"三國史記"カテゴリーの記事一覧
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焚巣館 -三国史記 第二巻 阿達羅尼師今-
本日の更新。これも当然ながらストックである。仕事が忙しい。充実した忙しさではあるのだけども。
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/sangokushiki/02kan/01atara.html百済との和睦が失われた点が大きな事件だろうか。ちなみに、これが三国史記上における朴氏王権の最後の王である。ここからは昔氏の王がしばらくは王権を占めることになっており、朴氏の王権は新羅王朝末期の王朝崩壊寸前の頃に唐突に登場する。とはいえ、私はこれらの朴氏と昔氏の王権は並行されていたか、場合によっては同一の王朝ではないかと思ってるが、実際のところはよくわからない。
さて、なんだかんだで私も所詮は日本生まれ日本育ち、やっぱり気になるのが卑弥呼の記事である。
ただし、注にも記しているが、この年紀はアヤシイ。魏志倭人伝の記録に基づけば、これは卑弥呼の死ぬ75年前ということになっている。仮に卑弥呼が80歳まで生きたとしても、5歳ということになってしまうし、延ばしに延ばして100歳だったとすれば25歳でのことだということになるが、魏志倭人伝の記録に基づいて考えると、卑弥呼の王位による太平の世が70年以上続いたというのもちょっと考えづらい。
そこでひとつ材料として思いつくのは、三国史記のすぐ後に記された三国遺事という朝鮮の史書である。こちらには、阿達羅王四年(西暦157年)に新羅の東海岸に住んでいた延烏郎という男が石のボードに乗って倭国に渡来して王となり、その後を追って妻の細烏女も倭国に渡り、王妃になったという記述がある。これは本記事の16年前とされているから、この夫婦の中の妻の細烏女を卑弥呼と見立てての記述ではないか、と私は考える。
ちなみに、以前も記したが、私の想像するに延烏郎の正体は日本神話における饒速日(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)であり、同時に日本列島を創造したとされるイザナギではないかと思っている。イザナギは開拓者として朝鮮半島から日本列島に渡り、日本に国家を創建し、それがヤマト王朝の始まりではないかな、と。
そして、天皇のうち、これは孝霊天皇ではないかと考えてもいる。孝霊天皇の皇后は細媛といい、天目一箇神という渡来神との関係も深いことが推測できる。孝霊天皇は、天目一箇神と同一視される天御影命と関係が深い。また、孝霊天皇には一つ目であったという伝承があり、同一人物ではないかと私は疑っている。
ちなみに、饒速日は『天磐舟』という石の船に乗って日本列島に渡ってきたという伝承がある。これも延烏郎の伝承と似ている。また、卑弥呼の候補とされる倭迹迹日百襲姫命は、イザナギとイザナミが滞留したとされる淡路島の出身であることが記されており、『うつぼ船』に乗って四国に渡ったという伝承が香川県の水主神社に遺されており、そこにはうつぼ船とされる実物の船が残っているが、これは石の船であり、しかもその名の又の名は天磐舟だと明示されて遺されている。
これが当時の本物の石船であるかどうかなど知る由もないし、信仰について触れるつもりはないが、少なくとも卑弥呼候補となる人物が饒速日という神と同じ船に乗っていたという伝承が存在すること自体には留意すべきであろう。
私の妄想開陳が長くなってしまったが、三国史記の卑弥呼の記録は、これらが何らかの形で反映された記録であると考えることはできると思う。
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焚巣館 -三国史記 第十四巻 慕本王-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/sangokushiki/14kan/03bohonou.html
昨日の更新。すがすがしいまでの暴虐の王……ということになっているが、彼のしていることは暴虐というか、奇行というか。人を椅子にしたりとか、枕にしたりとか、「なんてひどいやつだ!」よりも先に「なにがしたいの?」という疑問が先に出る。本当にこんな暴虐の王だったのかはアヤシイ。二年秋八月には、餓民に賑恤しているし。この王の記録のおかしさについては過去にブログ記事でも語っており、ホームページでも校訂して記事にしているため、あまり語るところはないのだけども。ただ、以前の訳は意訳を通り越して自分でも謎の妄想訳だったので、今回の翻訳にて改めて思ったこともある。
杜魯に暗殺をそそのかした「ある人」は、いったい誰だったのだろう。
で、結論から言って、おそらく6代太祖大王の母親である太后なのだろうと思う。というより、実際にどうだったかは別として、そういう意図で史書は記されているのだと思う。
高句麗本紀第二巻の末尾と第三巻の冒頭を引用してみよう。
焚巣館 -三国史記 第十四巻 慕本王-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/sangokushiki/14kan/03bohonou.html杜魯は慕本人であり、王の左右に侍っていたが、自分が殺されるのではないかと心配になり、そのまま声を上げて泣いてしまった。ある人が言った。
「偉丈夫たる者が、どうして声を上げて泣いておられるのか。このような古人の言葉がある。『私をいたわれば、あなたは主君。私をいたぶれば、あなたは仇敵。』……と。今の王は暴虐をもって人を殺し、百姓の仇敵となっているのだ。さて、お前さんよ、このように図ってはどうか――。」
杜魯が刀を隠して王の御前に進むと、王が引き入れて座席についた。そこで刀を抜き、それを殺害した。こうして慕本の原に葬り、慕本王と號した。焚巣館 -三国史記 第十五巻 太祖大王-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/sangokushiki/15kan/01taisodaiou.html太祖大王(あるいは、國祖王ともいわれる)の諱は宮、小名は於漱である。
4代前の琉璃王の子、古鄒加の再思の子で、母の太后は扶餘人であった。
慕本王が死去するも、太子が不肖であったため、社稷の主に足る人物ではないとして、国民が宮を迎え入れ跡を継がせた。
王は生まれつき目が開いてものを視ることができ、幼くして背が高く堂々としていた。
年が七歳であったため、太后が代理で政治を取り仕切った。これを読むと、「記録が正しければ、太后がそそのかしたのだと疑われる」どころか、「この記録は、太后がそそのかしたのだと主張したくて書かれたものだ」くらいは言いたくなる。上掲の過去記事でも書いたが、慕本王の太子は不肖だとして廃太子されているのに、その代わりの太祖大王は政務ができないほど幼少にして王位に就き、太后が摂政となったと記される。こんなことある? ちなみに、慕本王は父親の大武神王の死後、幼少であることを理由に王位を得られず、そこで叔父の憫中王が代わりに王となっている。なぜ幼少の太祖大王が王位に就いたのか、慕本王の太子が王位に就けなかったのか、他の人物が王位に就かなかったのか。……どう考えても、息子を王にして自ら摂政となった太后が一番怪しいわけである。
ちなみに、この太后は扶餘人とされている。扶余国の出自、幼くして英邁な王、それを支える賢明な母親、建国者を思わせる太祖大王という諡号……んんんんんんん????? どこかで聞いたことある話だなぁぁぁ〜〜〜〜〜??????? ……と思ったりのするのだけど、話が慕本王から離れてしまうので、このあたりで今回はおしまい。
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焚巣館 -三国史記 第十四巻 閔中王-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/sangokushiki/14kan/02bunchuuou.html本日の更新。高句麗四代王の閔中王紀である。これもずっと前から訳していたもの。漢籍の更新ペースが遅いため、まだまだストックが大量にある。忙しいから訳はあんまりしてないのだけど、それ以上にホームページを更新していないので……。
一般に高句麗王は初期三代が神格化されており、それは三国史記を読んでいるだけでもよくわかる。私自身、訳しているときに「初期三代が別格なんだろうなー」という印象を受けており、調べてみると実際そうであった。新羅本紀も初期四代の別格感がすごくて、事実その通り一般にも四代が別格扱いされていた。王朝時代における史書の受け取られ方は、読むだけでわかることがいくらでもある。
で、その偉大な王たちの後の閔中王は、非常に記事が短い。貧困者に賑給をしたくらいしか、政策の記事がない。あとは狩りばっかりしとる。高句麗二代類利王の記事でもそうだったけど、狩りばかりしているというのは漢籍史書における亡国の兆を示す定番エピソードのひとつである。新羅に仕えた金后稷も、王の狩猟のし過ぎを諫めている。これらの例のように王が過剰に狩猟を繰り返す描写は、賢臣に諫められるのがお決まりのパターン。しかし、今回の閔中王は、全然そういう展開にならない。
しかし、この狩りが今回の短い記事を象徴する逸話のキーポイントになっていて、私はこれが地味に好きである。狩りの途中、そこで見つけた石窟を見て、王は臣下に言う。
「私が死んだら、必ずここに葬れ。新たな陵墓を作ってはならぬ。」
そして、王はこの言葉の通り、死後は石窟に葬られる。王妃や群臣は王の遺命を尊重して、石窟に葬ったという。この書きぶりからすると、おそらく遺族は新たな陵墓を建てて盛大に葬りたかったことを表現しているのだろう。
通常、古代の王であれば、その威光を示すために盛大な王墓を建てることが王朝としても求められる。粗末な墓というのは、国家の威厳を傷つけるものになりかねないからだ。閔中王はそれに違った。その意図は何か。
思うに閔中王は自らの王位をかりそめのものだと考え、それ以上の野心がないことを示し、自らの子孫を王位につかせないようにする意図があったのだではないか。閔中王は先代の大武神王の弟であり、先代の王の息子の太子が、まだ幼いということで代わりに王位についた。
しかし、こうした先代の代理で王位についた兄弟の子孫が王位を継ぎ続けるというのは、どこの王朝においても割とよくあることで、ここに骨肉の争いが生まれることは珍しくない。こうした争いを避けるためという考えがあったように見える。
高句麗において確実に存在していたとされているのは、二代下った太祖大王であり、まだ閔中王は実在性がよくわからない王である。実際、この頃の王について中国の史書では、三国史記における王以外の人物が王位についていたりもする。そもそも歴史書の記述、特に人の発言なんてものは、あまり真に受けすぎるべきものではない。なので、私の仮説は、あくまで史書における記述の意図を測るものになる。
史書の文章の意図としては、閔中王は自らが大器ではないと自覚し、控えめであるが故に、このような謙虚な態度を取ったと記したかったのだろうと思われる。事実、高句麗では初代王の朱蒙の息子である沸流と温祚が、異母兄との争いを避けて朝鮮半島の南に亡命したという記録がある。また、二代目の類利王と三代目の大武神王は、自らの息子を誅殺している。これらは伝説的な王ではあるし、確かに史書には粛清と記されていない。しかし、これらの処刑が事実であれば、やはり王位継承権の紛糾や権力闘争が疑われる。また、先のことになるが閔中王の次の五代王は、謎の人物に唆された臣下に暗殺されている。更に六代王、七代王、八代王までは、すべて骨肉の争いによって王位が移譲されている。こちらは実在性が高いとされる王である。
初期高句麗の王統には、あまりに血塗られた骨肉の争いの臭いが漂っている。こうした状況にあって明哲保身を貫いた王として、今回の閔中王は評価されているのではないかと考えることができる。もちろん事実はわからず、「憫(あわれ)の中の王」という渾名から、もしかすると暗殺されて洞窟の中に遺体を捨てられた王だったりするかもしれないけども。
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一昨日の更新。三国史記を彩る武神、大武神王である。この王は、前代の王の時点で既に武将としての才覚を発揮した記録があり、扶餘との戦争に10歳かそこらで出撃し、大軍を破って高句麗を属国としたことに一矢報いている。
焚巣館 -三国史記 第十四巻 大武神王-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/sangokushiki/14kan/01taibushinou.htmlこの王の年間は読んでいて面白い。基本的に高句麗本紀はエンターテイメントとしての面白さが頭抜けているが、この王の年間は特に面白いものの一つである。それは戦争の連続と、その連戦連勝のゆえである。残念ながら、戦争というのは歴史におけるエンターテイメントとして機能する。
大武神王は、小勢にして宗主国の扶餘に攻め込み、扶餘王の帯素を討ち取る。この扶余と帯素王は高句麗序盤のライバルであり、はるか大勢をもって高句麗を圧倒していた存在である。聖王とされる三国史記の主人公たる新羅の朴赫居世と対比されるダーティヒーローの朱蒙の関係は、いわば三国志の劉備と曹操に近く、あたかも帯素王は曹操と対立した袁紹のごとき大敵である。しかも帯素は、高句麗初代王の朱蒙を迫害して祖国から追い出した張本人とされており、二代王の頃に高句麗を脅迫して属国とした人物であるから、その因縁は窮めて深く、三代目にして大武神王がそれを破るカタルシスは量り知れない。そして、帯素王を討ち取ったのに、扶餘の残存兵の反撃が思いのほか激しく、撤退した後に大武神王が臣下や民衆に謝罪して戦死者の家族や負傷者を見舞うのもよい。あくまで王の父祖の仇討ちより、国家の王としての自覚が描かれている点は、この年間の物語に奥行きを生んでいる。
しかし、斯様な英雄の生涯にも、やはり陰が付きまとう。先代の類利王と同じく、大武神王には息子を死に追いやった逸話が残っているのだ。なぜこのような記録ばかりが残っているのか。高句麗という国家の有する問題が、ここに示されているようにも思う。
さて、その粛清された息子の好童であるが、彼と楽浪王との娘が婚姻し、娘をたらし込んで楽浪が敵国の侵入を国内に知らせる際に用いる太鼓と角笛を破壊させるエピソードが本文に掲載されている。注でも触れているが、ベトナムの歴史書である大越史記全書には、これと酷似したエピソードが掲載されている。当時のベトナム王朝の王の娘と結婚した別の国の王子が、娘に王朝の神器である『霊光金爪神弩』という弩(ボウガン)を破壊させる……という、ほとんどまったく同じ筋書きの逸話である。私は三国史記の子の逸話を先に一度訳していたので、後に大越史記全書の方を後に読んだ時に驚いた。この一致には、どのような由来があるのだろうか。非常に気になる。
少し話を戻すけど、大武神王の活躍はやっぱり面白くて、扶餘王を倒しに行く道中に次々と新たな人物が登場し、仲間になっていく様や、途中で武器や金璽を手に入れるエピソードなど、まるでテレビゲームのようなワクワク感があって、初めて読んだ時に私はファイアーエムブレムを思い出してしまった。以前に高句麗のトーテムが太陽の象徴であるカラスであることをもってファイアーエムブレムに結びつけた邪気眼記事を書いたことがあるけど、これはもともと、このあたりを読んでいる時に着想したことである。実はカラス関係ない。ついでにもひとつ邪気眼的な話をすると、大武神王の年間に扶餘王から珍しい双頭のカラスが送られたエピソードが登場するけど、実は扶餘も烏をトーテムとしていると考えられており、これは太陽神の象徴としての座が扶餘から高句麗に移ったことを示す伝説だと私は考えている。いや、ホント高句麗本紀ってやたらと面白いんだよね……。
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これは一巻から順に読んでいくのも一つの手ではあると思う。ただし、三国史記の面白さは三国が鼎立して相争うことなので、やはりそれぞれの国の物語を並行して追った方が面白いと思う。ただし、実はこの三国の記述の量はまったく一致しておらず、新羅本紀は全十二巻、高句麗本紀は全十巻、百済本紀は全六巻である。つまり一巻ずつ交互に読んでいくと、それぞれの国の進行ペースがおかしくなってしまうのである。高句麗は記録がしっかりと残っており、短い年間に非常に分量が多いが、百済は記録が残っておらず、一巻で結構な年数が一気に過ぎてしまう。ここで、それぞれの第一巻の経過年数を比較してみよう。
第一巻(新羅一巻) 前54年から154年
第十三巻(高句麗一巻) 前37年から18年
第二十三巻(百済一巻) 前18年から214年実のところ、高句麗というのは朝鮮北部から中国北東部満州地方の大きな国で、この当時は実在さえはっきりせず、あったとしても小国家連合の一国でしかなかった新羅や百済とは国の規模に天地ほどの差があり、当時は並列されて紹介されるような国ではなかった。なので、このようなことになってしまうわけである。
更にもう一点ほど注意するべきことがある。三国史記二記されている時代のうち、三国時代とされている時代は概ね前半六割程度で、660年に百済が、668年に高句麗が滅亡し、それ以降は「統一新羅時代」である。その後、900年頃からは統一新羅が分裂状態となり、後三国時代に入り、そのうちの一国である高麗が新羅と百済を併合して統一王朝となり、三国史記は幕を閉じる。……というわけで、実際には新羅本紀では六巻の時点で統一新羅による三国統一を迎える。百済本紀は全六巻なので、総体としては概ね同じくらいのペースで時間が進む。高句麗だけが歴史の記述が異様に充実しているというのが三国史記の実際のところである。
では、どうすればいいのか。新羅と百済は全六巻、高句麗はほぼ倍の全十巻である。よって、基本的には、新羅→高句麗→百済→高句麗→新羅→高句麗→百済……という風に新羅と百済を交互に読む合間に高句麗を挟む形の順で読んでいけば、ある程度はペースを合わせることができる。
試しに新羅本紀と百済本紀の三巻までをその順に読んでみよう。
第一巻(新羅一巻) 前54年から154年
第十三巻(高句麗一巻) 前37年から18年第二十三巻(百済一巻) 前18年から214年
第十四巻(高句麗二巻) 18年から53年第二巻(新羅二巻) 154年から365年
第十五巻(高句麗三巻) 53年から165年第二十四巻(百済二巻) 214年から385年
第十五巻(高句麗四巻) 165年から227年第三巻(新羅三巻) 365年から500年
第十六巻(高句麗五巻) 227年から331年第二十五巻(百済三巻) 385年から475年
第十七巻(高句麗六巻) 331年から491年……とまあ、ここで新羅500年、百済475年、高句麗491年と概ね同じくらいのペースで読み進めることができるのである。ちなみに、ここでの百済本紀の三巻の最後は一度高句麗の長寿王に百済が滅亡させられて終わり、併せて読む高句麗本紀六巻はちょうど長寿王の記事で終わる。つまり、この形ならいい感じで並列した事件を読むことができるわけである。
ただし、ここまでは高句麗を新羅と百済の倍速で回してきたわけであるが、ここで新羅と百済と高句麗の年代がすべて並んだということは、ここからは高句麗を倍速で回すと先に進み過ぎてしまう危険がある。というのも、新羅本紀と百済本紀は残り三巻であるが、高句麗本紀も残り四巻である。このあたりからは新羅や百済も時代が進んで記録もしっかりしたものが多くなり、高句麗と進行ペースがあまり変わらなくなってきている。
ここで次を一巻ずつ読み進めてみよう。
第四巻(新羅四巻) 500年から632年
第十八巻(高句麗七巻) 491年から590年
第二十六巻(百済四巻) 475年から554年と、このようにもう高句麗が一番歴史の記録が詳細とは言えなくなっている。むしろ、新羅がはっきりと先行しており、百済が一番時代が遅れている。それともう一点留意することがある。新羅本紀の五巻の最後の太宗武烈王は唐と結んで百済を滅亡させる王である。そして、百済本紀は六巻が最後である。なので、これは併せて読むべきだろう。
というわけで、ここで一旦、突出して話が進んでいる新羅を置いて、高句麗本紀と百済本紀を読む。
第十九巻(高句麗八巻) 590年から642年
第二十七巻(百済五巻) 554年から641年八巻の高句麗は大唐帝国との祖国防衛戦が展開される巻で、実は非常に進行ペースが遅い。なので、ここで年代が一致することになる。さて、ここで百済は最終巻、高句麗と新羅はあと二巻であり、新羅の最終巻のひとつ前の巻で百済は滅んでしまうため、高句麗九巻→新羅五巻→百済六巻の順で読む。
第二十巻(高句麗九巻) 642年から647年
第五巻(新羅五巻) 632年から661年
第二十八巻(百済六巻) 641年から660年そして、最後は高句麗の最終巻と新羅の三国統一の巻。ここは高句麗の滅亡を先に読んで、その先まで話が及ぶ新羅本紀を後に読むほうがいいと思う。
第二十一巻(高句麗十巻)647年から668年
第六巻(新羅六巻) 661年から671年で、あとは新羅本紀を順に読めば、OK。
第七巻(新羅七巻) 671年から681年
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第十二巻(新羅十二巻) 897年から978年
……という読み順がいいと私は個人的に思う。