を企てるも、事前に発覚した。誅殺されることを恐れた吉宣は百済に亡命した。王は書簡を送って吉宣の引き渡しを求めたが、百済はこれを拒否した。阿達羅王は怒り、討伐せんとして自ら兵を率いて出撃した。しかし、百済は城の守りを固めて籠城したため、我が軍(新羅軍)は糧食が尽きて帰還することになった。


 百済本紀蓋婁王に登場したエピソードが新羅視点から。あちらに書かれた「羅王」とは阿達羅王のことであったようである。「新羅の王」の略称ではなく「阿達羅王」の略称だったのだろうか。と思ったが、百済本紀には「羅兵」という記述もあるので、やはり新羅の王だろう。
 百済本紀では、ここで新羅と百済の講和が破棄されたことが強調されていたが、今回はそういった記載はない。

≪原文≫
 十三年、春正月辛亥朔。日有食之。


 日食。

≪原文≫
 十四年、秋七月。百濟襲破國西二城、虜獲民口一千而去。
八月、命一吉飡興宣、領兵二萬伐之。王又率騎八千、自漢水臨之。百濟大懼、還其所掠男女、乞和。

≪書き下し文≫
 十四年、秋七月。百濟國西二城を襲破し、民口一千を虜獲して去る。
八月、一吉飡興宣に命じ、領兵二萬に之れを伐たせしむ。王又た騎八千を率い、漢水より之れに臨む。百濟大いに懼れ、其の男女を掠める所に還し、和を乞ふ。

≪現代語訳≫
 十四年、秋七月。百済が国の西方にある二つの城を襲撃して打ち破り、民衆一千人を拐った。
八月。一吉飡の興宣に命じ、領兵二万とともに百済軍の討伐に向かわせた。同時に王も騎兵八千を自ら率い、百済軍と漢水で対峙した。百済軍は新羅の軍に大いに恐懼し、虜囚とした男女一千人を元の住処に還し、和平を乞うた。


 百済本紀肖古王二年と同じエピソードであるが、こちらでは百済が和平を乞うている。しかし、百済本紀肖古王五年には「冬十月。出兵侵新羅邊鄙。」とあり、百済が新羅を侵略している。これはいったいどういうことだろうか。
 いずれの記述も正しいとすれば、新羅が和平を拒否したか、百済が和平を破棄して侵略したか、あるいは、今回の戦においてのみの「和」であったか、可能性としてはこんなところだろうか。
 もし百済が和平を乞いながら、それをあっさり破棄して新羅を攻めたとしたら、なんで蓋婁王が責められていたのかさっぱりわからないし、百済が完全におかしいことになる。どうかしている。

≪原文≫
 十五年、夏四月。伊飡繼元卒、以興宣爲伊飡。

≪書き下し文≫
 十五年、夏四月。伊飡繼元卒、以て興宣を伊飡と爲す。

≪現代語訳≫
 十五年、夏四月。伊飡の繼元が死去し、興宣を伊飡に任命した。



≪原文≫
 十七年、春二月。重修始祖廟。
 秋七月。京師地震、霜雹害穀。
 冬十月。百濟寇邊。

≪書き下し文≫
 十七年、春二月。始祖廟を重修す。
 秋七月。京師にて地震、霜雹穀を害す。
 冬十月。百濟邊を寇す。

≪現代語訳≫
 十七年、春二月。始祖廟を重修した。
 秋七月。京師にて地震が起こり、霜雹が穀物を害った。
 冬十月。百済が国境を侵犯した。


 百済本紀五年肖古王の「冬十月。出兵侵新羅邊鄙。」が新羅本紀でも記事になっている。もしかすると、ここでの「寇」という字に何らかの意味があるのだろうか。少なくとも、いい意味ではない。「侵」や「攻」など、侵攻にもいくつかの字がある。やはり、和平を乞いながら、侵略したことを表しているのかもしれない。だとしたら、やっぱり亡命者を匿っただけの蓋婁王ってそんなに悪いことしてないのでは……。

≪原文≫
 十八年春。穀貴。民飢。

≪書き下し文≫
 十八年春。穀貴し。民飢ゆ。

≪現代語訳≫
 十八年春。穀物の価格が高騰し、人民が飢えた。


 物価の高騰による飢饉が発生。これは非常に興味深い記事である。貨幣経済が勃興したのだろうか。投機や輸出入による価格変動で民衆が飢えた? それとも単純に不作で穀物の価格が高騰しただけだろうか。後者であれば、単純にそう記事にすればいいだけである。
 考えるに、これは農村部と都市部の分離が起こり、農村の生産物が都市部で供給できなかった、あるいは買い占め等が起こって穀物の価格が高騰したのではないかと思う。社会が発展したが故の危機と言えるだろう。新羅の都市化貨幣経済の浸透については過去の記事で触れた。

≪原文≫
 十九年、春正月。以仇道爲波珍飡、仇須兮爲一吉飡。
 二月。有事始祖廟。京都大疫。

≪書き下し文≫
 十九年、春正月。以て仇道を波珍飡と爲し、仇須兮を一吉飡と爲す。
 二月。始祖廟に事有り。京都大疫。

≪現代語訳≫
 十九年、春正月。仇道を波珍飡に任命し、仇須兮を一吉飡に任命した。
 二月。始祖廟に事有り。京都大疫。


 仇氏は親族同士なのだろうか?
 始祖廟での「事」というのはなにだろうか。有事ということは、いい意味ではないだろうが、よくわからない。京都でも疫病。

≪原文≫
 二十年、夏五月。倭女王卑彌乎遣使來聘。

≪書き下し文≫
 二十年、夏五月。倭女王卑彌乎遣使して來聘す。

≪現代語訳≫
 二十年、夏五月。倭の女王である卑彌乎が使者を派遣して來聘した。



 ついに卑弥呼登場。ということは、この時代、中国は三国時代である。
 卑弥呼は使者を派遣したとのことであるが、初代朴赫居世に仕えた瓢公といい、新羅と倭国は関係が深いのだと改めて感じられる。

≪原文≫
 二十一年、春正月。雨王(土)。
 二月。旱。井泉竭(渇)。

≪書き下し文≫
 二十一年、春正月。雨王。
 二月。旱。井泉竭く。

≪現代語訳≫
 二十一年、春正月。雨が降る。
 二月。旱魃。井泉が干上がった。



≪原文≫
 三十一年、春三月。王薨。

≪書き下し文≫
 三十一年、春三月。王薨ず。

≪現代語訳≫
 三十一年、春三月。王が死去した。



 阿達羅尼師今死す。類まれなイケメンであった。それ以外の特徴はよくわからない。いやね、さすがにもう8代目の王だから、そんなに個性とか見いだせないってば。父親の逸聖よりは目立った感じがするけど、よくわからない。国境の警備隊に対して安撫に向かう描写が多く、他国との緊張関係がより一層増大したと考えられるが、これは人間の可住領域が拡大したこと及び騎馬民族の流入に起因するのではないかと想像する。事実、よく交戦している百済の祖は騎馬民族であろう。
 百済本紀や倭国の卑弥呼などとリンクし、更には経済や産業についても思考を巡らせられる、非常に興味深い年間であった。
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