"中国古典"カテゴリーの記事一覧
-
焚巣館 -論衡 扶余王の東明について-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/chousenshi_chuugoku_shisho/ronkou_fuyo.html本日の更新。この文章はずっと前に更新したと思い込んでいて、実は更新されていないと気づいてビックリし、急遽として今回の更新となった。
高句麗の始祖神話が扶余の始祖神話と基本的には同じ内容で、王の名のひとつが「東明」であることまで同じという事実をどのように解釈するか、それを考えるには、記録の各バージョンにおける差異を検証する必要がある。今回訳した部分は、現存する漢籍のうち、扶余の東明の建国神話の最も古い出典となるものであり、中国"史書"における古代朝鮮と周辺国の記述本旨から外れるのに訳した理由もこれである。1世紀に成立。
さて、論衡は後漢の儒者である王充の記した書籍。仏教や道教に圧される中にあった儒教を中興させたと評価される唐の韓愈に後漢三賢と並び称されており、王充は儒者として高く評価されている。なぜ「儒者である」とか「儒者として」と繰り返し王充が儒者であることを強調するかと言えば、王充は儒者ではないと勘違いした評価をされることが多く、それどころか「儒教嫌い」と歴史オタクの間で見なされ、私は常々そういう浅薄な連中を苦々しく思っているからである。このように評価している者の中で、いったいどれだけの者が論衡を読んだことがあるのか、他の儒者の書にどれだけ触れたことがあるのか、まことに疑わしい。
さて、王充が反儒と見なされる理由には、論衡にて孔子を批判したことが挙げられる。確かに、論衡には問孔篇という一篇が表され、そこでは論語に対する批判的な検討が為されている。しかし、孔子の批判なんて論語の中で孔子の弟子だってしているし、その中には孔子が自らの誤りを認める記述もある。儒教における孔子は権威ではあっても絶対者ではない。たとえば、荀子の堯問篇には、荀子を孔子よりも優れた存在だと絶賛する文章が掲載され、吉田松陰の講孟箚記には、冒頭から孔子や孟子が祖国以外に仕えたことへの批判が述べられる。これらの孔子への批判や評価が正当かどうかは置いて(私は同意しない)も、儒者が孔子を批判することは、必ずしも儒の否定ではない。そもそも孔子自身が「仁に当たりては師にも譲らず」と言い、本当に大事なことについては師にだって譲ってはならぬと言っているのだ。王陽明が「吾が心に省みて非なれば、孔子の言といえども是とせず」と言ったことが過大評価されることも多いが、この内容は論語にてすでに織り込み済みの内容であるし、その一節が登場する王陽明の逸話も、伝習録の当該部分を読めば孔子が他の人物とは別格の存在であることがしっかり述べられている。
論衡にしてもそうで、問孔篇で王充が批判しているのは、孔子の思想そのものというより、論語の内容に矛盾する説が存在することの指摘である。私は王充の私的は少し的を外しているところがあると思っているのだけど(ぱっと見で矛盾してそうに見えるだけで、別に矛盾していない章句を矛盾として挙げている)、それはさておき、王充は孔子に大した批判なんてしていない。
また、論衡については、なぜか孔子批判ばかりが取り上げられるし、なぜか「王充はかつて孔子や儒教を全否定した韓非子と同じ思想を有していた」という、どこからツッコんでいいかわからないような謎の見解までまことしやかに囁かれている。まず第一に、論衡には『非韓篇』という韓非子を批判する一篇が存在している。しかも、王充は韓非子への批判に当たって、なんと孔子の言葉を引用するのだ。これこそが王充の真骨頂である。なにを見たら「王充は孔子や儒教を全否定した韓非子と同じ思想」という謎の妄想に至るのか。それと「孔子や儒教を全否定した韓非子」という見解も間違いで、韓非子は少なくとも孔子の逸話を好意的に引用することは少なくなかったし、儒教を全否定していたというのも雑な見方ではあるが、それを置いたとしても。
ちなみに、論衡の非韓篇というのは、私が非常に大きな影響を受けた一篇で、非常に面白いのでぜひとも皆さんに読んでいただきたい。ここに込められた儒者としての王充の見識は非常に鋭い。王充による礼を基軸とした法との関係に関する論は、ウォルター・バジョットの『イギリス憲政論』の王制擁護(法権力に対する権威の擁護)に勝り、射程の広さにおいては比較にならぬ『礼』に着眼した良質な文化論だと私は考えている。あれが儒でなくて何だというのか。
論衡の「衡」とは「はかり」のことで、各思想を比較検討することが目的の書である。ゆえに、どの思想も全肯定も全否定もしていない。
で、今回ホームページで更新した東明に関する記述は、王充が展開した天命論についての説明の一部である。王充はよく合理主義者として評価されるし、それ自体は別に間違いではないのだけど、合理主義であるが故に彼が陥ったのは宿命論である。要は結果には原因があるという合理的な思想の延長線上に、あらゆる未来は過去に原因が存在し、故にすべての未来はあらかじめ決定しているという思想に陥る。王充は世界をそのように考えていた。それを前提にして本文を読んでみると、文意がわかりやすいと思う。ちなみに、この結果に原因があるという合理主義的思考は荀子にもみられる。
ところで、王充が合理主義だ、合理主義だとばかり評価されるのが私は嫌で、何が嫌かって近代人の視点で古代の思想家に対して、"古代人にしては合理的でスバラチイ"と評するのは、あくまで思想家の評価軸としては副次的なものだし、当然ながら王充は古代人なのだから超常現象とかをそのまま信じている内容も書籍には含まれており、どう考えても近代人の視点に基づく合理主義からは、「古代人にしては頑張っているけど、我々からしたらちょっとオクレたヤツ」でしかなくて、要は本人への敬意のない安全圏からの上から目線なわけでしょ? と思うわけ。しかも、そういうところばかりに評価の視点が向くから、韓非子(=合理主義的な法律万能主義)と同じ思想だと勝手な妄想をされたりもする。
で、むしろ私が先ほど挙げた上記の非韓篇は、まさしく韓非子の有する表層的な合理主義に対する痛烈な批判であり、そちらの方が王充の独自性があり魅力的なので、私はそこを強く推したい。非韓篇は私の推し篇である。これは儒という文化的な弾力性を有する思想があってこそ成立するものである。
ちなみに、過去に政治運動的に王充を反儒教としてやたらに顕彰したのは、毛沢東のピーリンピーコンの時なのだけど、現在のネット上で王充をやたらに反儒反孔として顕彰し、韓非子と同一視する連中にはネトウヨが圧倒的に多い。西村修平を置いても、安能務とかあのへんの流れなのか何なのか、ネトウヨに毛沢東思想ド注入みたいな現象ってあるよね。
PR -
焚巣館 -後漢書東夷列伝 序文-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/chousenshi_chuugoku_shisho/gokanjotouiretsuden/00jobun.html本日の更新。かなり前に訳したものなので、訳を一から訳し直ししたかった。
作業に思ったより時間がかかったのは、やはり注が原因である。なんと注の数は57である。いつも訳よりこちらの方が時間がかかるけど、今回は特にヤバい。この序文は、中華と東夷の関係史を最初の帝王たる堯から後漢末に至るまでの2500年史で描いており、中国史を概覧するものになっているので、とにかく次から次へと注の必要な名詞が登場する。もう無理。※33から※36なんて、図らずとも孔子が登場する直前の200年史を一望できるような内容になってしまった。
というわけで、せっかくなので孔子が登場する直前の中国の状況について簡単に述べよう……と思ったけど、時間が結構遅いのでまた今度にしよう。予約投稿をセットして夜のジョギングをしてくる。
-
焚巣館 -中国史書における古代朝鮮と周辺国の記述https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/chousenshi_chuugoku_shisho/main.html
本日の更新。
宋書東夷伝の現代日本語訳をすべて追加。後漢書東夷伝と三国志東夷伝の内容と大半が被る晋書東夷伝よりも翻訳のモチベーションは高かった。三国史記に登場する高句麗や百済の王に本伝の王を比定するのも愉しかったし、倭国伝にはかの有名な倭の五王も登場する。もちろん私も原文を読むのは初めてである。
今回は官職に関する註が多い。というのも、高句麗、百済、倭国の関係を見る上で重要だからである。高句麗王が征東大将軍、百済王が鎮東大将軍、倭王が安東大将軍とされており、序列は高句麗>百済>倭となっている。
しかも、この官位が認められる流れにも違いがある。高句麗は晋の時代から既に征東将軍で、宋の代となってから、高句麗王を征東大将軍、百済王を鎮東大将軍と任命している。しかも高句麗は車騎大将軍や開府儀同三司といった官職を追加で宋から自発的に賜っている。対して百済は臣下に仮の官位を自称させ、その後に宋に対して正式に官位を認めるよう要請し、これがかなって宋から官位を認められている。
さて、ところが倭の事情は複雑である。まず倭王珍は都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大将軍なる官職を『自称』していた。これはあくまで自称である。この意味は「倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓の六国を支配し、軍事をも司る安東大将軍」である。要は倭のみならず南韓地域全ての支配権を主張したわけである。そして、倭王珍はこの官職を宋に認めるよう要請した。しかし宋が認めたのは、「安東将軍倭國王」であった。宋は倭の支配権しか認めず、しかも安東大将軍から「大」を抜いている。
次の代の倭王済で変化が起こる。最初は済も「安東将軍倭國王」しか認められなかったが、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事が認められたのである。これは先ほどの自称した官職のうち百済の支配権を抜いて加羅の支配権を加えたものである。ただし、安東将軍という地位は変わらず、大将軍とはなっていない。
これに続く倭王興が立つと、今度は「安東将軍倭國王」に戻されてしまう。ところが次の倭王武が立つと、またしても今度は都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王なる官職を自称し始める。重ねて注意しておくが、これもあくまで自称である。倭王武はこれを正式な官職と認めるよう宋に要請した。その際には上奏文もしたためており、ここでようやく宋から都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大将軍倭王という官職を得る。前回と同様に百済以外の新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓の支配権が認められ、しかも念願の安東"大"将軍が認められた。
時に倭国が都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大将軍倭王という号を認められたことを根拠に、百済を含む朝鮮南部を完全に征服していたと主張されることがあるが、このように倭国はなかなか宋から官位を認められず、当初は高句麗や百済から二段落ちる立場で、最後の最後までこれらの二国とは並べてはいない。
ただし、三国史記には倭国に百済が王子を人質に送り、その人質を成長後に王に立てていたことが記されている。これは倭が世代を重ねるごとに南韓地域に影響力を強めていったと推測することもできるだろう。しかし、それなら百済は倭よりも宋から受けた官位は高いままに、勢力を強めた倭の風下に立ったということだろうか? なんとも複雑な状況である。
ところで、日本書紀の神功皇后紀では皇后が最初に新羅や加羅を平定した後にも、幾度となく新羅や加羅が倭に叛き、そのたびに倭が攻め込んで大勝したという記事が掲載される。これが時に倭の強力さを示す根拠として述べられることがあるのだけど、私は読んでいて倭の強さよりも落ち着きのなさを感じた。頻繁に攻め込むということは、少なくとも南韓地域を制御できていないのではないか。そもそも倭がすべての侵攻で大勝したという記述自体も怪しいと思うのだけど、侵攻を繰り返している時点で既に神功皇后の頃に倭が南韓地域を安定して実効支配できていたとは思えない。
これは倭国の官職に関する動きにも同様のものを感じる。倭の五王の動きにはあまりに落ち着きがない。実際、倭王武こと雄略天皇の代には、新羅に攻め込んだという記事が見られるが、その際に倭は仲間割れを起こして撤退しており、その後は南韓地域への出兵はしばらくなくなる。
その後、なんと雄略天皇の王統はその子の代で終わってしまう。次の天皇には雄略天皇が暗殺した市辺押磐皇子の子らが相次いで王位に立つが、その王統も次の武烈天皇で絶たれ、ここで一度は天皇自体の王統がほとんど絶たれてしまう。
次に立ったのは、10代前の天皇の5世孫の継体天皇であった。これまた日本が支配していたか否かで意見の分かれる任那であるが、日本書紀においてもこの地域は百済に割譲され、継体天皇の代で失われたと記される。雄略天皇以後に倭は、南韓地域の権益どころか、国家自体が存亡の危機に瀕していた。
こうしてみてみると、倭国が南韓にどの程度まで影響があったか否かの議論はさて置き、その拡張主義には大いに無理があったのではないか。そのように思われる。
この宋書東夷伝の記述は日本と朝鮮との民族間での歴史認識における闘争の場となっているのだけど、こりゃ確かに荒れるよなあ……と率直に思った。どちらにとっても「有利」な話が多い。
ところで、現在の私は見ての通り、古事記や日本書紀をはじめとした日本神話にハマっており、ゆえに倭の五王に関する注には力が入っている。とはいえ、倭王濟 という表記はちょっと自分でもやりすぎた気はしている。倭王武 という表記もだけど、こちらは倭王武がワカタケルに由来する名だというのがある程度まで確定している。一方で倭王済の名が雄朝津間稚子宿禰天皇の宿禰に由来しているかどうかはちょっとわかんない……。私の思い付きから勢いでやってしまったものである。後々削るかもしんない。 -
焚巣館 -中国史書における古代朝鮮と周辺国の記述https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/chousenshi_chuugoku_shisho/main.html
こちらに晋書東夷伝の現代日本語訳をすべて追加。序、夫餘国、三韓、肅慎氏、倭人、裨離国。裨離国伝には北方の国がいくつも羅列される。
三国志の東夷伝は長いので、先に短いこちらを全訳。それにあちらは他に訳している人がいくらでもいるだろうし……。一応すべて書き下しはしたのだけど、訳す気に今ひとつならない。そのうちやるけども。
裨離国なる国を今回で初めて知ったのだけど、どこなんだろう。粛慎(挹婁)より北西なのだから、ガッツリ極東ロシア地域だと思うのだけど。どうやら扶余の始祖である東明王が生まれた橐離国という説もあるらしい。橐離国は高句麗という説もあるのだけど、どうなのか。今回の晋書裨離国伝は内容に乏しく、どのような国なのかはよくわからない。
裨離国をはじめとする九カ国から中国に人が帰化したと記されている。肅慎より来たと聞けば、遥か遠い国のようにも感じるけど、西側なので中国に近かったり、現中国の領土内なのかもしれない。さっき極東ロシアじゃないかと書いておいてなんだけど。
この東夷伝の翻訳は三国史記の訳の補助線として用いるつもりで始めたもので、これまでの国々はすべて三国史記にはっきりとかかわる国しかなかったのだけど、この裨離国はどこまで三国史記と関係あるのか現時点ではわからない。もし高句麗だったらとんでもなく関係あるのだけど、既に後漢書と三国志に伝があり、漢書にも名前は登場することから、少なくとも太祖大王や新大王が支配した高句麗であることはあり得ないだろう。
晋署の東夷伝は新規の情報が少なく、扶余国と裨離国以外は三国志の東夷伝の要約とその後の附録といった程度のものであるが、次回の宋書は非常に豊かで貴重な史料である。 -
≪白文≫
吳之入楚也、使召陳懷公。懷公朝國人而問焉曰、欲與楚者右、欲與吳者左。陳人從田、無田從黨。逢滑當公而進。曰、臣聞國之興也以福、其亡也以禍。今吳未有福、楚未有禍。楚未可棄、吳未可從、而晉盟主也、若以晉辭、吳若何。公曰、國勝君亡、非禍而何。對曰、國之有是多矣、何必不復、小國猶復、況大國乎、臣聞國之興也、視民如傷、是其福也、其亡也、以民為土芥、是其禍也、楚雖無德、亦不艾殺其民、吳日敝於兵、暴骨如莽、而未見德焉、天其或者正訓楚也、禍之適吳、其何日之有、陳侯從之、及夫差克越、乃脩先君之怨。
≪書き下し文≫
吳の楚に入るや、使して陳の懷公を召さしむ。懷公は國人に朝して焉れを問ひて曰はく、楚と與することを欲する者は右へ、吳と與することを欲する者は左へ、と。陳人は田に從ひ、田無ければ黨に從ふ。逢滑は公に當たりて進む。曰く、臣聞けり、國の興るや福を以てし、其の亡ぶや禍を以てす、と。今の吳は未だ福を有(も)たず、楚は未だ禍を有(も)たざる。楚未だ棄つ可からず、吳未だ從ふ可からず、而るに晉の盟主なるや、若し晉を以て辭すれば、吳は若何(いかん)、と。公曰く、國の勝ゆるも君の亡(のが)るは、禍に非ずして何ぞ、と。對へて曰く、國の是れ多く有らんや、何ぞ必ず復せざるか。小國猶ほ復せり。況や大國をや。臣聞けり、國の興るや、民を視るに傷が如し、是れ其れ福なり。其の亡ぶや、民を以て土芥と為す。是れ其れ禍なり、と。楚には德無しと雖も、亦た其の民を艾殺せざり。吳は日に兵(いくさ)に敝(おとろ)へ、骨を暴(さら)すこと莽(ごみ)の如くし、而れども未だ德を見(あらは)さざらむ。天其れ楚に正訓を或(あ)らせんや、禍之れ吳に適くこと其れ何日之れ有らん、と。陳侯之れに從ふ。夫差の越に克つに及び、乃ち先君の怨を脩む。≪現代語訳≫
呉が楚に入国すると、使者を出して陳の懷公を召し出させた。懷公は國人と合議でそのことを問うた。
懷公「楚に味方したい者は右へ、吳に味方したい者は左へ。」
陳人は田畑(の位置)によって意見を決め、田畑を所有していなければ居住する郷党に従い、楚に近い西に住む者は右、呉に近い東に住む者は左へ行ったが、逢滑は左右いずれに行くこともなく公に向かってまっすぐに進んで言った。
逢滑「臣(わたし)は『国家は”福”によって興り、”禍”によって滅亡する。』と聞いています。今の呉はまだ”福”にありませんし、楚はまだ”禍”にありません。まだ楚とは手を切るべきではありませんし、まだ呉に従うべきでもありません。晉は盟主として君臨しております。晉への加盟を理由にして要請を辞退すれば、呉がどうするでしょうか?」
懷公「国家は持ちこたえても君主が亡命している。"禍"でなければ何だというのか。」(楚は呉に敗北した。)
逢滑「そんな国は数多くありましたが、絶対に復興しないなんてことがありましたでしょうか。小国であっても復興できるのだから、大国であれば言うまでもないことです。臣(わたし)は、『国というものは、人民の痛みを自らの痛みとして見ることによって興る。これこそが"福"である。国は、人民を土くれやゴミのように扱うことで滅亡する。これこそが"禍"である』と聞いています。楚に徳はありませんが、人民を虐殺するようなことがあったわけでもありません。呉は日に日に兵事によって疲弊し、兵の人骨をゴミのように野に晒していますが、まだ徳を現してはいません。天が楚に正統性を与えてしまうようなことがあれば、"禍"が呉に向かうには、それほど年月はかからないでしょう。」
陳侯はそれに従った。夫差は越に勝利することで、先君の怨を修めた。
春秋左氏伝の記事。現代語訳には注釈の内容を加味しているので、一部逐語訳にはなっていない。
南方最大の国家『楚』を新たに大国として台頭した隣接国の『呉』が攻め破り、その君主が亡命した際のこと、両国のはざまに存在する小国『陳』における合議の様子である。大国に翻弄される小国の困難が生々しく描かれている。(国家内に小規模な従属都市国家が疎らに存在する当時の中華世界において、宗主国の周から直々に冊封された陳は必ずしも小国ではなく、地勢からしても中規模国家と呼ぶべきものなのだろうけど、大抵の場合に陳は小国と説明される)この描写は現代の我々から見て、なかなか興味深いものである。まず、一国の政治決定を国人の合議によって取り決めている。もちろん、ここでの国人とは近代国家における国民一般ではなく、一定の身分制下での限られた人員であろう。それでも、田(訳では田畑)を所有する者(地主階級)は、その土地の利益によって呉楚のいずれに与するかを決定し、それを所有しない者は、在住地の郷党(仲間、身内)によって決定したと記録されていることから、田畑の所有者でない者にも参政権があったことが記されている。
もちろん、おそらく家長の男性、それも奴婢ではない『良民』とされた一種の市民階級に限定されていたであろうことは疑いないが、それは必ずしも地主階級以上には限定されていなかった。こうした事実は、古代中国における国家の意思決定に一定の民主的なプロセスが存在していたことを示唆している。(ただし、ここでは最終的に賢者の進言によって君主が独断で決定を下しており、その手続きがどこまで厳格な力を持っていたかといえば、頼りなくも感じるが。)ところで、私がいたく感心するのは、逢滑の語る国家観である。ここでは、質朴ではあるものの、国家の正統性について非常にわかりやすく説明されており、本章句を訳そうと思ったのも、三国史記の高句麗本紀末尾で著者の金富軾が断片的に引用したものを見て感心し、全文を原文で読みたくなったことがきっかけである。
インターネットで差別的な国家主義が台頭し、もう一方で国家という機構そのものの否定や忌避に対立軸側の意識が高まっている。しかし、国家の是非についての対決を前提とした議論にいきなり入るよりも先に、国家とは何か、国家をどう捉えるか、国家とどう向き合うか、そういった実と向き合うことこそ大事ではないか。私はこの章句に目を明かされた思いがした。
三国史記で引用されていたのは、現代語訳中にある『国家は”福”によって興り、”禍”によって滅亡する。』『国というものは、人民の痛みを自らの痛みとして見ることによって興る。これこそが"福"である。国は、人民を土くれやゴミのように扱うことで滅亡する。これこそが"禍"である』の部分である。これらの言葉は、「臣聞けり」と前置きされて展開されている通り、逢滑自身も引用として述べた部分である。当時の時点で既に格言化していた言葉と考えられる。
これによって語られる国家の正統性の根拠は、人民との関係によって規定されている。人民の傷を認知すること、それが国家の正統性であり、人民をゴミのように扱う、つまり傷を認知しないことで国家は正統性を害う。金富軾は三国史記において、この章句を受けた上でさらに論を進め、暴政の中にある国家を敢えて維持することは、悪酔いした者に酒を無理やり飲ませるようなものだと強く批難している。これは、この時代より後に孟子が唱えた易姓革命の放伐論(人民に虐政を為す暴君の討伐を正当化する思想)に繋がるものがある。
また、懷公と逢滑の会話では、君主の亡命についても触れている。逢滑は君主の亡命など、"禍"のうちに入らないと言い、むしろ呉が戦争に明け暮れることで戦死者を野晒しにしていることを"禍"と見る。同時代の孔子は論語において、おそらくは周の空位時代を挙げて「夷狄の君有るは、諸夏の亡きに如かず」と述べ、王の存在が国家の優越を同定しないと論じたが、こうした議論に基づいて更に深く洞察すれば、国家の主体が何に依拠しているかに考えが及ぶ。君主が国家の主体でないとすれば、国家の主体とは何か。国土か、文化か、それとも……。これも、先程の先程の格言や国家における意思決定の民主的側面と照らし合わせてみれば、孟子の唱えた民本主義(人民を国家の第一とし、文化を第二、これらと比して君主は最も軽い第三とする思想)に繋がる。
革新的な思想というものは、唐突に降って湧くものではない。それは過去との連続の中に存在するもので、決して単なる個人の独創などと考えてはならない。
朱子学以降、儒学の基礎経典は四書五経という形で纏められた。四書は論語、大學、中庸、孟子といった孔子や孟子がごとき過去の儒者たち自身の典籍で、詩経、書経、礼経、易経、春秋経はそれ以前から存在する経典である。もともとの儒学において相対すべき典籍は、孔子や孟子がそうであったように五経(本来は六経、ひとつが漢の前後に喪失した)が中心にあり、論語や孟子は五経の学を得た先輩たちから五経を学ぶ前に基礎を獲得するための典籍であった。
しかし、時代とともに四書の権威は五経を凌ぎ、今の世間において儒学の経典といえば、専ら論語や孟子の名が挙がり、五経の名はほとんど挙がらなくなってしまった。
孔子や孟子の思想は、個々人の考えとして比較的体系化され、言葉の意味も取りやすい。しかし、思想の素材となる知識は、思想そのものとはまた違った意義を持っているはずだ。孔子や孟子を創り上げたのは、それ以前の過去なのである。