論語の解釈、全然書けてない。ヘーゲル読みながら方針を決めたんだけど、そもそもヘーゲルが私には難解すぎる。私の書く文章もどんどん難解になってゆく。着地点が見えない。ところで、ラテン語やサンスクリットは全然読めないけど、漢文は眺めてればそこそこ読めるようになるんだからいいよね。伊藤仁斎集の語孟字義を読み直してるんだけど、本当によい。昔、はじめて読んだとき、いきなり易の話から始まって、漢籍を読み始めて日が浅い頃だったので面食らったけど、そもそも易抜きの中国思想ってなによって話で。今だから言える話ですが。
語孟字義は論語と孟子の字義を五経とともに解釈する伊藤仁斎の著書なのですが、当然、五経には易経も含まれており、そこで描かれる宇宙論に基づいて、冒頭から生死に関する洞察、陰陽思想に由来する人間精神と真理についての考察を展開しているため、内容は朱子学批判なのですが論じる地平そのものは一致してるためすごく朱子学っぽいです。仁斎は朱子学の思想を、論語の時代に存在しない道教仏教由来の抽象概念を弄んで儒学の原点を忘れているとして批判し、そのアンチテーゼとして古義学を興したわけですが、孔子の後継者を孟子と見立てている点、また唐虞三代の聖王より孔子を重んじて道徳主義的である点、仏教道教に対抗的な点などについて、朱子学と軌を一にしており、枠組みや前提において、それほど宋明理学から離れてはいません。
その後に現れた江戸儒者の荻生徂徠の思想は、仁斎と同じく朱子学のアンチテーゼですが、その主張は、孔子が尊敬して研究したのは聖王の政治であるから、当然ながら儒学の本懐は道徳学ではなく政治学、孔子より唐虞三代の聖王こそ重視されるべきで、孔子や孟子などの言行録である四書は聖王の時代からの事績を記した五経と並ぶものではない、というもの。徂徠は政治学者として孟子より荀子の方が優れていると評価し、仁斎より更に朱子学の枠組みから離れた地点に学問を展開し、朱子学を批判しました。更に後の国学者、本居宣長の思想も朱子学へのアンチテーゼとなっていますが、こちらは儒学という枠組みそのものを批判する、更に外側からの批判になります。江戸儒学の思想的展開には、こういった朱子学との批判的関係に基づいた時間的発展の構造が存在しています。
私はそんな中で仁斎の思想が一番好きです。普段から私は「人として一番大切なのは頭がいいことじゃない。正しいことでもない。人として本当に一番大切なのは、思いやりの心である」と世界の真理を述べていますが、私としては私自身の思いがまずあって、それを儒教の基本的なテーゼに乗せただけのつもりだったんですが、以前人から仁斎っぽいと指摘されて、言われてみればそういう話だったかなあ、と思いました。仁斎の思想とは、朱子学の普遍的理性への懐疑であり、もっと動的な他者への思いやりの重要性を提示したのですが、考えてみれば、私のよく言う「真理は固定されていない」「世界は運動でできている」「世界は動的なものである」というのも、仁斎の「一陰一陽往来已まざる者、すなわちこれ道なり」だよなあ、と思いつつ。自分で全然気づかなかった。仁斎は生き生きとして生を一元的に肯定してるので、読んでて気持ちいい。
ところで、アズールレーンの今やってるイベント、ボス戦の曲が和風ロックでかっこよくないですか? エレキギターがロックのままに和楽をうまく表現してて、すごくいいです。ギターで和楽でロック。もちろん、単純に和楽器で和風ロックをつくるのもそれはそれでいいんですけどね。アズレンの話はこれだけです。twitter使えなくなったから、こういうことをちょろっと書く場がないのだ。
枕としてちょろっと話すだけの予定だった論語の話が江戸儒学まで飛んでしまい止まらなくなってしまった。伊藤仁斎の著書では童子問が入門にオススメですので是非とも呼んでください。